
1.登攀前のこと
前回、前々回の経験からツェルマット1600m近辺での足慣らしと高度順応がかなり有効であることが判っていたから、できるだけツェルマット周辺の標高の高い場所で過ごす努力をすることにしてカミさんの観光がてら、あちこちを歩いた。ゴルナーグラート展望台3130mからのトレッキング、クラインマッターホルン展望台3883m周辺でのウォーキング、隣りの谷のサース・フェーへ1800mも足を伸ばした。
ガイド組合のブライトホルン4164m登頂のガイド登山にも参加して防寒着の具合やアイゼンの調子も見ておくつもりだった。当日ヴィンケルマッテンのロープウェィの駅まで行くと、ブルーノという強そうなガイドが待っていて前夜にクラインマッターホルン行きのロープウェーケーブルへ落雷があり、運行は中止の状況で様子を確認しているということだった。同じツアー客のマルコという40歳のイタリア人、名前を忘れてしまった26歳のオーストリア人の若者と近所のレストランでコーヒーを飲みながらロープウェイの復旧待ち。1時間待って結局本日のツアーは中止、ガイド組合でガイド料は払い戻すがもし希望があれば翌日の登山に振り替えるということであった。マルコはもう休みがないため僕と一緒に諦めることになった。この日はこういうわけでサース・フェー行きとなったわけだ。
2.マッターホルン登山を目指す中高年のために
(1)必要な体力とトレーニング
簡単に言えば7、8kgのザックを担いで1日1200mの高度差をほとんど休みなく連続で登下降して、その頂上直前で6、7回の懸垂が出来る体力が最低必要という感じがする。もちろん高度は4000mを越えているという条件だ。
昨年の9月頃から、トレーニングを始めた。柔軟体操の後、ストレッチ、スクワット、3kgのダンベルの上げ下ろし等で約30分ウォームアップをしてそのあと6、7kmのウォーキングへ出かけた。ウォーキングはあまりトレーニングにならない感じがしたので、そのうち5kmを走り、その前後を歩くことにした。20年も30年もまともに走ったことがなかったから最初はまったく足が動かなかったが、徐々に距離を伸ばした。
ついサボることになってもいけないので、1月から4月まで毎月マラソンの壮年5kmの部に出場して少しだけ、プレッシャーをかけた。
日曜日にはできるだけ近郊の山に登山に行くことにしたのはもちろんのこと、5月は長男が宇都宮で働いている様子見を兼ねて日光男体山(標高差1200m)、6月は大山(標高差900mのため頂上から300m降りて再度300mを登り1200m)、7月の始め梅雨の合間をねらって始めての富士山(標高差1400m、ただし登山がほとんど始めての次男を緊急時保護者に同行したので八合五尺の山小屋泊まり)に登ったほか、日曜日には近郊の500mから700mの標高差の山をできるだけノンストップで登ることに努めた。わざとザックの荷物を重くするようなことはしなかった。
僕自身はそれができなったが、腕力はかなり意識して鍛えておいた方が良い、腕力を使う場所は非常に限られているが平地で7、8回の懸垂ができる力が必須だと思う。
(2)必要な登山技術
岩登り技術は、3級のグレードの岩場が連続するからその程度の力があればよい、下降ではガイドの確保するロープに完全に頼って懸垂下降の形でドンドン降ろしてもらうことになるから、特に問題はない。ガイドは同じルートを鮮やかにクライミングダウンしてくる。
上部では雪がつく箇所が多くアイゼンを使った登下降を要求されるので、アイゼンでの岩登り技術が必須となる。アイゼンはワンタッチで着脱できるタイプのものでないと着脱に時間を取ってガイドに遅れを取って焦ることになる。アイゼンの着脱は結構狭い場所になるから、ゆっくり腰を下ろしてアイゼンを着けることなどできない。老化現象のせいかもしれないし、その時の姿勢や高度障害で判断力が低下したせいかもしれないが、僕は上部岩壁で自分のアイゼンを締められなかった。Tさんが手を出して僕のバンドを締め上げた。この時は自分がとても情けなく自分の体力の限界を感じた。
(3)登山装備 服装
必要な装備は25リッター程度のザック、登山靴、ハーネス、アイゼン、ウィンドブレーカー、手袋、サングラス、ヘルメット、ヘッドランプ、水筒、行動食、日焼け止めクリーム、カメラ。
ヘルンリ小屋では荷物のデポが可能なのでストック、余分の防寒着その他クライミングに不要な装備は備え付けのカゴに入れて棚においておけばよい。
飲み物は500ccのプラティパスというチューブ付きのポリエチレンタンクのスポーツドリンクと現地で登山者がよく持っているPOWERADEというペットボトル入りドリンク500ccをザックに入れて携行した。
(4)会話、辞書
ツェルマットやグリンデルバルトでは日本人観光客が多いからカタコトの英語でもたいてい会話が可能である。ツェルマットはドイツ語圏だから、たとえば三省堂のJEMのような独和、和独両用の小型辞書をポケットに入れておくと役に立つことが多い。
次回はぜひ持って行きたいと思うのが、スイス、イタリア、フランス、ドイツの料理のメニュー集で、それがあればレストランのメニューを見て途方にくれることも無く食事がずっと楽しくなる。
(5)交通手段、チケット
航空券は格安チケットに限るが、座席間のスペースが狭いので長時間は結構苦しい。
スイスに到着してからはスイスパスなどの国内交通割引券を絶対持参した方が良い。電車の切符を買うのも結構時間がかかりやっかいなものだがこれらのパス類を利用すると、目の前の電車に飛び乗ってから後のことを考えられるから余裕ができる。
動的視力や反射神経がまだまだ大丈夫だという方はレンタカーが安くて便利だし幹線は高速道路が走っているから、車を利用すると旅はきめ細やかになり一段と楽しくなる。
(6)宿、食事
登山基地の町ツェルマットやグリンデルバルトなどではシャレーという家族経営の小型ホテルが一般的で値段も安い。現在はユーロやスイスフランが高く、以前より割り安感がなくなったけれどガルニというタイプの朝食付き6000円前後のところに泊まれば日本のビジネスホテルよりも部屋も広く、ずっと居心地は良い。もちろん情報収集が大切だ。
食事について言うとスイス料理は、いささかくせがあり口に合う人と、駄目な人があるような気がする。チーズフォンデュは僕の場合その強い匂いに辟易して食べられない。ラクレットというチーズ料理は問題なく食べられる。
昼食にはターゲス・ズッペ(本日のスープ、日替わりスープ)あるいはその他のスープ類を頼むとパンも付いているので簡単な食事になるし、くせが無くて食べよい。料理メニューを読むことができれば選択肢はずっと広がる。現地の料理に飽きたら、ツェルマット、グリンデルバルト、シャモニなどの町には日本料理店があるから胃休めに行くとよい。当然割高で、料理には満足できても値段的には多少後味が悪い。
登山用の食料はスーパーですべて調達できるし、果物、パン、チーズ、ハムなども豊富で問題はない。お湯を注ぐだけでいい「おにぎり」や「味噌汁」の類は、日本料理店に行くよりもずっとコストパフォーマンスが良いから普段から探しておくと良い。
(7)登山ガイド、ヘルンリ小屋、登山保険
ツェルマットやグリンデルバルト、シャモニにはガイド組合があり、マッターホルン、モンブラン、アイガーミッテルレギ山稜を始めとしてたいていの山へ連れて行ってもらえる。シャモニには日本人ガイドも多くいるようで、日本語で十分なコミュニケーションを望む人あるいは多少スローペースで登りたい人はそういうガイドに相談をしてみるのも一法だと思う。
現地ガイドの欠点は英語ができないとコミュニケーションが取り難いこと、登攀スピードが速く中高年登山者には体力的に辛いこと、そしてほとんど休みを取らないこと、これはヨーロッパアルプスでは常識的なスタイルで、こちらが合わせざるを得ない。逆に現地ガイドの長所は明らかにルートを熟知していて要所々々の登り方、スタンスなどを具体的に指示してくれること、体力的には彼らの方があきらかに余裕がある。また地元在住だから交通費がかからぬ分、費用的には、かなり安く付く。2007年夏期のマッターホルンガイド料は998スイスフラン(約10万円)、ただしこれにはヘルンリ小屋の宿泊費や、ツェルマット〜シュワルツゼー間の往復ロープウェイ費用は含まれない。
マッターホルン登攀の出発点になるヘルンリ小屋は標高3260m、富士山より500m程度低い場所である。昼間晴れている時には、長袖のシャツであれば寒さを感じないが、陽が翳るとフリースなりウィンドブレーカーが欲しくなる。部屋のベッドには少し厚手の毛布が備えられていて2枚掛ければ寒くなく眠れる。10時が消灯だったように思うが、発電機が止まると、どこも真っ暗でランプを持って歩く必要がある。ランプなしでも大丈夫だろうと手探りでトイレに行ったが、帰りには暗闇の中で方向感覚を失った。朝は4時に発電機が廻り始め照明がつくから、それっと飛び起きて靴を履き荷物を担いで食堂に駆け下りることになる。トイレは2階、3階にひとつずつあり必要な時は食事前に行っておかないとスタートに遅れを取る。ソルベイ小屋にもトイレがあるし、どうしてもという時にはたとえマッターホルンでも岩陰で何とかなるとガイドのTさんは言っていた。
小屋ではミネラルウォーター、スポーツドリンクの他、コーヒー、紅茶、ビール、ワインも購入できる。食事の時間以外でもスープ、パスタの類を食べることは可能である。
登山保険についてはガイド組合で、万一の際のヘリコプターによる救出を含めた短期のものに加入が可能である、手続きは簡単で保険料も日本に比べてずっと安く2500円程度であったように思う。
スイスアルプスのほとんどの山が一泊二日以内で登頂可能であるから、お金と時間が許せば、何度でも行きたくなる。そうした意味では僕のようにあまり年老いてから行くのではなく、少しでも若いうちにスタートを切るのが大切な気がする。
僕にはできなかったが、皆さんには会社をさぼりながら評価を落とさず、あるいは上手に自営業を手がけてたっぷりなお金と時間を作り、体力や食欲や野蛮な度胸の消えないうちにぜひスイスへ出かけていただきたいと思う。
(参考:2005年の挑戦 「老人と梅」−マッターホルンの雪)