from : H10.07.13
update: H13.06.05

王様の耳はロバの耳コ〜ナ〜・・・ヲヒヲヒ
未完成ですが、途中で書く気を失ってしまいました。お許し下さい。
でも、時々、内容だけは変わっています(^^;)。


はじめに

 このような、片田舎を覗いて下さって、本当にありがとうございます。ほとんど、誰も覗かないだろうと作者は思ってたりしますので、作者にとってみると、あなたは極めて貴重な方ということになると思います。ま、誰も見ないだろうと思って好き放題書き散らしていますので、間違えて覗いてしまった方は、早めに戻られた方が賢明かも知れません(^^;)。

 このページを作った作者は、世の中の常識を常識として捉える事の出来ない、極めて不幸な現代社会不適応者です。ですから、本人にしてみると、周りを見渡すと、世の中には非常識があふれかえっているようにしか見えない訳です。そんな作者は、なぜか医療関係者ではあるのですが、自分のイデオロギーと仕事は完璧に分離出来ているので、問題は無いようです(作者にとって、仕事とイデオロギーとどっちが本体でどっちが仮想なのかは、判りませんが^^;)。ただ、自分の仕事の正当性に関しては、かなり疑問を持っておるようです。

 何かを無条件に信じることの出来る人間ほど幸せな人は居ません。そういう意味で、作者はとても不幸と言わざるを得ないでしょう。ですから、この作者がなんらかの精神矯正集団に属してサリンを撒く心配は皆無と言って良いわけです。しかし、作者が単独で自らのイデオロギーの元にサリンを撒く可能性は皆無では無いのかも知れません(^^;)。まあ、本人は、「都会でサリンを撒くよりは、人の居ない山奥で野草の種でも撒いているほうが好み」と、言っていますが、都会を人の居ない山奥にすべく、サリンを撒くような事をしないことを祈りたいものです。・・・ヲヒヲヒ

(いずれにせよ、もう、サリン中毒の患者を見るのはこりごりです。私の場合、まだ軽症ばかりだったので良かったのですが、あの騒ぎの最中に、心筋梗塞を起こしているのに、救急車が来なくて致命的だった方も居ました。そして、その方が亡くなっていたとしても、きっと政府の救済も無かったでしょうし、労災も適応してはくれなかったでしょう。マスコミ報道されている方だけが不幸では無く、物事は多面的に捉えないと真実からは程遠くなる事の一例ですね。で、サリン中毒患者の治療に、他科のDrの協力も無く、院長からの問い合わせも一切無し。一番早かったのは、NHKの取材電話だったりしました。それでも、なぜか感謝状は院長に届くのですよねぇ、恥ずかしげも無く、名ばかり(厚生省から、金をとる為にでっち上げた、張りぼて救急部ですから)の救急室に掲げてありますが・・。もう、目が点になりながら、湯水のように硫アトを使わないといけない事態には出くわしたくは無いものです。)

医療の本質に関する考察

 医療とは、ヒトの体構造システムの異常を是正する事を目的としている。確かに、ヒトにとっては必要なものである。近年では、自らの遺伝子的異常を是正することも可能となってきている。知能の発達に伴い、自らの構造を変えてゆく事を覚えて行くことも、ある意味で進化と言えるのかも知れない。しかし、ヒト以外の生物の場合、自らのシステムに異常を来した個体は、自然の掟の元に淘汰される事により、環境に即した進化を遂げている節が見られる。しかし、ヒトの世界の常識では、淘汰は悪と捉えられる事が多いようであるし、医療は淘汰に対抗する手段として存在しているようにも思える。

 この事実から導き出される結論は、医療は明らかにヒトの自然な進化を妨げているということであろう。そして、人工的な進化の元にヒトは生き続けるのかも知れない。後述するが、すでにヒトは自然との調和からは逸脱し、腫瘍細胞の如く急激に増殖、増大している訳である。自然破壊の原因はあれこれ取り沙汰されているが、医療こそが、自然破壊の元凶たる究極のテクノロジーであることに気付いている方は、果たしてどれほどいるのだろうか。

日本の医療システムに関する考察

 たとえ、医療を無条件に肯定し、ヒトのエゴイズムからの視点で見たとしても、現在の日本の医療システムの流れは異常と言わざるを得ない。医は仁術ではなくすでに算術と成り果てている事を、マスコミは強調すべきであるし、一般の方々は知るべきである。そして、厚生省を代弁者とする政府が、医者を算術で締め上げて、日本の人口調整機構としての役割を担わせようとしている事を知るべきである。

 「医者は儲け過ぎである→儲けの大半は薬価差益である。保険が赤字という理由でただでさえ高い医療費がさらに引き上げられる。儲けすぎの医者がいるから、保険が赤字になって、医療費が高いのだ。」こういった理論が正しいと、一般の方々は思っているだろうし、マスコミもこのような視点から報道を続けている。さらには、内部事情を把握しているはずの厚生省がこの世論に横乗りして、決して認識の誤りを正そうとしない。政治家や御役人の中には、時には、彼らの常識に染まらない、まともな人も居るのだろうが、マスコミにロクな事を言われないのは、ある意味で仕方が無いとは思う。しかし、一部の、まともでない医者・医療機関をあげつらって、上記のような論理を展開するのは、明らかに、特定の職業を営む人に対する、誹謗中傷であり虐めである。

 近年の医療技術の進歩はめざましく、その恩恵を受けている方も数多いはずである。しかし、その最先端医療にかかるコストの上昇も、半端では無い事を知るべきであろう。おそらく、経済成長の何倍もの速度で増大している訳であるから、保険の基金だけで賄う為には、給与から差し引かれる健康保険料の割合を上げ、医療費の負担割合を下げて行くしか無いのであるが、それで足りる訳が無いほど、最先端医療には金がかかるのである。

 最近、行われている臓器移植にかかる費用も当然の事ながら半端ではない。臓器移植で人一人直す金があれば、ひょっとしたら何十人の自殺しかねない失業者を救えるかも知れない(口が裂けても、マスコミや政治家は口にはしないだろうが・・)。では、保険適応となって、増えた支出のツケはどこに回るのか。少しは、健康保険に加入している国民にも負担を強いるべきであろう。健康保険制度というものは、あくまで相互補助の精神で行うべきものであって、払っている多額の健康保険費は定期預金では無いことを知るべきである。損をしたく無いのであれば、医療費はすべて自費で払い、自分の蓄え以上の医療費がかかる事態となった時には、死ぬだけの覚悟を持つべきである。しかし、臓器移植にかかる費用のツケは、結局は病院や医者に回って来るのであろう。車が値上がりしたツケを、車のディーラーが払っているなんて所は、あまり聞かない話なのであるが・・・。こうゆう事こそ、税金を使って補填すべき問題と思うのだが・・・。

 現在の流れでは、医療費はそれに必要なコストに関わりなく、政府が強制的に決めようとしている。そば屋が、そばを一杯100円で売るように政府に強制されるとどうなるか。非常識な価格設定に加え、そば粉だって、ネギだって、市場論理で値上がりしてゆく訳である。そばは、見た目や食べて品質が判るが、医療の場合はその品質は極めてわかりにくい。そばも、もし見た目で品質が判りにくければ、そばの品質を下げて売ることの出来る所は生き延びれても、そばの品質を下げる事の出来なかった所は潰れるといった事が起こるわけである。医療も同じである。これからは、医療の品質をうまく下げる事の出来る病院だけが生き残ってゆける訳である。

 しかし、政府は、これを人減らしに利用しようとしている。品質をうまく操って、老人医療の品質だけを下げる事で、老人人口を減らそうとしているのである。現実に、老人に対して、高額な医療を施した場合、たとえそれが必要な処置と医者が判断したものであっても、保険組合は認めず金を払わない。つまり、病院負担となるわけである。病院は潰れたく無ければ、老人医療の質を落とさざるをえないのである。患者の命を救いたければ、自分が潰れるしか道は無いという訳である。

 政府にとってみれば、医療保険の赤字と老人問題を同時に解決するための妙案だったのだろうが、医療機関を算術で締め上げて、実際には、医者に老人減らしの為に手を汚させる。そして、マスコミを操って、自分に火の粉がかからないように画策する。なんとも、巧妙な合法的人殺しではないか。

 そして、現在の自民党政権において、老人の為の薬剤(脳代謝改善剤)を製造禁止に決めて、健康と引き替えに医療費を削減したのは、厚生省ではなく、大蔵省である。(ちなみに、再治験にて有意差が無いと言うことは、すべての患者に無効であると言うこととは異なる。有意差が出ないほど、数は少なくとも、有効な患者も存在することは忘れてはならない。どのような症例に有効で、どのような症例に無効かを判断する術が、現在の医学では無いと言うことなのである。)しかし、このような、薬会社の経営にダメージを与えるようなシナリオを書いたのは、実は、あの有名な元厚生省事務次官の岡光である。彼は、介護保険がらみで私腹を肥やしていたわけであるが、実のところは薬品会社からも私腹を肥やす為の要求を突きつけていたのである。しかし、それを薬品会社から断られた腹いせに、特定の薬剤を製造中止にするためのシナリオを作成して、大蔵省に提出していたのである。それが、逮捕後になって実行に移され、元岡光事務次官の想いが花開いたという訳だ。このときの朝日新聞社も、政府のための大衆洗脳機関として、よく働いてくれたものだ。きっと、岡光元事務次官も感謝しているのではないだろうか。そして、状況も良く把握せずに、大蔵省の言いなりになっていた、小泉元厚相以後の厚相がいかに能無しが揃っているかが、この事象を取ってみても明らかである(薬害エイズを暴くパフォーマンスを行いながら、原因を作った官僚達を追求しなかった管氏の後任という、割の合わない専門外の仕事を押し付けられた為の無能ぶりだったと思いたいものだが・・)。このために、現在でも有効と思われる神経系に関する薬剤は、治験すら始める事が出来ないのが現状である。でも、このまえ、アルツハイマー治療薬(アリセプト)をNHKで宣伝してました(名前だけは伏せてますが、あまりにミエミエ)。発売中止になった薬剤と、どれだけの違いがあるか甚だ疑問ではあるのですが、エーザイは、政治だけではなく、マスコミを抱き込まないといけないことを覚えたのかも知れませんねぇ。(この事実に関する文責は持たないので、そのつもりで)

 それから、ついでに医者の収入について・・。過去には、かなりの荒稼ぎを出来た時代は確かにあったそうだ。そして、今でも、過去の稼ぎで資産を蓄えた開業医の先生や、現在でも繁盛している病院では、なりに羽振りの良い生活は出来るようである(でも、これは、どんな商売でも同じですよね)。しかし、大学病院の医者の収入は、大学教師の収入形態と全く同じである。彼らは、医学生を教える事で収入を得ているが、病院で患者を見ることでは、一晩働いても1万円にも満たない当直手当を除いて、一銭も貰っていないのである。つまり、学生教育という名目のボランティア活動という訳だ(だから、夜遅くまで働いても、収入が増える訳が無いのです)。それでも、私学大学の医者は、出稼ぎで他の病院で収入を得る道があるが、国公立の医者に至っては、外の病院での勤務は法律で禁じられているのである。教授といえども、おそらく、国会議員や省庁の御役人の足下にも及ばないのでは無いだろうか。さらに、今のシステムでは、普通に大学を卒業して初任給を貰う頃から2年間(大学5年、6年生))、医者を目指している人は収入どころか、親から月謝を払って貰って勉強している訳である。そして、卒業してから2年は、普通の会社員の初任給よりははるかに少ないと思われる研修医手当しか貰えないのである。(私の場合は、月に2,3万ぐらいだったと思います。ですから、本当に親から経済的に独立出来たのは、卒業してから、4年以上経ってからでした。)そして、医者になれた人間で、高校までの学生時代に勉強もまともにせず遊び回っていた人間など、親の経済力をあてに出来た人間を除けば、ほぼ皆無であろう。このような事を思うと、医者は儲けすぎという世論に対して片腹痛い想いを感じる私の見方は、穿っていると言えるのだろうか・・・・。そして、医者と並べて天使のようにマスコミで扱われる(マスコミに甘やかされたおかげか、近年のナースの人間的レベルの低下が著しいと私は思う)事の多いナース(これも差別用語という話もあるが)で、一人前になるために、これだけ経済的、精神的な負担を強いられた人は皆無であろう。学費そのものがかかっていないのだから。

自然と園芸に関する考察

 自然の掟を法とするならば、人類は明らかに法を犯す犯罪者である。自然に理解を示す人ほど、あたかも自然保護者のように思われているが、トンでもない錯覚である。自然に理解を示す人は、自然を欲する訳で、若干の気配りはしてもやはり自然を破壊してゆく訳である。そして、自分もまた、人類であり自然破壊者であるにも関わらず、自分が自然破壊者であること認めようとしない。なぜ、人間は、自分が自然破壊者であることを踏まえた上で、自然に対して謙虚になれないのだろうか。謙虚さを持ち、人間と自然を同レベルで認識できない限り、自然にとって人類は永遠にただの破壊者に過ぎないのでは無いだろうか。

日本のシステムに関する考察

未完成

世界の中の日本に関する考察

未完成

ヒトの脳に関する考察

未完成

ヒトの本能に関する考察

未完成

ヒトの精神に関する考察

未完成

ヒトの世界の宗教に関する考察

 ヒトの歴史が始まって以来、多くの宗教が存在しているが、その本質は1つと思われる。対象は様々だが「信じる」事がその本質だと思われる。そして、「信じる」対象として、種類は様々ではあるが「神」という存在が必要とされるのである。ただ、「信じる」というヒトの普遍的事象の性格上、「神」が存在しなければならなくなってしまい、結果として、宗教は多くの人に多大なる誤解を強いざるを得なくなっている。しかし、これは、あきらかに幸せな誤解である。誤解と引き替えに、精神的平安を得られるというのが、宗教にまつわる普遍的なgive and takeなのである。

 ヒトの精神は、これもまた、普遍的に不安定である。基本的には、欲望に向けて行動している訳で、ゾウリムシとなんら変わり無いのであるが、ゾウリムシと比べると並はずれた欲望を持つために、不安定なのでは無いだろうか。まあ、この普遍的不安定性は、進化の過程の一過性の現象(ひょっとしたら、進化へのエネルギーかも?)かも知れないのだが、その話は別の所で・・。話を戻すが、古代から宗教が存在しているのは、この普遍的不安定に対する対抗手段として、宗教が有用だからと思われる。宗教は、弱いヒトの心を補強する唯一の手段だったのであろう。言い方を変えると、宗教は、「神」というブラックボックスを内在したカウンセリングだったとも言えよう。牧師さん、坊さん、神主さんは、「神」をマスターカウンセラーに持つカウンセラーなのだ。

 カウンセリングが、心の安定だけを目的に成り立っているうちは良いのであるが、ヒトの集団をまとめる為の手段、ヒトの集団をまとめるのを阻害する因子、という観点(この両者は基本的には同じ)が、宗教の歴史を一気に血生臭くしてしまったようである。しかし、欲望が増大し、自らが神に成り代わろうというのは、なんと幼稚な精神構造なのだろうか。特定の個人を神として崇めさせようとする集団は、まあ、信じないのが身のためかもしれない。

 宗教をマクロ的視点で見てきたが、今度は、個人の立場から、宗教を考えてみよう。前にも書いたが、基本的には、カウンセリングを受けるクライアントなのである。普通のカウンセリングとの大きな違いは、「神」という、実に都合の良いブラックボックスを抱えている所である。普通のカウンセリングは、カウンセラーの助けを借りながら、自ら問題解決への道を模索していく、というのが、正統と思われるが(最近は、宗教まがいのカウンセリングも横行しているようだが)、宗教はこの問題解決へのイバラの道を、ブラックボックスの仮想の力により解決するとすりかえてしまう。このやり方では、賢明な人ならわかるように、あくまで一時的な平穏が得られるのみである。しばらくすると、解決されていない根源的な問題が再度頭をもたげてくる。そして、再度宗教に頼ろうとする訳である。お気付きのように、この構造は麻薬とそっくりである。現実逃避のために手を出した麻薬で、一時的平穏は得られるが、切れてくれば再度麻薬を求めて、麻薬中毒の道を突き進む。しかし、ここで忘れてはいけないのは、麻薬すら、医療の場では重要な治療薬として使われている事である。宗教もまた、使い方次第では、人の心を救う重要なアイテムになり得る事を忘れてはいけない。しかし、そのような有効な使い方をされている宗教を日本では見たことが無いのは、あまりに残念である。

 私は、宗教学に関わった事は無いが、宗教の必須条件について考えてみた。「神」と「祈る」が、すべての宗教に一致するパラメータのように思われる。そして、その基本的意義は、広い意味での「救済」である。しかし客観的にみると、この基本的意義は、あくまで前提のような印象がある。個人の精神救済が、最も重要な意義であるはずだが、戦争を含む政治力の為の集団の結集力(善悪を問わない)・集金力をもたらす為のツールとして遠い昔より人類に愛用されてきているのも、また、事実・史実である。

 ちなみに、アメリカには、神を信じ、神の起こす奇跡を信じている人が多く住んでいる。無神論者には、滑稽に見えるかも知れないが、この事は、神を信じるものの精神安定と、社会のモラルの崩壊の抑制に非常に貢献していると、私は感じた。それほど、絶対的なものに精神的に依存する事によって得られる精神的安定感というものは、絶大なのではないかと思われる。

 アメリカには神が存在したが、日本には神が存在しなかった。この違いが、現代の日本人に、不可逆的に滲透して来ていると思われる、国民総情緒不安定状態に関与しているのでは無いかと、私は考えている。日本全国を情緒不安定状況に陥れている立役者は、言うまでも無くマスコミであるのだが・・。

 私が今考えているのは、「神」の存在しない「宗教」である(そうなると、すでに宗教とは言えないかも知れないが・・)。単純に、心の救済のみを目的とし、その他の目的には使われることも無いが、人を介して伝染しうる可能性のある、イデオロギーである。カウンセリングが、その任を負うべきとも思われるが、現実はそう甘くない。カウンセリングに群がる人の大半は、自己の精神的不安定性を補正するために、他人の心を覗き見たいという衝動の元に群がった人たちである。もちろん、その中には、目覚める人もいるとは思われるが、目覚める事、悟る事が、そう容易いとは思えない。カウンセリングは、基本的にテクニックであり、イデオロギーではない。そのために、他人を救済することは出来ても、自己を救済するためには、目覚める以外に無いのである。なお、目覚める事、悟る事が、己の救済につながるのかどうかは、ここでは述べない。他章(ってどこだ?)を参考されたし。話は飛んだが、この「神」の存在しない宗教。もちろん、実存主義とは異なる、その具体的実体を、まだ私には感じる事が出来ない。

形而上的世界に関する考察

 世の中には、霊、超能力、UFO(?)と言った、様々な不思議な概念が存在する。実在すると言われているものの内、ほとんどが、イカサマ・デマの類ではあるのだろうが、だからといって、頭から否定してしまうのも、なんとなく違うように感じられてしまう、やっかいな存在である。

 世の中には、パニック症候群なる精神疾患が存在する事が、最近言われて来ている。また、この疾患には、ある程度の体質的な遺伝もあるらしい。突如として、なんの前触れも無く、いきなり不安感が押し寄せ、日常生活を障害する。この精神的体験は、私も何度も経験しているので、自分にも、この病名で表現されているのと同じ体質があることは、疾患名を知った時に気がついていた。

 ただ、本当に何の前触れも、きっかけも無いのかには、若干の疑問を抱いている。気候が不順だったり、潜在的な悩み(顕在意識に現れていないものも含む)が間接的きっかけになってるように思われる事も多いし、時期的にも、梅雨時から、お盆の時期にかけてに起こる事が非常に多い。アメリカに住んでいる時には、なぜか、同じお盆の時期には、なんの精神的変調も起こらなかった。で、個人的には、やはり発作の起こるきっかけは、気候的な刺激なのだろうと思っていたのであるが、なぜか、10月の終わり、そう、ハロウィンの季節に近づくにつれて、同様の発作を起こす事が多くなった。ハロウィンの意義について知ったのは、その後の英会話の教室でであった(死んだ家族が里帰りすると信じられている日)。
 この、非常識な現象に対して、私は以下のような屁理屈を考えている。死者の霊の影響というよりも、死者を思う生きている人の意識が集積した結果ではないかと。言い 足せば、生きている人間が、死んだ家族を思う事で、その家族が生前に持っていたが、死ぬことによって空間に固定された「想い」が、現世に集積してくるのではないかと。

 私は、死んだ人間が幽霊として存在しつづけるとは、思っていない。ただ、人は死ぬときに、生前に抱きつづけて来た「想い」が、その空間に刻み込まれるのでは、と想像している。死によって部分的に空間が変質するとでも言えば良いのだろうか。それは、例えるならば、水面に投げ込まれた石のかもし出す波紋のようなものかも知れない。当然、それは、普通は、時間と共に自然に薄れては行くように思う。そして、その「想い」は、別に意識を持つことは無いが、色んな形で、現世に影響を与える事はあるものと思われる。ただ、この「想い」は、現世の通常空間の常識には縛られて居ないので、遠く離れた家族に、「むしの知らせ」という形で伝わる事もあれば、時間を逆行する事もあるかも知れない。また、特定の現世での事象に同期して、表面化する可能性もあるのかも知れない。

 少々こじつけと映るかも知れないが、大惨事の起こる前に、それと関連付けたくなるような不安感が訪れる事がある。確か、ある年の11月の末頃だったと思うが、通勤帰りに高速道路を通過している時に、発作が訪れた。高速道路が壊滅するようなイメージだったので、漠然と、1999年も近いからなぁと考えていた。で、翌年の1月に、神戸大震災が起こった。このときの発作は、ビジュアルのイメージが伴っていたので、私は関連付けているが、その他の惨事の前の発作の時には、漠然とした不安感だけの事も多く、正直言って、関連付ける事が出来るのかどうか分からない事の方が多い。大震災の前の発作をはっきりと覚えているのには、もう一つ理由がある。その後も、情緒不安定を引きづっていた為か、予ねてから憧れていた女性に、ガラにもなく花を贈ってしまったが、予想通り、うまく行かなかったいう事があったからである。だから、当時は、何が原因で何が結果なのかがさっぱり解らず、ただ、自分の精神のコントロールが取れずに苦しんでいたのである。

 あと、死んだ時の「想い」が、その空間に刻み込まれて、後世まで影響を残す事で説明できそうな事として、事故の多い場所(科学的に証明出来る場合がほとんどだが)で引きずり込まれるように、事故が起こったりする事などがある。巷では、霊能力者などによって、地縛霊と表現されているものに相当するのかも知れない。たしかに、そのような場所を訪れると、発作とまでは行かないが、一種独特のざわめきを感じる事が良くある。
 中には、この「想い」が、特定の物体に宿る事もあると思っている。一般には、呪いのかかったものをして忌み嫌われる事も多いのかもしれない。特定の石であったり、芸術品であったりすることもあるかもしれない。(直感的に、石はこのような対象になりやすいのではと思っているのだが。)京都の某寺にあった、幽霊画は、まことにすさまじいものであるが、視覚で感じる事の出来る以上の怨念を感じる事が出来る。これもまた、空間に刻み込まれた「想い」の一種なのでは無いかと、わたしは思っている。ただ、「想い」を空間に刻み込めるタイミングが、死の瞬間だけなのかどうかは、良くわからない。人によっては、生きながらにして空間の性質を変える能力を持つ人が居ても良いような気もする(意識的には無理と思うが・・)。そして、幽霊というものは、見えるものではなく、感じるものであるというのが、私の考えである。怖いものかどうかは、単純に、それを感じた人の意識の問題なのではないだろうか。罪の意識を抱えている人にとっては、死者の「想い」は、やはり恐怖となるであろう。ただ、その「想い」が怨念だった場合は、第三者にとっても、やはり恐怖であろう。

 私は、霊魂も、超能力も信じてはいない。でも、人間の五感で感じ取る事の出来ないものの存在は、半分、信じている。でも、そう思うのは、単に私の病気の為なのかも 知れない。ただ、人すべからく、自分の状態は正当化したいという習性があるが、私も例外ではない。この病気は、原始的な予知能力が残存した為に生じる(進化の過程かも知れないが)のでは無いかと思っている。ネズミにもあるという予知能力である。人間は自然界の中では強くなりすぎたので退化してしまったが、一部の人間に残存して、いろいろ悪さをしているという考えは、あまりに、我田引水であろうか・・。パニック症候群は、ヒトに残存する予知能力の誤動作によって引き起こされているのかも(あくまで、誤動作で、たまに正常に動いても本人には選別出来ない)。しかし、換言すると、わたしの頭はネズミ並・・・・そういえば、実験動物の可哀想なネズミ達は、わたしに良く慣れたっけ・・・。同類と認知したのだろうか、彼らは・・。

ヒトの未来に関する考察

 ヒトは、自然の驚異に打ち勝つテクノロジーを編み出し、自然による淘汰から身を守る術を得た。それと同時に、自然による淘汰により行われてきたと思われる進化への道も同時に断ち切った。そして、残されているのは自らの遺伝子を加工しながら生き延びて行くという人工的な進化の道だけである。

 自然と共に歩み、繁栄してきたと思われるヒトが、自然からの抑圧から解き放たれた時、ヒトは無限の増殖を始め自然を食い尽くして行く。これは、あたかも、ヒトの体内の細胞が、本来の寿命(細胞死)を規定する遺伝子の損傷により腫瘍細胞となり、そのヒトを死に追いやるのと同じである。

 この例でも判るように、腫瘍細胞は永遠に生きるのではなく、ヒトが死ねば共に死ぬのである。腫瘍細胞が、ヒトが無くても生きる術を得ない限りは・・・。従って、ヒトの未来には、自然を食い尽くしたあげく絶滅もしくは激減(この場合も、再度増殖して同じ事を繰り返すだけであるが)する現実が待っていると考えるのが一番妥当であろう。ただ、ヒトから発生した腫瘍細胞が自立してゾンビのように生きるが如く、ヒトが自然を全く切り離されて生きる術を得た場合は別である。

 ヒトが環境問題に真剣に取り組めば、この窮地から逃れられるなんていうのは、単に大衆を落ち着けるために政治家やマスコミ人のでっち上げたまやかしである。ちょっと考えれば判る現実であるのだが、ヒトはこうゆう自分に都合の良いウソにはだまされやすい。本当に、自然とヒトとを共に救いたければ、ヒトのこれ以上の増殖を抑制し、かつ現存する個体も淘汰する以外に方法は無い事は自明なのである。一人一人が自然に優しくしたところで、所詮それはヒトとしての罪の意識をごまかす為のマスタベーションに過ぎず、物事の根本的解決には程遠いのである。まさに、やらないよりはマシというレベルの話に過ぎないのである。

 ヒトが自然と共に存続する可能性を考えると・・・。ヒトを温存するテクノロジーをすべて封印し、ヒトの利害を越えて地球や自然を温存する事を目的としたヒトの管理システムをヒト以外の存在により構築出来れば、飼いヒトとしての未来はあるのかも知れない。また、増えすぎたヒトを、宇宙に追い出すテクノロジーを編み出せば、地球を延命させる事は出来るかもしれない。

 しかし、現実にあり得るのは、自然資源が残り少なくなった時に、ヒトは結局、平和の掟を破り、互いに淘汰の刃を交え、結果として自然に見合った数に収まるという線では無いだろうか。ヒトとヒトとが争うのは、ヒトの感情としては耐え難いものがあるが、マクロ的視野に立つと、必要不可欠の事象とも言えるのかも知れない。ヒトの歴史が殺戮の繰り返しであるのは、ヒトが愚かだからではなく、ヒトにとって必要な事だったからかも知れない。オーストラリアで定期的に生じるという森林火災が、自然にとっても必要な事象であるのと同じように・・。むしろ、殺人を禁止した歴史そのものが、ヒトの闘争本能を歪め、ヒトの心を腐らせ、大きな破滅に至る過程を早めたとすら考える事は出来るのでは無かろうか。

 しかし現在では、大きな破滅の時すなわち、互いに淘汰の刃を交えた時には、地球そのものが破壊・消滅する公算が高い訳である。地球が壊れる事無くヒトが破滅することが、現状解決の為の、最も理想的な形というのは、なんとも悲しい現実である。ただ、様々な人工的化学物質などにより、人知れずヒトの生殖能力が奪われてゆけば、このような理想的結末も有るのかも知れない。ダイオキシンなどが地球の救世主とは、信じたくは無い話ではあるが・・・・。

正義に関する考察と若干の言い訳

 さて、話も随分脱線して来ました。まあ、このあたりまで読んで下さる方はまず皆無とは思っているのですが、これまでの考察を世間の常識に照らし合わせながら読んでみると、どう見ても正義のヒーローの敵役である、世界破滅を目論む悪の秘密結社の親分の言い分のようです。まあ、正義なんて概念は仮想の概念で、実在する訳も無いのですが、なぜか世の中には、この正義にしがみつく方が多いようです。バトル(フレーミング)のよく生じる所を覗いてみると、必ず、自分を正義と信じて止まないキャラの持ち主がたいていいらっしゃいます。こうゆう輩は、あまりの狭視野ゆえんに、場を荒らすことを目的とした輩と同じ程度にやっかいだったりしますけどね(^^;)。

 世の中が、きっちりと善悪に分かれていれば、どんなに楽かわかりません。ちょっと考える方は、善悪に分けることの出来ない事が世の中にあるから苦労すると思っているのかも知れません。しかし、世の中には、善悪に分類出来る事象なんて、皆無だと思います。ですから、善悪でしか物事を判断することの出来ない方というのは、言い換えると、何も自分で判断出来ない方だということになるのです。精神の発達過程で、判断の基準として善悪を用いる時期は必要です。この時期に、自分の欲望や衝動の制御術を学ばねばならないからです。しかし、このあたりで、精神的成長の止まってしまっている方があまりに多いのですよね、今の時代。

 世の中のすべての事象が善悪で計りきれない事を知り、自分にとっての善が自分の欲望を前提としたものであることを認識し、ヒトの範疇を越えて、事象を客観的に見ることが出来た時、目の前が一気に広がります。これは、たぶん、「悟り」の一形態では無いかと思います。しかし、すべての事象を把握出来るようになると同時に、見えないが故に持つことの出来た多くの「夢」もまた、一気に消え去るわけです。そこで、気が付くのは、ヒトは己の欲望に振り回されて生きるのも、一つの幸せな生き方であったと言うことです。そして、そこに気付いた時、もう自分はそこには戻れないのです。夢の中で、掴んだと思った光が消えゆくような虚しさが、それからの一生を支配する訳です。物事が良く見える人間ほど幸せとは限らないということなんですよね。

 さて、ますます、脱線はひどくなるばかりですが、ここで言いたい(言い訳したい)のは、ここでぶちまけている話は、ヒトとしてのエゴを無視した視点からの話だということです。作者の内面には、ヒトとしてのエゴは現存しています。だからこそ、医療に勤しみ、幾ばくかの収入を得、飯を食い、生活を送れる訳です。死にかけている人がいれば、我を忘れて処置をし、気が付いたら朝になっていたなんて事も時々起こるわけです。(もちろん、だからといって、余分な手当は出ませんよ^^;)

 ですから、ヒトは一度は絶滅に瀕すべきとは判っても、心の中では、ヒトとしてのエゴとの綱引きで膠着状態という訳です。殺人を否定したことが、ヒトの心を歪めているとは言っても、自ら殺人を肯定している訳では無いのです。(私の場合、殺人とは裏腹に救命しようとしても、悲しい事にヒトは死んで行きますが ;_;)さて、作者の中では、仕事をし生活をする自分と、客観的に事象を見ようとする自分が居るわけですが、どうも、作者の中では、どちらが現実でどちらが仮想なのかが区別出来ないようです。ひょっとしたら、どちらも現実かもしれないし、どちらも仮想なのかもしれません。さらには、現実と仮想の区別が、さして重要で無いことを実感出来るまでには、もうしばらく時間がかかりそうですが・・・^^;。

最後に・・・

 長々と、作者の自己満足につきあって下さってありがとうございました。ここまで、読んで下さった、あなたの、絶大なる忍耐心の強さに敬意を表すると共に、感謝致します。あなたが、普通の方なら、ここまで読んだ時に、何も感じるものは無いか、得も知れぬ怒りに襲われると思います。しかし、それは正常な反応ですので、間違っても、怒りにまかせて、私宛にメールなんか送らないで下さいね(^^;)。しかし、万が一、共感などを覚えた方がいらっしゃったら、あなたはかなりおかしいのかも知れません。そして、そんなあなたが迷い込んだ心の迷宮から出る為に、他人の力を頼っても無理というものです。宗教などに頼るのも自由ですが、所詮まやかしに過ぎないことを自覚するべきでしょう。迷い、苦しんだあげくに手の中に残ったものを感じるまで、がんばって下さい。そして、その結果、手の中に残ったものは、他人には一文の価値も無くとも、あなたにとっては絶大な価値を持ったものとなるはずです。そう、これこそが、この短い、仮想とも現実とも区別の付かないヒトの一生の中で、唯一実存するものなのですから。

悟りの境地・・・・それは実存するものである。


なお、平成12年某月某日開設以降、
こちらにいらっしゃった奇特な方の人数は >>


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