残照
 中庭にテーブルと椅子を出した。
 位置を考えるのにも配置を決めるのにもわざと時間をかけた。いちど回廊まで下がって全景を見わたし、カレンはひとりでうなずく。あの場所なら太陽の恩恵が受けられ、空も中庭の緑も目に入る。
 カレンを空を見あげて目を細めた。いまだ強い陽射しに、白漆喰が映える。
 今日はこの教会にバゼットがやってくる日だ。
 バゼットの来訪は、一日を奉仕と祈りとで過ごすカレンにとって数すくない楽しみのひとつになっていた。最初のうちはかたくなな態度を見せていたバゼットもしだいに打ちとけ、いまでは屈託ない笑顔を見せることもある。記憶をとりまいていた悲劇の殻がひとつひとつ落ちていくにつれ、バゼットは本来の自分を見せるようになったのだろう。
 バゼットを目の前にしていると気分がいい。裏のない感情と隙のある態度に触れているだけで、心が洗われていく気がする。日々身体を蝕んでいく傷をバゼットは癒してくれるのだ。
 椅子に腰をかけ、目の前に広がる緑、前任者の残していった景色を眺める。
 カレンが剪定した蔓はふたたび勢いよく伸びはじめた。いくら傷つけられても成長をやめず、天を目指す緑。降り注ぐ光がひとつひとつの葉に艶となって、あたかも前任者の意思のように力強く揺れている。
 前任者―――言峰のことになると、バゼットはとたんに押し黙り、慎重に言葉を選んで話す。
 なにせあれだけの矛盾を抱えていた人ですからと、バゼットはいつもこう言うのだ。その矛盾をつきつめていくと、結局言葉が負けてしまうのだと。
 カレンが渡した言峰の部屋の鍵をバゼットは大事に持ちつづけ、ときたま部屋に入ってはしばらく出てこないこともある。バゼットはこの教会を、この街をさまよいつづけ、言峰の残した爪痕と記憶を探してまわっていた。まるでそれらをかき集めれば言峰が甦るとでもいうように。聖杯とともに姿を消した男は生前とおなじく、いまでもバゼットの心を支配している。
 バゼットは受けた仕打ちを怨むこともなく、言峰が悪人であったことに一定の価値と結果を見いだしていた。歪みを受け入れながらも受け入れられず、苦しみ抜いた果てに得た強さは誰よりも美しかったと。
 だが、カレンにとってみればバゼットのほうがよほど強いと思う。
 みずからのことばかり顧みていた言峰よりも、言峰を想い言峰のために己を変えた
バゼットのほうが、芯の強さは勝っている。
 考えるに、言峰は我儘で弱い男だった。バゼットの気持ちを自身に向けた状態のまま、自身しか知らない身体のままでいてほしかった。バゼットの人生を、情にしろ傷にしろ、それこそ死に至るまで手を加えたかったのだ。
 おかげでカレン自身も、言峰について一定の知識と認識を得られた。
 父親というよりは、完璧な聖職者として、そして稀代の犯罪者として。
 不思議なものだ。もう会うこともないだろうと思っていた父親の姿と、この地の残骸として出会うことになろうとは。
 カレンは家族を知らない。本当のぬくもりを知らない。
 自分に触れてくる体温はいつも欲望をはらみ、一方的な献身を要求されるだけだった。相手の悪意にみずからを差しだし、限界にまで追いつめ、麻痺させることで保ってきた身体と心。悪意を自分の身に表現するにつれて目のはたらきは衰え、聴力は遠ざかり、段々と人間としての機能を失いつつあった。
 だが目がかすんでも人の心は見える。耳が鈍っても人の感情は聞こえる。相手の心の裡を自分の身に表現することで、他人と関わりあえた。
 そう言うと、バゼットは決まって自分を労るような目をむけてくれる。それが唯一の手段とでもいうように、何も言わないまま自分を抱きしめてくれる。やわらかな肌の感触は、いままで知らなかった無償の安心を教えてくれた。
 親が子供に向ける感情をカレンは言峰からではなく、バゼットから教わったのだ。
 父親が自分を捨てなければと考えたこともある。だがそう思ってしまったところで、何かが変わるわけでもなかった。近くにいたところで、自分もバゼットや母親とおなじ境遇を迎えていただろう。
 言峰とはつまりそういう男だった。他者を虐げることでみずからを表現し、生きながらえさせる免罪符を得ていたのだ。
 愚かで、可哀想な人間だと思う。
 もし言峰が生きて目の前にいたら、嫌味のひとつでも言っていただろう。加虐でしか他者とかかわりあえなかった父親と、被虐でしか他者と関われない娘。ある意味、血は争えないものだと。
 椅子から立ちあがると、目がくらんだ。テーブルに手をついて暗闇から意識が戻ってくるのを待つ。踏みだした足がよろめいた。
 いつまにか陽の下に出てしまっていた。
 強烈な陽射しが照りつけてくる。熱い。焦げつく感触に皮膚が悲鳴をあげる。日光を避けようと腕をあげると白漆喰にからみつく蔓薔薇が意識を刻む。
 動悸がする。耳鳴りが神経に障る。
 食道をこみあげ、口端からこぼれおちた血が修道服の袖を汚した。咳きこんだ喉から鮮血が散り、地面に赤々とした花を開かせる。
 鋭い意思に肌を切りつけられるのがわかった。おかしい。これは悪意を受けたときの症状だ。悪しき存在が近づいたときにしかおとずれない変化だ。
 カレンは目をこじあけ、中庭を見渡した。
 誰もいなかった。白くあふれる光のなかに静寂がたたずんでいる。
 嗚咽がこぼれる。内臓という内臓が形を変え、いまにも皮膚を突き破りそうになる。細胞壁が融解し、鼓膜が破れ、血液が泥になっていく。痛みに気を失いかけ、必死に手を伸ばした。遠くで、バゼットの名を呼ぶ自分の声が聞こえた。
 落ちていく自分の手が、誰かの手によって支えられた。
 ひんやりとした皮膚の感触が、崩れかけた意識を現実へと引き戻してくれる。
 最初はバゼットの手だと思ったが、記憶が即座に否定した。ちがう、バゼットの手はもっと細く、しなやかで、こんなに大きくかたい手ではなかったはずだ。
「カレン」
 低い声がすべりこんできて、熱とうらはらの寒気になる。やっとのことで開けた目に入ったのは、大きく筋張った手、黒衣の袖、風になびく黒髪と、瞳に宿る死のきざし―――強烈な陽射しに縁取られた、漆黒の姿だった。
「神父―――」
 見あげた目に、逆光が鋭く痛む。
 苦痛に身を歪め、口端から血を流す自分を眺めて、その神父は微笑みを浮かべていた。
 憐れむように、そして愉しむように。 
「貴方、は、まさか」
 それだけ言うのが精一杯だった。
 陽光の熱に身体が切り刻まれる。吹きつける風ですら肌を裂く。葉のさざめきが耳もとで響いている。
 全身に重くのしかかってくる神父の微笑みと死の感触に耐えようと目をきつく閉じた瞬間、手を支えていた感触が消え去った。
 目を開けると平凡な、いつもどおりの午後の風景が広がっていた。おだやかに降り注ぐ光のなか、地面に濃い影がわだかまり、その中央に血の染みが黒々と残っていた。
 カレンは背を伸ばした。身体の変化は嘘のようになくなり、ただ口中に血の味だけがある。手で唇を拭い、頬に貼りついた髪を払う。背中を流れおちていく脂汗が神経を逆なでする。
 ありえない対峙の余韻が重みとなって全身を麻痺させるようだ。
 ここには言峰の残骸が多すぎる。絡みあう緑、祭壇に残された祈りの跡、白漆喰に染みつい夜の匂い、教会全体に息づく影。そしてバゼットも、カレン自身もその一部だ。残照がいまだに現在を照らしだし、忘れられない過去を浮かびあがらせている。
 手を組んで祈った。
 今なら、バゼットが言峰にとらわれつづけている理由が、理屈でなく身体で理解できる。あの重みに魅せられ、あの歪みきった力にみずからの未来を見いだしてしまったのだ。
 だがバゼットはまだこちら側の人間だった。言峰が生んだ悲劇から救いあげた唯一の存在だ。もう二度と傷ついてほしくはない。
 挑むように空を見あげた。
「残念だったわね」
 首を振り、カレンはバゼットに供する食器を選ぶため、中庭を後にした。

 人が消えた中庭に、蔓があてもなくさまよっていた。







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