すべて世は事もなし

本文抜粋

「ずっと私の傍にいたのか」
 あきらめたような、それでいて優しい言峰の声色に、素直にバゼットは頷いた。
「よく私を見つけたものだ。誰かに聞いたのか」
 バゼットはここへ来た少年と、彼から聞いた話の顛末を手短に話した。言峰は納得したようにひとつ瞬きをし、
「それで私を泥から掘り出したというわけだな。難儀な思いをさせた」
「いえ、私は貴方が生きているのが嬉しくて、夢中でした」
 言峰がじっとバゼットを見つめてくる。その射抜くような、心の底までをも見透かされる視線も懐かしく、心地よくバゼットには感じられた。
 上半身を起こそうと試みてかなわなかったのか言峰が顔をしかめ、バゼットは手近なクッションを首の下へと足してやる。目つきは元に戻っているものの身体が気怠いのか言峰は深々とクッションに背を沈ませた。重々しい顔つきは、みずからの現状を受け入れながらもどこか腑に落ちていないように思えた。無理もない。このような状態など、前の言峰なら瞬時に脱していた。
 世話をするバゼットの手つきを甘んじて眺めていた言峰はバゼットの目を凝視し、
「生き延びたか。おまえも、私も」
 言峰の声は低く、さまざまな色と情でバゼットの心を揺らめかせた。ずっと目の前にいてほしいと願ったその瞳は、部屋を満たす初冬の陽のような冷たさと暖かみを内包していた。言峰は喜びや悲しみを他人へ悟らせず、顔にも出さない。異なる感情や多様な理屈のひとつひとつを寄りあわせては縫いあげ、複雑な模様にしてあらわすような男だ。陰鬱な笑みの下に隠された思惑を探し慮るのが、いつしかバゼットの得手となっていた。
 バゼットは長い時間をかけて頷いて返した。
 言峰が無言のまま視線をずらし、左腕にたどりつく。
 バゼットもつられて左の袖を見つめた。本来なら肩口からまっすぐに伸びているはずの袖身頃は途中から平べったく潰れている。心配はいらないと言いかけたバゼットは口をつぐみ、何と言っていいかわからなくなった。かつて左腕があった場所を注視している言峰の沈黙は痛いくらいに重かった。
「そのうち、義手をつけてもらいます」
 なるべく感情をまじえずに、事実だけを淡々とバゼットは告げた。
「私を怨まないのか。一生残る傷だ。罵られてもおかしくない」
 言峰の問いにバゼットは首を横に振った。
「怨んでなどいません。これは、私の望んだことです。貴方の手にかかるのなら、私はいくら傷つけられようが、死のうが構わなかった」
 左の肩の、失われた部分に手をやってバゼットは言った。現実へと戻ってきてからいつも考えていたことを自分の口から伝えられるのは、静かな喜びがあった。自分と言峰だけに通じる喜悦は、昔も今も変わっていない。
「それに、貴方を充たせたのなら、もっと嬉しい」
「しかし私は、自分の欲望のためだけに、おまえを利用し犠牲にした」
 悔いる風でもなく、許しを乞うそぶりもなく、淡々と言峰が言いつのる。感情の削がれた声は、かえって苛烈な想いが押し殺されているように思えた。あえて悪意をぶつけて相手の本心を引きだそうとする言峰の手法も、バゼットには快かった。
「いいのです。私が貴方の望みを叶えられたのだから」
 バゼットの言葉を聞いた言峰はふたたび沈黙した。一点を見つめたまま眉を潜めて着地点を探っている言峰の逡巡がバゼットにはありありと見えた。おそらく言峰も、バゼットの腕を斬り落としたときへたちかえり、闇に浸りながら、いままでの長い道のりをさかのぼっているのだろう。
 そのひとつひとつが、自分の仮説と合っているのか確かめたい衝動にバゼットは駆られた。みずからの死を予感した言峰が、自身の悦楽のためだけではなく、バゼットの行くすえを案じ、ふたりの未来を考えた上で手にかけたのだとバゼットは信じている。しかし言峰の顔に刻まれた、疲れのような陰影に気づいたバゼットは考えをあらためた。時間はまだある。自分の疑問よりもまず言峰の体調を優先しなければならなかった。
 気持ちを落ち着かせようと、バゼットは言峰の肩を撫でた。
「意識を取り戻したばかりなのだから、あまり考えこまないで。とにかく今は休んでください」

(中略)

 そのせいだろう、暗い場所にひとりでいると、どうしてもあの日のバゼットの背が見えてくる。全面の信頼を滲ませ、疑いの片鱗も見せなかったその背に向かって言峰は黒鍵を振りかざし、バゼットの左腕を斬り落とした。
 なぜ、と思う。
 血に染まる記憶のなかで、振り返ったバゼットの顔をはっきりと覚えている。悲鳴もあげず、静寂へと沈んでいくバゼットは右腕を伸ばして言峰の身体に追いすがってきた。その目は深い闇を映しながら、言峰を責めようとはせず、穏やかですらあった。まるでこうなるのを予測していたかのように。
 なぜ、と。
 疑問に思っていたのは自分のほうだ。
 生命の息吹が消えゆく身体を感じ、光が喪われていくバゼットの目を自分は恍惚として眺めていた。今までにないくらい大きく深い愉悦に痺れながら、同時に心が引き裂かれるような痛みを感じていた。
 なぜだろう。長く関わり、人生を捧げてきた男に裏切られたという絶望と悲痛、それを味わわせてくれたバゼットに自分は感謝こそすれ、悔いることなどないというのに。激するほどの歓喜を与えてくれた礼に、バゼットを冥府へと送ってやるつもりだった。
 これでいいと思っていたはずだ。これが考えたすえに出した最良の結果だった。それに、これはバゼット自身が望んだことだ。死ぬのなら、他の誰でもなく貴方の手で殺してほしいとバゼットは言った。貴方のいない世界など考えられないと。
 自分がいなければ、弱く脆いバゼットはひとりでは生きていけないだろう。手にかけたのは、いわば情けだった。
 しかしそれは本当に、バゼットだけの望みだったのか。

(中略)

 膝をつき、立ちあがると胸に穴が空いたままの身体が見おろせた。穴は黒々と口を開け、言峰を呑みこまんばかりに深く見えた。
 これからどうすればいい、と言峰はひとりごちた。アンリマユを誕生させる望みは潰えた。もう自分には何も残っていない。死に染まった手は何も生まず、血に濡れた指は何もつかめなかった。すべてを失い、希望もなくなった。そして、絶望すらもう、無い。
 だが自分には意識がある。まだ自分が自分であるという確かな実感がある。それなら、自分がいるべき場所はここではない。
 歩きだそうとした時、ふいに、背後に気配が生まれた。
「お目覚めかい、言峰綺礼」
 聞きおぼえのある、しかしこんなところで耳にするはずのない声が耳をくすぐった。一見穏やかにも感じるその声は、記憶の底から苦々しい感情と鮮烈な眺めをよみがえらせた。
 振りかえった言峰の目に、歩いてくるひとりの男がうつった。最後に見たときとまるで変わらない姿のまま、悠然とこちらに向かってくる。思わず目が見開くのを言峰は抑えきれなかった。
「衛宮……切嗣」
 かすれた声に応えるように、衛宮切嗣が手を広げた。コートの裾が揺らぐ生々しい様子に言峰は眉を潜める。切嗣は泥の呪いを受け、何年も前に死んだはずだ。天上の模様を身に受け、七色の光に照らされた衛宮切嗣の姿は、しかし生きている者となんら変わらない生気があった。
「貴様がなぜ、ここにいる」
「そうだね、疑問もごもっともだ」
 立ち止まると切嗣は言峰を焦らすようにコートのポケットをまさぐり、ひどく時間をかけて煙草を取り出した。その顔つきと仕草からは優位に立っている者の余裕がにじみでている。切嗣の出方を待ち、従うしかない不本意に言峰はいらだちを覚えた。
「さて、どこから説明しようか」
 火のつけられた煙草から煙がたちのぼり、七色の光が白く揺らいだ。
「君には衛宮切嗣に見えるけど、中身は別物だよ。僕は衛宮切嗣の殻を被ったアンリマユ」
「アンリマユだと、おまえが」
「そう、君が勝手に自己投影していたアンリマユだ」
 切嗣が屈託ない笑顔を見せたが、その目の奥に息づいた翳りを言峰は見逃さなかった。隠しても隠しきれない、人間の暗部を背負った者、世界の澱みを眺めてきた者が宿したそれは、おそらく言峰自身の奥にも息づいているはずの暗闇だった。
「成程」
 言峰は不敵に顔を歪めてみせた。誕生を願っていた存在が、いま最も忌むべき形をもって自分の目の前に立っている。
「人の心を惑わすのが悪魔ならば、おまえこそその名に相応しい」