とがおくり

本文抜粋

 嬉しそうな大河の顔を眺めながら、切嗣は煙草を灰皿に押しつけて腕を組んだ。
「勉強のほうは大丈夫なのかい。そろそろ、ほら、進路を考える時期だろう」
 自分で口にした進路という言葉に、切嗣の胸はかすかに痛んだ。なるべく考えずにいようと心がけているのに、どうしても自分の限界と周囲の将来をつきあわせ、想いを巡らせてしまう。大河が成人するころ、自分が生きていられるかどうかも危うい。
「そのことなんですけど」
 うつむいて所在なげに視線をさまよわせる大河の頬は、こころなしか赤みを帯びていた。そしてひどく恥ずかしそうに口を開き、
「私、教師になりたいんです。英語の」
「先生になるのか」
「似合わないですか」
 大河がおずおずと上目づかいで眺めてくる。大河の恥じらう顔からは、先刻竹刀を持って泥棒と対峙しようとしていた勇ましさがすっかりなくなっていた。
「いいや」
 切嗣は首を横に振りながら、つい笑いを洩らしてしまった。若い情熱を身体全体であらわせる大河はほほえましく、そしてまぶしく見え、切嗣は羨望の念を抱いた。
「おかしい?」
「ごめん。君が可愛らしいものだから、つい」
「そんなお世辞……」
「お世辞じゃないよ。本当のことだし。大河ちゃんなら元気で面倒見のいい先生になれそうだ」
 切嗣の言葉を聞いた大河が照れくさそうに笑い、スカートについた屑を指先でつまんでいる。厳しい家庭に育ち、面と向かって褒められたことが少ないのだろう、喜びと戸惑いが綯いまぜになっていた。
「それで、切嗣さんにお願いがあるんです」
「なんだい」
 言いかけたものの口を噤んだ大河の迷いを切嗣は黙って眺めていた。こういった純粋な迷いには長い間触れておらず、軽い郷愁にかられる。大河のまるで屈折していない感情は澄み、その手ざわりは快かった。こうしていると、身体に巣くっている呪詛を忘れられ、迫りくる死の匂いを感じずに済む。縁側を照らす日差しとおなじやわらさ持つ大河の表情が、切嗣を縛りつける絶望をゆるめてくれるようだった。
 大河が己を勇気づけるようにうなずいた。
「私に英語を教えてくれませんか。切嗣さん、海外暮らしが長いってきいたから、上手だと思って」
「教えるのは構わないけど、僕の英語は自己流だし文法だって滅茶苦茶だよ」
 人生もまるで滅茶苦茶だけど、と切嗣は心のなかでひとりごちた。
「いいんです。教科書だけだとどうしてもわからないところが多くて。お願いします」 
 大河がそう言って膝に手をつき、頭を下げた。微動だにしない身体の線に決意の固さが宿っているようだ。仮に切嗣が断ったとしても、大河は毎日でも嘆願にやってくるだろう。
「いいよ、僕に出来るかぎりのことはする」
「ありがとうございます」
 大河が顔をあげて弾けんばかりの笑顔を見せる。その笑顔を受け止めきれず、切嗣は煙草を手に取った。燐寸を摺り、火をつける手が震えてしまうのを大河に見られないよう手で隠した。掌のなかで揺らぐ火は、記憶の影を映しだし、胸に火傷のようなひっかかりを残す。
「まあ、これでも、伊達に世界を巡ってないからね」
「凄い」
 切嗣が痛みから逃れるように張った虚勢にも、大河は素直に感心してくれた。いままで大っぴらに出来ない所業をしてきたせいか、切嗣には親しい人間に小さな見栄を張ってしまうところがあった。士郎に対しても、初対面で訝しげな目を向けられたときに、ろくな職についていない情けない男だと思われたくなかった気持ちから、子供相手につい魔法使いだと見栄を張ってしまった。そのとき士郎は目を丸くして驚き褒め讃えてくれたが、のちに士郎が魔術を教えてくれと言い出したときには困ったものだ。
 おそらくは、自身のやってきたことを認めてほしいと考え、少しでも正しかったのだと評価されたいのだろう。自分の所業が罪であったのだと、悪でしかなかったと認めるのが恐いのだ。

(中略)

 士郎が部屋に入ってきたのが物音でわかった。
「冷めちゃっただろ。淹れかえるよ」
 切嗣の具合に気づいているのか、士郎の声には労りがあった。
「ああ、すまないね」
 湯飲みを持ち、台所で洗い物をはじめる士郎の動きは子供らしく機敏で、自負に満ちた動きからは切嗣の具合の悪さを補おうとしているのがありありと見てとれた。火災から助け出したときはほんの子供だと思っていたのに、ここ数年で士郎は急に成長したような気がする。背も伸びてきたし、日増しにしっかりした顔つきを見せるようになった。
「ちゃんと座布団に座りなよ」
「畳もいいもんだ」
 素直に言うことを聞けばいいものを、我ながら下手な言い訳だと切嗣は思った。 
 手を伸ばして畳を探っていると、気づいた士郎が煙草と灰皿を横に置いてくれた。火をつける手の震えを見られないように切嗣はますます背を丸めた。
「親父、藤ねえが来なくて寂しいんだろ」
 隣に腰を下ろした士郎がわざと明るく、からかうように言った。
「寂しいのは士郎のほうだろう」
「いるとうるさいんだけど、いないといないで物足りないんだ」
 眉をひそめた士郎の物言いが面白く、切嗣は士郎にかからないよう顔を背けて煙を吐き出しながら笑いを洩らした。苦い味が身に沁みた。
「親父、具合悪いのか」
「少し」
 ごまかすように切嗣は大袈裟に溜息をついたが、実のところそういった動作も気怠かった。
「大河ちゃんには内緒にしておいてくれ。いまは大事な時期だからね」
 笑いかけるように言うが、厳しい顔つきになっていたかもしれない。士郎が肩をすくめて上目づかいになり、
「わかってるよ」
 以前、大河を教会へ行かせてしまったことを士郎はいまだに気にしているのだろう。もちろん何があったのかは教えていないが、切嗣に引け目を感じているのは判った。三人とも似たような思いやりを抱え、それが良心から生まれている以上、誰も咎められない。だからこそ、良心が悪い結果に終わらないようにするのが年長である切嗣の役目だった。
 大河が教会へ行ったときは、彼女のためにもすべてを話したほうがいいのかと考えたこともあった。だが昔の話を振ったときに大河が冗談と表現した時点で、やはり過去を打ち明けるべきではないと切嗣は判断していた。一般的に見れば、自分は良心を殺し、非道な殺戮をくりかえしてきた許されざる悪人なのだ。
「親父もさ、あんまり心配かけさせんなよ」
「わかってるよ」
 切嗣がそっくり真似をして答えると、士郎が笑い声をあげる。
「親父の夢は、俺が継ぐからさ。安心してよ」
 士郎にとってはなにげない言葉なのかもしれないが、いまの切嗣には頼もしく聞こえた。士郎なら、自分のように大それた変革ではなく、彼なりの正義を見つけ出していけるだろうと思う。切嗣は士郎の頭に手を乗せて髪をかきまわした。
「やめろよ」
 士郎は切嗣にされるがままになりながら、誇らしげに笑った。

(中略)

「なんだ、これは」
 自分を奮い立たせるように切嗣は言った。なぜ教会の地下にこんな場所があるのか、誰がこんな所業を行ったのか。それよりも、早くこの人間たちを救い出さなければと切嗣は考えた。たとえ誰であろうと、こんな悲惨な場所で苦しみ続けていい道理はないはずだ。
 しかし、この状況からして下手に動かせば命はないだろう。情けをかけるとするなら、いっそこの手で息を止めてやったほうがいいかもしれない。拳銃を使えば一瞬で死なせられ、延々と続く苦しみに終止符を打ってやれる。
 銃に手をかけようとしたとき、切嗣は身体の奥に痺れを感じた。痺れはするどい熱となってじわじわと全身に広がっていく。何ごとかと身体を見おろすと、腹部から三本の剣先が突き出ていた。
 振り返ることもできなかった。熱と戦慄におののく身体へ、ひどい痛みがおおいかぶさってきた。身体中から力が抜け、切嗣は床に膝をつき、崩れ落ちそうになった上半身をかろうじて扉で支えた。助けようと必死になるあまり背後の気配に気づかなかった自分の迂闊さを呪った。
「見学なら、事前に許可を取ってほしかったがね」
 懸命に顔を向けると、言峰がおだやかな微笑みを浮かべて立っていた。真夜中だというのに法衣を着こみ、寸分の隙も感じられない。暗い色を宿した外套が闇に溶けこんで見えた。
「原則としてここは立ち入り禁止だが、おまえになら特別に見せてやってもいいと考えていた。だが勝手に入られるのは、少々困るな」
 駄々っ子を宥めるような口調で諭してくる言峰の態度が切嗣の神経を逆撫でした。この凄惨な部屋を前にしての振舞いだとは信じられなかった。言峰はすでに常軌を逸している。宿敵であろう自分に対してならまだしも、言峰は人の苦しみや恐怖を眺めて愛おしげに目を細めている。
「おまえが……」
 切嗣はそれだけ言って激しい痛みに顔をしかめた。腹部を貫かれているだけだというのに、痺れをともなった痛みが灼熱のように全身を駆けめぐり、切嗣を引き裂いていく。水が打つ音にまぎれて、刃を伝ってしたたり落ちる血の音が聞こえた。 
「これは……おまえの仕業か、言峰」
「有体に云えば、そうなるな」
「この人たちを楽にしてやれ。今すぐ」
 切嗣の言葉に言峰が笑みを濃くし、その顔に刻まれた影が一層暗くなったように見えた。
「嫌だと言ったらどうする」
「それなら、僕が……」
 刃を抜こうと背に腕を回そうとして激痛を覚え、しならせた背がさらなる痛みを呼んだ。手を下す、という言葉が呻きにまぎれて消えた。