雨が降る前に
遠くから微かな雷鳴が聞こえてきた。
言峰は目を開けてから、自分が眠りかけていたのだと気づいた。見ると彼方の空に低い雲がたれこめ、山々に覆いかぶさっている。ところどころの裂け目から陽がのぞき、光が束となって落ちかかっていた。
崩れかけた身体を直そうとすると、手から本がすべり落ちた。一度まどろんでしまうともう読む気にもなれず、拾いあげて膝の上に置く。遠くから湿気を含んだ風がやってきて、音を立てながら本の頁をめくりあげた。
言峰はベランダの椅子に座り、先刻から時間をもてあましていた。もともと休日にやる事があるわけでもない。それを言うなら、何をしていいのかも自分にはわからなかった。今日のように妻が出かけている日は顕著だ。
言峰は自分の横に置いた篭に寝かせた赤子を見やった。赤子は朝方から動くことなく、ずっと眠り続けている。室内にばかり居させるのもどうかと考えてベランダに出してみたが、さしたる変化も面白みもない。時に目を開けて腕を動かすこともあったが、何を要求するわけでもなくまたすぐ眠りこんでしまったから、言峰は世話をしてやることもなく、椅子に座ったままこうしてまんじりと時を過ごす羽目になっている。
もともと他人に対して愛情を感じられない自分が、赤子に向き合ってもどうしていいかわからない。だが期待を持っていなかったといえば嘘になる。妻を迎えて子を成し、家族という形を知れば、こんな自分も少しは人並みの倖せを感じられるのではないかと、新しい価値観を見いだせるのではないかと考えていたのだ。だが妻の献身は重みとなり、労りの言葉は身体を通り過ぎるだけになった。
妻に子供ができても、自分の心が動くことは決してなかった。娘が生まれて自分が出会ったのは感動ではなく、あたらしい絶望だった。血のつながった我が子を見ても、結局何の意義も感じられない自分への憤りしかなかった。
篭のなかの赤子は産着に包まれ、小さな手を丸めて眠っている。妻は宝物を見るように赤子の面倒を見、実際宝物だと思っているのだろう、接するときはいつでも笑顔を絶やさなかった。子供を産んだせいで寿命も体力も削られているのに、すべてを捧げ尽くすことが己の命よりも大事そうだった。それが母親という存在なのだろうと、言峰はごく世間的な一般論を妻に当てはめてみることしかできない。妻は何もかも、自分とはかけ離れた存在だった。
手を伸ばして赤子に触れてみる。白く弾力のある頬は赤みを帯び、穏やかな表情を見せている。髪の色も、今は閉じている瞳の色も妻に似ていて、自分の遺伝をうかがわせる色は欠片もない。言峰にはそれが有難かった。
手の指も小さく、何かを握りしめる力もまだない。自分で歩けもしなければ、もちろん自我すら芽生えていない。こんな脆弱な生物が、自分の血を受け継いでいると思いはしても、実感は得られなかった。
目の前にいるのは自分の娘ではあったが、同時にただのぶよぶよとした肉の塊だった。妻が返事もしない赤子に話しかけ、笑いもしないのに笑ったと言い、喋りもしないのに意思の疎通をはかろうと試みる、その満たされた顔を見るたび同じ気持ちになれない自分を恥じ、自身の欠落を思い知った。本当は妻と一緒になって赤子を囲んで笑っていたかったのに、どうしても無理だった。
この先、この赤子が大きくなり、自分を父と呼ぶのだろうか。
どこかで雨が降り出したのか、風が強く吹きつけてきた。埃を含んだ雨の匂いがあたりにたちこめてくる。目の前に広がる薔薇もどことなく重たげに花を支えているように見えた。
季節を迎え、妻が言峰のために作った庭には日に日に様々な色の薔薇が咲いていく。妻のこだわりと熱意はここでも存分に発揮され、彼女の懸命な姿勢は手間暇が欠かせない薔薇を庭一面に咲かせ、鮮やかに色づかせた。妻の持つ美しさと繊細さが薔薇となって花開いているようだ。惜しむべくはその美しさをまったく理解できない自分だった。
頬をつついても赤子は眠りつづけている。内側から押し戻される感触がなぜか心に残り、言峰は指を触れては離す動作をくりかえした。
そういえばここ数日、妻はこの赤子につける名前を考えつづけていた。すぐに決めればいいものを、考えること自体が楽しいかのようにいくつも候補を挙げては取り下げる。赤子を寝かしつけたあと、書庫にこもって文献を漁ったり慣れぬ手つきで辞書を捲ったりしているのを言峰は目にしていた。言峰も意見を求められることがあったが、妻の自由に任せていた。大層な名前でなければなんでもいい。親の期待がこめられた名の重責は、一生ついて回る。世界と己の乖離に苦しんでいる言峰自身のように。
雷鳴がまたひとつ、遠い眺めを揺らした。
言峰にされるがままになっていた赤子は目が覚めてしまったのか、ぐずりはじめた。丸めた手を動かして何かを訴えかけ、突然声をあげて泣き出した。その声の大きさに、言峰は一瞬だけ怯んでしまう。この小さい身体のどこからこんな大きな泣き声が出るのかわからなかった。
ここで妻がいれば赤子を抱きあげてあやしてくれるのだろうが、自分にはできない。なぜ赤子が泣いているのか、泣くだけしかできないのか、そんなことばかりを考えてしまう。言峰はしかたなく、篭を持って揺らしてみた。しかし赤子は泣きやむどころかますます声を大きくし、あらん力を振り絞って泣きつづける。耳をつんざいてくる声には鼓膜がおかしくなりそうだ。母国の言葉で火がついたように泣くという例えがあるが、まったくその通りだと思った。
言峰は早々にあきらめてしまい、篭から手を離す。赤子が何を望んでいるのかもわからないし、どう接していいかもわからない。周囲の人々のように、赤子を見ただけで目を細めて笑顔を見せられるようになれればどんなによかったか。
篭を覗くと、赤子は肌を真っ赤に染めて顔を皺だらけにして泣いていた。何か不満でもあるのか、しきりに腕を上下させている。その醜さ、必死の形相に、言峰はいままで渇いていた心が段々と充たされていくのを感じた。泣くことしかできず、涙と涎で顔じゅうを汚した哀れな肉の塊。赤子が醜悪な姿を見せれば見せるほど、微笑みさえ浮かんでくる。いっそこのまま笑顔など見せず、泣きつづけていればいい。
ふと顔をあげると、家に帰ってくる妻の姿が目に入った。赤子の声が聞こえているのだろう、駆け足で向かってくる。
「あなた」
自分を咎めてくるかと思った妻はしかし、ベランダに入ってくると笑顔になり、赤ん坊を抱きあげた。
「ごめんなさいね、面倒を見させてしまって」
「いや」
そもそも面倒を見ていない。見られないのだ、と続けようとした言葉を言峰は閉ざした。妻は大声をあげる赤子にまったく動じず、優しく宥めはじめた。かぼそい腕のどこにこんな力があったのかと思うほど、子供を抱く手はしっかりとしていた。
「いいのよ」
妻がそう言って微笑みを向けてくる。それは赤子の面倒を見なかったこと自体ではなく、言峰がしまいこんだ言葉に対しての労りだった。子供に愛情を見いだせない言峰に対して、己を責めなくてもいいという意味だ。だが言峰にはその労りも何の実も結ばないまま通り過ぎていく。妻は言峰が真っ当に他人へ愛情を注げると信じこんでいるのだから。
筋状の光が降る空の下、薔薇を背にして子供を抱えた妻の姿はひどく遠く見える。薄日を受けた白い肌と銀色の髪がほのかな光を宿しているようだ。言峰は教会で眺めた聖母像を思い出した。自分には決して手の届かない、純粋で穢れのない姿。
「疲れているだろう。休まなくて大丈夫か」
「平気よ。こんなに泣かれたら休んでもいられないものね」
妻が赤子に向かって話しかけている。赤子の背中をやさしく叩き、根気よく宥めつづけている。しかし赤子の泣き声は依然激しく、おさまる気配もない。
「ずいぶんと利かん坊だ」
「性格は貴方に似たのね。女の子だけど頑なだわ」
妻の言い様を証明するかのように、泣きながら赤子は腕を振っている。
「変なところを似られても困るな」
めずらしく包み隠さずに言峰は告げた。自身を追いこまずにはいられないほどの烈しさは、歪みを矯正したいという一心から生まれたものだ。まさか歪みまでは受け継がれていないだろうが、自分と似たところで赤子には何の有益もないだろう。まだ妻に似ていたほうが救われるし、そうあってほしかった。
「元気があっていいことよ」
たいした話題だとは思っていないのだろう、妻は微笑みを見せつづけ、
「この子には丈夫でいてほしいから」
つぶやきは、悲しいまでの願いに満ちていた。
妻は言峰の隣に腰を下ろし、腕からずり落ちそうになる赤子を何度も抱えあげながらあやしていた。重いだろうに、そんな素振りは微塵にも見せない。さすがに泣き続けるのにも疲れたのか、赤子はだんだんと声を下げはじめていた。
「かわろう」
言峰は妻から赤子を受け取る。ふたたび泣くかと思った赤子はしかし、言峰の腕におさまるとすんなりと眠りこんだ。妻のような宥め方はできないから、荷物のように抱きかかえるしかなく、自分で見てもぎこちない手つきをしている。
小さな身体が意思の芽生えを主張するかのように手足を震わせた。
「大きくなったわ」
「そうかな」
言われても、どこがどう成長しているのか言峰にはわからない。
「体重も増えたもの。お医者さまにも順調だって褒めていただいたの」
こうして近くで比べて眺めると、やはり妻に似ていると思う。肌は白く鼻筋も通り、夕日を受ければ金色に、雨の日にはくすんだ銀色に見える微細な髪の色もそのまま受け継がれている。これも神の思召しなのかもしれないと言峰は思いはじめていた。欠落は何故なのか、やはり自分は間違いでしかないのか。いまだ届かない天上の存在は、赤子を通して自分に様々な思索を課してくる。
妻も言峰の戸惑いに勘づいているのだろう、己の価値観を強要はしてこなかった。可愛いと子供に話しかけるが、言峰にどう思うかは聞いてこない。黙ったまま子供につきっきりで世話をし、惜しみない愛情を示すことが言峰にも良い影響を及ぼすと信じているのだろう。
この家は妻の献身で満ちている。あたたかな陽が当たる部屋、庭に咲きほこるあざやかな薔薇、無垢な赤子の笑い声、そして死病を押した妻の微笑み。それなのに自分は一向に充たされず、たまに善意の綻びを見つけ出しては背徳の悦楽を得ている。
自分たちはこのまま生きていくのだろうかと思う。このまま、別々の方向を向いたままの目で赤子と向きあっていくのだろうか。
それならばいっそ―――そこまで考えたところで言峰は自分を制止させた。山あいでは雷鳴が不安げな音を響かせている。遠くにたちこめた暗い雲がだんだんと広がりながら近づいてくるように見えた。
赤子の顔を覗きこんでいた妻がふと背を伸ばした。
「この子の名前を考えたの。いい加減決めないとと思って」
「どんな名だ」
質問に妻は一瞬たじろぎ、こちらの機嫌をうかがうように上目遣いになった。色の薄い瞳にほんのわずかな陽光がうつりこみ、持ち前の敬虔さを輝かせる。
「カレン」
異国の言葉を使う恥じらいもあったのだろう、妻は小声で娘の名を口にした。瞼の裡に、夜ごと書庫で辞書を捲っていた妻の姿がよみがえり、その願いも痛いほどに伝わってきた。妻は自分の名の意味を理解した上で、それに通じる意味を子供の名に託したのだろう。大層な名、大層な意味だ。娘は将来、己につけられた名の意味を考え、否応なく自分とのつながりを意識するだろう。自分はどう考えても、娘がそのつながりを喜ぶような父親らしいことはひとつもしてやれそうにない。だが名にこめた妻の願いを反故にすることも、自分にはできない。
言峰はできる限りの微笑みを浮かべ、妻に頷いて返した。
「いい名だね」
「そう思う? 嬉しい」
ちょっとした勇気がいったのだろう、妻は心の底から安心した笑顔を見せた。
「よかったわね、カレン」
そして赤子に顔を寄せ、丁寧に額を撫でる。その慈愛の表情はやはり、自分には手の届かない存在に感じた。
何かが弾ける音が聞こえて、言峰は庭を見やる。雨粒を受けたらしく、薔薇の葉と花弁があらがうように跳ね返し、水滴に宿った鉛色の空が散る。陽の下では鮮やかだった薔薇の花も、いまは空のせいで色褪せて見える。気づかないうちに頭上もぶあつい雲に覆われ、自分たちの周囲も暗くなっていた。最初まばらだった雨はやがて密度を増して本格的に降りはじめ、あたりに土の匂いがたちこめてきた。
彼方の空を、雲を裂くように稲妻が横切った。
「中に入ろう」
言峰は妻を促して立ちあがる。
部屋に入り、扉を閉めようとした言峰の目に、もう一度稲妻がうつる。その鋭い軌跡、有無を言わせない強い発光に、覆い隠した心を裂かれるような気がした。
その稲妻に逆らうように言峰は願う。このままでいられればいい。妻も死ぬことなく生きつづけ、薔薇も枯れることなく咲きつづけてくれれば、そして自分の烈しさが、胸に空いた空洞がこれ以上暗闇を知ることがなければ。そうすれば、少なくとも妻と娘だけは倖せに生きられるかもしれない。
腕の中で、赤子が瞼を震わせる。
庭を埋めつくした薔薇の花が、雨に揺らいでいた。
終