ファーザーフラグメント

 その晩、凛はなかなか眠ろうとしなかった。ベッドに入ってからも言峰が部屋から出ていくのを許さず、眠るまで話を聞かせてくれと言う。仕方なく言峰はベッドの脇に椅子を持ち出して二、三の話をしてやったが、そのどれもが凛の気には召さなかったようだ。
「ちょっと綺礼」
 子供相手だからおとぎ話でも聞かせてやろうと、言峰は昔映画で見たシンデレラの話をしてやった。王子と結婚したあとうまくいかずに離縁されてしまった、シンデレラのその後の物語だ。
 言峰の話を途中でさえぎった凛の顔は、苦い表情をしていた。
「何か問題でもあったかな、凛」
「眠れなくなりそう」
 凛はおとなしく毛布をかぶり枕に頭を沈めているが、その目は爛々と開いていて眠気の片鱗もない。文句をつけながらも、凛はずっと自分の話を聞きつづけていた。部屋には読書灯だけが点され、夜の静けさがやわらかく照らしだされている。 
「それは失礼した」
 微笑んでみせた言峰に、凛が唇をとがらせる。
「もっとましな話はないの」
「それなら、暖炉で焼かれた魔女の話をしてやろうか」
 言峰は椅子から身を乗りだし、
「そうだ、とっておきの話がある。皆の倖せを願ったのが裏目に出て全部を無くしてしまった男の話だがな。どうだ、聞きたいだろう」 
「結構です」
 凛の目は細められ、すでに怒りの色を帯びている。そして頭を振ると毛布を頭までかぶって黙りこんでしまった。
「そうか」
 言峰は乗りだしていた身体を元に戻す。本気の申し出だっただけに断られたのはいささか残念でもあった。いつもの凛なら一応さわりぐらいは聞くものだったから、この反応は意外だった。
「凛」
 声をかけても凛は答えようとしない。本気で拗ねたのか、それとも眠ってしまったのかもしれない。言峰があきらめて椅子から立ちあがろうとしたとき、毛布の一部分が不自然に盛りあがり、動いているのが見えた。眺めていると白く細長い筒がのぞき、つづいて筒を握りしめた凛の手が出てきた。筒は丸めた紙らしく、赤いリボンで結ばれている。
「何かな、これは」
 質問しても凛は答えず、紙の先端が強要するように二、三度突き出される。仕方なく言峰は筒を受け取った。画用紙らしく、堅くざらついた手触りがある。
「私にか?」
 毛布の下にある凛の頭がうなずいた。
 リボンをほどいて厚紙を広げてみると、そこには人物の絵が描かれていた。稚拙な線と大雑把な色づかいで表現された、言峰の姿だ。お世辞にも上手いとは言えないが、言峰の特徴を表現しようとした丁寧さが画面からにじみでている。紙のなかの自分は、見たことのない微笑みを浮かべていた。
「学校の先生がね、絵を描きなさいっておっしゃったの。お父さんの絵」
 毛布の下から聞こえてくる凛の声はたどたどしく、今までずっと言いだせなかった迷いが感じられた。言峰の話を聞きながら、ずっと絵を差しだす機会をうかがっていたのだろう。なかなか眠らずにいたのも、いつにもまして不機嫌だったのもこの企みのせいだったのだ。
「描いたらプレゼントしてあげなさいって。でも、父さんはいないから」
 言峰は手を伸ばして毛布をめくる。驚いている風にも怒っている風にも見える凛の表情があった。もともと血色のいい頬がさらに赤く染まり、恥ずかしいのか目をあわせようとしない。枕の上で髪が複雑な模様を描いており、直前まで迷っていた痕跡が残っている。
「別に、特別な人ってわけじゃないんだからね。わたしが渡せる人って、綺礼しかいなかっただけよ」
 沈黙すれば負けるとでも思ったのか怒った口調で凛がたたみかけてきた。いったんとぎれるとつづく言葉が出てこないらしく唇をかみしめる。一瞬だけこちらに目をあわせてますます頬を染め、
「……いままで、ずっと言えなかったから」
 つぶやくように言うと凛は言峰の手から毛布を奪って背中を向けてしまった。
「いつもありがとう、綺礼」
 やっと聞こえるほどの声は、ひどく真摯だった。
 凛の頭に触れる。弾力のある感触はいつもより熱を帯びているように感じた。
「こちらこそ」
 眠りに入るための首をすくめる凛の動作は、照れを隠すためだろう。
 見えないとわかっていながら、絵に描かれたのとおなじ微笑みをつくろうとしてみたが、きっとおかしなことになっているのだろうと思う。
 画用紙のざらついた手ざわりが心にかすかなひっかかりを残していく。父親が娘に抱く感情というのは、もしかしたらこういう形容しがたい感触なのかもしれない。 
 時間が経つにつれて深まる静けさが身に染みいってくる。手もとに浮かびあがる明かりが夜にやわらかくにじんでいる。
 凛が寝息をたてはじめても言峰は椅子に腰かけたまま、絵に描かれた自分と向きあっていた。