Hallelujah
 腰を下ろしたとたん、感じたことのない疲れに襲われた。肉体的というよりは、精神的な疲弊という感じだ。鉛のような重さが神経にはりついている。
 眺めに飽きた目がちがう色合いを求めて空に向く。そこにあったのは葉を落とした針葉樹の先端と、どこまでも白く重くたちこめる冬の色だった。あまりにも低いために雲か靄かわからない。
 動きをとめたせいで、地から寒さが這いのぼってくる。痛みをともなう寒気には麻痺してしまいそうだ。
 バゼットは目を戻した。すこし離れた場所では言峰が薪に火をつけ、ブリキの容器を枝の切れ端にくくりつけている。慣れた手つき、いくどなくくりかえされながらも決して飽きない眺めだった。
 言峰がこちらを向き、
「寒いか」
「大丈夫です」
 ひどく寒くはあったが、これくらい耐えられなければ駄目だという思いが勝った。痛みは冷えこみのせいだけではない。あと一歩のところで獲物を逃がしたという悔いがいまだ拭いきれず、心のひっかかりとなって残っている。
 敵の残していった幻覚にまんまとだまされた。いつか読んだ童話に出てくる兄弟のようだ。おなじ道を延々とめぐり、どこにもたどりつけず焦りばかりが膨んでゆき、体力と命が鮮明に削られていったのを覚えている。
 追跡をうちきる判断を下したのは言峰だ。まだ動けると信じこんでいたバゼットは反対したが、足もとのおぼつかなさを言峰に見抜かれていた。こうして座り、疲れを自覚してみてはじめて言峰の正しさを痛感する。気力だけで体力をおぎなえるほど自分は成熟しておらず、そしてあの場面では無理に追う必要もなかったのだ。
 あんな簡単な罠におちいるなど恥ずかしいにもほどがあると思う。普通の人間ならまだしも、自分は特別な能力を持ち、特殊な地位につく人間だというのに。奪われたのは瞬きていどの時間でしかないが、それにともなう悔いと恥は深く、疲労と結びついて身体のだるさと思考の堂々めぐりとなっている。
 火が大きくなり、暖かさが肌にしみこんでくる。腕をあげ、手をあたためるのがやっとだった。
 言峰が容器を薪にかざす。外套にうつりこんだ火がなめらかな光沢となって揺れている。
 疲れていてもバゼットの目は言峰の動きを追ってしまう。動作には無駄がなく、的確かつ自然な流れを描く。おなじ行程を来て、おなじ罠にはまったのに、言峰に疲労は見受けられない。かわりにあるのは見慣れた表情だ。薪の前に立ち、火を眺めるときの言峰は、懐古とも恍惚とも受けとれる不思議な顔つきをする。
 あたりが暗くなりはじめ、白い眺めがだんだんと夜に呑まれていく。前方に火があるぶん、迫ってくる闇に背中が震えるようだ。
 けっきょく今日も帰れず、こうして夜を明かすことになった。そして、自分の愚かしさ、浅ましさにも気づいている。帰らずにいれば、それだけ言峰と一緒にいられる時間が長くなる。仕事と天秤にかけられる問題ではないが、内にひそむ喜びは認めなければならなかった。
 バゼットは指を折って数えてみる。この国に来たのが一週間前。森に入ったのが三日前。街で見かけた電光掲示板はたしか十二月二十一日を示していた。
「―――クリスマス」
 バゼットはもたれていた背を離してしまう。森に入ったときは手短に済む用件だと思っていたから、その記憶と結びつけられなかった。
 そういえば、街にたちならぶ店には色とりどりの装飾が施され、道ゆく人も照明を受けてどこか輝いて見えた。途切れることのない人通りと笑顔の列、ざわめきと笑い声は河の流れのようにバゼットのそばを通り過ぎていった。さまざまな色彩に重なる、さまざまな表情。しかしどんなイルミネーションも心を照らさず、どんな歌も心に響かず、そんな自分に一抹のわびしさと疎外を感じたのを思い出す。
「そんな時期だな」
 言峰は火の具合を確かめつづけている。
「ご自分の教会は……」
「今ごろ、代理の者がなんとかしてくれているだろうよ」
 そう言って言峰は意味ありげに笑ってみせ、
「あとで恨み言のひとつふたつ聞いてやればいいだけだ」
「貴方でなければ駄目なのでは……」
「私とて一介の神父に過ぎん。教会にとっては歯車の一部だ。私の代替などいくらでもいるし、そうでなければ健全な組織とは云えんよ」
 いつでも言峰は強く正しいのだとバゼットは思う。人とちがえども言峰の歪みはときに偽善を超えて物事の核心をつく。こうして過ごすうちに、言峰の呼吸ともいうべき距離をバゼットは理解しはじめていた。言峰はいつでも容赦なく、そして真剣に接してくる。その言動ひとつひとつがバゼットを崩し、同時に満たしてくれる。いつのまにか自分はより強い束縛を望むようになり、言峰の意思を身体に宿し、心を支えることに意義を見いだしていた。
 顔が熱い。自分の内から生まれた熱なのに、それを認めたがらない心が炎のせいだと勝手に思いこんでいる。
 言峰がアルミニウム缶を取り、中身を湯に放りこんでいる。熱した蒸気の感触に、コーヒーの匂いがたちこめていく。記憶にあたらしく懐かしい香りはバゼットの中で安息の代名詞となっていた。
 言峰の強さはどこから来るのだろう。腕の動作ひとつをとってみても力と自信が息づいている。つむがれる言葉と思想には深い根源が感じられ、迷いなど微塵も悟らせない。言峰と自分は似たような境遇に置かれているはずだが、心構えはまるで正反対だ。組織の中でもおのれを確立している言峰と、組織に依存することでしかおのれを見いだせない自分。
「それに仕事といっても、たいしたことをするわけではない。樅に簡単な飾りつけをして、ミサを開く。クリスマスといっても私の国では祭りと同意義だから、騒がしいだけだ」
 そう言いながら、言峰は悪く思ってもいないようだ。傷だらけのカップをふたつ持ち、中身を器用にとりわけている。
「飲むか……褒められるぐらいの不味さだがな」
 言峰が手渡してくれたカップを、頷きながらバゼットは受けとる。包みこむように持ってみたが、冷えきった両手は熱を熱ととらえられず刺すような感触だけがあった。言峰の言うような味が知れず、自分の舌がおかしいせいなのか、それとも感覚がどうにかなっているせいなのかもわからない。それでもあたたかい感触が身体に染みこみ、緊張に尖っていた神経をなだめ、鈍っていた頭を目覚めさせてくれた。
「怪我をしたか」
 言われてはじめて、頬がひりついているのに気づいた。感覚が戻るにつれ痛みが大きくなっていき、蒸気が傷に染みはじめる。不意をつかれて焼き殺されそうになったのを思い出した。負傷を忘れていたのは自分の失態を葬りたいがためだろう。
「このくらい、なんでもありません」
「そうもいくまい。感染症に罹るぞ」
 言峰の手が伸びてきて、顔に触れる寸前で止まる。過敏になった肌が言峰の体温を感じとってしまう。狼狽して身体がかたくなる自分はまったく子供のようだ。慣れたつもりでも、一向におさまる気配のない鼓動を言峰に知られてしまいそうだった。
 見知った顔が目の前にある。傷の具合をたしかめてくる視線は冷静で素早い。禁欲を課しながらも欲望を追う瞳が、自分だけをうつしている。いつのまにか、その深い漆黒から目が離せなくなっていた。
 言峰の治療は痛みをともなう。覚悟したとたん、傷の内部に強い鈍痛がやってきた。神経に直接針を刺され、抉られるかのよう。だがその痛みもすぐひいていき、反動に安堵しているうちに細胞のひとつひとつが修復され、崩れた組織が再生され、もとの配置におさまっていく。
「終わりだ」
 頬に触れると、いつもどおりのなめらかな肌がある。もとに戻ったことより、言峰の手が加えられたことが嬉しく思えた。
 礼を言うと手をひろげて応えてくれる。言峰が腰を下ろすと外套の裾がひるがえり、濃い影が地面を舐める。
「おまえの故郷はどうだ……クリスマスだからといって派手に祝うほうではなさそうだが」
 そう言いながら言峰はコーヒーを飲み下し、
「いつも以上に酷いな、これは」
 微笑が浮かぶのを感じてから、傷だけでなく気分も回復しているのをバゼットは知る。おそらく言峰のおかげだろう。言峰自身は否定するだろうが、その存在、言葉と振舞いがバゼットのよりどころであり、物事を解決する糸口でもあった。現にいま、話題を持ちかけられたというだけで、こんなにも鼓動がはやくなっている。
「街はにぎやかです。いつも休みの店も、この月ばかりは開いていますし」
 空港の雑踏を思いかえす。この地のしきたりなのだろうか、樅の木にはクッキーがぶらさがり、一様に困ったような笑顔を見せていた。建物のあらゆるところを渡る横断幕に書かれた単語は望みや願い、そして来たるべき新年への祝辞。故郷も似たようなものだ。人々は静かに平和を願い、あるいは望みを託し、贈り物と笑顔を交わして信頼と幸福を誓いあう。
「家はわりと静かで……飾りつけもしますが、すこしだけです。私の家だけかもしれませんが……」
 バゼットはいちど言葉を切り、言峰を見る。ときおりカップに口をつけながら、その目は火をうつしつづけている。話を聞いてくれているのだと思った。
「幼い頃は人がなぜそういうことをするのか、私には理解できなかった。無駄にすら思えたものです。出来上がったツリーを見ても、もちろん街に出ても別に何も感じませんでした」
 バゼットは自分の手に視線を落とす。乾いてかさついた指が、把手を握りしめている。
「最近になってようやく、そういったものに感情を持てるようになった気がします。それでも、なぜか悲しさしか湧かなくて……人も私とおなじ風景を見ているはずなのに。皆が喜んだり、楽しそうに笑っているのがわからない」
 薪が崩れ、火の粉が舞いあがる。優しくそれでいて強烈な炎が言峰を照らしあげ、表情の真摯さを強めている。
 バゼットは丸めていた背を伸ばす。背後から吹きつけてくる風の寒さが心地よくなりはじめていた。樹木の乾いたざわめきが押し寄せては去っていく。その合間を縫う椋鳥の声が鋭く夜のはじまりを告げる。気がつけば眺めは完全に暗く、自分たちの周囲だけが赤く浮かびあがっている。
 いつもの感覚、この世にふたりだけしかいないという錯覚だ。身体の奥にひそむ熱が、火に照らされてくすぶっている。
 言峰がこちらを向く。目が狭められ、うつりこんでいた炎が潰れる。
「それは、おまえが成長した証拠だろう」
「え……」
 いつものように辛辣に切りこまれると信じて疑わなかったバゼットにとって、それはまったく予想していなかった言葉だった。
 言峰の十字架が火を受けて光を持っている。樅の木に施されていた装飾にも似た、そぎおとされた豪奢でつくられた形だ。言峰にとっては受難と信仰の象徴であり、バゼットにとっては安らぎと羨望のそれ。
「悲しみや寂しさは、喜びと表裏一体だ。どちらかが欠けても成り立たん。寂しさが深ければ深いほど、同じくらいの深い喜びを手に入れている」
「喜びを……」
 炎が揺れ、熱の波が肌を伝っていく。火をかすめて見える言峰の目に、心が焦がされるようだ。
「人は嬉しさを知っているからこそ、悲しみに暮れる。悲痛に涙すれば、歓喜にも涙を流すのが人間だ。おまえが悲しさを知ったというのは、どこかで大いなる喜びを知ったということだよ」
「でも」
「ただ単に気づいていないだけだ。おまえは気づくのが遅いか、認めたがらないかのどちらかだからな。人生とは楽しいものだ―――せっかく手に入れたものを謳歌しないのは損だぞ」
 言峰の口端があがり、笑顔になる寸前で止まる。バゼットは必死に自分の中をめぐってみたが、言峰のいうような感情は見当たらなかった。そもそも、涙するような歓喜などいちども味わったことはない。バゼットにとって世界はいつも重く、灰色で、平坦かつ頂上のないのぼり道だった。
 街の華やかさを思い出す。なぜ自分は寂しく感じたのだろうか。光の洪水、目に染みるような照明と明るい旋律をつらねる音楽はどうして、他人とおなじような感情を分け与えてくれなかったのだろうか。
 火を眺める。強烈ながらもやわらかい熱が身体に忍びこんでくる。風は熱にかたむきがちな考えを冷ましてくれ、暗闇は自分と言峰だけの世界を作ってくれる。それが不思議だった。こんな荒れ地など、ふだんなら目も向けずに通りすぎているはずだ。なのに今はひどく美しい。景色のひとつひとつが優しく輝き、意味を持って接してくるように思える。 
「不器用な女だ。目をひらく場所すら間違える」
 言峰が瞳を閉じる。それが話題を終わらせるときの癖だとバゼットは知っていた。これから夜が明けるまでは交代で仮眠をとり、警戒に出る。もし敵を捕らえることができれば、こうして向きあって言葉を交わすのは今日で最後になるのかもしれない。
 胸が痛む。そんなはずもないのに、肺に穴が開いたようだ。空虚な隙間から自分の持つ感情や感覚が流れでてしまい、後に残されるのは操り人形のごとく人の指示を無感動にこなしていく自分―――
 薪が崩れ、その音が心に弾ける。
 バゼットにとって、理解はいつも突然にやってくる。
 四肢の末端から寒気が這いあがり、鼓動とともにひとつの答えを連れてくる。自分の鈍感さには落胆を通りこしてあきれてしまう。街の中でも罠の中でも、自分は無意識に言峰を探し、追い求めていたではないか。自分は街の華やかな眺めに対して悲しさを覚えていたのではなく、言峰が傍にいないことが悲しかっただけだ。
 だから今という時間に安堵でき、同時に高揚を覚えているのだろう。実感が震えとなって寒気を追いかけてくる。言峰さえいてくれれば、この暗闇とわずかな火でも、自分にとってかけがえのないものになる。
 これが自分にとって、そして自分だけの歓喜だった。深く静かで、決して手放したくないぬくもりと存在。今までひとりで生きるしかできなかった自分が、ようやくあるべき場所にたどりついた気がする。
 バゼットは言峰を見つめる。瞬きを忘れていた目に、夜が染みる。
 黒衣の下に力を覆い隠した姿が、手を伸ばせば届く位置にいる。言峰も知り、乗り越えてきたはずだ。自分などおよびもしない感情の渦をくぐりぬけ、誰にも理解されない深く暗い道をたったひとりで歩いてきたはずだ。歩めば歩むほどに希望は遠ざかり、理解しようとすれば理解するほどに自己はわからなくなっていく。
 そして言峰がたどりついたのは、力と知によって支えられた、誰にも立ち入れない暗闇。歪みを自認し、苦痛を司り、死を謳う。誰しもを迎えるために広げられた腕はすべてを拒絶し、真実を知る手は孤高しかつかめない。
 言峰の味わった苦痛は、自分のそれとは比べものにならないだろう。未知なる恐れを抱きながらもバゼットはその孤独を知りたいと思った。知ることによって言峰の孤独を、ひとりきりの闇をすこしでも和らげることができ、互いが歩んできた寒く長い道のりを理解しあって共に進んでいくことができればと。
 言峰が外套についた汚れを払い落とす。
「先に見回ってこよう。少し眠っておけ」
 自分がと言いかけて、バゼットは言峰に動きをとめられた。そのまま言峰の手が頬に触れ、あたらしく激しい熱が呼びさまされる。
 目眩を感じ、漆黒に火が途切れ、唇が重ねられる。
 言峰のぬくもりに溺れていく。薪が燃える音を鼓動が追う。言峰の胸に手をあずけると慣れた暖かさにたどりついた。高まりと安らぎに支配されている。言峰の不可思議な力と感触は、厳しいながらも甘く自分をみちびいてくれる。
 外套をつかむ指に力をこめる。離したくなかった。そして離したくないと思ってほしかった。
 頬にくちづけられ、睫の感触に震える。
「―――メリークリスマス、バゼット」
 言峰がたちあがって去ってしまっても、余韻に痺れていた。
 言峰の体温を逃すまいとする思惑が、両の腕で身体を抱く仕草になる。火はあたたかく燃えあがり、言峰がそうしてくれたように、バゼットを寒さから守ってくれる。
 言峰の気配がなくなっても寂しさはなかった。戻ってきてくれるのがわかっていれば、ひとりで待ちつづけるのも楽しさとなり得る。
 世界にとって今日が特別な日であるように、自分にとって言峰は特別だ。理と情を知りつくし、悲しみも喜びに変えてくれる、ただひとりの人間だ。
 今日という日も、これからもずっと。

 目を閉じ、手に入れた宝物に、喜びに浸る。
 言峰から贈られた言葉を胸の内でくりかえす。
「メリークリスマス、綺礼―――」
 


 終 



作品集へ戻る