「夜明けに至り」収録「いじわる」より冒頭抜粋
 朝方の散歩につきあうことになった。
 バゼットは時々目をこすりながら波打ち際に沿って歩いている。まだ完全に目が覚めていない。身体もまだ眠っているようで、足を動かしている動作はどこか遠く、他人行儀のようだ。一歩を踏みだすたびに砂が素足につき、夜のつめたい余韻を纏いつかせては押し寄せる波に洗われていく。
 バゼットの前には言峰がいる。おぼつかないバゼットの足取りにあわせ、ひどくゆっくりと足を進めている。たまに立ち止まっては沖に目をやり、ようやく白みはじめた空を眺めている。そのたびにバゼットもおなじように足を止めて海を見る。暗闇から黎明へ、そして朝日の兆しへとうつりかわっていく空の色。朝の軌跡が水平線からにじみ、こちらへと迫ってくる。
 バゼットは頭を振って眠気を追い払おうとするが、どうもうまくいかない。まっすぐ立っているつもりでも、視界が左右に揺れているような気がする。目を覚まそうとやみくもに両手で瞼をこすっているうち、言峰の凝視に気づいた。
「無理にとは言わんが」
 やってきた潮風のせいかこちらを見とがめたのか、言峰が目を細め、
「眠いのなら戻って寝ていればいい」
 外に行くと言った言峰についてきたのは自分自身だから何も言えず、バゼットは黙って首を振った。ほとんど寝ているところに声をかけられ、とるものもとりあえずベッドから抜け出してきたのだ。起き抜けのまま出てきた自分は端から見たらずいぶんと酷い格好をしているのだろう。自分ではわからないが、髪も乱れ放題なはずだ。
「無理に付いてきたところで何の得もないぞ」
 微かな笑みは、事実を告げるというよりもバゼットの努力を無に帰して愉しんでいるように見える。
「意地悪」
 自分でも理屈のない我侭だと思うが、口にせずにはいられなかった。
「何か言ったか」
「なんでもありません」
 立ち止まった足をくりかえし波が洗い、周囲の砂を削り取っていく。ぼんやりとした意識にも、身体が沈みこんでいく錯覚があった。昔は、足もとが否応なしに崩れていく波打ち際の感触が好きではなかった。自分の置かれた不安定な状況、どうあがいてもうまく振舞えない自分の至らなさを身体にまで思い知らされる気がしたからだ。
 逃げようと足を踏み出したとたんによろめいてしまう。均衡を失って宙に浮いた腕が言峰の手につかまれ、強く引っぱられる。痛みを覚えるほどの力が、崩れかけていた身体を元に戻してくれた。
「世話の焼ける奴だ」
 言峰は顔を戻し、バゼットの手を引いたまま歩き出す。バゼットは言峰に気づかれないよう、そっと頬をゆるめた。言峰にとっては些細なことでしかない出来事も、バゼットにとってはこの上ない救いになる。今も、足もとを見失う不安からバゼットを助け出し、支えてくれた。
 いつのまにか周囲が明るくなりはじめ、歩いている砂浜にも陽光が差しこんできていた。手をつないだ自分たちの影が白く輝く砂に長々と伸びている。朝の兆しがやさしく身体を包み、素足にからみつく。自分の意識がはっきりしてきたせいか、先を行く言峰のシャツを走る皺が濃く見えはじめた。
 砂浜に残された言峰の足跡を踏むと、あたらしい形となって波に洗われていく。その様子が面白く、しばらくバゼットは言峰の足跡を追いつづけた。指先が波につくたびに、音をあげながら水が跳ね返り、暁光を散らす。
 前を向いたままの言峰がわざとらしく歩を遅らせる。見あげると、見慣れた黒髪が風を受けて朝に揺らいでいた。
「残念だが、意地が悪いのも性格が悪いのも生まれつきだ。諦めろ」
「聞こえているではないですか」
「だから性格も悪いと言っただろう」
 言峰が微かに笑いを洩らし、
「さらには性質も悪い。人の悲運を歓び、傷を好み、瑕疵を嗜む。信頼など反吐しか出ん」
 みずからの言葉を吟味するかのように一瞬黙りこむ。そしてわずかに振りかえり、
「自分で言っておいて思うが、最悪だな」
「最悪です」
 まぶしさのせいで見えないが、言峰がいつもの陰鬱な笑みを浮かべているのがバゼットには解る。


続 

戻る