殺戮遊戯
6
教会の敷地を出て、坂道にさしかかったときに、衛宮は思わず足をとめていた。
眺めは業火に包まれていた。眼下に広がる住宅街は広い範囲が燃えており、ここからでも吹き出る炎が見える。空は赤く染まり、ありえない明るさに舐めつくされている。あまりの熱に景色が揺れてみえるようだ。
「なんてことを……」
走り出した。街に近づくにつれ、空気じたいが熱をおびてくるのがわかる。冬だというのに身を切る寒さはなく、かわりに熱気と炎ばかりがある。
言峰がかざした火を思い出してしまう。あの時と同じように、言峰は自分を、理想が生む矛盾で灼こうとしている。こちらが理屈の奥にしまいこんでいた傷とひずみに言峰は切りこんできて、甚大な被害に曝してみせた。
最小限の犠牲で済ませるなどお笑い草だ。自分はひとりよがりな正義を冠したくて、他人をないがしろにしていただけではないのか。最小限は誰にとっての基準だったのか。そして、それを決める権限が自分にあったのか。
結果が目前を灼きつくす、あの火だ。
このなかで人を助ければ、正義を貫けるかもしれない。だがそれは言峰の言うとおり、自分で用意した舞台でひとり酔うだけだ。そんなもののために、多くの命が失われ、歴史に残るような汚点がこの地に刻まれようとしている。
血の補充はまだ完全でなく、すぐに息があがる。肺が十分に機能してくれず、頭痛もしはじめていた。だが足は止められない。
首の傷口に触れてみると、ほぼふさがりかけている。セイバーには感謝しなければならないだろう。彼女の鞘のおかげで捨て身の行動がとれ、生きのびられた。
セイバーはまだこの地にいて、おそらく言峰のサーヴァントと戦っているだろう。早く行ってやらなければならない。聖杯に頼ったところで、彼女の願いは悲劇にしかならないのだから。
サイレンの音に頭が割れるようだ。だんだんと人だかりができはじめていて、それをかきわけながら進む。人々の話し声に混ざって、悲鳴と嗚咽が耳につきはじめた。横たわる怪我人は呆然と治療を受け、中には動かない人間もいる。寄り添ってうずくまる家族の目はこの場になく、毛布がかけられた担架に若い女性が泣きながら追いすがる。子供の名を呼ぶ母親、火の中にとびこみかけて抱きとめられる老人、ただ泣くだけしかできない子供たち。赤色灯が眺めをめぐり、熱に拍車をかける。
自分を制止させる声があがるが、気にとめてはいられない。消防車の隙間を縫い、火の街にとびこんでいく。
火につぐ火、炎につぐ炎。唸りのような音が、地の底から響いてくる。すでに家のほとんどは炎を吹きあげ、崩れ落ちていく建物もあった。大量の火の粉が死の群像に舞う。衛宮はコートの袖で口をおおった。こんな熱い空気を吸いこんだら気管が火傷してしまいそうだ。煙で視界はおぼつかず、足もとにも火が回っている。立ちどまれば、即座に炎の餌食になるだろう。
建物の二階から、火だるまになった人影があらわれるのが見えた。悲鳴が炎を裂き、まっすぐに落ちてくる。どうしようもできなかった。アスファルトに叩きつけられた影はひしゃげながらそれでも悲鳴をあげつづける。
顔を背け、衛宮は走りつづけた。
道端には黒く焦げた肉片がこびりつき、なおも火がくすぶっている。かつて平穏でしかなかった街は、一瞬にして地獄と化した。
何が正義だ。この凄惨さを前にしながら自分は何もできずにいる。破壊し、人を殺すことでしか、存在の意義を見いだせない。
「畜生ッ!」
空を見る。火の粉で飾られ、赤く染まる広がりのなか、生まれ落ちてくる新しい存在を感じはじめていた。感覚が即座に否定する。あれはこの世にはないもの、あってはならないものだ。
住宅街を抜けると予兆が見えた。不自然に開けた空間に、断続的にわきあがる光が見える。
駆け抜けて立ちどまり、わが目を疑った。
そこにいたのは、見たこともない姿だった。金色の髪、見事なまでに装飾された黄金の甲冑、そして何者にも支配されないであろう存在感。ただ立っているだけだというのに、常識を超越した力が知れる。あのサーヴァントを見ていると、周囲の火災ですら色あせてしまいそうだ。
セイバーがそのサーヴァントに向かって剣を掲げている。かなりの苦戦を強いられたのだろう、肩が上下している。それでもまっすぐな姿勢を保ち、騎士王としての威厳を失うまいと足を踏みこんでいるのがわかった。
「―――何の用だ、雑種」
黄金のサーヴァントは衛宮に目もくれずそう言った。
「マスター、下がっていてください」
セイバーの声はかすれており、限界が近づいているようだ。反して、あのセイバーをここまで追いつめながら、敵はなんら遜色のない顔を見せている。
衛宮は頭上を見やった。先刻感じた禍々しさがある。口をあけ、泥のような滴りをこぼしはじめている。勝利を奪う者を求めて、飽食の触手を伸ばしている。
追い求めてきた目的を見ても、虚脱しかなかった。あの色、あの泥、あの禍々しさ。目にしただけで、あれが逸脱し、間違ってしまったものだと判る。
自分は、自分たちは、なにをやってきたのだろう。あんなもののために命を削りあい、人生を変えてしまうなど。
信じていた。この手が生んだ犠牲がいつか報われる日が来ると、誰しもが平穏に暮らせる世界を聖杯なら実現してくれると信じていた。
衛宮はセイバーに向かって足を進める。
セイバーが振りむき、その目が驚愕に凍りつく。
「最後の命令だ、セイバー」
セイバーの手に触れ、残りひとつの令呪を見せた。
「―――聖杯を壊せ」
その時のセイバーの顔を、自分は一生忘れないだろうと思う。驚愕が恐怖にうつりかわり、少女に似つかわしくない疑問になる。なぜ、と問いかけられているのがわかった。衛宮は首を横に振り、令呪に力を込める。
「聖杯を壊すんだ、セイバー」
やさしく言い聞かせ、騎士王から離れていく。セイバーの身体が目に見えて震えている。課された運命にあがらおうとしているのがわかる。だがセイバーの構えはあがり、剣に光と風が集まりはじめ―――
「なにをしておる、雑種……!」
黄金のサーヴァントが怒号をあげ、背後から武具を引きずり出す。
「キリツグ。貴方を―――恨みます」
そしてセイバーが叫び、一斉に力が放たれた。
力は景色を裂きながら空に向かい、泥を包み、光に砕く。まぶしさで何も見えなくなった。衛宮は目を細めながらあとさじる。膨大なふたつの渦が相殺され、保ちきれなくなった均衡が空気を震撼させる。
光が弱まると、噴出した泥が地に落ちはじめた。眺めを満たし、あらゆる負の力をあふれさせてくる。泥に触れた地面が蒸気をあげ、何かの生き物のように対象を求めてうごめく。
黄金のサーヴァントに泥が降りかかったのを認めて、衛宮は踵をかえした。
鼓動には気づいていた。
それが不思議だった。自分の心臓は衛宮に撃ち抜かれ、機能を停止したはずだ。それなのにこうして心音が感じられ、脈に沿って血液が押し流されていくのがわかる。力強く存在を示し、いまいちどの動悸を伝えてくる。
そして自分の心に残る、たしかな感触がある。サーヴァントとのつながりを通して、汚れ、染まっていく心臓がわかる。
身体が痙攣する。いちどは断たれた伝達がふたたび手を結び、自分を修復しはじめる。停滞した血を流し、失われた酸素を染みいらせ、神経接合をつなぐ。足がかりはつかめた。あとは自分の力で傷を癒し、立ちあがればいい。
咳がこぼれ、肺から排出された血がせりあがってくる。顔をあげて吐き出すと地面が赤黒く染まる。そこで周囲の明るさを知った。手をつき、身体を持ちあげる。倒れたときに打ちつけたのか、顔の皮膚がひりつくように痛む。
上半身を起こすとまず空の明るさが目についた。火災は続き、先刻よりも大きく、広がっているようだ。煙に汚れながらも、その幕の向こうの空には朝焼けらしき色が透けて見える。
立ちあがり、手を傷に当てる。皮膚をふさぎ、腫れをおさめていくにつれ、自分がもとどおりになっていく。口の中にある血の味だけが死の余韻を残していた。
聖杯は必然の歯車を逆回転させ、生に噛みあわせた。汚染された心臓はその力をもって、この世に自分をさかのぼらせたのだ。等価交換はこの世界では常識だった。奪うものはまた、みずからをも奪われる。
知り得なかった理由が自分を生かした。望まれない存在でありつづけることを課した。その意味を、自分はこれからの生きざまで追うことになるのだろう。
外套についた汚れを払い、言峰は顔をあげる。
目指すは―――炎だ。
どこまで逃げていいのかわからないまま、衛宮は走りつづけている。
聖杯の行く末が気になったが、ふりむく余裕などない。なにしろこの火災をなんなく作りだしたぐらいだ。あの泥につかまったが最後、正気でいられないのは確かだろう。言峰のサーヴァントもこの世にとどまれはしまい。泥に呑まれる前にセイバーが消えてくれたのが、せめてもの救いだった。
セイバーはあるべき時代に戻った。彼女はおそらく、その生涯をかけて自分を憎みつづけるだろう。だが、ああするしかなかった。時間もなければセイバーを納得させられる理由もない。あの災厄が生まれ落ちることを考えたら、自分ひとりが恨まれるなど軽いものだ。
心臓はとうに限界を超え、足も思いどおりにならない。走りつづけ、つまづき、膝をついてしまう。唾を吐き、顔をあげると、ふたたびの地獄が見えた。
建物はいまだ焼けつづけていた。火は原型をとどめていない柱を煤にし、死んでしまった人々を灰にせんと燃えあがる。傾いた電柱から電線が垂れさがり、火花を散らしている。ひどい匂いが鼻をついた。ガスと化学素材が燃えた刺激のなかに混ざる肉の匂い。景色に根づいた火が、惨劇の残骸をも灼こうとしている。
空を仰いだ。ひらけてしまった空は、どこまでも赤い。
朝焼けがあった。
火と太陽の屈折が、衛宮の絶望を照らしだす。絶望したのは死せる風景にではない。この眺めに、ひとときでも見とれてしまった自分自身にだ。
心の中に形になりきれていない怒りがある。自分自身への怒り、言峰の言葉がすべて真実だったという怒りだ。自分は結局、何も成しえなかった。何も手に入れられず、犠牲をさらなる犠牲で上塗りしてしまった。理想はかなわず、自分の願いとともに灼きつくされた。
だが、ちがう。世界を見知ってきた経験と感覚が、思想の裡で叫びをあげている。言峰は間違っている。多くの不幸を願うなど、断じてあってはならないことだ。
妻の静かなたたずまいを思う。はしゃぎながら自分に抱きついてきた娘の顔を思い出す。あの平穏を守るために、自分は何でもしようと決めた。
誰を愛し、誰を憎み、そのために何をなすべきか。言峰は人間として備わるべき根源をどこかに置いてきてしまった。だから憎悪したのだろう。互いの敵は、互いの欠けでもあったのだ。
このような所業は許されない。自分は、結果がどうあろうと自分の信じる正義を選びつづける。理由も理屈もなく、ただ強い意志が鼓動を打っている。
今からでも遅くない。誰かを助けなければと考え、立ちあがりかけた。
空気を切る音が聞こえた。自分の近くで消えうせ、何があったのかと下を向く。
腹部から刃がはみ出ていた。痛みと痺れが背骨からやってきて、身体中の力を奪っていく。刃を抜こうと手を背中に回すが、うまく動いてくれない。
だが痛み以上に、神経を縛る意思が気力を削いでいく。意思はあらゆる邪の思惑であり、負の側面だった。憎悪や嫉妬、怒りに絶望。それらが衛宮を切り崩し、心を穿とうとしてくる。例えるならひどい鬱病のよう。すこしでも自分を失えばいやおうなしに死へとひきずりこまれる。
悪寒がした。脂汗が落ち、熱に震えてしまう。
やっとの思いで顔をあげ、ふりかえる。
そこには、予感はありながら予想できなかった神父の姿があった。