世界(ミセラニヌス)の遥か東には、“聖都”エルファゾンがあるのだそうだ。あの人が、そういっていた。そこは、八柱の大神たちから特別の祝福を受けた都で、美しき妖精(エルダトス)たちが人とともに暮らしているのだという。
「“世界の道”の出発点にして“霊魂ある者”の夢の始まりの地。恩寵厚き三体の霊獣に護られた聖なる都」
あの人の言葉は濁りがちで、わりに太く、聞きにくい粘りけがあったけれども、エルファゾンについて話すときには、日向(ひなた)で見る絹糸のような不思議な艶(つや)があった。そのせいだろうか、ぼくが思い浮かべるエルファゾンはいつも、たくさんの色彩で輝いていた。朝は湖が真っ赤に燃え、昼は白い陽光ですべてが透きとおり、日暮れの斜陽は雲を黄金色に染め、夜には町の石壁が銀の月に濡れる。星たちの呼び合う声は優しく、美しき妖精(エルダトス)たちの歌が止むことはない。暗がりという暗がりには伝説が息づき、食卓のスープ皿の中にまで魔法が満ちて、道ばたの石ころにさえも完全な美が宿る都。そこはきっと、この灰色のエンデルノウスとは、まるで違う世界なのだ。
ぼくは雪と泥にまみれた大通りを歩きながら、あの人の家を見た。「妖精の織物店」と小さな看板のある家だ。玄関の鎧戸はもう何日も閉ざされたままで、まるで人の温もりを感じなかった。見上げた窓の表面には雪がうっすらとこびりついていた。北風が吹き抜けていき、ぼくは体を震わせた。その家は、あの人の死の予感で冷えきっているようだった。
バーネ通りに立ち並ぶたくさんの家と同じように、その家も小さくて、すっかりくたびれていた。それでも、あの人が元気だったころには、その家には独特の匂いがあった。インクの匂い。本の匂い。魔法の匂い。そして、少しだけエルファゾンの匂い。もしかするとあの人は、そこを小さなエルファゾンにしたかったのかも知れない。二人の木妖精(メデルダ)と一緒に住んでいるのも、きっとそのためなのだ。
ニグはしきりに不思議がっていた。どうして美しい妖精(エルダトス)の姉妹が、あの人と一緒に暮らしているのだろうか、と。たしかに木妖精(メデルダ)の二人は、この町にはまるでふさわしくなかった。ニグの言葉を借りれば、醜鬼(トログ)の巣に迷い込んだ“蜜吸猫(ピピネ)”といったところだ。この町なんかよりは、麗しのエルファゾンの方がずっとお似合いだったのだ。それでもぼくは、二人はあの人に助けられたんだし一緒に暮らしていても不思議じゃないさ、といった。だが、このことに関しては、ニグはとても頑固だった。しまいには、二人はあの人の魔法で捕まっているに違いない、とまでいいだす始末だ。そういったときのニグは妙に興奮していて、それでいて生真面目で、どこか勇者カリドの銅像のように堂々としていた。人間の魔法で妖精(エルダトス)をどうにかできるだなんてことは、まるで馬鹿げた話しだったし、ニグが魔法使いから二人を助け出すと息巻くに至っては、ぼくはあきれるしかなかった。ただ、もしかするとニグは、姉妹のどちらかを好きだったのかも知れない。丘小人(ニキネ・マグ)と木妖精(メデルダ)の組み合わせはなんとも奇妙だが、背丈さえ気にしなければ、いつかは釣り合いがとれるだろう。なにせ向こうは、歳をとらないのだから。
「死は避けられる。あの娘らのようにな」
あの人は、美しき木妖精(メデルダ)の姉妹を見つめながら、そういったことがある。だけれどもまた別の日には、人は必ず死ぬともいっていた。なぜって、それが“変わりゆく魂(エンダラトス)”の定めだからと。いったい、どちらの言葉が本当なのだろうか。実際のところ、あの人は驚くほど長く生き続けているのかも知れなかった。ロイナじぃがいっていた。あの人は、ロイナじぃがまだ子どもの頃に町にやって来たのだけれども、そのときにはもうとっくにしわしわの年寄りだったと。それがあの人の魔法の力によるものかどうかは分からない。例えそうだったとしても、あの人はついに失敗したのだ。あの人はもう、長くない。だってあの人が倒れたのは、これでもう三度目だったから。
ぼくは、あの人を襲う麻痺(パラス)という言葉を口の中でそっとつぶやいてみた。心臓を凍らせ、人を死に至らしめる病。その言葉には“堕落した町”レニヨデムとか“血の商人”グラドというような、どこか恐ろしくて罪深い響きがあって、それは、ぼくをたっぷりと怖がらせた。なのにぼくは、その側にもっと寄っていって、それがどうやって人を殺すのかを見てみたい気がした。
ぼくが夕食で階下(した)に降りていくと、ロイナじぃが暖炉の側に座っていて、ギュノスの行商が置いていった嗅ぎ煙草の包みを広げていた。丘小人(ニキネ・マグ)たちが昔から愛用している煙草だ。あの小さな人たちをいつもはバカにしているロイナじぃも、彼らの嗅ぎ煙草のことだけは気に入っているようだ。おばが、ぼくの粥(かゆ)を杓子ですくっている間、煙草を鼻につめながら、ロイナじぃはじっとぼくを見つめていた。ぼくが不思議そうに見つめ返すと、ロイナじぃは片方の眉を大きく上げていった。
「お前のお友だちが亡くなったよ。お気の毒にな……」
「だれが?」
「オミニアさんさ。あの魔法使いの」
「そうなんだ」
ぼくはさして興味のないふりをしながら一心に粥を口に運んだ。
「お前は、なんだ、要するに、あの人に目をかけられていたからなあ。まあ、大の仲良しだった。色々なことを教えてもらったんだからな」
「“導く”メセリオンさま、あの人の御霊に御光りを」
おばはつつましく祈りを唱え、ロイナじぃは油断なくぼくを見つめていた。小さな黒い目がぼくを吟味しているのだとわかった。じいさんを満足させたくなくて、ぼくは皿から顔をあげなかった。ロイナじぃは暖炉にツバを吐いた。
「ただ、お前をあの人のもとに通わせたのは、どうだったのかなあ。ああいう人と、つまりは魔法使いと親しくさせるっていうのは……」
ロイナじぃはいった。小うるさい、バカなじいさんだ。じいさんが、あの人を好いていないのはわかっていた。だけれどもそれ以上に、じいさんはあの人を恐れていた。
「あら、どうして? なにがいけないの?」
おばがいった。
「いけないってことはないさ。ふむ、いや、むしろいけないのかも知れんな。もしかすると坊主には、はっきりと悪かったのかも知れん。だいたい、子どもたちは子どもたち同士で、そこらをかけずり回って遊んでりゃあいいのだ。昔から、子どもたちはそうやって育っていったんだ。その相手が小人(ニキネトス)の子だとしても、まあいいだろうさ。ただ、大人なんかと妙につきあうってなると、こいつは少しばかり考えものだ。特にそれが魔法使いが相手なんてもんなら、なおさら慎重になって当然なんだ。あの人の予言を聞いたことがあるだろう。不気味なものさ。“物忘れ”がなんとか、ってな。ただでさえ、子どもたちってものは周りの影響を受けやすいものなのに、ああいう人とつきあうとなると、その影響は計りしれん。いいや、もちろん、あの人がまったく悪い人だったという気はない。そんな気はないのだが、ただ、今になって思えば、やはりどうにも妙なところがあって、正直、薄気味悪いところがあった。そもそも魔法は、わしらにはひどく危険なものなんだ。下手をしりゃあ、近づく者の魂に魔族(ダイワモン)の爪痕(つめあと)を残しかねんほどにな」
「そう思っていらっしゃたなら、先にいってくださらないと」
おばが、不安そうにぼくの顔を見た。ぼくは口いっぱいに粥をつめた。そうしなければ、怒りの言葉が漏れだしてしまいそうだった。この、臆病者のバカじじぃめ。魔法と魔族(ダイワモン)に一体どんな関係があるというのか。そんなのは、つまらない迷信だというのに。そもそも文句なら、あの人が生きているうちにいえばいいのだ!
眠りについたのは夜も遅くなってからだった。じいさんの言葉を思い出すと不意に背筋が寒くなった。毛布に深く潜りこんで、暗闇から体を隠し、目前に迫っている“最冬(さふゆ)の祭り”のことを考えて気を紛らわせようとした。なんでも、今年のお祭りは過去にないくらい盛大なものになるらしい。噂ではギュノス候が家臣一団を引き連れて見物にやってくるともいうし、そのための目玉として剣闘が企画されていたから、それはきっと本当なのだろう。こうしている間にも、武勇を轟かさんとする名うての戦士たちと、その戦士たちの相手をする魔獣たちが、続々とこの町に集まってきているに違いないのだ。それにニグがいっていた。“大蛇(ヒュードスウ)殺し”のペドロが町の大門をくぐるのを見たと。きっとペドロも剣闘に出場する気なのだ。彼の戦いをこの目でみることができたなら、どんなに素晴らしいだろう。とはいえ、ロイナじぃがそれを許してはくれない。馬車の用が混みあうときだから、ぼくも御用聞きや馬の世話に一日中こき使われる。きっとそうなのだ。気が滅入ってきて、ぼくは何度もため息をついた。やがてうつらうつらしていると、あの人が永遠の命を得ようとして呼び出した魔族(ダイワモン)が、あの人の耳元で、麻痺(パラス)、麻痺(パラス)と唱えている声が聞こえてきた。あの人は、灰色の顔をして身動きひとつしなかった。そうしてその魔族(ダイワモン)は、蜘蛛の体とそこから生えた三つの頭をねじれた脚で運びながら、今度はぼくのほうへと迫ってきた。ぼくは必死で逃げた。月のぼんやりと照る夜道を、逃げながら大声で助けを呼んだ。妖精(エルダトス)の姉妹は、そんなぼくを微笑んで見つめるばかりだった。頼りのニグも、持ち前の身軽さでさっさと暗がりに飛び込んで隠れてしまった。ぼくはひとりぼっちで逃げ続けた。ただ一度だけ、足をもつれさせながら振り返ったときに、魔族(ダイワモン)の顔が三つとも、あの人の顔になっていたのを見た。
翌朝、馬小屋の掃除をし水と飼い葉を替えるとすぐに、ぼくはバーネ通りのあの人の家を見に行った。「妖精の織物店」の看板は、風にゆらゆらと揺れていた。この店で扱う織物類は姉妹が妖精(エルダトス)の古い技法で織ったものだった。もっともこの町では、紬蜘蛛(ネコニヒグスウ)の巣や青飛羊虫(ミレブリエニシ)という珍しい材料が手に入らないので、その出来はあまりよくないのだそうだ。普段であれば店の扉は開かれていて、薄暗い店内の様子を覗きみることができたのだが、ここ数日は鎧戸が閉められたままだった。ただ、今日はその鎧戸に、花で編まれた飾りがひっそりと提げられていた。白い花は雪割花(アウレムカ)だろう。“雪待つ”ササイアの愛した花。それが死を弔う花であることを、ぼくは知っていた。花は乾いた風に小さな頭を揺らしながら、しきりに叫んでいるようであった。
「死んだよ。あの魔術士は死んだよ。不吉な予言者、“世界の道”を踏破した冒険者、オミニア・ドリークは、やはり死んだのだよ」
叫び声とともに、ぼくの頭の中に、ひとつのイメージが湧いてきた。闇の奥から伸びてきた黒い鎖が、青い唄鳥(ピリヤ)を捕らえて、地に縛りつけたのだ。唄鳥(ピリヤ)は鳴いていた。青い羽根を散らし、必死にもがきながら、小さなクチバシで鳴いていた。
あの人は本当に死んだのだ。そう理解したとたん、ぼくの足はすくんでしまった。この家の中に、あの人はもういない。あの人のお気に入りだった、古い時代の彫り物のされた肘掛け椅子の上はがらんどうで、あの人がいつも着ていた青いローブも、その中身をなくしてぺしゃんこになってしまっているのだ。そうしてぼくは、あの人の小さな御守りのことを思いだした。あの人はいつも、小さなそれを握りしめ、その骨張った指でなでつけていた。御守りについてたずねても、あの人は左右に首を振るだけだった。その御守りは、あの人の手の中にないときには、机の引き出しにしまい込まれていた。決して触れてはいけないといわれていたし、もちろん魔術士の私物にむやみに手を出すほど、ぼくは愚かではなかった。あの御守りは、一体どうなってしまうのだろうか。ぼくは中に入って、そんなすべてを確認してみたかったが、扉を叩く勇気はなかった。もしかするとそれは、今朝見た夢のせいだったかもしれない。あの、バカじじいのせいだ。ぼくはもう一度、ロイナじぃを罵った。そうして、通りの陽の当たる側をゆっくりと歩き去りながら、通りすがりに、並ぶあばらやのたたずまいをぼんやりと見つめた。昨日までは気がつかなかったが、灰色の町のところどころに、明るい色がちらついていた。家々の窓から、普段は見ない奇麗な色の布が提げられたりしている。祭りのための飾りつけであったが、それがなんとも奇妙に思えた。この町も、今日という日も、まるであの人の死を理解していないようで、ぼくは苛立った。
ロイナじいがいったように、あの人はぼくにたくさんのことを教えてくれた。あの人は、“世界の道”の遥か東、“呪われし旧都”ファ・ニアムスンの向こうにあるというエルファゾンへ、行って戻ってくることができた。そしてあの人は、エルファゾンの地で“古の妖精(フェルダ)”から魔法を学び、その探求に生涯を費やしたのだ。ぼくにはルーンの読み方を教えてくれた。エルファゾンを護る霊獣や、かつての鬼族(ディオニトス)と人間族との世界(ミセラニヌス)の命運をかけた“大戦”の話をしてくれた。ぼくが一番好きだった話は、あの人が勇敢な仲間たちと連れだって、恐ろしい“悪鬼”ライオグルから二人の妖精(エルダトス)の娘を救い出した話だ。その二人の木妖精(メデルダ)、ニーナとアベンナが、今は彼と一緒に暮らしている。だけれども彼は、胸躍る冒険潭よりも、ぼくに難しい質問をして悦に入ることの方を好んでいた。たとえば、しかじかの夢の意味はどういうことなのかとか、これこれの魔法にはいかなる大神の助力が必要なのかとか、あるいは過去に起きた出来事をとらえて、なぜそのようなことが起きたのかと問うのだった。あの人の質問のおかげで、それまでずっと単純極まりないと思っていた世界の仕組みが、本当はすごく複雑で神秘的であることがわかった。すると、大神や星霊(ダイモン)や、森や湖や、あるいはぼくやニグといったこの世にあるありとあらゆるものの、その存在の意味が、とても重要なことに思えてきた。そうして、その意味を解き明かす最後の手段が、魔法であった。だから、あの人がぼくに、こういう込み入った難問題をことごとく解明するために、古(いにしえ)の魔術士たちは、両手で抱えるのがやっとなほどの厚皮を何枚も束ねて、その表面に小さな文字をぎっしりと書き詰めた本を残しており、エルファゾンの図書館にはそんな本が山のように積まれているのだと教えてくれたときにも、べつに驚きはしなかった。魔術士の果たす役割というものが、ぼくにはずっと大切なことと思えてきた。そうして同時に、あの人の、魔術士として生きることを選択した勇気が、なにか途方もないことのように思われた。
「世界には“忘却の呪い”が迫っている。魔法は忘れ去られる。あらゆる真実は闇に覆われる。このことに気がついている魔術士は少ないが、まさにその時に対抗するために、魔術士はあらゆる研究を続けなければならない」
あの人は、自分の仕事について尋ねられると、必ずそう答えた。それは不吉な予言だと思われていた。ぼくもその言葉に怯えた。すると、あの人はきまってにっこり笑って、二、三度うなずいたものだ。ときには、ぼくに前もって暗記させた呪文の応唱をさせることがあり、ぼくが早口で唱えると、あの人は物思わしげに微笑んでうなずいた。あの人は微笑むと、黄色く変色した歯をむき出しにし、舌を下唇の上にのせたものだった。この癖は、知り合って間もなく、まだ彼をよく知らないうちは、ぼくを不安な気持ちにさせた。ニグなどは、その仕草を見た途端に、悲鳴をあげながら逃げ出したほどだ。
夕方、おばはぼくを連れて、あの人の家を訪ねた。もう日は沈みかけていて、雪雲に覆われた空はどんよりと黒ずんでいた。鎧戸は開けられていて、ニーナは玄関でぼくたち迎えた。おばよりもずっと年寄りのはずのニーナは、なのに若々しくて、その顔にはシワひとつないのだった。おばはうつむきながら、ニーナと握手を交わした。ぼくはこの美しき木妖精(メデルダ)の姉妹を前にすると、いつも落ち着かない気がした。真っ直ぐに見つめたり、触れたり、その声を聞いたりすることが、なんだかとても罰当たりなことに思えたのだ。もしかするとそれは、おばも同じ思いだったのかも知れない。大神に愛された一族。強い魔法を身に帯びた一族。年老いることも、死ぬこともない一族だ。あの老魔術士が生涯をかけて望んだすべてを、この姉妹は生まれながらにして手にしていた。あの人が読んでくれた本の中に、妖精(エルダトス)と出会うことは、月光の幻と出会うようなことだというくだりがあった。姉妹の神とも見まごう美しさを前にすると、その言葉も自然とうなずけるものだ。でも、妖精(エルダトス)にしてみればどうなのだろうか。彼らにしてみれば、人間(エンダラトス)の一生はあまりにも早すぎて、そちらの方がまるで幻のようなものではないだろうか。
ニーナはごらんになりますかと問いかけるように、上を指し、おばがうなずくと、先に立って狭い階段を上がっていった。妖精(エルダトス)の歩く姿は、まるで重さを感じなくて、ふわふわと飛んでいるかのようであった。同じ階段を、おばは頭を低くして、荒い息をつきながら上がっていった。二階の最初の部屋の前でニーナは立ち止まり、ぼくたちを差し招き、死者の部屋の開かれた扉の方へどうぞというようにうながした。おばが中に入ったあと、ニーナはぼくが入るのをためらっているのを見て、そっとぼくの手をとった。その手はあまりにも冷たくて、ぼくは慌てて手を引いた。
ぼくは忍び足で入っていた。あの人の部屋の窓は閉めきられていて、机の上の青白いロウソクの光があるだけの暗がりであった。机の前に置かれていたあの人の肘掛け椅子はなくなっていた。ベットの上には棺(ひつぎ)があって、あの人はそこに横たわっていた。ニーナが先導し、ぼくたちはベットの足下にひざまずいた。ぼくは祈るふりをしたけれど、祈りの言葉をまとめられなかった。ニーナの呟きがぼくの気を散らしたからだ。それは音楽のように響いて、この場に似つかわしくないように思えた。すっと立つニーナの姿を忍び見た。白い肌の向こうに青い血の流れが透けて見えた。蜂蜜色の髪は小川のように首筋で遊び、深い青色の瞳は暗がりのなかでも輝いて見えた。全身が生命で満ちていた。なのに、その手はとてつもなく冷たかった。死んだ魔術士の萎(しな)びた手と、いったいどちらが冷たいのだろうか。するとぼくの頭に、とっぴもない考えが浮かんだ。もしかすると、この魔術士は棺の中で横たわりながら生きていて、この途方もない冗談の成り行きに耳を澄ませては、必死に笑い声をこらえているのではないかと。
だが違っていた。ぼくが立ち上がってベットの枕元に行ってみると、あの人は微笑んでなどいなかった。そこに横たわるあの人の顔は、とても厳(おごそ)かでどう猛で、灰色で大きく、鼻の孔が暗い洞穴のようで、まばらな白い髭が顔のまわりに生えていた。部屋には重苦しい匂いがたちこめていた。雪割花(アウレムカ)の匂いだ。
おばたちは胸の前で指を振り、“天父”エウロパのルーンを一字描くと、その場を離れようとした。ぼくは少しだけ、そこに残りたいといった。おばは怪訝な顔をしたが、ニーナがお好きなだけ、といってくれた。二人が出ていくときに空気が揺れて、ロウソクの炎が揺れた。影が、あの人の顔の上を走り抜けた。あの人の胸の上で組まれた手にはなにも握られていなかった。あの人の御守りは、机の中に忘れ去られたままなのだろうか。ぼくはそう思うよりもはやく、机の引き出しに手をかけていた。引き出しは軽く、なんの抵抗もなく開いた。手あかのついた魔術書と、眼鏡と、鳥をかたどった骨の細工物が入っていた。御守りは一番手前に置かれていた。ぼくはそれを手に取った。青い布地でできたそれは、巾着のようになっていて、なかに硬い感触があった。すると、突然にロウソクが激しく燃え上がって、ぼくは思わず悲鳴をあげた。ぼくはあの人の顔を見た。頬はすっかりとこけ、頭ばかりがやけに大きく感じた。そのとき、部屋の隅の暗がりで、なにかが蠢(うごめ)くのを感じた。闇の向こうからじっとぼくを見つめる視線。夢に出た魔族(ダイワモン)の姿が脳裏に浮かんで、ぼくは御守りを手にしたまま、その部屋を逃げ出した。そんなすべてが、ぼくの生んだ幻だと分かってはいても、恐ろしいことにかわりはなかった。
階下の小さな部屋に入ってみると、アベンナがあの人の肘掛け椅子に正装して腰掛けていた。騒々しく降りてきたぼくに、おばが困ったような視線をよこした。ぼくは御守りをポケットに押し込み、目立たぬように部屋の隅っこの椅子に座った。暖炉の明かりが、ぼくを少しだけ落ち着いた気持ちにさせてくれた。そうしてみれば、あの人の椅子に姉妹の一人が座っていることを、なんだか奇妙だと思った。ニーナはテーブルに果実酒といくつかのマグを並べていた。それから、水で割ったワインを小さなグラスに注ぎ、ぼくたちに手渡してくれた。ぼくには焼き菓子もどうかと勧めてくれたが断った。砂糖のまぶされたそれはとても魅力的だったけれども、今はとてものどを通らないと思った。かわりにグラスのワインを一気に飲んだ。ニーナはそっと長椅子へ行って、姉の後ろに腰をおろした。だれも口をきかずに、ぼくたちはみんな火のくすぶる暖炉を見つめた。
ややあって、アベンナがため息をつき、それを受けておばがいった。
「ああ、これで、あの方はもっといい国に行ってしまわれたんですものね」
アベンナは再びため息をつき、わずかに頭を下げて同意した。おばはワインを少し口に含ませた。
「あの方は……安らかに?」
と、おばがたずねた。
「それはもう、安らかでした。いつ息をひきとったか、わからなかったくらいに。ちょうどその前日に、テメマス司祭が来てくださって、あの人の最期の祈りを聞いてくださっていました。ああ、あの人とともに過ごした時間のなんと短いことでしょう。まるで一瞬のことのよう」
アベンナはいった。
「気になさることはなくてよ。あなたがたは、あの方にできるかぎりのことをしてさしあげたのですもの。お二人とも、よくお尽くしになったわ」
おばはいった。
「人間では、ただひとりのお友だちでした」
アベンナは薄い生地の服に浮かぶ移ろいやすいシワを、細い指先でなぞった。
「あの方は、あの世にいかれても、あなた方のことも、あなた方が親切にお尽くしになったことも、けっしてお忘れにはならないわ」
おばはいった。
「ああ、可哀相なオミニア」
ニーナは言葉を切り静かに目をあげた。その視線は遠くを見つめていて、まるで過去と語り合っているようだった。
「これから、どうなさるの?」
おばがいった。
「片づけをして、すべて終わったら、妹と二人でここを発つつもりです。エルファゾンへ帰ります」
アベンナがいった。二人がこの町を去るということに、ぼくは驚いた。ただ、落ち着いて考えてみれば、それは当然のことだった。この町は二人には似合わぬ灰色だったから。それでもせめて、旅立つのが今年の祭りを見た後ならいいのにと思った。その日ばかりは、この町もきらきらと輝くかもしれないのだ。あの麗しのエルファゾンのように。
「あの人に最期のときが迫っていることには気がついていました。それなのに、なにもできませんでした。スープを持っていってあげたときも、あの人ったら“ロファの書”の写本を床に落としたまま、椅子の背にもたれて口を開けていたの。けど、そんなふうになっても、あの人はいい続けていたわ。世界には“忘却の呪い”が迫っている。魔法は忘れ去られる。あらゆる真実は闇に覆われる、と……。あの人の最期の祈りもこんなふうでしたから、テメマス司祭も困っておられました。可哀相なオミニア。あの人は繊細すぎたのね、いつも。魔法の神秘は、あの人には重すぎた。それで人生が、いってみれば、どこかでかみあわなくなってしまった。思えばあの人は、もうずっと失意の人でしたから……」
アベンナは静かに目を伏せると、聞き耳を立てるためのように、不意に言葉を切った。妖精(エルダトス)の大きな耳には、なにかが聞こえたのだろうか。ぼくも聞き耳を立てたが、家の中には物音ひとつしなかった。ぼくは妙な居心地の悪さを感じて、椅子の上でもじもじとした。指でポケットの中の御守りの、その硬い強ばりを探った。アベンナもニーナも深い物思いに耽っているらしかった。暖炉で燃える薪さえも音をたてなかった。彼女たちの沈黙に、この世のすべてが敬意を払って待っているようだった。静けさの降り積もる中、突然ぼくは、椅子の後ろに魔族(ダイワモン)の気配を感じた。ねじれた六本の脚が、椅子の脚や背もたれに絡められていた。その胴から不自然に立ち上がった三つの首が、ぼくの首筋に息をふきかけていた。おばはぼくに背を向けて焼き菓子を口に運んでいた。アベンナもニーナもこちらを見ようとはしなかった。ぼくは声をあげることも、立ち上がることも、息をすることもできず、ひたすらに固く御守りを握りしめた。あの人に教わった守りの呪文を口の中で繰り返した。アベンナはゆっくりと話しはじめた。
「まだエルファゾンに住んでいたときのことでした。あの人の割った水晶……。あれがことの始まりだったのかも知れません。古い魔法の宿る貴重な水晶でした。だとしても、なんでもない些細なことでした。なのにあの人は、可哀相なオミニアはひどく怯えて、気に病んでいました。それがなにか、凶事の前触れのように思えて、あの人の心にひどく応えたに違いませんの。それからふさぎ込みだして、魔術士の仲間とは話をしたがらなくて、一人でぶらついたりすることが多くなって……。そしてある晩、大事なお務めにも現れず師の呼び出しにも応じずに、あの人は行方をくらませてしまったの。みんなでそこいら中を捜して、それでも見つからなくて、最後にはニーナが“月のお告げ”を聞いてみることにしました。わたしたちはニーナの言葉に従って、明かりをもった司祭さまと一緒に“導く”メセリオンの神殿へと行きました。たいまつに照らされて、その扉の鍵が壊されているのを見つけたときは、だれもなにもいわなかったけれど、あの人がそこにいると、みな確信しました」
アベンナはそういうと、みずみずしい唇を少しだけとがらせて、むっつりと黙ってしまった。冷えた空気が壁を伝って押し寄せてきた。ぼくは呪文を唱えるのを忘れて、アベンナの話しに聞き入っていた。ひとつだけ開いた窓の向こうに暗い空があって、雪がひらひらと降っていた。ニーナは自分の肩を抱きながら、窓を閉めるのに立ち上がった。その髪が、暖炉の炎に反射して黄金のように輝いた。そのときぼくは、御守りの中身がなんであるのかを知った。三つの首がぼくの背後でなにかを叫んでいたけど、その声はひどく疲れていて弱々しくて、ずっと遠くから聞こえてくるようにかすれていた。
「あの人は神殿の中にいました。ひとりぼっちで神像の前にひざまついていて、割れた水晶の欠片を手にしていました。目は見開いたまま、歯をむいて、舌で下唇を舐(な)めて、あの人は忍び笑いをしているようでした。やがてあの人は、わたしたちに気がついて、ぼそぼそと呟きました。“忘却の呪い”がやってくると……」
ぼくの体がふと軽くなった。知らぬうちにのしかかっていた、見えない圧力が消えてしまったようだった。ぼくはゆっくりと振り向いた。椅子の後ろに恐れていた三つ首の魔族(ダイワモン)の姿はなかった。そこにはただ、暖炉の明かりに追いやられた、狭い暗がりがあるばかりだった。