目の前に、一匹のアリがいました。そのアリは、大きな荷車を牽きながら、よたよたと歩いているのでした。
アリはうろうろとさまよいながら、それでも確かに、ある方向へと向かっているようでした。わたしは、アリに限らず、手なずけるすべのない虫というものが、総じてあまり好きではありませんでした。そのようなわけで、悪戯な心が生まれたのでしょう。わたしは手頃な小石をいくつか拾い集めると、アリの行く先に小さなバリケードを作りました。
アリは突然に姿を現した要害に戸惑っているようでした。ちょろちょろと行き来しながら、頭の触覚で小石の壁に触れて、隙間や抜け道を探していました。わたしはさらに小石を集めて、難攻不落の壁を伸ばしていきました。アリはやがて、その壁を超えるのが途方もなく困難なことだと悟り、けし粒のような体を震わせて怒り出しました。
「こいつをどけるんだ、このでくの坊」
アリは叫びました。その手足や腰のくびれは、まるで髪の毛のように細いのに、その声は驚くほど力強いのでした。
「こいつとは、この小石のことですか?」
わたしはとぼけていいました。
「そいつが小石かどうかは知らないさ。おれはそいつが、人間でいえばなんなのかなんてことには、まるで興味がない。だがそいつは、アリでいえばたいした岸壁で、断崖で、とんだ邪魔者なんだ」
アリは跳び上がって叫びました。それはとても奇妙な経験でした。全身を殺気だった弾丸のようにはずませて、さかんにわたしを叱りつけているのは、このわたしの指先よりも、ずっとずっと小さな一匹のアリなのです。
わたしは、目の前の無謀な黒い生き物が、にわかに興味深く思えてきました。
「さあどうぞお通りください」
わたしは小石をどけてやりました。
「礼はいわんぞ」
アリはいいました。
「結構です。どうかわたしの、ちょっとした冗談をお許しください。ところで、かなりの長旅とお見受けしましたが、ここらでひとつ休憩でもなさってはいかがですか。もしよろしければ、気ままなおしゃべりの相手などをしていただけると幸いなのですが」
わたしはいいました。
「おしゃべりだと? まるでくだらない。おれは急いでいるのだ」
アリはいいました。そのふてぶてしさは、少しだけわたしを苛立たせました。指先でプチリ。この生意気なアリに、人間の恐ろしさを教えてやろうかなんてことも、かすかに頭をよぎりました。しかしながら、その思いつきが本気であったかどうかを確かめるよりも早く、アリは態度を和らげました。
「だが、まあいいだろう。その人間でいえば小石とやらが、あんたの気まぐれで置かれたことは知っている。だが、素直によけてくれたことには感謝してもいいのだろうな。なにせ、そうでない人間が多すぎるのだから。まあ、少しだけでよいのなら、話し相手になろうじゃないか」
アリはいいました。
「ありがとうございます。では、お名前を教えてはくださいませんか。わたしは一郎というものです。あなたはなんとおっしゃるのですか」
わたしはいいました。
「人間でいえば一郎さんとやら、どうもお初にお目にかかる。おれはアリでいえば六番穴十二郎というのさ」
アリはいいました。
「ところで、六番穴十二郎さんは、なにかご用事の途中でしたか」
わたしは尋ねました。
「もちろん、おれはいつだって用事の途中さ。今もこうして、食料を運んでいるところなのだからね。これは、とても大事な役目なのだ」
そういって、六番穴十二郎は、後ろに牽いていた大きな荷車を指し示しました。荷台には、山と食料が積まれていました。
「すごい荷物ですね。巣穴は近いのですか」
わたしのいった巣穴という言葉に、六番穴十二郎の体が強ばるのが分かりました。わたしは自分の失言に気がつきましたが、ごまかすには遅すぎました。
「巣穴の意味がわからないな。いや、いいさ。おおよそ予想はつく。人間でいえば巣穴、ってことなんだろう。そいつはきっと、アリでいえば城のことなのだろうよ」
六番穴十二郎はいいました。
「悪気はないのですよ」
わたしがいうと、六番穴十二郎は肩をすくめたようでした。とはいえ、アリの体はとても小さいので、本当に肩をすくめたかどうかは自信がありません。ただ、六番穴十二郎との短いおしゃべりで分かったことなのですが、アリはなにかを表現するときには、顔の表情や、手足の小さな動きなどではなくて、いつも必ずその体のすべてを使うのでした。だから実際には、六番穴十二郎は肩ではなく、体をすくめたというべきなのかもしれません。
「だろうね。あんたは、いつだって悪気はないのだろうよ。で、城のはなしだがね、そいつはさほど遠くはないさ。ほら、見えるだろう。あの、タンポポの根元にあるのがそうだ。だが、何度も何度も往復しなければならない。城では女王や子どもたちがおれの運ぶ食料を待っているのだからね」
六番穴十二郎はいいました。
「それはさぞ大変でしょう」
わたしはいいました。
「それがおれの仕事さ」
六番穴十二郎はいいました。その言葉は、草のそよぎよりもさらりとした響きでしたが、そこには六番穴十二郎の揺らがぬ信念があるようでした。わたしは、目の前の尊大な小さな生き物をあらためて見つめました。そうして、それは本当に善意から、小さな親切を申し出ることを思いついたのでした。
「ならば、わたしがお城まで連れて行ってあげましょう。あなたには大変な道のりも、わたしならひとまたぎです。さあ、すぐにお城につきますよ」
わたしはそういって、六番穴十二郎を荷車ごと持ち上げようとしました。するとどうでしょう。ガブリ。六番穴十二郎の小さな歯が、わたしの指先にかみつきました。それは驚くほどに鋭い痛みで、わたしは思わず、六番穴十二郎を放り投げてしまいました。幸い六番穴十二郎も荷車も、柔らかな地面の上に無事に落下したようです。
「大丈夫ですか、六番穴十二郎さん。でも、あなたがいきなり噛みつくから」
わたしはいいました。噛まれた指先を見ても、どこにも傷跡は見えません。六番穴十二郎の歯は、傷跡を残すにはあまりにも小さすぎたのです。なのに痛みは、指先に痺れのようにして残っているのでした。
「それをいうなら、あんたがいきなり持ち上げたのだ。まったく失礼なはなしだ」
六番穴十二郎はいいました。
「親切のつもりだったのです」
わたしはいいました。
「余計なお節介だよ。アリでいえばね」
六番穴十二郎はピシャリといいました。
わたしはきっと、六番穴十二郎のその言葉に、傷ついた顔をしたのでしょう。六番穴十二郎は下からわたしを見上げていましたが、やがて、ゆっくりと含めるようにして話しはじめました。
「人間でいえば一郎さんとやら。いいかね? あのナラの木を見てみるがいい。秋になれば、あの木からドングリが落ちてくる。その地響きで、ミミズが飛びだしリスが踊る。ミミズをヘビが飲んで。ドングリをリスが土に埋める。ヘビも土に還る。おれたちはその横で荷車を牽く。そのすべてを見おろすのが、あののっぽのナラの木だ。耳を澄ませば、木の幹を昇っていく小さな音が聞こえるだろう。それは土の中でうたっていたたくさんの清水だ。その清水はのぼりつめて、ドングリの中で眠るのだよ。その眠りが夢でいっぱいになると、いつかのっぽのナラの木になるために、そのドングリが地べたに落ちる。その地響きでミミズが飛び出す。リスがドングリを集めて、ミミズをヘビが飲む。おれたちはそこでも荷車を牽く。ヘビは土に還り、土の中のドングリはやがて芽を出す。そこでもまた、おれたちは荷車を牽いていたのだ。まだこの森が森であったころ、人間がやってこなかったころの、春も夏も秋も冬も、また次の春も夏も秋も冬も、もうずっとずっと昔から、ここではそうしていたのだ。分かるかね? もうずっと昔からなのだ。そうしたものに、悪いがあんたの指先や親切の入り込む隙間などは、どこにもないのだよ」
六番穴十二郎はいいました。
それは明かな拒絶でした。静かな、だが岩のように堅い拒絶。わたしは、この小さなアリの言葉に打ちのめされた思いがして、言葉をなくしました。
「命というものは、どれも等しく大切なものさ。このことは、アリでいえばもちろんそうなのだが、もしかすると、人間でいえば違うのかな?」
六番穴十二郎はいいました。
「命は、どれも等しく尊いものです。はっきりと分かるわけではないですが、人間でいっても、そうだと思います。恐らく、理想としては」
わたしはいいました。
「なのに不思議じゃないか。おれの体はこんなに小さいのに、あんたの体はそんなにも大きい。同じ価値の命の入れ物としては、人間の体は少々無駄が多すぎるのではないかね。だから、だと思うがね。あんたが、そんなにも無頓着でいられるのは」
六番穴十二郎はいいました。
「なにに無頓着でしょうか」
わたしは尋ねました。尋ねながら、わたしは自分と六番穴十二郎の体を見比べてみました。風が吹けば飛んでしまいそうな、けし粒のような六番穴十二郎と、嵐にも耐えるしっかりした人間のわたし。なのに今、わたしは六番穴十二郎の前でうなだれているのでした。
「まあ、アリでいえばそういうことになる、ということにすぎないのだから、あんたが気にすることじゃないのだろうね。忘れてくれていいよ。さあ、そろそろいくとしよう。なかなか、楽しいおしゃべりだったよ」
六番穴十二郎はそういうと、再び荷車を牽き始めました。大きな荷車は最初ビクともしませんでしたが、六番穴十二郎が全身を弓のようにしならせて力を絞りだすと、やがてゆっくりと動き出しました。
わたしは、その場にしゃがみこんだまま、ただただ六番穴十二郎の荷車が遠ざかっていくのを見つめていました。六番穴十二郎の体は小さくて、目を凝らしてもほとんど見えないようでした。それでもじっと見つめていると、まるで六番穴十二郎の命が裸で、その荷車を牽いているようでした。それは激しく、パチパチパチパチと、火花の音を立てているようでした。