百万ドルの夜景が綺麗だとささやきあう恋人たち。遠く高台から見おろせば、街は静かに息を潜め、鮮やかに揺れる色を誇示するように輝いている。でも、僕はこう思うんだ。もし僕らが光りを望むなら、地上の灯を全て消してしまうほうがいいのに。そうすれば、オデウスが船から眺めたのと同じ星空がどこまでも空を覆うはずなんだよ。こんな小さな夜景より、もっともっと光で溢れる空が落ちてくるんだ。それはもう天の川がどこにあるかわからないくらいに、びっしりと星の光がひしめきあって、たちまち僕らは神話の世界に溺れてしまう。だけども恋人たちは街の明かりを恋しがるんだ。どうしてだろう。車をとばせば帰れるほどに身近な明かりが、ありふれたホテルの一室を薄暗く浮かばせるだけの、あの煤けたオレンジ色の明かりが、そんなにも愛おしいものなのだろうか。たとえそれが作り物の光でも、手に届かぬ星空よりは、蛍光灯やネオンを走るガスの輝きのほうに温もりを覚えるものなのだろうか。どんなネオンだって、あの星の一億分の一程も熱をもたないというのにね。ちゃんと覚えてるよ。僕がそんな話をしたから、あなたが急に不機嫌になったこともね。
いつだったろうか。あなたの部屋を訪れた時、複雑な文様の入った重そうな植木鉢に、天井へ届きそうなくらいの大きな木が生えているのを見て、僕が驚きの声をあげたことがあっただろう。すぐにその声は失望に変わったんだよ。だってそれが、プラスチックの木だって分かったからね。ツヤツヤとした緑の光沢も、深く刻まれた幹の裂け目も、複雑に別れたその枝も、全部偽物だったから僕は本当にガッカリしたんだ。あなたは得意げに説明してくれたよね。それは本物の木と同じように光合成をして、部屋の空気をきれいにしてくれる植木なんだよって。それは確かに凄いことだけど、あの日見た夜景と同じで一億分の一程も木じゃないんだ。確かに部屋は、少しだけ森の香がしたような気はするけどね。
子供のころの話しもしてもいいかな。斜め向かいに住んでいたお兄さんは、少し意地悪で自分勝手だったけれど、暇な時には遊んでくれるから僕は好きだった。すごくなついてたんだ。一人っ子だったし、体も弱かったし、引っ越しばかりしていたし、つまりは寂しかったから、友だちが欲しかっただけなのかもしれない。もちろんお兄さんは、僕と遊ぶよりも同級生と遊ぶほうが楽しかったみたいで、お兄さんがお兄さんの友だちと遊ぶ時には、僕は冷たく放っておかれるのがあたりまえだった。ある日お兄さんが、友だちと自転車で遠くへ行くんだって僕に言った。僕も行くって言ったけれど、お兄さんはお前には無理だとまるで相手にしてくれなかった。やがてお兄さんを迎えに友だちが自転車でやってきて、お兄さんも笑顔で自転車にまたがった。僕もあわてて自転車を持ってくると、一緒に行くんだと泣きそうな顔で食い下がった。お兄さんの友だちは少し困った顔をした。お兄さんは勝手にしろといって、すぐに走り出した。僕は必死で追いかけた。補助輪が取れたばかりの自転車は、お兄さんの自転車と比べても頼りなく小さくて、それにまたがる僕はもっと頼りなく弱々しくて、いくら走っても走っても、ぐんぐんはなれてしまった。それでも必死に自転車をこいだ。やがて海辺へ向かって下る大きな坂道にやってきた。僕はこんな遠くまで来たこともなかったし、その坂道があまりにも急だったから怖くて足がすくんだ。だけどもためらっている間にも、お兄さんは髪をなびかせて猛スピードで坂を滑り降りていく。どんどん小さくなっていくお兄さんの姿。その後ろ姿が見えなくなるのがなによりも怖かった。僕はえいと叫んで坂道へ飛び込んだ。きっとこの坂道の下まで行けば、あの海までたどりつけば、お兄さんも振り返ってくれるだろうなんて、そんな風に思っていた。下り始めた僕の自転車は驚くほどのスピードにのった。タイヤが軋んで僕はハンドルにしがみついた。ハンドルがぐらぐらと揺れた。僕はもっときつくしがみついて体中をアルマジロみたいに丸めたんだ。その後なにがどうなったのかは良く覚えていない。とにかく僕は派手に転んで、体中をすりむいて、大声で泣いた。きっとその声はお兄さんにも届いたけれど、お兄さんはそのまま見えなくなってしまった。一度だけ振り返って僕を見たままね。要する僕が言いたいのは、お兄さんは一億分の一程の友だちだったってこと。そして、たぶんそれでも、僕にはお兄さんが必要だったんだってこと。
あなたのことを好きかどうかなんて僕にはわからない。一億分の一の恋人。それじゃいけないんだろうか。偽物でもいいって思えばいいんだ。気がつくほどに近づかなければいいんだ。傷つくほどに試さなければいいんだ。花はすぐに枯れてしまうよ。作り物でも花は花。プラスチックの光沢が、優しく香るつかの間の幻想をみせてくれるのなら、静かに微笑んでいればいいんだ。だから今あなたに送るのは香港フラワー。安っぽい花だけれども、少しは君を飾れるだろう。
だからほら、少しだけ微笑んでおくれ。一億分の一でもかまわないから……。