――月の光にさわれているよ。
あなたは月の光の中で言った。
見えない、知らない、大きな手にふれるようにして、あなたは小さな手をいっぱいに伸ばしていた。
わたしもあなたの真似をして、大きく伸びて月を見たけれど、すこしも月にさわれない。
――そんなに乱暴にしたらだめだよ。いい? 月の光にさわるってことは、月の光にさわってもらうってことなんだ。見つめることは見つめられること。光がね、ずっと向こうの宇宙から、はるばる旅してようやくここに届くのだから。まずはね、お疲れさまって、そういわなきゃ。そうして、目でさわってもいい? 手でさわってもいい? って。そう、聞くんだよ。
じれったそうにそう言ったきり、親密な様子で月と見つめあうあなたが、とてもうらやましかった。
あなたと月のあいだには、たしかに言葉があったようで……。
そんなことがあったからだろうか。
秋深まったある日の夕ぐれ。
二階の雨戸をしめようとして、ふと、西の空を見たわたしは、息をとめた。
藍色に澄んだ空に、星がひとつ光っていて、それを受け止めるかのように、円い円い満月が浮かんでいたのだ。空の藍は地平に近づくにしたがって薄れてゆき、夕焼けの残した茜色と音もなく混じりあっていた。
白銀の透けるような月を眺めていると、ひとりで見ているのがどうにも耐えがたくなって、気がつけばあなたへ、電話をかけてしまっていた。
――今、西の空を見てごらん……。
とか言ったのか。ともかく、月とか星とか空の色だとか、せきこんで喋ったのだろう。なにしろ、そうしている間にも、空は刻々と姿を変えていくのだ。
ひさしく連絡などとりあっていない、わたしからの電話だ。何ごとかと、びっくりしただろうに、大人になったあなたは、
――はい。
とだけ言って、電話を切った。まるで行儀のよい子供のように。
しばらくして電話が鳴った。
あなたは、子供のころから、とても律儀な人だったから。
――見たよ。
気のせいだろうか。声が少し弾んでいたようだった。それがうれしい。
あなたは、その庭からは見にくいと、わざわざ隣との境の、高いところにあがって見たと言った。
境とはどこだったろうか。むかし、ふたりで月を見上げた夜を思い出す。土堤のようにでもなっていただろうか。ともかくわたしは、その土堤に、背筋をのばして、空を仰ぐあなたの姿を想像した。
そして不意に、変な電話をしてしまったと後悔しながら、それでも、まぶたに浮かんだ、あなたのその姿に、空を見あげている細い脛の子どもが透けてきて、しぜんと頬がゆるんだ。
わたしが念願の新居を構えたのは、一面のすすき野原のただ中だった。
引っ越しの後かたづけに気ぜわしく走りまわっていたけれど、明日は十五夜だと心を弾ませていた。荷をほどくのもそこそこに、あなたを月見に招待すると決め、照れくさく思いながらも電話をかけた。
あの月の夜以来、わたしたちはまた、長く疎遠になっていた。それでもかってなもので、電話をすればいつでも、あなたはそこにいて、穏やかな声でわたしを待っていてくれると思っていた。
でも、現実はそうではなく。あなたはもうひと月も前から入院していたと知った。
翌日、いてもたってもいられずに、刈りとったすすきを束にして、あなたの病院へと向かった。
もう若くないあなたは静かに目を閉じていた。意識のもうろうとする日が続いていて、いつ話ができるようになるかわからないとのことだった。
すすきは長くバスにゆられてきたせいで、すっかりと呆けてしまっていた。それでも捨てるに忍びなくて、大きな壺に挿して窓際に据えた。ちょうど看護士がやって来たから、穂がばらばらになる前に、どうか捨ててくださいと言づけして、わたしは家路についた。
その十五夜は、激しい雷雨だった。つづいて翌日の十六夜(いざよい)も、その翌日の立待月も、その翌日の居待月も、月は雨に隠れた。
また翌日、更待月の日。黒い雲がすきまなく空を覆っていたので、昼だというのに、もう薄暗い。
わたしは雨を憎んだ。月さえ照れば、あなたはもう一度、微笑みながら話をしてくれると信じていた。
夕方になって、仕事も一息ついたので、あなたを見舞いに行こうと思った。すすきを持っていこうか迷ったけれど、どうせまたしおれてしまうのだと、あきらめることにした。
病室では十五夜の時と同じ格好で、あなたが寝ていた。
あの日、持ってきたすすきはもうなく、空っぽの壺がおいてあるだけだった。
病室の外を通りがかった看護士を呼び止めた。幸い、以前に見知った看護士だった。
――ここにあった、すすきは?
捨ててくださいと頼んでいたのに、あのすすきの行方が、どうにも気になった。
――しおれてましたから捨てましたよ。
と、若い看護士は窓の外に目をやった。
――窓からかい?
わたしは、少しだけ怒ったような口調になっていた。
――しおれてましたから。
看護士も、少しだけつんとして答えると、カツカツと立ち去ってしまった。
なにも、窓から捨てることはないのに。すすきはまだ残っているだろうか。わたしは未練がましく窓を開けた。
湿った風が吹いていた。雲は薄く引きのばされて、何日かぶりに姿を現した月は、どこかで見た水墨画のように、ひっそりとたたずんでいた。
わたしは驚きに目を大きくした。
地面に散らばっていたすすきは、連日の雨と秋冷のなかで生気を取りもどしたのか。もとどおり、糸のように穂をぴんと張り、それはあたかも、いま芽吹いたばかりかのように、美しく伸びていた。わたしは走って庭へとまわり、土の上のすすきを拾い集めると、満ち足りた思いで病室へと戻った。
金の糸。金の糸。月の光を束ねるように、一本一本、そっとやさしく壺に挿す。
高原の秋の気が部屋にただようようだった。
――もう十五夜なの?
寝ぼけたような声がした。
振り向けば、あなたは眩しそうに目を開けて、わたしとすすきを不思議そうに見つめていた。
その後あなたは退院して、元気に暮らしているとのことだ。
あいかわらずわたしたちは、長く声を聞くこともなく、忙しく毎日を過ごしたから。
幾年かの歳月が過ぎた。
家の前のすすきは、宅地造成のため除草剤をふりかけられて、いまはあとかたもなく枯れつくしてしまっていた。
一抹の寂しさを覚えながら、今年も十五夜がやって来た。
今夜はひさしぶりに、あなたに電話でもしてみようかな。そんなことを思っていると、見透かしたようにあなたから、一枚のはがきが届いた。
それにはあなたらしい、まるみを帯びた小さな字で、
十五夜のご招待、よろしければ。
と、書かれていた。
夜、わたしは喜んで、あなたの家に向かった。
澄み渡った空に円い月が浮かび、その下でわたしは、月の光をいっぱいに浴びて、歩く。
ふと思いだして、細くなったしわだらけの手を、いっぱいに伸ばしてみた。
指先が月に触れた。
今なら、月の言葉が聞こえる気がした。