UN ART-FICIAL STORIES  アイノナイ ワケジャナイ モノガタリタチ


 雪の山の熊と人


 ウオーン……。
 ウォーン……。
 深く雪の積もったスプス山に、獣のなきごえが響きます。それはどこか悲しげで、低く低く響いていました。
 「これはどうしたことだろうか」
 オルウンは、不思議そうな表情でなきごえの響いてくる山の奥をじっと見つめました。セントバーナード犬のミミもやはり不思議そうに鼻をクンクンならしながら、オルウンの足下をクルクルと回ります。
 「なあミミ、これは狼の声じゃないね」
 「ワン!」
 ミミがすかさず答えます。
 「ふむ、いったいどうしたことだろうか」
 オルウンは、もうずいぶんと長いことスプス山に住んでいますが、それは今までに聞いたことのない、不思議な不思議な声でした。とはいえ、いくら考えても声の正体はわかりそうにありません。しかたなく、オルウンは積み上げていたマキを素早く麻の袋に詰め込むと、引きずりながら山小屋へと向かいました。空には灰色のどんよりとした雲が集まってきています。
 「今夜は雪になりそうだ。さあおいで。はやく小屋へ戻ろう」
 オルウンは白い息を吐き出しながらいいました。 
 
 オルウンの山小屋に二人の旅人がやって来たのは、もう柱時計が十一回目の鐘を鳴らした後で、オルウンは二階の寝室でぐっすりと眠っておりました。旅人たちのはげしく玄関をノックする音も、温かい毛布にくるまるオルウンにはまったく届かないようで、深く布団に潜り込み、ぬくぬくと眠り続けております。暖炉の残り火を求めて居間へとやって来たミミは、ノックに答えるようにして大きな耳を数度パタパタと揺らしてはいるのですが、もうずいぶんと年老いているうえに今は寝ぼけておりますので、ノックの音に本当に気がついているかどうかは、なんとも怪しいものでした。
 オルウンの山小屋は、外にいる旅人たちにとってはなんとも落ち着かない、それは不吉な予感を覚えるほどの、静けさで満ち満ちていました。というのも、二月の夜の空気は刺すように冷たく、旅人たちは吹き付ける雪を顔中に貼り付けたまま、閉ざされた扉の前でブルブルと震えて、ドアが開くのを今か今かと待っていたからです。
 「どうしたんだろう。だれもいないのだろうか」
 若い旅人はそうつぶやくと、ザックザックと雪を踏みしめながら、家の回りをぐるりと回ってみました。寒さの余り黙って立っていると足が凍りついてしまいそうなのです。たんねんに中の様子をうかがいながら一周回ってきた旅人は、
 「明かりがついていない。きっとだれもいないんだ」
 と、もう一人の旅人に泣きそうな声でいいました。
 「いいや、見てみろよ。煙突から細い煙が出ているじゃないか。オルウンは寝てしまっただけさ。なんせ突然の訪問だからね」
 茶色の髭(ひげ)を顔一杯にはやした年上の旅人は、ごわごわの毛のついたフードを深くかぶり直し、歯をガチガチ鳴らしながらいいました。
 「とにかく中へ入れてもらわないことには、凍(こご)えて死んでしまう。さあ扉を叩こう。歌をうたおう。オルウンをたたき起こそう」
 年上の旅人のおんどに合わせ、二人は力いっぱい扉をたたき、リズムをとりながら歌をうたいました。
  (ドン ドン ドン)
  みろよ はるかに ゆきのくも(ドン)
  ちぎれた からだの そのくずが(ドン)
  つきの あかりに てらされて(ドン)
  こおりみたいに かたまった(ドン)
  (ドン ドン ドン)
  みろよ いちめん ゆきのはら(ドン)
  ぼくらの あるいた あしあとが(ドン)
  つきの あかりに てらされて(ドン)
  かせきみたいに かたまった(ドン)
  (ドン ドン ドン)
  みろよ こごえた たびびとを(ドン)
  だれかの ねむった そのそばで(ドン)
  つきの あかりに てらされて(ドン)
  しんだみたいに かたまるぞ(ドン)
  (ドン ドン スカ)
 おや? 二人が最後に力いっぱいノックしようとした扉が、突然すっと開いたではないですか。そう、扉を開けたのはようやく起きてきた、パジャマのまんまのオルウンです。
 
 「不吉な歌をうたうのはよしてくれ。ボクを人殺しにするつもりかい? さあ、はやく中へ。雪がどんどん吹きこんでくる」
 オルウンは寝ぼけた目をこすりながらも、陽気な笑顔でいいました。その笑顔を見ただけで、凍えた旅人たちも一瞬春の日差しの中にいるような気にさせる、とても素晴らしいほほ笑みです。とはいえ、吹きつける風は容赦(ようしゃ)なく冷えていて、オルウンの笑顔だけでは温まるのにはとても十分とはいえません。旅人たちは急(せ)かされるままに、小屋の中へとかけこみました。
 旅人たちが山小屋にはいると、ミミは暖炉の前の特等席に寝そべったままワンと一声ほえて、歓迎のしるしにシッポをパタパタとふりました。
 「ワタワ、ミミに感謝するんだな。こいつが起こしてくれなければ、ボクはいまだに夢のなかで、君らは実際氷の彫刻みたいになってるところだよ。さあ、もっと暖炉のそばへ。今火をおこすから少し待っていておくれ」
 二人は体中の雪を払い落とし、重たい荷物を手早く降ろすと、暖炉のそばへと近づきました。
 「やあオルウン。ひさしぶりだね」
 ワタワと呼ばれた年上の旅人が髭についた雪と氷を揉(も)むようにして落としながら、安堵の表情でいいました。
 「まったく死ぬかと思ったよ。山小屋にたどり着いて死んだんじゃ、恥ずかしくて話にもならないがね。そうそう、こいつはオレの大学の後輩でノスっていうんだ。まあ、よろしくだ」
 「ノスです。よろしくオルウン」
 ノスはオルウンの手を素早く取ると、かたく握りながらいいました。
 「冬のスプス山はやっぱりすごいね。どこも一面深い深い雪だらけだ」
 「それがわかっていてここへ来るなんて、君たちはどうかしてるよ。ワタワは去年でもう懲(こ)りたと思っていたがね。今夜はたくさんたくさん雪が降るだろう。この山小屋の扉も開かなくなるくらいにね。もうしばらくの間は、どこへも行けなくなるよ」
 オルウンがいいました。
 「いいや、二階の窓からでも出発するさ。オレは行かなくてはいけないんだ」
 ワタワがいきんでいいました。
 「木よりも高く積もった雪の上を歩き、流れるその姿のままに凍った滝をよじ登り、ボクらは行かなければならないんです」
 と、ノスもその後に続きます。
 「またどうして行く必要があるんだい? ボクにはさっぱりわからないよ。それに今年の冬は、なにやら大きな獣が山の中をうろついているようだ。行くことにはとても賛成できないよ」
 オルウンは昼間に聞いた獣の声を思いだして、軽く身を震わせました。
 だが、大きな獣と聞いた二人の旅人の反応は、オルウンの思っていたものと少し違いました。二人は、ああやっぱりか、といった様子で目と目をあわせているのです。
 オルウンはそんな二人を見て、やれやれと肩をすくめました。
 「冬山に秘密は禁物だ。さあ話してくれ、いったいなにがあったんだい?」
  
 「もちろん、君に秘密にしておくつもりなんてなかったさ。ただ、話せば少々長いことになるがね」
 そういいながらワタワは籐製の安楽椅子を暖炉の前まで引きずってくると、深く腰掛け、ゆっくりとした動作でパイプに火をつけました。プーとすい、パーとはく。ワタワの口から白い煙が大きな輪になって、いくつも連なりながらわき出てきました。ワタワが重たい口を開いたのは、はき出された煙が天井に雲のように集まってからで、それはこんな感じに始まりました。
 「去年もオレは、冬のスプス山へとやって来た。オルウンは笑うかもしれないが、この山が雪に包まれた姿はとても美しい。街に住んでいるとね、無性にこの山を思い出すことがあるんだ。深い雪を超えて山頂へたどり着いてみろ、体中は汗びっしょりで、まるで温泉みたいに湯気を出している。疲れ果てて、もう指の先も動かせないって感じだが、ああ、麓(ふもと)を見下ろした瞬間にどんな疲れも一片に吹っ飛んでしまう。青い空、白い雲、だが雲よりももっと白い一面の雪の大地が、なだらかになだらかに、北ははるか地平線まで、南ははるか水平線まで続いているんだ。一度見たら病みつきになる」
 ボクはごめんだね、そういいたげにオルウンは小さくかぶりをふりました。
 「だが、実際のところはだ……、オレはもう二度と冬のスプス山には来まいと思っていたよ。去年のそう、山頂から降りる途中でのことだ、オルウン、君も知ってのとおり、オレは吹雪の中で身動きできず、氷漬(こおりづ)けになって死んでしまうと思ったものだ」
 「そうだよワタワ。ボクとミミは君を捜(さが)して幾日も、山の中を行ったり来たりさ。あの時も今日みたいに吹雪がひどくて、ボクはもう君は帰ってこないのだとあきらめかけていたのだ。そんなとき、君がひょっこり帰ってきたのは三日もたった夜のことで、ボクはお化けじゃないかと疑(うたが)ったものだ」
 「まったくオレは死にかけたよ。だが生きのびた。それはまさに幸運だった。そう、つまりはオレにとっては、だがね」
 ゴーとひときわ強い風が吹き付けて、三人と一匹を囲う山小屋が、心細くガタガタと震えました。隙間(すきま)から吹き込む風はますます冷え冷えとさえわたって、オルウンは暖炉にマキを足しました。そうして、ようやく沸(わ)いたお湯で熱いココアを作ると、使いこんだ銅のカップに注いで、二人の旅人に配りました。最後に自分の愛用のカップにココアを注ぎます。三人はしばらく黙ってココアを飲みました。そうして、オルウンがもう一度暖炉にマキを足したころ、ゆっくりとココアを飲み干したワタワは、再び話し始めました。
 「今年だって、自分一人なら来やしなかっただろう。こいつ、ノスが手伝ってくれるというんでね。どうにかやれる気がしたんだ。冬山の吹雪があんなにすごいとは、恥ずかしながらオレは全然知らなかった。前に伸ばした自分の手の先さえ見えなくなって、聞こえる音は風のうなり声ばかり。どんどん体が冷えていって、とうとうオレは雪の上に倒(たお)れこんだよ。だがそのときに、オレは変な音を聞いたんだ。
 ゴロゴロゴロ。ゴロゴロゴロ。
 雷か? だが違った。よくよく聞いてみると、それは大きなイビキだったのさ。特大のイビキ。なんてったって、ゴウゴウ吹きつける吹雪の中でも聞こえるくらいのね。ほら、雪山で眠ると死ぬっていうだろう。まったくどこのどいつがこんな気持ちよさそうに眠っていやがるんだってね、オレは自分のことも忘れて、イビキのする方へと向かって行ったよ。 
 さあ、イビキにひかれてたどり着いたのは、雪の中にポカンと開いた洞窟だった。洞窟と言っても、オレの頭が一つくぐれるくらいの小さな穴さ。だが、もともとはもっと大きな入り口だったんだろうな。なんせ雪が高く高く積もってやがる。オレがイビキをもっとよく聞こうと穴に額を寄せたその瞬間、どどって雪が崩れて、オレは洞窟の中にすってんころりさ。
 転げ落ちてみると、中は結構広かった。オレがまあ普通に立てるくらいさ。とりあえず、風と雪からはだいぶん救われたね。オレは少し落ち着いた気分になった。さて……と、オレは辺りの様子を調べることにした。さっきまでのイビキはもう聞こえない。それにオレの落ちた所は、洞窟の岩というよりも、なにやらフカフカのカーペットだ。なんだか温かい感じもする。オレはリュックから懐中電灯を取り出すと足下を照らしてみた。ふむ、やはりフカフカの絨毯(じゅうたん)だ。長い毛が、多少はごわごわしてるが、綺麗にそろって並んでいる。
 と、明かりをもう少しだけ先へ向けたとき、オレは信じられないものを見た。黄色くぎらぎらした二つの目。黒い鼻。尖った牙の並ぶ口。そう、それは巨大な熊の顔だったのさ。ようするにオレは、すやすや眠る熊の腹の上に転がり落ちたってわけだ。オレは覚悟を決めて目をつぶったよ。さあ、煮るなり焼くなり好きにしてくれってね。だが、熊の野郎はいっこうに襲ってこない。恐る恐る目を開けてみると、野郎、懐中電灯の光に眩(まぶ)しそうに目を細めていやがる。なるほど、冬眠していた所をたたき起こされて、どうやら寝ぼけていやがるようだ。まったくわけがわからないという風に目をパチクリさせていた。
 オレは慌てて腹の上から飛び降りた。熊はのそりと起きあがった。オレと熊は向かい合わせに、手を伸ばせば届く距離だ。熊の野郎の鋭い爪が、不気味に黒く輝いていた。さあ、どうしてこの場を逃げ出そうかとオレが考えていたときだ、熊がオレに向かってこういった。
 『すみません。ここはどこですか』
 キョロキョロ辺りを見回しながら、熊は寒そうに身を震わした。
 『ここかい? ここは、ほら、山の洞窟だな、うん』
 オレは頭をフル回転させた。答えを誤ればオレは、こいつの腹の中に収まるだろう。だが上手く答えればなんとか生きて逃げ延びられるかもしれない。
 『そうですか。はて、ところであなたはどちらさまでしたっけ?』
 熊はオレの顔をしげしげと眺めて聞いた。知らずにか熊はぺろりと舌なめずりをして、腹を空かせているように、両手で腹をさすっていやがる。
 『オレはワタワというものだ。山を登るのが趣味の登山家だよ』
 オレはこれといった素晴らしい答えも思いつかずに、正直に答えていた。こいつにとって、登山家がエサと同じ意味でなければいいのだが。
 『そうですか、登山家ですか』
 熊は登山家に食欲を覚えた様子はない。しばらく小首を傾(かし)げていたが、やがてそいつはこういった。
 『ここは洞窟で、あなたは登山家。では、わたしは何者なんでしょうか』
 これはいい! こいつは自分が熊だってことを忘れていやがるのだ。そいつを思い出させるわけにはいかない。自分が熊だと気づいたとたん、爪と牙の使い方まで思い出さんとも限らないのだ。
 『ああ、君かい?』
 オレは何気ない口振(くちぶ)りを装(よそお)った。
 『君はそう……君も登山家なんじゃないかな』
 『わたしも登山家なんですか?』
 熊は不審気だ。オレは慌てて、まくし立てるように言葉を続けた。
 『そりゃそうさ、でなければこんな山に何しに来たというんだい。君は登山家だ。オレと同じで冬山にひょっこりやってきた、そう登山家なんだよ』
 『そうですね、どうやらそんな気がしてきました。正直いいますと、わたしは自分が人間じゃない気がしていたんです』
 熊は恥ずかしそうに頭をかいた。
 『だってそうでしょう? 冬山の洞窟といえば、そこにいるのはク……』
 『あわわわわ。いったい君はなにをいいだすんだ。君はどうみても人間だ。オレの仲間じゃないか』
 オレは派手に両手を振って、そいつの言葉をさえぎった。するとその手をじっと見て熊がいった。
 『どうでしょう? わたしには長くて鋭い爪があるのに、あなたにはないじゃないですか? 人間って、あなたみたいじゃないのかな』
 熊はオレの手と自分の手を何度も見比べた。
 『ああ、そうか。ふむ、たまにはあるんじゃないかな、そういうことも。なにせ、最近は爪を伸ばすのが流行だからね』
 オレは両手を後ろに隠した。
 『そうですか、それにそう、わたしにはフカフカの毛皮があるけどあなたには無い。人間って、あなたみたいに服を着るものなんでしょう』
 熊は自分の体毛をさわさわと撫でながらいった。
 『ああ、そういや、最近は服を着ないのが流行だった……ような気がするよ』
 『冬山でもですか?』
 『そう冬の山でもどこでもだ』
 オレははっきりといいきった。
 『そうですか、そうなんですか。わたしは毛深いほうなんでしょうかね。いや、実はわたしは、自分が熊のような気がしていたんですよ』
 熊は笑いながらいった。
 『なにをバカなことを。君が熊だったら、オレは猿さ』
 オレも笑いながらいった。まあ、その笑いは多少引きつっていたとは思うがね。
 『安心するがいい、君はどこから見ても立派な人間だ』
 『わたしが立派な人間ですか?』
 『そうとも、立派な人間だとも。おまけに流行に敏感だ』
 『そうですか。どうやらそんな気がしてきました。ところでわからないことがあるのですが、立派な人間とはどういう人間なんでしょうか?』
 熊は真面目な顔で尋(たず)ねた。
 『なんだって』
 オレは一瞬質問の意味がわからずに問い返した。
 『いえ、ですから、立派な人間について教えて下さい。立派な人間と立派でない人間について』
 オレをじっと見つめる熊。
 『いや、だから、なんだってそんなことを気にするんだ。君は人間なんだ。それでいいじゃないか』
 立派な人間が何かなんてオレには興味がなかった。ふと表を見ると、風がだいぶん収まっている。
 『どうやら吹雪も止んできたようだ。オレはもう行かなくては』
 オレは素早く立ち去ろうとして、その場でかすかに身じろぎしたが、熊にもっと素早く肩をつかまれ、身動き一つできなくなった。
 『待って下さい。わたしをこんな所に置いていかないで下さい。実は自分が人間だと聞いてもなんだかピンと来ないのです。どんな暮らしをしていたのか、少しも思い出せないのです。これではこの先暮らしていけない。そうですよね。せめて立派な人間について学んで、恥じることなく生きていきたいのです』
 熊の哀願を聞いたのはオレが世界でも初めてじゃないだろうか。
 『そうかもしれんな』
 オレはため息を漏(も)らしながらいった。
 『わたしはどこで暮らしていたのでしょうか?』
 『そんなことをオレに聞かないでくれ』
 少し棘のある口調だったかもしれん。熊に押さえつけられた肩が、ミシミシと痛んで、いい加減頭に来ていた。
 『そうですか。そうですよね。わたしたちはここで出会ったばかりだというのに』
 『そういうことだ。すまんがオレは山を降りるよ』
 オレは押さえつける熊の手を軽く叩いて、その手をどかすようにいった。だが熊は、ますます力を入れてオレを離そうとはしなかった。
 『ああ、どうか待って下さい。それではわたしはどうしたらよいのでしょうか』
 『君は、そうだな……。君はここにいた方がいい』
 オレはいった。熊には山の洞窟がお似合いだ。
 『そんなバカな。こんなくらい洞窟の中で一人、吹き込む雪や風に耐えて暮らしていけというのですか。食べるものもなければ、寝る所もない。とてもここには残れない。一刻もはやく立ち去りたい! どうか一緒につれて行って下さい』
 そういわれてオレは、はたはた困ってしまった。熊をつれて山を降りるわけにはいかない。だからといって、お前は熊なんだといおうものなら、野郎は喜び勇んでオレをくっちまうかもしれん」
 
 ワタワはそこで、大きく一つ息をつきました。暖炉の火がパチパチとはじけて、外では風が相も変わらずゴーゴーと、うなり声をあげていました。
 「それで君はどうしたんだい」
 オルウンは、話の続き気になってしょうがないという風に、先を促(うなが)しました。
 「ああ、そうこうしているうちに、また吹雪が強くなってきたので、結局オレはその洞窟で、熊と数日過ごしたわけだ。オレは熊に約束させられたよ。決して一人で山を降りないってね。そうして三日後の朝、目覚めてみると吹雪はすっかり収まって、外は眩(まぶ)しいばかりの快晴だった。ふと横を見れば、熊はぐっすり寝ていやがる。オレはチャンスとばかり、こっそり支度を整えると、一人で山を降りてきたってわけだ」
 「熊との約束を破って?」
 「そうだとも。熊との約束を破ってだ。どのみち守れる約束じゃなかったからね。だがね、一緒に三日も暮らしてみると、熊もそんなに悪いヤツじゃなかった。いや、むしろお人好しなくらいにいいヤツで、実のところ最近では、オレはあいつに申しわけなく思っているのさ。オレのいうことを少しも疑わなかったあいつのことだ、一年過ぎてももしかして、自分が人間だと思ってはいやしないだろうか。仲間の熊と仲良くできないんじゃないだろうか。寒くなってきた今も、冬眠できずに困ってはいやしないかってね」
 その時です。
 ドンドンドン。
 ひときわ大きな音がして山小屋がグラグラグラと揺れました。
 少ししてもう一度ドンドンドン。
 見ると扉がミシミシと音をたてて傾(かし)いでいます。
 「だれかがノックしてるんだ。それにしてもすごい力だ。扉が壊れてしまうよ」
 オルウンはそういいながら席を立つと、ドアへと近づいて行きました。
 「待っててくれ、今開けるから」
 オルウンがかんぬきを持ち上げ扉を開けると、なんとそこには黒い毛並みの大きな熊が立っているではないですか。
 「こんばんは」
 熊が穏やかな声でいいました。どうやらこれが、ワタワの話にあった熊のようです。オルウンには直ぐにわかりました。こんなに礼儀正しい熊が、他にいるとは思えません。
 「突然おじゃまして申しわけありません。山を降りる道を探していました。もうずっと……どこへ行ったらいいのかわからなくて。もう何日も何日も。春が来て夏が来て秋が来て、そうしてまた冬が来て雪が降ってきて、ホントに困っていたところなのです」
 「それはどうもお困りでしょう、さあ中へはいって。あなたには少し狭いかもしれませんが」
 「ありがとう」
 熊は身をかがめて山小屋にはいると、体にこびりついた雪や氷を手早く払いました。と、熊は暖炉の前に腰掛けるワタワの姿に気がついたようでした。
 「おや、あなたは!」
 ビックリしたような熊の声は、少しだけ高くなっていました。
 「ああ君か……」
 ワタワはなんといっていいかわからずに、弱々しく言葉を濁しました。ノスの方をチラリと見ますが、ノスもすっかり驚いていて、口をパクパクさせるだけです。
 「ワタワは君に会いに来たんだよ」オルウンは、熊にココアを差し出すと、ニッコリ笑ってそういいました。
 「なんて嬉しい。もうあなたには会えないと思っていました。あんなに親切にしていただいたのに」
 熊はココアを受け取ると、一口飲んでほっと一息つきました。
 「ワタワさん、あなたがいなければ、わたしは自分が人間なのだと少しも気づかずに、山の中で熊のような暮らしをしているところでした」
 熊はもう一口ココアを飲みました。
 「そのことについてだがね……」
 ワタワはやはり弱々しく、だが観念したように話し始めました。
 「どうか怒らずに聞いて欲しい。いいにくい話だがね、君はどうやら、人間ではないようだ。うむ、間違いなく人間ではない」
 きょとんとする熊。ワタワの言葉を何度も何度も頭の中で繰り返しているようです。しばしの静寂。ミミがシッポをパタパタとふる音が、やけに大きく聞こえました。
 やがて熊は伸び上がり、両手を大きく広げて叫びました。
 「そんなバカな! それではわたしはなんだというのですか」
 大きな熊の体が、ますます大きくなりました。心なしかその目に、凶暴な光が宿ったようにも見えます。ワタワはその目に見つめられ、すっかり腰を抜かしてしまいましたが、もう後には引けません。
 「君は熊さ。始めに君が思っていたとおりに、君は熊だったのさ」
 「わたしが……熊」
 今度は熊は、両手を畳み背中を丸め、なんだか小さくなりました。
 「ああ、どうか怒らないでくれたまえ」
 「わたしが……本当に熊なんですか?」
 「ああそうさ。こっちへ来て、鏡をよく見てみるといい。そこに何が見える?」
 ワタワは暖炉の上の鏡を指さしました。熊は言われるままにノソリと暖炉に近づくと、恐る恐る鏡を覗(のぞ)きこみました。
 「わたしが見えます」
 「それはどんな姿をしているね」
 「三角の耳。黄色い目。黒い鼻。鋭い牙の口。黒い毛。鋭い爪……。ああ、これがわたしなのか!」
 「そうさ、それが君さ」
 「わたしは熊だったのですね」
 「そうさ、君は熊だったのさ。去年の冬に、君と出会ったのは君の洞穴の中だった。オレは君が恐ろしくて、ついつい嘘をついてしまったのだ」
 「ああ、なんてこと。わたしは熊だったのですね!」
 「どうか怒らないでくれ。オレを許してくれ」
 「怒るですって? 許すですって? ああ、そんなことはもうどうでもいい。わたしは今、とてつもない幸福で満ちあふれている。もう、立派な人間がなにかだなんて悩む必要はないのです。わたしは熊。立派な熊。わたしは熊だ。わたしは熊だった。わたしは熊だったのだ!」
 熊はその場でくるりと回ると、天井を見上げるようにして大きなうなり声をあげました。
 ウオオオオオオオオォォォォ!
 その声に、山小屋がビリビリと震えます。オルウンがワタワがノスが、そしてミミが、その大音響に、すっかり度肝を抜かれてしまいました。熊はそんな人間達を後目に、すたすたと出口へ向かって行きました。そして扉の前で振り返ると、深くお辞儀をしたのです。
 「わたしはもう帰ります。仲間はみな、眠りについた季節です。わたしは長く起きすぎている。どうかみなさんごきげんよう。わたしは熊だ。わたしは熊だ。ああ。そしてみなさんは人間だ。ごきげんよう。ごきげんよう」
 熊はそういい残すと、吹き込む風と同じ勢いで外へと飛び出しました。オルウンが扉を閉めに行った時にはもう、熊の姿はどこにも見えませんでした。ただ飛び跳ねたような四つの足跡が、点々と森へ向かって続いていました。
 暖炉の前へと戻ってきたオルウンにワタワがいいました。
 「熊がそんなにいいものかね」
 「さあどうだろう」
 オルウンがいいました。
 「なあ、ミミ。君はどうだい? 君は犬でよかったかい」
 「ワン!」
 ミミは嬉しそうに一声鳴きました。
 「ふむ、人間がそれほどいいものかどうか、なんだかわからなくなってきたよ」
 
 ウオーン……。
 ウォーン……。
 深く雪の積もったスプス山に、獣のなきごえが響きます。それは去りゆく熊の残した、喜びのうたのようで、オルウンたちは顔を見合わせて、大きなあくびをしました。
 まもなく山小屋の明かりも消えました。人は人の寝床へ、犬は犬の寝床へ、そして熊は熊の寝床へと、みなそれぞれに向かって行ったのでした。
 
 END

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