内藤塚と内藤氏
さいたま市北区日進町2丁目1003番地所在の満福寺境内に
、「内藤塚」と呼ばれている墳丘がある。現状は、東西8.1m
、南北9.5m、高さ1.7mのほぼ方形をしているが(計測値
は大宮郷土史研究会『満福寺調査報告』による。以下同じ)、当
初は、碑を中心とした径13〜14mの円形の塚であったと思わ
れる。
墳頂平坦部の、おそらく元は中央であった所に、高さ161p、幅63p、厚さ40pの石碑が立っており、次の銘文が刻まれている。
(正面)
四家祖
内藤忠清塚
忠篤敬書
(背面)
文久二壬戌年十一月
本學院殿二百五拾回忌
八代忠誠遺言
九代忠篤
建立
忠道

石碑に「内藤忠清塚」とあり、また周辺に塚状のものは無く、
墳丘上には自然石と石段以外他の石碑等も無いことから、既にあ
った塚を利用したものではなく、内藤忠清250回忌の1862
年に、子孫の忠篤、忠道が塚と石碑を建立したものであろう。
『寛永諸家系圖傳』(以下寛永系図と略す)及び『寛政重修諸
家譜』(以下寛政譜と略す)によれば、内藤忠清の祖右京進義清
は、秀郷、千晴、千清、正ョ、ョ遠、ョ清、ョ俊、行俊と続く藤
原秀郷の流れを汲んでいる。義清は、松平信忠、清康に仕え、三
河国上野城を賜った。武芸に長じ、石川忠輔らと共に岡崎五人衆
と称せられた。義清の二男甚五左衛門忠郷は広忠、家康に、その
男甚五左衛門忠村は家康に仕え、共に軍功に励んだ。忠村の二男
が忠清である。
金左衛門忠清は家康に仕え、天正12年(1584)の長久手
合戦、同18年(1590)の小田原の陣等で活躍。のち秀忠に
仕え、普請奉行として丹波篠山城や江戸城普請を指揮した。武蔵
国足立郡、上総国長柄郡のうちに2000石の采地を賜った。寛
永系図及び寛政譜では慶長19年(1614)、寛政譜に記載さ
れている「今の呈譜」では18年(1613)11月8日死亡。
年57歳。法名了意。神田無量院に葬ったが、のち無量院は小石
川に移され、そこが代々の葬地となった。
内藤塚碑では、文久2年(1862)を忠清の250回忌とし
ているので、内藤家では慶長18年(1613)を忠清死亡の年
と伝えられたようである。
内藤塚碑では、忠清を「四家祖」と記している。寛政譜には、
1 忠清の直系
忠清(ただきよ・初代)―忠次(ただつぐ・2代)―忠正
(ただまさ・3代)―忠重(ただしげ・4代)―忠郷(た
ださと・5代)―忠眞(ただざね・6代)―忠著(ただあ
きら・7代)
2 忠次の弟勝次を祖とする系統
勝次(かつつぐ・初代)―勝良(かつよし・2代)―勝尹
(かつただ・3代)―忠剋(ただとき・4代)―忠儀(ただ
のり・5代)
3 忠正の弟忠貫を祖とする系統
忠貫(ただつら・初代)―忠當(ただなを・2代)―忠盛
(ただもり・3代)―忠香(ただか・4代)―忠安(ただや
す・5代)―忠榮(ただよし・6代)―忠房(ただふさ・7
代)
4 忠重の弟忠勝を祖とする系統
忠勝(ただかつ・初代)―忠近(ただちか・2代)―忠之
(ただのり・3代)―忠ム(ただあき・4代)―忠孝(ただ
たか・5代)―忠壽(ただとし・6代)
とある。この4家をいっているものと思われる。
金左衛門忠次は慶長19年(1614)に跡を継いだが、弟市
之丞某に上総国長柄郡のうちに500石、弟六之助勝次に武蔵国
足立郡のうちに500石を分ち、自分は1000石を継いだ。寛
永10年(1633)2月7日に200石の加増があり、計12
00石を知行した。
市之丞某家はのち絶えた。
勝次が継いだ足立郡の地がどこかは不明である。
内藤塚のある日進町2丁目はかつての足立郡上加村で
あるが、『新編武蔵風土記稿』(以下新記と略す)「上加村」の
項に、「正保の頃は内藤金左衛門知行せしこと其頃のものに見ゆ
、」とある。正保年間に金左衛門を称していたのは忠次か子の忠
正のどちらかである。したがって上加村は勝次に譲らず、忠清の
直系がそのまま知行していたのであろう。
寛政譜によれば、忠清の直系は、3代忠正の寛文6年(166
6)4月28日に、采地を廩米にあらためられた。(新記には、
上加村について、「慶安年中御料に復し、」とある。)4代忠重
が延宝3年(1675)12月11日に跡を継いだ時、廩米30
0俵を弟八郎左衛門忠勝に分ち与えた。元禄10年(1697)
7月26日、廩米をあらためられて、武蔵国幡羅郡、榛
澤郡、上野国群馬郡の内において、900を知行する
ようになった。この900石は代々受継がれ、幕末まで変わらな
い。埼玉県史調査報告書『旧旗下相知行調』(埼玉県県民部県史
編さん室、1986年、以下相知行調と略す)によれば、幡羅郡
妻沼村(前妻沼町・現熊谷市)、石塚村(深谷市)、榛澤郡荒川
村(前花園町・現深谷市)、高島村(深谷市)、新戒村(深谷市
)、群馬郡北下村(北群馬郡吉岡町)、池端村(前橋市)
、上野田村(吉岡町)のそれぞれ一部が該当する。新記では、元
禄11年(1698)としている。
寛政譜によれば、勝次が継いだ足立郡のうち500は、寛永1
0年(1633)2月7日に200石加増になり700石となっ
たが、これも廩米にあらためられた。勝次流第3代勝伊の元禄1
0年(1697)7月26日、廩米をあらためられ、武蔵国榛澤
郡、男衾郡、幡羅郡、伊豆国田方郡のうちに700石
を知行するようになった。この700石も代々受継がれ、幕末ま
で変わらない。相知行調によれば、榛澤郡東大沼村(深谷市)、
寄居村(寄居町)、男衾郡小江川村(江南町)、富田村(寄居町
)、幡羅郡原ノ郷村(深谷市)、田方郡北条寺家村(前韮山町・
現伊豆の国市)、中島村(前大仁町・現伊豆の国市)のそれぞれ
一部が該当する。新記では、元禄11年(1698)としている。
内藤塚碑には、八代忠誠遺言、九代忠篤及び忠道建立とある。
この名前は、寛政譜には出てこない。
相知行調では、明治元年の領主、先代、先々代について、忠清
直系は、
妻沼村は「金之丞、金之丞、(記載なし)」、
石塚村は「金之丞、頼母、内蔵頭」、
荒川村は「金之丞、内蔵頭、帯刀」、
高島村は「金之丞、内蔵頭、内蔵五郎」、
新戒村は「内蔵頭、(記載なし)、(記載なし)」
となっている。
相知行調は、同じ領主であるはずが、当主・先代・先々代の名
が違うものがかなりあり、他の資料と併せ検討する必要がある。
熊井保、大賀妙子編『江戸幕臣人名事典』(新人物往来社、1
990年)には、「内藤金之丞」の項に、「祖父
内藤内蔵五郎死小普請 父内藤内蔵頭死勤仕並寄合」とある。
「内藤内蔵頭」の項には、「養祖父内藤内蔵助死
小普請 養父内藤内蔵五郎死小普請 実祖父川ア市之進死御代官
相勤申候 実父川ア平右衛門死御代官相勤申候」とある。
川崎家は、石見銀山などの代官を代々勤めていた家で、禄15
0俵。
寛政譜によれば、「内藤内蔵助」は、忠清直系六代忠眞であり
、「内藤内蔵五郎」は7代忠著である。 小川恭一編著『江戸幕
府旗本人名事典』(原書房、1989年)には、「内藤帯刀
(内蔵頭)」とある。
小川恭一編著『寛政譜以降旗本家百科事典』(東洋書林、19
98年)には、「内藤左近忠誠」の項に、「父内藤内蔵五郎」と
ある。
これらの事典はいずれも典拠がかなり確かであり、石高、役職
、屋敷、墓地などもほぼ一致している。
さらに、満福寺の「過去帳」には、文久3年(1863)9月
14日と23日の間のところに、「本覺院殿明譽了意居士 慶長
八卯年十一月十八日 二百五拾回忌追善 本所南割下水 内藤金
之丞」とある。「學」と「覺」は混同されることがある。「慶長
八年」では250回忌を過ぎているので、これは「慶長十八年」
の間違いであろう。

こう見てくると、忠誠は忠清直系8代内蔵頭、忠篤は9代金之
丞と考えられる。
内藤塚碑に出ている忠道は不明である。10代を継ぐ予定の、
忠篤の子かもしれない。
8代内蔵頭(忠誠)は職務に励み、『江戸幕臣人名事典』によ
れば、石高900石に加え、足高1100俵を与えられていた。
養子であるが故に、かえって先祖を敬う気持も強かったのかもし
れない。初代忠清の250回忌にあたり、縁の上加村に塚と碑を
建立する計画をたてていたのであろう。ところが病気になったの
であろうか、『寛政譜以降旗本家百科事典』によれば、文久2年
(1862)7月4日に西丸留守居を御役御免となり、勤仕並寄
合となっている。まもなく亡くなったのか、金之丞(忠篤)が8
代忠誠遺言として塚を造り碑を建てたのが11月である。そして
、同事典によれば、金之丞が家督を継いだのが12月25日であ
る。
満福寺「過去帳」には、忠清250回忌法要を営んだのが文久
3年9月のところに記されている。忠清は慶長18年11月8日
に亡くなっている。250回忌は文久2年11月8日である。何
らかの都合で法要を翌年9月に行った可能性も全くないではない
が、おそらく、「過去帳」には翌年記載したということであろう。
忠清の直系は、代々「本所南割下水」の端に住んでいた。「嘉
永新鐫本所繪圖」には、「内藤内蔵頭」の名が出ている。現在の
墨田区亀沢1丁目である。南割下水は埋め立てられ、北斎通りと
なっている。

墓は、小石川無量院にあった。無量院は、伝通院の裏手、小石川
大下水端の低地、現在の文京区小石川3丁目にあったが、明治時
代廃寺となった。跡地には住宅がびっしり立ち並び、製本業を営
んでいる家が多い。

内藤金之丞(忠篤)の時に明治維新を迎えた。内藤家はその後
どうなったのか、子孫の方は今どこにおられるのか、内藤家墓地
はその後どうなったのか不明である。
内藤塚は、現在、満福寺によって丁寧に祀られ管理されている。
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