武州足立郡大和田村領主伊達氏
さいたま市見沼区大和田町はかつて足立郡大和田村といい、江戸時代を通して旗本伊達氏の支配下にあった。
旗本伊達氏(旗本伊達氏はもう一家あり、混乱を避けるために以後大和田伊達氏と仮称)は、『寛政重修諸家譜』(寛政譜)に、
「今の呈譜に、藤原氏にして越前守はじめ五郎また庄兵衛政充北條氏康につかふ、其男與兵衛はじめ八郎宗春東照宮につかへたてまつり、小笠原與八郎長忠に属す、督姫君(家康女)北條氏直が許に入輿のときしたがひたてまつる、與兵衛房實寛永系圖の房成に當るはその男なりといふ。」とある。
「今の呈譜」は、寛政11年(1799)の『寛政呈書万石以下御目見以上国字分名集』(『江戸幕府旗本人名事典』第2巻 所収)に伊達庄左衛門政誉が記載されており、大和田伊達家9代(大和田伊達家では越前守から12代目としている)伊達政誉が提出したものであろう。
「越前守」であるが、『北条五代記』巻二に、伊達越前守が北条氏康の上総池和田城攻めに従った時の武勇談が記されている(「敵一人を三人して討捕事」)。『小田原編年録』の永禄7年8月(1564)のところにも「五代記云」として同じ話しが記されている。『関東古戦録』にもほとんど同じ話がでているが、古戦録では伊達与兵衛とし永禄6年(1563)のこととしている。
この越前守が大和田伊達氏の越前守と同一人物であるという確証はないが、ともに北条氏康に従ったとあり、可能性は高い。
寛政譜には、その男与兵衛宗春は家康に仕え、小笠原長忠に属す、とある。小笠原長忠はもと今川氏家臣で高天神城城主となっていたが、桶狭間の戦いの後は徳川家康の家臣となった。天正2年(1574)、武田勝頼の城攻めにより高天神城は武田方の手に落ち、さらに天正9年(1581)、家康が奪還した。
この攻防の中で、小笠原長忠配下にあった駿河伊達氏の伊達与兵衛宗綱は、長忠と共に家康に従い、勝頼が高天神城を攻略すると武田氏に従った。武田氏滅亡後は北条氏規、さらに結城秀康に仕え、子孫は津山藩士となっている。(『駿河伊達家文書』)
一方大和田伊達氏の伊達与兵衛宗春については詳細は不明であるが、同様に小笠原長忠とともに家康に従い、そのまま家康の下に留まっていたのか、家康女督姫の北条氏直への入輿に従ったとある。与兵衛房実はその男という。房実の跡継ぎは房次である。
*『北条五代記』の著者は三浦五郎左衛門尉茂正で後北条氏に仕えていた。寛永初年頃の著。
*『小田原編年録』間宮士信著。間宮士信は地誌取調所で新編武蔵風土記稿の編纂などに携わった。
*『関東古戦録』は『関八州古戦録』とも呼ばれ、享保11年(1726)に槙島昭武が著した。戦記物であり、史実として扱うには検討が必要
*『北条記』は『小田原記』ともいい、著者や著作年代不明。戦記物であり、史実として扱うには検討が必要
*駿河伊達氏については、今岡典和編著『駿河伊達家文書』、長倉智恵雄「漂白の戦国武将二人の伊達与兵衛―『駿河伊達系図』から―」『戦国大名駿河今川氏の研究』所収 参照
*「みぃはぁ版・平成伊達治家記録別館」というサイトを開設している三留一郎氏からのメールに多くの示唆を得た。感謝申し上げる。
大和田浅子家文書に大和田伊達氏「先祖書」の写しがある。大和田伊達家9代伊達政誉が天明8年7月(1788)に白須甲斐守に提出したものの写しである。政誉は7月29日に大御番白須甲斐守組に入っているので、勤務先の上司に提出したものであろう。
この「先祖書」には、
「藤原姓伊達氏本国陸奥生国陸奥家紋竹ニ雀 立三引 蟹牡丹 先祖山陰中納言政朝末葉号仙台中納言伊達大膳大夫藤原朝臣輝宗之二男伊達安芸守重実之嫡子伊達越前守政統倅伊達与兵衛房実江州姉川御合戦之節 東照権現様江御奉公仕其後病死仕倅与兵衛房勝儀北条家ニ罷在氏政ニ仕其後氏政之依命岩附太田十郎氏房謁一字被下政勝ヲ改房勝ト申候此節高野山ニ蟄居仕候此時太田備中守伊達与兵衛野本将監右三人之者羽柴下総守黒田官兵衛ニ被為命 東照権現様江被召出此時武蔵国足立郡之内大和田村一円ニ拝領仕寄合御番相勤申候…其子伊達庄兵衛房次…」(大宮市文化財調査報告第4集『浅子家文書目録 資料抄録』所収筆写文)
とある。
先祖は山陰中納言としているが、これは仙台伊達氏も、駿河伊達氏も同様である。次に大膳大夫輝宗がでてくる。輝宗というと独眼竜政宗の父を思い出すが、その輝宗は大膳大夫にはなっておらず、またその二男すなわち政宗の弟は小次郎といい、政宗に殺害されている。また年代的にも合わない。したがって政宗の父の輝宗とは別人と考えた方がよい。号仙台中納言とあるが、これは政宗のことであり、間違いといえよう。輝宗の二男安芸守重実の嫡子が越前守政統とある。寛政譜の越前守政充と同一人物であろう。別の浅子家文書の「知行所拝領覚」にも越前守政充とあるので、政充が正しいと思われる。その倅が与兵衛房実で、姉川合戦の時家康に仕えその後病死とある。姉川合戦には小笠原長忠がその配下の者達と徳川方として参戦しており、「先祖書」の房実は寛政譜の宗春と同一人物と思われる。「先祖書」では、その倅与兵衛政勝が北条氏政に仕え、氏政の命で北条氏房に従い一字を賜り房勝と改めたとあるが、氏房に従ったのは房勝ではなく房実であることは天正18年4月奉書や岩槻慈恩寺灯篭銘で明らかである。高野山に蟄居後家康に召し出されて大和田を拝領とある。房勝の子は房次とある。
このように、
「先祖書」では、大膳大夫輝宗―安芸守重実―越前守政統―房実―政勝(房勝)―房次…
寛政譜では、 越前守政充―宗春―房実〔房成〕―房次…
と人名等に違いはあるが、内容的にはさほど違いがないように思える。寛政譜の基になっている呈譜は、「先祖書」のほぼ10年後に同じ政誉が提出したものであり、その間の史料探索の結果違いが出たのかもしれない。 また、前記「知行所拝領覚」では、越前守政充3代目を与兵衛房実とし天正19年に大和田村一円を拝領、4代目与兵衛房勝、寛永6年入間郡の内に拝領として、寛政譜の房次の事跡を房勝のこととしている。この「知行所拝領覚」では5代目が不明であるが、5代目を房次とすると以後の代数が合う。このように大和田伊達家内部の文書でもかなり混乱している。
もう一家の旗本伊達氏(本覚と名乗った者が多いので以後伊達本覚家と仮称)は、寛政譜によれば、「景忠 山城守 世々遠江國山名郡諸井村に住し、かの地にをいて百五十貫文を領し、今川家に仕ふ。そのゝち東照宮に拝謁し、仰によりて小笠原與八郎長忠に属し、天神の城を守りてしばしば軍功あり。天正二年三月二十二日討死す。」とある。伊達本覚家は代々「景」を使っているが、駿河伊達家には南北朝期に活躍した右近将監景宗がおり、遠州山名庄諸井郷(現袋井市)は伊達与兵衛宗綱の父吉宗が今川義元から安堵された地である。景忠の子が景長で、寛政譜によれば、「景長 與大夫 本覺 母は某氏。 東照宮にまみえたてまつり、仰により父景忠とおなじく天神の城を守る。ときに武田勝頼軍を率ゐて城を圍む。景長父とゝもに城を出て奮戦し、疵をかうぶる。そのゝち駿河國江尻におもむき、穴山梅雪によりて年月を送り、醫學に志して眼科の諸書を讀、その術を得たり。慶長十六年正月二日死す。」とある。その子景次が家光に召され旗本となり、代々奥医、小石川養生所医師として眼科の治療にあたることになる。伊達本覚家の代々の葬地も、大和田伊達氏と同じ谷中・瑞輪寺である。寛政譜によれば、景忠の子・景長の兄に「某 與兵衛」とある。
伊達本覚家の与兵衛がどのような人物か全くわからないが、同時代に、同族のしかも一時はほとんど同じ環境の所に三人の伊達与兵衛がいたことになる。このようにごく近い関係にありながら現在のところは系譜的に駿河伊達氏、大和田伊達氏、伊達本覚家を結びつける
なお、『関東古戦録』では、「武州岩築城落城」の記事の中で、「伊達与兵衛は元は房州鶴ケ谷八幡宮の神職の子であったが、北条家に仕え上総国池和田城攻めに誉れを顕し、その後武者修行に出て、遠州城飼郡へ立ち寄って高天神城の小笠原与八郎氏助の許で、渡辺金大夫森・中山是非助・林平吉・吉原又兵衛などという一角の勇士と肩を並べた剛の者であった。」(槙島昭武著、久保田順一訳・あかぎ出版)とある。しかし、上総池和田城攻めに従ったのは伊達越前守であり、また姉川合戦に従ったのは伊達与兵衛宗春である。ここに出てくる「勇士」は名前が若干違うが姉川七本槍の面々である。駿河伊達系図の伊達与兵衛宗綱の項に、「姉川合戦ニ小笠原御先手致ス、其時小笠原手ニテ…渡辺金大夫…并宗綱一番ニ槍ヲ合敵ヲ追立於御前高名仕候」(『駿河伊達家文書』)とある。姉川七本槍の伊達与兵衛は宗綱なのか宗春なのかはっきりはしないが、駿河伊達氏の宗綱と考えるのが妥当であろう。いずれにしても、「武州岩築落城」の伊達与兵衛は房実であり、『関東古戦録』は全てを一緒にしてしまっている。
家紋については、「先祖書」では竹ニ雀 立三引 蟹牡丹とあり、 寛政譜には立三引 竹に雀 蟹牡丹 九曜とある。『寛永諸家系圖傳』では丸に三引のみである。
立三引は朝宗が頼朝より与えられた幕紋を改良したもので、伊達家で最も古くから用いられた紋である。竹に雀は政宗の祖父晴宗が用い始めたものであり、蟹牡丹は政宗の孫綱宗が近衛家から与えられたものである。また九曜は政宗から用いられたものという。
したがって、寛永系図の丸に三引が大和田伊達氏の本来の家紋であり、他の紋は仙台伊達氏から頂いたか、あるいは仙台伊達氏に真似て使用したものであろう。
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伊達氏墓石の「竹に雀」
大和田伊達氏家譜(寛政譜等を参考にした。)
1 房実(房成)(ふさざね・ふさなり)
伊達政充から3代目
寛永系図では、生国駿河としている。
寛政譜には、「はじめ北条氏政につかへ、のち十郎氏房に属す」とある。父宗春は家康女「督姫君北条氏直が許に入輿のときしたがひたてまつる」とあり、これは天正11年7月(1583)のことであり、房実もこの時一緒に北条家に来たのか、それとも房実はそれ以前から氏政に仕えていたのか不明である。また、房実は北条氏政の下にあってどのような役割を果たしていたのか史料には表れてこない。
「妻は足利義氏の家臣相馬藤右衛門某が女」とある。足利義氏は5代古河公方であるが、北条氏の影響下にあり、小田原や鎌倉にも留まっていた。
なお参考までにだが、隣村中丸村領主春日氏の祖は足利氏、後岩付城主太田氏、北条氏政、氏房に仕え、景定、家吉は氏房とともに小田原城に籠城して戦い、氏房に従って高野山に赴いている。寛政譜には、家吉の妻は「足利晴氏の臣相馬藤右衛門某が女」とある。足利晴氏は4代足利公方で、義氏の父である。大和田伊達氏の8代政春はこの春日氏から養子として入ったものであり、さらに9代政誉もまた政春の養子として春日氏から入ったものである。この政誉が寛政譜編纂の時に呈譜し、また「先祖書」を残している。
岩付城主太田氏資の名跡を継いだ北条氏政三男国増丸改め太田源五郎は天正10年7月8日(1582)死去。その後氏政四男氏房が岩付城主となった。氏房は太田氏を名乗っていない。(黒田基樹『戦国大名北条氏の領国支配』)
氏房の発給文書は天正11年7月28日付(1583)から天正18年6月16日付(1590)まで70点が知られている。従って氏房は源五郎死去後から最初の文書発給までの間に領主になったと考えられる。
伊達房実が初めて岩付関係文書に登場するのは、氏房の天正14年9月28日(1586)付平林寺宛禁制文書の奉行人としてである。氏房の奉行人奉書としては最初の文書である。
房実が何時岩付に来たのか明確ではないが、氏房と同時に岩付に入ったと考えてよいのではないか。
房実が奉行人として署名している氏房発給文書は、
@天正14年9月28日(1586) 平林寺宛
A天正14年11月29日(1586) 法華寺宛寺
B天正15年8月25日(1587) 勝田大炊助宛
C天正15年10月18日(1587) 法華寺宛
D天正17年3月14日(1589) 平林寺宛
E天正17年11月26日(1589) 此木藤四郎宛
の6点である。これは奉行人として最も多い数である。
氏房から房実及び関係者宛文書としては、
@天正15年6月16日(1587) 伊達与兵衛宛 井草宿の市日を定める。
A天正15年10月28日(1587) 井草伊達分百姓中宛 六間塀修理の事
B天正17年7月20日(1589) 井草伊達分百姓中宛 棟別銭の事
C天正18年1月18日(1590) 勝田大炊助宛 伊達如作意可走廻
の4点である。これらの文書から、房実が比企郡井草村(現川島町)に所領を持っていたこと、勝田氏を支配下においていたことがわかる。
また、天正18年4月8日(1590)付の、伊達与兵衛から鈴木雅楽助宛の岩付御領分兵粮についての下知状がある。伊達与兵衛尉房実とあり、花押が書かれている。
*氏房関係文書は、『新編埼玉県史 資料編6』にすべて収録されている。
豊臣秀吉の天下統一への動きが進むとともに、北条氏の警戒態勢も強化されていった。岩付城も籠城に備え、天正14年(1586)から城の修築を本格化し、16年(1588)には兵糧の確保、17年(1589)には家臣と妻子の大構内への移住を命じた。
このような中で房実は岩槻慈恩寺に「南蛮鉄灯篭」を寄進し、岩付城の繁栄を祈った。この灯籠は現存し、「天正十七己丑五月如意日 伊達與兵衛尉房實施焉」の銘が刻まれている。(銘文の全文は「新編武蔵風土記稿」の埼玉郡慈恩寺村のところに載っている。)
慈恩寺「南蛮鉄灯篭」
天正17年11月24日(1589)秀吉は北条氏直に宣戦布告、天正18年3月1日(1590)自ら3万余の軍勢を率いて京都を出発した。北条方は諸将に小田原城に詰めるよう命令。氏房も潮田資忠等を引き連れ小田原城に入った。岩付城は伊達房実、宮城泰業、妹尾兼延らの軍勢が守った。5月20日、岩付城は浅野長吉(長政)率いる豊臣・徳川連合軍に攻められ、22日に開城した。岩付城落城のことは、『北条記』等に詳しく述べられているが、伊達房実は本丸を守っていたという。
7月5日には小田原城も落城した。氏房は氏直らとともに助命され高野山に追放、さらに肥前唐津の寺沢氏に預けられた。
7月13日、秀吉は家康に伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総の6カ国を与え、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃を収公した。翌14日に家康は、太田備中・伊達房実・野本将監の妻子がどこに住んでも異議はないという印判状を出している。
この年(天正18年(1590))、房実は家康に召抱えられ、9月19日に江戸三番町角屋敷を拝領したという。(浅子家文書「屋鋪拜領并相対替覚」)
翌天正19年11月12日(1591)に足立郡に250石を与えられ、慶長7年(1602)常陸国鹿島郡田野辺村(鹿嶋市)に200石を加増されて計450石を知行した。この足立郡250石の地が大和田村である。
多くの書が大和田村を伊達氏の旧領とし、中には本貫地としているものもあるが、これは新編武蔵風土記稿に、「当村古は岩槻太田氏の臣伊達与兵衛房実が領せし所なりと、」「陣屋跡…相伝へてこゝは岩槻太田氏の家老伊達与兵衛房実が居住せし所なりと云、…旧領によりて再びこの地を賜はりしなるべし、」とあるからであろう。しかし、現在残っている古文書では、伊達氏は比企郡井草村(現川島町)を所領としていたと思われるものはあるが、大和田村に関してはない。ただ、周辺の多くの村が数給地であるのに対し、大和田村は伊達氏の一円支配地であることから、伊達氏の旧領であった可能性は高い。
寛永3年5月19日(1626)死去、江戸谷中瑞輪寺に葬られた。以後瑞輪寺が代々の葬地となった。法名日受、伊達氏は熱心な日蓮宗徒である。残念ながら瑞輪寺には今江戸時代の伊達氏の墓石はない。
2 房次(ふさつぐ)
伊達家5代目か
庄兵衛 母は某氏。寛永系図によると生国相模。
慶長6年(1601)家康に仕え、9年(1604)から秀忠に仕え、御書院番のち大番
徳川実記寛永三年五月一九日条に「伊達與兵衛房實死して。其子書院番庄兵衛房次家つがしめらる。(家譜、寛政重脩譜)」とある。
寛永6年(1629)の関東郡代伊奈忠治による見沼溜井造成により、「水いかり」といわれた田の水没がおこり、大和田村は村高の約3分の1を失い、250石から161石4斗7升9合になってしまった。このため伊達氏は大和田村88石5斗2升1合分の代替地として8月9日に足立郡大竹村(川口市)に同石数を拝領した。
寛永10年2月7日(1633)、入間郡に200石加増(これはいわゆる「寛永の地方直し」で、1000石以下の両番、大番に200石ずつ加増した下級旗本層の困窮化救済策によるものであろう。浅子家文書の「知行所拝領覚」では、慶長18年9月(1613)に房実が入間郡荻原村(入間市)に100石、寛永6年2月8日(1629)に房勝が入間郡二本木村(入間市)に100石拝領としている。)
寛永14年9月18日(1637)奥方御番(寛永系図には年代不明だが、御奥方小広敷番頭とある)
寛永19年(1642)幡羅郡東別府村(熊谷市)に200石加増(浅子家文書「知行所拝領覚」では、明暦3年(1657)勝尚拝領としている)。合計850石知行
寛永20年(1643)死亡、法名受性
3 勝治(かつはる)
伊達家六代目
大学、与兵衛、庄兵衛
寛永9年(1632)生まれ 母は某氏。
寛永16年10月26日(1639) 8歳で家光に拝謁
寛永20年(1643)12歳で家を継ぐ。
小普請
慶安2年5月6日(1649)死亡、18歳、法名日深
4 勝尚(かつなお)
伊達家7代目
虎之助、五郎三郎、源之丞、庄兵衛
寛永11年(1634)生まれ 母は某氏。勝治養子実は房次二男
慶安2年12月14日(1649) 16歳で家を継ぐ。
大番
寛文10年3月27日(1670)死亡、37歳、法名日意
5 勝信 (かつのぶ)
伊達家8代目
又三郎
寛永20年(1643)生まれ 母は某氏。勝尚養子実は房次三男
寛文10年7月8日(1670)28歳で家を継ぐ
寛文11(1671)年4月9日大番
延宝元年8月20日(1673)死亡、31歳、法名観月
6 清房(きよふさ)
伊達家9代目
次郎三郎、五郎三郎、与兵衛
万治元年(1658)生まれ 母は某氏。勝信養子実は曲淵弥次右衛門三男
妻は勝信養女実勝尚女
延宝元年12月11日(1673)、16歳で家を継ぐ。
延宝7年2月3日(1679)大番
延宝8年1月11日(1680)、二条城守衛中死亡、23歳、二条妙傳寺の妙釈院に葬る。
法名日性。
7 房征(ふさゆき)
伊達家10代目
二郎三郎 平八郎 庄左衛門
延宝3年(1675)生まれ 母は某氏。清房養子実は本多加平次保道二男
妻は内藤金左衛門忠重女
天和元年7月12日(1681)7歳で家を継ぐ。
天和3年8月22日(1683)綱吉に拝謁
元禄7年9月18日(1694)桐間番、10月28日御近習番、11月21日御次番
元禄8年1月21日(1695)故あって小普請に貶され、出仕をはばかる。
元禄9年5月24日(1696)ゆるさる。7月5日大番
元禄10年11月19日(1697)三番町角屋敷は御用に付差上げ、大久保新道御用屋敷跡675坪拝領(浅子家文書「屋鋪拝領并相対替覚」)
正徳元年2月16日(1711)大番組頭
享保20年7月28日(1697)御先銕炮の頭に転じ、12月16日布衣を着することをゆるさる。(「布衣」(ほい)は無紋の狩衣で、式日にこの着用を許された格式)
元文5年6月1日(1740) 徳川実紀に、「先手頭伊達庄左衛門房征隊下の炮技褒せらる。これこたび諸隊の放銃を閲せられしに。房征が隊伍。その技に熟せしもの多かりしによてなり。」とある。
寛保3年3月17日(1743)死亡、69歳、法名日價
8 政春(まさはる)
伊達家11代目
新八郎 庄兵衛
元禄14年(1701)生まれ 母は齋藤氏。房征養子実は春日左衛門義陳(よしのり)二男
妻は房征女
享保12年2月28日(1727)吉宗に拝謁
享保16年11月25日(1731)御小姓組番士
寛保3年5月3日(1743)43歳で家を継ぐ
延享元年12月23日(1744)番を辞す
宝暦11年8月28日(1761)死亡、61歳、法名日勝
9 政譽(まさたか)
伊達家12代目
初治郎(大和田村古文書による。寛政譜には釖次郎(とうじろう)とある)、庄左衛門
享保16年(1731)生まれ 母は土屋長右衛門正長女。政春養子実は春日左太郎顕道二男
妻は政春女
宝暦11年11月6日(1761)31歳で家を継ぐ。12月9日家治に拝謁
明和5年3月8日(1768)大番のち的を射て時服を賜う。
安永7年4月2日(1778)屋敷類焼(浅子家文書「類焼年号月日覚」)
寛政元年6月22日(1789)屋敷類焼(浅子家文書「類焼年号月日覚」)
寛政2年7月4日(1790)大久保新道御用屋敷跡へ小普請組勝田安芸守支配高室富五郎、右富五郎屋敷市ヶ谷長延寺谷へ同支配木村宗助、右宗助屋敷市ヶ谷加賀屋敷へ伊達庄左衛門、屋敷三方相対替願提出。同年11月11日許可。市ヶ谷加賀屋敷坪数445坪(浅子家文書「屋鋪拝領并相対替覚」)
大和田村古文書では、文化5年(1808)まで庄左衛門が発給しているが、文化6年(1809)からは庄兵衛となっている。政誉は文化5年または6年に死亡しているのであろう。
10政典(まさよし)
伊達家13代目
釖次郎 庄兵衛
明和5年(1768)生まれ 母は清水氏
妻は春日左門登侯(のぶよし)女(政典の妹は妻の弟春日左門龍顕と結婚)
天明6年7月1日(1786)家治に拝謁
寛政6年11月14日(1794)大番となる。
〔寛政譜の記載はここまで〕
文化5年(1808)年または6年(1089)に家を継ぐ。
大和田村古文書では、文化12年(1815)まで庄兵衛が発給しているが、文化13年(1816)からは庄左衛門となっている。政典は文化12年または13年に死亡しているのであろう。
11政和(まさかず?)
伊達家14代目
庄左衛門
瑞輪寺墓地に、「伊達家之墓」という墓石があり、その左側面に、「伊達政典養子 實 三井采女良登次男 十四代目俗名荘左衛門 伊達旭山政和墓」とある。
その傍らに「貞誓院殿妙種日縁大姉 明治七年 七月十九日」という墓石があり、左側面に、「伊達政和後妻宮城和中之次女俗名きの 弊家ニ寄寓中卒行年七十一于時明治八年七月十九日和中四代目宮城千國建立」とある。
浅子家文書に、文政3年(1820)の拝領屋敷・同居覚と、身上書がある。身上書によると、寛政3年(1791)生まれ。学問は鈴木栄蔵、弓術は大村五郎、馬術は小林宗八、槍術は宮城利兵衛、剣術は岡田十松に入門している。
文化12年(1815)または文化13年(1816)に家を継ぐ。
大和田村古文書では、弘化4年(1847)の文書に庄左衛門、嘉永5年(1852)の文書に庄兵衛とあるので、この間に政和は死亡したのであろう。
江戸切絵図の市ヶ谷加賀屋敷の所に、尾張屋嘉永4年冬板(1851)には「伊達庄左衛門」、近吾堂嘉永4年春再板(1851)には「伊達与兵衛」とある。
瑞輪寺
伊達家の墓
12(諱不明)
伊達家15代目
与兵衛
弘化4年(1847)から嘉永5年(1852)の間に家を継ぐ。
安政2年(1855)大番大久保組
安政3年7月5日(1856)市ヶ谷加賀屋敷御用に付き差上げ四ツ谷天王横町元近藤八十郎屋敷跡拝領坪数680坪。市ヶ谷加賀屋敷は大沢万三郎拝領(浅子家文書「屋鋪拝領并相対替覚」)
江戸切絵図市ヶ谷加賀屋敷「伊達庄左衛門」とあった所に、尾張屋安政4年改板(1857)には「大沢万三郎」とある。
13政一(まさかつ( 又はまさかず?))
伊達家16代目
与兵衛尉
浅子家文書「屋敷拝領覚」に、「十六代目伊達与兵衛尉政一」とあり、「まさかつ」と仮名が振ってある。
安政7年8月27日(1860) 四ツ谷天王横町紀州様御用に付差上げ、大久保余丁町大草上地鵜殿五郎平屋敷跡拝領 坪数800坪(浅子家文書「屋敷拝領覚」)。江戸切絵図近吾堂嘉永2年板(1849)、尾張屋嘉永3年板(1850)共に「近藤小十郎」とあった場所が、尾張屋元治元年改板では「紀州藩中」となっている。尾張屋嘉永7年板(1854)の余丁町に「鵜殿藤左エ門」という屋敷地があるが、おそらくここであろう。現在の新宿区富久町である。
なお、大宮市文化財調査報告第4集『浅子家文書目録 資料抄録』にはこの項が欠落している。
慶応3年(1867)までは大和田村文書で与兵衛が領主であったことを確認できる。
※明治元年に各村を知行していた旗本を調査した『旧旗下相知行調』(埼玉県史編さん室・昭和61年)では、
村名 氏名 先代 先々代 住居
大和田村 伊達政辰 与兵衛 庄左衛門 大久保大□久能町
大竹村 伊達与兵衛 庄左衛門 庄兵衛 市ヶ谷
荻原村 伊達与兵衛
二本木村 伊達房之助 与兵衛 与兵衛 大久保町
東別府村 伊達与兵衛 庄左衛門 新宿裏弁天
となっている。
大竹村のものは庄兵衛‐庄左衛門‐与兵衛、住居も市ヶ谷となっており、古い資料を基にしたようである。大和田村のものは16代目与兵衛を政辰としている。政一と同一人物なのだろうか。住居の久能町は余丁町のすぐ近くにあり、同じ所をいっているものと思われる。東別府村にある住居新宿裏弁天であるが、抜弁天がすぐ近くにあり、このことをさしているのかもしれない。二本木村のものは与兵衛‐与兵衛―房之助となっており、房之助は伊達家17代目にあたる者かもしれない。
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