井形正寿
『大阪春秋 第40号』より転載
私達はこの額田の寺へ来るまで五百羅漢はあるいは焼け残っているのではないかと思っていたので、矢張りと思ったのだが、わかったことは五百羅漢は天満焼で悉皆焼けてしまったということだった。現在ある十数体は先代の住職(現住職の令兄)が収集せられたものであるという。
また、額田に移転して来たことは天満焼のあとの都市計画も原因の一つであるが、大正六年五月に寺が再建せられたとはいえ、この頃から旧地は市中雑踏の繁華の町となり、禅寺としてふさわしい環境でなくなったことなどから移転したのが真相のようだ。
それともう一つは、さきに書いた市電路線(福島曽根崎線)によって寺内敷地が買収されたが、この買収のあと、寺内の北側(現在福島公園となっている)あたりに市営の葬儀場建設の話が持上り、寺も寺再建資金が必要なときであったので、この話に乗り、さらに数百坪を大阪市へ分割譲渡したので、寺域は三六一坪余の狭少となったことが移転の本当の真相のようだ。(市営葬儀場は昭和初期に福島公園となった)
その上旧地の妙徳寺は徳川時代、大坂三郷及び中之島に近かった関係で裕富な町人、文人、蔵屋敷の藩士の墓碑が数千墓あったという。だからその管理上からも止むを得ず移転したということだった。これを裏付けるように浪速叢書の「大阪訪碑録」(一○巻)の妙徳寺の項に上田耕夫以下十九名の文人、医者、画家、藩士などの墓碑が連記されていろことでもうなづける。現在も薩摩と筑前藩士の墓がたくさん残っている。
Copyright Masatoshi Igata 井形正寿 reserved
管理人註
上田耕夫、上田耕冲、魚住荊石、鼎金城、神谷幸四郎、行徳玉江、倉田滄洲、十帰菴華笠、高見照陽、滝松隠妻、滝誠斎、永井文安、原田優游、原田靖堂、藤吉木石、矢木鳴鳳、劉琴渓、劉太原、小原竹香