今度突如襲来せし颱風高潮は未曾有の事とて、近畿地力の蒙れる惨禍は
実に甚大にして戦慄の外無之候、会員及読者諸氏に於かせられても御被
害の尠からざりしことゝ存じ、誌上を以て御見舞申上候、尚当方へも他
方面より懇篤なる御見舞状に預り、御芳情感謝在罷候、幸に軽微なる被
害に止まり候間、乍憚御放念被下度候 敬 白
昭和九年十月一日 上方郷土研究会
大正橋東詰北側に建つ安政の津波の碑
安政元年津波の碑
安政元年十一月四日と五日の両度に劇しき地震あり、続いて大津浪が襲
来し、大阪の西部一帯は忽ち阿鼻叫喚と化し、殊に安治川、木津川筋は
津浪最も高く見る/\うち安治川橋、亀井橋、高橋は押流され、其他水
分、黒がね、日吉、汐見、幸、住吉、金屋の諸橋悉く流失し、道頓堀大
黒橋際には千石船が数十艘も小船を下敷にして弥が上に乗りかけて押上
げられ、船の山を築いた、これは今回大正橋へ吹き寄せられた船の山と
同じで、否それよりも惨状であつたらしく、この時の市中の死者は五千
六十余名と算せられてゐた、この一大惨事を永遠に伝へて死者の冥福と
後人への戒めに建てられたものでその高さは六尺である。
慶応四年の大洪水
慶応四年五月に入ると連日の大雨にて、五畿内は大水となつてゐたが、
十一日昼九ツ時、先づ伏見京橋が水勢にて崩落し押流され、大阪にては
天満橋が三分ノ一くづれ落ち、次に天神橋も危くなつた、堂島中ノ島一
帯は水に浸り、南は道道頓堀畷瀬上り木津難波一面泥海と化したが、殊
に住吉新家より南は一層甚だしかつたのは大和川の堤防決潰で、分けて
安立町は人家は押流されて数多き死傷者を出し、悲惨なる状態であつた。
図は安立町の惨状「洪水図説」所収。
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