『大阪春秋 第75号』1994.6より転載
明治四年九月に開業した馬車鉄道は、早くも翌年の五月には、その経済性が問題となり日々の往復を止め、必要あるときだけ運転するにいたり、明治六年には所轄を鉄道寮に移し、さらに同八年四月十日に敷設レールを鉄道寮に委譲し、敷地は同年五月六日大阪府に交付して、その一生を終わっている。あまりにも短命に終わった馬車鉄道。その短命の原因が馬車鉄道が川口まで至らず、堂島新船町(浜先)という中途半端なところで終わっていたことを、逆に物語っているようだ。造幣寮で働く外国人技師たちにしても川口から堂島新船町までやって来て、馬車鉄道に乗り替える。貨物もここで積み替えられ馬車鉄道で造幣寮まで運ばれたのであろう。考えてみれば不経済、非能率極まりない。川口からそのまま遡上すれば造幣寮である。時間的にも水運の方が早かったことだろう。
造幣博物館に造幣寮創設当時の錦絵(錦絵写真版『造幣局の図』)が掲げられているが、そこには蒸気船のほか大小幾多の船が行き交っている。近藤文二氏は『明治初年大阪における川船交通』で「明治四年版錦絵造幣局の図を見るにそこには外輪蒸気船が画かれている。依って、少なくとも明治四年頃には既に川汽船が出現しておったと見なければならない」「淀川汽船の出現は凡らく明治三年乃至四年頃であったと見て間違ひなかろう」(23)と言っておられるように、当時すでにかなりの大型船が川口を経て造幣寮まで行き来していたことが伺える。大川(旧淀川)は古来水運の大動脈であり造幣寮の立地条件も水運の便が前提であった。したがって、川口から直接「船」で造幣寮まで通運するのは自然の流れであって、馬車鉄道は短命に終わるという必然性を秘めて、ひとときのあだ花として浪速っ子の目を楽しませてくれたのだろう。
安治川枝線については先にも少しふれたが、大阪・神戸間の鉄道敷設と併せて大阪停車場と大阪港(川口)を結ぶ鉄道として、明治五年十月より土地買収にかかり、造幣寮から譲り受けた馬車鉄道の一部を利用して、明治八年五月一日、貨物運搬を目的として開通している。旅客運送も同時にやっていたようで日本国有鉄道『工部省記録』(24) によると一日九往復、片道七分、料金上等一〇銭・中等六銭・下等三銭とある。馬車鉄道の一部を利用したといっても、『明治時代の大阪』(中)で幸田成友氏が安治川枝線の「起工にあたりて造幣寮の馬車鉄道敷地七十坪有余、鉄路用材その他を受領し、此工を補へりとぞ」(25)と言っておられるように、安治川枝線が重なり合うのは、せいぜい大阪停車場付近(旧貨物コンテナセンターあたり)のごく一部であることは、地図の上からも推測される。安治川枝線は大阪停車場から南西へ曾根崎川に並行する形で上福島村、野田村、下福島村を経て安治川北岸(安治川上通二丁目七)に至っている。明治十年『改正大阪区分細見図』、明治二十一年『大阪実測
図』等にその軌跡をたどることができる。
この安治川枝線も明治十年十一月大阪停車場の荷扱所の船溜から曾根崎川(蜆川)・堂島川にいたる堂島堀割が開削されるや、二年半で馬車鉄道と同じ運命をたどり、廃線の憂き目をみている。それにしても、.馬車鉄道・安治川枝線をともに短命に終わらせた大阪の水運の底力を見せつけられる思いがする。
安治川枝線汽車時刻運賃表(『エ部省記録』より)
| 往 | 復 | 従 | 至 | 上等 | 中等 | 下等 | ||||
| 大 阪 発 | 安治川着 | 安治川発 | 大 阪 着 | 円 銭 | 円 銭 | 円 銭 | ||||
| 午前 | 時 分 7 51 9 37 11 07 | 時 分 7 58 9 44 11 14 | 時 分 8 20 9 50 11 20 | 時 分 8 27 9 57 11 27 | 安 治 川 | 神戸 (略) 大阪 (略) 京都 | 1 10 10 1 45 | 66 6 87 | 33 3 44 | |
| 午後 | 12 37 2 07 3 37 5 07 6 37 8 07 | 12 44 2 14 3 44 5 14 6 44 8 14 | 12 50 2 20 3 50 5 20 6 50 8 20 | 12 57 2 27 3 57 5 27 6 57 8 27 | ||||||
註 (23) 「明治大正大阪市史紀要」第一五号 近藤文二『明治初年大阪における川船交通』三三頁 (24) 「工部省記録・鉄道の部」(日本国有鉄道)第二冊(巻六ノ一) 二七五頁 (25) 幸田成友編「大阪市史明治時代未定稿」『明治時代の大阪』中 五三頁
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