Я[なにわふくしま資料館]Я
2011.6.13

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『西成郡史』
その2−4−3

大阪府西成郡役所編集・発行
1915


(三)上福島村

大阪北区曾根崎新地、及、曾根崎村の西に接し、北区堂島とは曾根崎川 を挟んで相対し、北は鷺洲村に境す。 本村は、古へ、八十島の一にして、富島の古地なりと、住吉松葉大記に 見えたり、摂陽群談には、富島は西成郡に属すれども、方角所指不詳。 一説に、今の福島村に転ず、又、長柄の済の西にありて富島と称すとあ り。然るに本郡十二郷中の宅美郷のありし所も亦、此処なりと云ふ説あ り。もし然らば、是ぞ後の渡辺の福島なるべし、尚又、西中島村崇禅寺 所蔵、文安年間の古記録中にも、福島村とあるに徴すれば、本村は、正 しく是ならんとす。         *1 而して摂津名所図会に、左の如く載せたるものあり。 (上略)菅公つくしへさすらへ玉ふ御時、此島に船かゝりまし/\、里  人に所の名を尋ね玉へば、餓鬼島なりと申上る。是不祥の名なり、改  めて福島と名乗らば、後世繁昌すべしとの仰によりて、福島と云ふ。  異名を葭原島ともいふ。 さて本村は、戦国時代に於て、享禄天文の交、屡々、兵乱の巷となりし のみならず、降て慶長中、大坂冬陣の時にも亦、同じく兵戦の地となり、 而して村の古記録類は、兵火に罹りて、悉く皆焼失せしかば、其沿革に 就ては、今、之を詳かにするを得ずと雖も、原、是一村なりしものが、 延宝五年に、分れて、上下二村となりしことは、既に下福島村の條に述 べしが如し。摂陽群談には、此所上中下と分ち、三邑と成すとあり。 是より先き、延宝二年十一月、川岸地、及、同五年十一月、全村の新検 あり。次で元禄四年十一月と宝永五年五月とに、新田の検地あり、而し て其総高六百八拾五石参斗六升五合と註せらる。 元和の頃より、徳川氏領、鈴木町代官の支配地に属し、慶応三年の幕末 まで、変ること無りき。 恁くて明治廿二年四月、町村制施行の際、旧来の儘にて、他と合併を要 せず、独立して新に一村をなし、旧称を用ゐて上福島村と称し、其役場 を村内千二百五十一番屋敷に置きたり、 然り而して当時村内の状態は、大阪製薬会社・燐寸製造の泰興舎・石鹸 製造所等の小工場ありと雖も、多くは労役に従事する細民の住居地とな り、村の東端、出入橋の西より、北区安治川通上一丁日に通ずる本街の 地のみは、商賈を以て満されたれども、村内中央より 玉江橋筋より以西                               いしゅう の地 西南の裏町は、卍形の小街、不規則に通じ、細貧者、此辺に蝟集し て、巣窟を構へ、廿九年末の人口、壱方弐千六百余を算し、実に本郡の 第二位にある曾根崎村の次なりき。三十年四月、接近町村の市部編入に 際し、本村も亦、遂に市に入れり。


管理人註
*1 巻之三 福島天神祠の項。


『西成郡史』目次/その2−4−2/その2−4−4

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