| (九)鷺洲村 大字塚本 |
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大字塚本 旧中津川の東流より宛曲して、更に南流に転ずる処、即、
本川の周回に伴れて、其南に位し、元海老江・浦江の各大字地と
は相接続したれども、明治四十二年、淀川改修成りしより以来、
此二大字とは新淀川を以て隔つるに至れり。もと一村にして、更
に合併分離等のことあらず。
摂津志は此所を槻本郷の古地となし、「槻本方廃、或曰、塚本村
存」と云へり。村に如来塚・都下塚の二塚あり。二塚の元在りし
処、今新淀川線内に当れり。改修工事のため、之を旧中津川南岸
ていとう
堤塘の地に移れり。
されば摂陽群談・摂津名所図会は、倶に塚本村の名、加来塚に因
むと云へり。
されど大阪府地誌は之を訂して、「蓋し二塚たる敢て村名に附す
べき名塚にもあらず。
摂津志に、槻本方に廃す、或曰、塚本村存すとあるは、全く誤に
て、胡ぞ槻本の称を廃したると云はんや。
ツキ ツカ
万葉集に、槻を槻と読しは、人の知る処なれば、塚本と文字を改
めたるより、後世、塚の字に泥着して、縁なき塚に村名の所以を
求むるに至りしならむ」と云へり。
大日本地名辞書には、塚本は槻本と相近し、南中島なり。後の考
定をまつとありて、諸説紛々、何れとも定め難きを遺憾とす。
古検地は文禄三年、山岡如軒の行ふ処にして、其高五百八拾八石
四斗四升七合と註せられ、反別は上田拾九町七反六畝六歩・中田
拾壱町六反九畝拾歩・下田拾弐町七反六畝弐拾壱歩・上畑壱町九
畝拾四歩・下畑壱町五反七歩・屋敷壱町七畝弐拾六歩なりしが、
新検地は、延宝五年十二月十四日、青山大膳亮のなす処に係り、
其改高六百参拾六石八斗弐升となり、後、宝暦八年、代官萩原藤
七郎の新田流作地田壱反参歩・畑五反壱畝九歩の検地ありしかど
ソトジマ
も、反高取なりしにや、石盛の定めなかりき。其地字に外島とあ
るは、蓋し此流作地のことなるべし。
而して其反別は上田拾六町五反八畝拾参歩・中田拾参町八反八畝
弐拾歩・下田拾九町六反拾参歩・上畑六反七畝弐歩・中畑壱反壱
畝壱歩・下畑壱町壱反八歩・屋敷壱町九反九畝弐拾六歩を算し。
旧幕の頃は、徳川氏領、犬坂鈴木町代官所の支配地なりき。
因に云ふ、本大字中の西南に位して、字岡屋と云へる地あり。
梅田街道の旧道に傍ひ、旧中津川を遮りて其西へ越ゆる処、即、
かしわ
の橋のありし跡、是なり。此地人車の通行、常に絶ゆること
なかりしが.淀川改修成ると共に、同街道筋は西成大橋の方に
附替へたれば、今は昔の面影を見るに由なし。