さて市の経費は右の表の如く年々増加の一途を辿つている際ではあつ
たが、本校だけで到底入学志望者の増加を捌き切れず、遂に明治三十三
年(一九〇〇年)に至り第二高等女学校を設け、其の仮校舎を南区千年
町大宝尋常小学校分教場に置き、一年・二年及び技芸専修科二組を収容
する事にした。其の結果入学許可を得たものが百四名(五月十六日付大
阪毎日新聞)で、二十七日をもつて開校式を挙げた事を報じている(二
十八日付大阪毎日新聞)。
然るにここで、府及び市の態度が変り、明確な事情は資料がないので
分らないが(唯一の資料府誌も誤多く、例えば三十四年四月−三十五年
四月の間にも、中之島高等女学校という校名すら見えぬ程で信用するに
足りない)、恐らく経済上の問題からか、市は其の第二高女を府が建設
を意図した清水谷高女に吸収させ(事実一六九名余りが入つた)、更に
本校をも、三十四年三月末に至り、「府庁は府立中之島高女設置ならび
にこれにともなう校長任命の申請のため人を上京せしめた」(三月二十
八日付大阪毎日新聞)という文の如く府に移管しようとした。三月三十
一日付の同紙は東京電話として、
市立大阪第一高等女学校及び同第二女学校を本年限廃止の件
という記事を載せている。かくてここに校名は五転して中之島高等女学
校となつた次第である。尤も三十四年六月の府の公式告示に先立ち、同
年三月三十日付の大阪毎日新聞紙上では既に、
中ノ島高等女学校に於ける昨日の金蘭会は、雨天にもかかはらず、来
会者無慮二百七十乃至二百八十名。なほ今明両日、在校生徒の製作品
展覧会を催すよし。
と出ていて、恐らく通称にでも此の校名「中之島」は使用されていたも
のであろう。
【中之島時代歳入予算訓令文書 略】
府費各費目支出歩合比較図
明治十五年度 明治三十五年度
更に府立移管後一年にして狭隘な「やどかり」的存在から脱却し、女
子師範を離れて堂島へ移転する事になつた。
之を要するに中之島時代は、何といつても我国女子中等教育の揺藍期
に当り、我校また為に幾多の転変を経験したが、本科のみで約六百四十
余名の卒業生を輩出する程発展し、名実共に大阪の代表校となつたのは
言を俟たない。しかも其の卒業生は、後述するが、何れも我国発展期の
明治新女性の最先端を行く強烈な意志と志操とを良妻賢母の穀に包んだ
一騎当千の人達であつた事は、日露戦後の金蘭会高女の設立の件でも明
瞭である。かく見来つた場合、本校は正しく此の時期において女子教育
界の木鐸的立場に立つていた事、而してそれを以て以降本校の伝統とし
た事に我々は注目したい。
以下学生生活の概況を記して此の証に当てたいと思う。
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