Я[なにわふくしま資料館]Я
2011.11.12

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『七十年史』(抄)
その4

大阪府立大手前高等学校編集・発行 1958


第一編 高等女学校
 第一章 中之島時代
  (一)概観(3)
管理人註
  

 さて、田中不二麻呂とモルレーは鋭意学制の改善、実施に努力し、其 の成果は明治十二年(一八七九年)九月の太政官布告第四〇号による 「教育令」となつてあらわれた。殊に両人共夙に女子教育には眼があり、 田中不二麻呂はこれより早く明治七年(一八七四年)一月の太政官に提 出した伺文において、  学制御頒布以降就学ノ徒稍旺盛ニ趣キ候処独リ女子ノ教育ニ於ル因襲  ノ久シキ(以下略) として、女子師範学校の開設に力を尽している程であつた。さて此の教 育令の眼目は十年頃までの画一主義的学制を廃し、アメリカの各州の教 育を参考にした自由主義的精神によるもので、特に小学校の設置、運営 については其の土地と民度に応じた取捨選択を許すというものであつた。 「自由教育令」といわれる所以である。然るに此の教育令の如上の性質 は直ちに各地の児童就学率の低下、経費節減の為の廃校となつて表われ、 ここに強制教育論と自由教育論との対立となり、やがて改正のやむなき に至つた。尤も其の自由教育論と雖も男女共学の今日よりみた場合、矢 張り、儒教的倫理観に基づくものであつて、次の条項等は此の点よりみ て興味深いものである。  第四十二条 凡学校ニ於テハ男女教場ヲ同クスルコトヲ得ス        但小学校ニ於テハ男女教場ヲ同クスルモ妨ケナシ  教育令改正の発端は、田中不二麻呂の文部省転出に代つて文部卿とな つた河野敏鎌が、明治十三年(一八八〇年)三月より明治天皇の各地巡 幸に供奉し、具さに教育の実態を見聞した事にあり、これを機に文部省 は調査委員を設け同年十二月に所謂「改正教育令」を出したのであつた。 此の改正の主眼点は  臣ヲ以テ之ヲ見ルニ前日ノ弊タル学制ノ主義ニアラスシテ施行ノ宜キ  ヲ失フニアリ干渉ノ過度ニアラスシテ干渉ノ途轍ヲ過ツニヨレリ(教  育令改正案ヲ上奏スルノ議) として、以前の教育令の自由を与えるのに対し、これは文部省の中央統 轄を強固にし、其の督励、強圧による文教の普及を図る点にあつた。此 の方針は以降明治十九年(一八八六年)の学校令公布までうけつがれ、 かつ其の基礎を為したものであつて、既に早くここに、中央集権機構に 於ける国家主義的教学方針の曙光を認めるものである。  ここで眼を女子教育の面に転じよう。明治維新以後において女学校の 端緒をなしたのは明治五年(一八七二年)に開校された東京の官立女学 校である。其の前年十二月二十三日に出された布達によれば、  人々其家集ヲ昌ンニシ是ヲ能ク保ツ所以ノ者ハ男女ヲ論セス各其職分  ヲ知ルニヨレリ今男子ノ学校ハ設アレトモ女子ノ教ハ未タ備ハラス故  ニ今般西洋ノ女教師ヲ雇ヒ共立ノ女学校相開キ華族ヨリ平民ニ至ル迄  受業料ヲ出シ候ハハ入校差許候間(以下略) とあり、入学年齢は八才より十五才までで、中等教育という明確な意識 がないにせよ、程度はかなり高く、文部省第二年報には、  此校ノ設備アリシヨリ女子教育ノ方法ニ於テ漸ク将ニ其萌芽ヲ見ルニ  至ラントス と述べている。(「学制八十年史」所載)

   

『七十年史』(抄)目次/その3/その5

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