[なにわ大阪民俗資料館]
2004.4.24

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生 業 の 聞 書

その10

田野 登

『大阪春秋 第86号』 大阪春秋社 1997.3  より



◇禁転載◇

船場周辺の篇 (5)

タンス屋

 豊臣秀吉が町づくりした時、同業者をまとめ競わせようとした。徳川時代になってもこの辺りは新開地であり、やがて家具だけでなく建具、欄間、仏壇などを商う店が建ち並ぶようになった。当店は鳥取県出身の義父がこの地の家具店・河宗(カワソウ)こと河内屋宗兵衛に番頭として勤めていたことに始まる。大正十四年(一九二五)十二月、その店から独立して創業した。昭和八年(一九三三)頃は、この辺りに家具、人形、仏壇を売る店が一一〇軒ほどあった。戦災に遭ってこの辺りは燃え尽くされた。昭和二二年(一九四七)頃は旭区大宮町に住み、北区天六、中崎町に店を開いたりした。昭和二五年(一九五〇)この地に戻って来た。義父の死去により昭和五一年(一九七六)に代替わりをした。現在は立花通には四〇軒程の家具店がある。店が大型化して隣接する所を買収したりして店の数は減っている。当店は大阪有名大店会の一つである。

 会社組織にはしていない。おもな商品には、タンス類、小物類などがある。タンス類には、和箪笥、洋服箪笥、整理箪笥、婦人箪笥、下駄箱、小袖箪笥、長持、鏡台がある。小物類には、針箱、衣桁、衣裳盆、免状箱、鍵箱、本箱、机がある。その他に椅子、座敷机、茶棚、サイドボード、応接セット、食器棚、食卓、ベッド、人形ケースなどがある。

 流通経路は、仕入先から入荷した商品を岡山、徳島、広島、愛媛、静岡、鳥取など全国各地に販売するというものである。桐タンスの場合は注文を受けると岸和田の専属工場で製造する。製造には二十日から一カ月かかる。鏡台は静岡、徳島、大阪の技術水準が高い。戦前は、立花通で色付けや金物付けといった最後の仕上げをしていたが、今ではしない。

 店の組織は、個人商店で八人の店員がいる。

 現在では年間を通しての季節による商品の売れ行きの変動は小さくなった。一月から三月にかけては、まあまあ忙しい。六月は、以前は結婚が避けられていて暇だったが、最近はジューン・ブライドということでそれほど暇でない。八月は、以前は「お盆の時はホトケの日だから」といって客が来なかったが現在はそうでもない。九月から一一月にかけては婚礼のシーズンで忙しい。週間サイクルは、配達をしないのは水曜日で、土曜、日曜に客が多い。

 禁忌とか縁起かつぎはいろいろとある。納める当方は「お天気は(何より)大安だ」と思っているが、客の方は納めるのに仏滅は厭がる。納めるのは午前中を望まれる。荷を降ろす時は鏡台からである。これは鏡こそ女のタマシイだからである。桐タンスに水気はいけないので雨が降ったら桐(タンス)は納めない。シミが付くのをおそれるからである。納める時にトラックはバックしてはいけないという禁忌もある。

 販売の口上はないが、現在は「婚礼と暮らしの家具」と銘打っている。以前は「御婚礼調度品・室内装飾」と銘打っていた。長持、人形ケースの需要は減った。

 業界用語で「ヌシ」とは塗り師のことである。タンスを数えるのは、サオを用い、ヒトサオと数えたりする。タンスを担ぐのに竿をいれていたところからこのようになった。本で数えることもある。椅子は脚と数える。その他は台で数える。

 お祀りする神さんは、今宮戎である。祭日は、一月七日で十日戎の前に福娘二十人くらいが観光バスに乗って難波の高島屋などを経由して巡回して来る。当店で福娘のトップが挨拶をし、今年も商売繁昌でということで手締めをし、升酒を振る舞い、福俵を置いて行く。「立花通家具秀選会」という立花通の家具のPRの会が呼んで開かれているもので一〇年ぐらい前(一九八〇年頃か)から始まった行事である。昔は商売繁昌を祈願してのことだろう。今宮戎には地域の同業者の会である「秀選会」全店が「商売繁昌」の提灯を吊している。一月一〇日には合同参拝をする。西区の土佐稲荷の春祭りへの献燈は「秀選会」としてではない。

 この業界は通過儀礼との結びつきが強い。家具の需要は、子供が生まれたとき、入学したとき、結婚のとき、家の新築といっためでたいときにある。売上の五〇パーセントは婚礼家具である。

 この地を立花通というのは、以前は「橘通」であったのが、字を改めたものであるが、弟橘姫(オトタチバナヒメ)を祀る宮が近くにあり、この通りが、その参道に当たっていたからと聞く。また、弟橘姫が下りて来たからとも聞く。また、橘姫が川から上がって来たからとも聞く。

             (西区南堀江在)


「生業の聞書」目次/その9/その11

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