[なにわ大阪民俗資料館]
2005.3.12

玄関へ

論文一覧


「南浦江の寺院の石造物」

その12

田野 登

『大阪春秋 第112号』 大阪春秋社 2003.12 より



◇禁転載◇

後篇 −大阪市福島区鷺洲・東寺真言宗了徳院篇− (7)

三 石造物解説 (1) (以下敬称略)

(1)地元の崇敬者  了徳院と地元周辺地域との結びつきは深い。一例を挙げれば、山門傍らの1-Q碑に「奉納/門前石玉垣/鉄筋コンクリート高塀/土砂 北区中之島四丁目 岡島千代造「昭和二年七月 奉納/仝/西淀川区大仁町/黒田長三郎/奉納/仝/西淀川区浦江町/北村徳松/奉納/仝/此花区玉川三丁目・宮本富蔵」と刻字されている。この時の普請への奉納者に名を連ねる人たちは地元の錚々たる顔ぶれである。「岡島千代造」は、前回妙壽寺篇にもとりあげたが、「縞モスリン友仙製造業」とある地元屈指の実業家である(注3)。「黒田長三郎」は、地元の名士で、大正七(一九一八)年に在郷軍人模範会員表彰を受け(注4)、大正九(一九二〇)年には国勢調査委員(注5)、大正一二(一九二二)年に勤勉貯蓄奨励委員を歴任している(注6)。「北村徳松」は、仲介業を営み(注7)、大正六(一九一七)年四月には鷺洲町の一級町会議員にも選ばれている(注8)。「宮本富蔵」は、大字浦江西三ノ坪(現在の鷺洲一丁目)に田地を有してもいた資産家である(注9)

 戦後、了徳院の復興に寄与した崇敬者に小森親子がいる。父・小森(たもつ)、母かずえは、昭和三六(一九六一)年建立の、5-N石柱(一対)に「奉刻 弘法大師御言葉」を刻み、同年には、5-O大師像香炉花立供物台を奉納し、他に5-I地蔵堂香炉(一対)をも奉納している。小森家の住所は、大阪市福島区上福島北三丁目(福島区福島七丁目)で、聖天通商店街にある。昭和五一(一九七六)年三月十一日に、小森かずえは,1-P自然石に亡夫の遺言に従って「南無大師遍照金剛/願以此功徳 聖霊成仏道」を刻み奉納している。子息は、小森敏之で昭和三四年に青銅製狛犬(一対)を奉納し、昭和五六(一九八一)年建立の2-J心経石塔の奉納者御芳名には、「丸大食品(株)社長 小森敏之」とある。丸大食品(株)は、昭和四十年代、テレビコマーシャル「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」をヒットさせた企業である。小森敏之は、すでに戦前、証券会社・不破福蔵商店において経営的手腕の片鱗を見せていた。昭和二一(一九四六)年二月、復員当時、家族は鷺洲一丁目の借家に住み、後にその借家を工場にして鯨油を販売していたこともある。その彼は親譲りの信仰心が篤く、夢のお告げに観音像が立ち「魚肉でハム、ソーセージをつくれということだ」と悟り(注10)、上福島北三丁目に丸大食品工場として創業した(注11)

 他に地元企業で了徳院の崇敬者には線香の孔官堂があり、この会社も昭和五六(一九八一)年の2-J心経石塔の「般若心経壹巻写経奉納者」に名を連ねている。孔官堂は、テレビ番組「まんが日本昔ばなし」のスポンサーで、本社は福島区海老江五−六−一八にある。



(注3)大阪中央電話局 大正一五(一九二六)年『大阪電話番号簿』一一四頁
(注4)鷺洲町史編纂委員会 一九二五年『鷺洲町史』一五七五頁
(注5)(注4)一一四三頁
(注6)(注4)一二一三頁
(注7)大阪中央電話局 大正一五(一九二六)年『大阪電話番号簿』一七〇頁
(注8)(注4)一一〇四頁・一二四六頁
(注9)吉江集画堂地籍地図編輯部編纂 明治四四(一九一一)年『大阪地籍地図』土地台帳之部 北区二〇八頁
(注10)丸大食品(株)発行 一九八三年『疾風有情』五七頁、七九頁
(注11)『疾風有情』九六頁


「南浦江の寺院の石造物」目次/その11/その13

論文一覧

玄関へ