[なにわ大阪民俗資料館]
2005.1.15/1.22修正

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「南浦江の寺院の石造物」

その4

田野 登

『大阪春秋 第110号』 大阪春秋社 2003.3 より



◇禁転載◇

前篇 −大阪市福島区鷺洲・曹洞宗妙壽寺篇− (4)

3 解説

(2)近世後期の妙壽寺

 近世後期、妙壽寺は、弁天堂・毘沙門堂に参詣者が集った。弁財天は、かつては蓮池の小島に祀られていた。毘沙門天は、現在、本堂の右の室中に仮奉安されている。毘沙門天の信仰が盛んであったことは、今回の石造物調査によって確証を得た。毘沙門天は、軍神であって、福徳の神でもあるが、近世後期の妙壽寺にあっては、この両面が認められる。毘沙門天常夜燈一対には、「奉納 伊賀守堀利堅 天保九年戊戌二月初午」と刻まれている。伊賀守堀利堅とは、当時の西町奉行である。在任期間は、天保七(一八三六)年十一月八日から天保十二(一八四一)年六月二十日までである(注9)。補職してまもなく、大塩事件に遭遇している。大塩平八郎が蜂起したのは天保八(一八三七)年二月十九日のことで、この時、堀利堅は、鎮圧に当たり、大塩方はその日の夕刻に壊滅し、大塩父子はその後、三月二七日、自刃して騒動は終わる(注10)。毘沙門天の常夜燈奉納は、大塩事件のちょうど、一年後のことである。その心意は、大阪北郊の固めとして、この浦江の地の毘沙門天に祈願したと考えられる。

 また、毘沙門天には商人の信仰も篤かった。「寶榮講」は、毘沙門天の護持会である。その寶榮講による嘉永二(一八四九)年九月寄進の常夜燈に刻まれている寄進者名を近世後期の文献と照合した。その結果、七件の店舗の所在地と取扱商品が割り出された(注11)

@阿波屋吉兵衛 藍玉捌処・南堀江四丁目 大阪五四〇頁

A和泉屋源兵衛 荒物染草布 苔諸国積下し・立売堀壱丁目 大阪五四四頁

B嶋屋孫兵衛 萬船道具所・橘通八丁目 大阪五二八頁

C助松屋利兵衛 諸国仕入諸薬種細未所 瓦町なにはばし西入 大阪五一四頁

D伏見屋市兵衛 薬種商・道 修町二丁目堺筋西入北がは 大阪五一二頁

E大和屋吉兵衛 天保九(一八三八)年轆轤挽物仲間 浪叢H一一三頁

F大和屋徳兵衛 安政五(一八五八)年轆轤挽物 仲間 浪叢H一〇七頁

 さらに「大和屋徳兵衛」は、「わた類卸・備後町せんだん木筋南入」(大阪四七五頁)、「わた類卸・梶木町淀屋ばし西入る」(大阪四八六頁)ともあって、いずれであれ、綿の卸商でもある。店舗の所在地は、@からFに示したほかに「北堀江榮心講」の刻字もみられ、南北堀江に集中がみられるが、西横堀より東の商家にも及ぶ。判明した商家は、藍玉・薬種・綿などの商品を諸国への製造卸店であった。このように、浦江の毘沙門天は、大阪北郊という地の利にも恵まれ、大阪商人にとって福徳の神のひとつであった。

 この時代、いまひとつ見逃してはならないことは、文人たちの来訪である。墓碑のある萩原廣道は、著書に『源氏物語評釈』を遺した国学者であるが、暮らし向きは決して楽でなかったうえに、中年過ぎて持病にくるしんだ。彼の居住地を追ってみると、大阪の北の縁を転々としていたことがわかる。ときには、北野村太融寺(北区太融寺町)あたりに住み、終焉の地は白子町(西区土佐堀あたり)の寓居であった(注12)。白子町は土佐堀南側である。墓を建てたのは、「廣道没後程経て門人知音なんど相謀りて」であろうが(注13)、門人知音がこの地を選んだ理由に、彼ら文人たちが浦江のこの寺に遊んだことが考えられる。廣道の号に「葭沼」がある。まさに、町の喧噪からのがれ、ひなびた趣を感じさせる水郷の地が、この北郊の蓮池のある浦江でもあった。往時の妙壽寺は、文人墨客が杖を曳く格好の散策地であった。漢文の教師であった河野春遺徳碑が明治半ばに建立されたのも、そのような伝統からであろう。



(9)国史大辞典編集委員会 一九八〇年『国史大辞典』第二巻 五九九頁
(10)(注8)六〇六頁
(11)本文中の凡例:大阪:『大阪商工銘家集』弘化三(一八四六)年頃初版:大阪経済史料集成刊行委員会編 一九七七年『大阪経済史料集成』第一一巻 大阪商工会議所発行/浪叢H:浪速叢書刊行会 一九二九年『浪速叢書』第九巻「大阪商業史資料」
(12)一日会編集 二〇〇〇年『萩原廣道の書翰』 中尾松泉堂発行 年譜
(13)(6)と同じ。


「南浦江の寺院の石造物」目次/その3/その5

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