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光智院は同町字野中にあり、正しくは稲荷山光智院管巌寺なれども、院号は後光巌院の御下賜あらせられたるものなるを以て、時人盛に之を口唱し、遂に院号を以て通称とせらるゝに至れりといふ。京都天台宗蘆山寺末にして阿弥陀仏を本尊とす。脇士は觀音・勢至なり。もと元三大師を安置せしを以て、世人は元三寺とも呼べり。貞治三年浄聖院明道照源上人の開基にして、本尊は其の自作なる日本三体の一なり。其の後嘉慶年中に至りて焼失し、尋で再興ありしといへども、間もなく荒廃し、記録等を散失して、寺歴詳ならず。元禄十一年檀家と協力して円岩自教大和尚之を再建せり。依て同大和尚を中興第一世とす。明治四十二年七月三十一日の大火に建物全部焼失せしも、本尊・脇士及び元三大師像のみは災禍を免る。依て大正元年十一月二十八日本堂・向拝・庫裏・表門等を再建せり。外に大師堂・地蔵堂あり。地蔵堂に安置せる地蔵尊は、子安地蔵尊と呼ばれて妊婦は安産を祈れり。寺伝に依れば、往時の境内は広くして、蘆間池といへるありしが、境内縮小の為め境外となり、埋没せられて今はなきも、寺の東南なる長応橋といへる石橋は、長応大和尚に依りて同池に架せられたるものなりしが、今は池なくして同橋の名のみ残れりといふ。
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| 摂取院 |
摂取院は同町にあり、浄土宗一心寺末にして阿弥陀如来を本尊とす。元和元年本誉存年の開創なり。もと東成郡天王寺一心寺の塔中なりしが、明治十五年五月当所に移転せり。明治四十二年七月三十一日の大火に建物全部焼失せしかば、大正元年二月四日本堂・庫裏・表門・納家を再建せり。境内は六拾参坪七合なり。 |