月曜ドラマスペシャル(九十六年)

精神余命一年 白愁のとき

  原作:夏樹 静子   脚本:パルプンテ   演出:大山 勝美
  〈登場人物〉   進 藤 武 則(五十一才)          緒 形   拳      ○   武 井 桐 乃(二十八才)          黒 木   瞳      ○   進 藤 晴 子(十九才)           酒 井 美 紀      ○   八 木 智 之(五十一才)          山 本   学   高     野                山 路 和 弘      ○   恵 門 潤一郎(五十六才)          藤 田 敏 八      ○   そ  の  他
○ タイトルバック         眼下に広がる一面の丘陵地帯――。         その新緑の絨毯をなめるように、低空飛行のヘリコ         プターがフライトしていく。 ○ ヘリポート         着陸するヘリから、三人の男女が降りてくる。   進 藤「どうです、壮観だったでしょう」         ローターの風をなぎ払う勢いで、進藤武則の長広舌         が割り込んでくる。   進 藤「五十万坪、皇居の一・五倍の広さですよ。失礼だが、先       生ほどの売れっ子でも、近頃これだけの大プロジェクト       を手掛けた経験はそうないはずだ」         同行する建築家の恵門潤一郎、そしてアシスタント         の若い女に笑いかけ、   進 藤「尤もこのご時世に、ゴルフ場だリゾートマンションだと、       わざわざ自分の首を絞める馬鹿はいない。目指すのはた
      だ一つ、これからの高齢化社会をにらんだ老人のための
      街づくり、二十一世紀に対応した本格的なシルバータウ
      ンの建設だ。となれば、ここは今を時めく建築家の、恵
      門潤一郎先生の登場を待つ以外にない」
        押しの一手で鋭く窺うのへ、恵門は苦笑まじりの顔
        を傍らの武井桐乃に向ける。
  恵 門「どうだった、桐乃君」
  桐 乃「素晴らしい景観だと思います。広さもともかく、思って
      いた以上の環境でした。お世辞じゃなくスゴイ」
        桐乃はすっかり景色に魅せられた様子で、表情を輝
        かせて答える。
  進 藤「ヨシ、その一言で契約成立だ。この計画には我が『エメ
      ラルド開発』の社運がかかっている。先生、それから武
      井さんと言ったかな、ここはひとつ一蓮托生で、この国
      の役人どもの度肝を抜くような、自由自在、桁外れなス
      ケールのプランをドーンとお願いしますよ」
        磊落な声を上げ、進藤は強引な握手で、恵門と桐乃
        をペースに引きずり込んでいる。

○ 夜の繁華街・全景

○ 同・カラオケクラブ(夜)

        集合した社員たちで貸切りの店内。
     ♪おふくろさんよ おふくろさん
      空を見上げりゃ 空にある〜
        スター気取りの進藤が、思い入れたっぷりに十八番
        を歌い上げていく。
        やんやの喝采が響くなか、若いスーツ姿が恵門、そ
        して桐乃と名刺を交わしている。
  創  「進藤創と申します、お目にかかれて光栄です」
  桐 乃「(肩書を見て)その若さで専務さんということは」
  創  「進藤の長男です。うちはご覧のとおりの同族会社で」
        自嘲気味におどけてみせてふと、
  創  「先生、実際のところはどうなんでしょう」
  恵 門「うん?」
  創  「父は良くも悪くもああいうカリスマタイプです。専門家
      は、今度のことをどう評価されたか」
        聞きようによっては不躾ともとれる質問を、恵門は
        軽くかわして苦笑する。
  恵 門「僕は前々から、進藤武則という人物に興味がありまして
      ね。業界で噂の『青年将校』と、いつか革命を企ててや
      ろうと狙っていた。それが答えだな」
  創  「(煙に巻かれた感じ)……」
        と、桐乃の携帯電話の呼び出し音が鳴る。
  桐 乃「(片耳を塞いで大声)はい。ああ、ちょっと待って。先
      生、事務所からお電話です」
  恵 門「(受け取って)失礼」
        恵門、静かな一角を探して表に出ていく。
        一方、進藤の歌はますます盛り上がって、店内の注
        目を一身に集めていく。
  桐 乃「(微苦笑で)面白い方ですね」
  創  「はい?」
  桐 乃「森進一でしょう。らしいのからしくないのか、正体不明
      のところがまた進藤さんらしいというか」
  創  「(かすかに皮肉な表情)……」
  ホステス「社長さんのオハコなんです。歌詞を見なくても、空で
      最後まで歌えるのが自慢で」

○ 同・ステージ(夜)

        その言葉通り、字幕のスーパーには目もくれず、進
        藤が朗々と歌い継いでいく。
     ♪おふくろさんよ おふくろさん
      山を見上げりゃ 山にある〜
        と、一瞬、その動きが止まる。
  進 藤「(次が出てこない)……」
        思わず絶句して立ち往生。
        怪訝な面持ちで静まり返る店内に、あわてて背中の
        画面を振り向くと、
     ♪雪が降る日は ぬくもりを
      お前もいつかは 世の中に〜
        辛うじて旋律に追いつき、スターに戻っている。
  ホステス「(からかいの野次)どうしたのよ社長、本職ならシャ
      レにもならないわよ」
  進 藤「うるさい、ただの度忘れだ」
        そんな掛け合いのところへ、恵門が帰ってくる。
  桐 乃「電話、何か」
  恵 門「うん……それがちょっと、おかしなことになった」
        先ほどまでの上機嫌が一変した表情で、
  恵 門「(ステージを窺って)どうしたものかな」
  桐 乃「……?」

○ 恵門のオフィス(夜)

        進藤、その対面に恵門と桐乃――。
        場所を移した三者のあいだには、打って変わった重
        たい雰囲気が漂っている。
  桐 乃「(素っ頓狂に)キャンセル?」
  恵 門「そうなんだ。前から提出していた、イタリアの新空港建
      設の国際コンペに、僕の案が採用されてね。急遽向こう
      へ飛ばなければいけなくなってしまった」
  進 藤「(呆気に取られて)……」
  恵 門「進藤さん、そういうわけで仕事に優劣をつけるつもりは
      まったくないが、これは僕にとっても千載一遇のチャン
      スなんです。察してくれませんか」
  進 藤「(むっつりと)……」
  桐 乃「でも先生、あの丘陵地はとても……」
  恵 門「分かっている。だから、君を後任に推薦したい」
  桐 乃「え」
        怪訝に見ると同時に、進藤も恵門を窺っている。
  恵 門「昼間紹介した通り、彼女は僕の優秀な弟子でしてね。ラ
      ンドスケープ・アーキテクトとしては日本で一、二を争
      う才能の持ち主です。僕が保証します」
        進藤は苦笑に内心の思いを込めて、
  進 藤「ランドスケープ・アーキテクトと言えば、造園設計家の
      ことだ。建築家とは分野が」
  恵 門「その分、我々よりはトータルな目で、計画を捉える視点
      を持っている。彼女はそういう意味でも、今度の仕事に
      ぴったりの人材です。まあ、ちょっとした事情でこの仕
      事を遠ざかっていたんで、これが二年ぶりの復帰になる
      んですが。そうだったな、桐乃君」
  桐 乃「はい……。でも、あの、私は」
        思わぬ展開に口ごもる桐乃を、進藤は改めて値踏み
        して口の端をゆがめる。
  進 藤「先生、あんまりコケにしないでくれませんか」
  恵 門「え」
  進 藤「私は恵門潤一郎という名前が欲しいんだ。いくら優秀か
      知らないが、一級建築士の資格もない、しかもどういう
      わけでか現場を離れていたという未知の才能に、賭ける
      余裕はうちにはありません」
  恵 門「……」
  進 藤「結構ですよ、イタリアでもどこでも行ってください。確
      かにその方が先生のためにはずっといい。ただし、そち
      らから見れば二流の不動産屋でも、せめてそのトップに
      立ちたいというくらいの意地はある。お情けでお流れを
      ちょうだいするわけにはいきません」
  恵 門「僕はそんなつもりじゃないんですがね」
        成り行きで交渉が決裂して、気まずい雰囲気が一座
        を支配している。
  桐 乃「(口唇を噛んで)……」

○ 閑静な住宅街(夜)

○ 同・進藤の自宅(夜)

        その表に社用車が到着する。
        進藤が豪壮な一戸建ての表に降り立つ。
        と、派手なスポーツカーにもたれて、若い男女がキ
        スを交わしている。
  進 藤「晴子……」
        眉をひそめるのへ、娘の晴子がふと見返る。
  晴 子「あらパパ、早いじゃない」
        悪びれもせず笑いかけるのをねめつけて、
  進 藤「どこに行ってたんだ、こんな夜中まで」
  晴 子「そっちこそ、まだ明日にもなってない時間に。会社でも
      ツブれた」
  進 藤「何」
        思わず気色ばむ進藤を、晴子は意思の強い、蔑むよ
        うな目ではじき返す。
  晴 子「じゃあね、アツシ」
        一瞬で身を翻して、玄関へ向かう。
        進藤は挨拶もなしに走り去る車を見送って、憮然と
        その後に続いていく。

○ 同・リビング(夜)

        進藤が入ってくると、晴子が入れ代わりに飲み物を
        抱えて出てくる。
  進 藤「誰なんだ、あの男」
  晴 子「彼氏じゃなくて、カレシ。分かる、ハハッ」
        尻上がりの若者言葉で笑い飛ばし、他人事のように
        階段を上がっていく。
        ムッと見上げて振り返ると、妻の光江が反応も見せ
        ずに本を読みふけっている。
  進 藤「晴子のことはお前に任せてある。まだ大学に入ったばか
      りの未成年なんだ、もう少し……」
        と、光江、老眼鏡を外してパタンと本を閉じる。
  光 江「それを言うなら、あなたの方こそもっと創を可愛がって
      くださいな」
  進 藤「……どういう意味だ」
  光 江「別に。それだけの意味です」
        空洞のような眼がこちらを見据えている。
  光 江「今日、またお母さんに厭味を言われました」
  進 藤「うん?」
  光 江「目の前の私に向かって、うちの嫁は末っ子のわがまま育
      ちで困るんですよって。あれは、絶対に私だと分かって
      やっているお芝居です」
  進 藤「(うんざりと)その話なら医者も言ってるだろう、もう
      家族の見分けは完全に……」
  光 江「信じられません。やっとの思いで入院させて、少しは良
      くなるかと思ったけどとんでもない。このままじゃ、そ
      のうち私まで病気になってしまいます」
  進 藤「……なあ、和枝」
  光 江「カズエ?」
  進 藤「(シマッタ)……!」
        気づいて口をつぐむが手遅れ、光江は早くも疑惑の
        色を見せてねめつける。
  光 江「呆れた、また新しい愛人を作ったんですか」
  進 藤「違う」
  光 江「何が」
  進 藤「光江……」
        懸命に繕おうとする進藤は、突然、そんな自分がお
        かしくなって笑いだす。
  進 藤「どうかしてるな、今日の俺は。何で今頃、そんな昔の女
      の名前が出てきたのか。こりゃ、誰かに呪いでもかけら
      れたのかもしれないぞ。ハハハ」
  光 江「(侮蔑を含んだ目で)……」

○ エメラルド開発ビル・全景

○ 同・会議室

  進 藤「そういうわけで新しい建築家の人選に入ってほしい」
        取締役たちを前に、進藤が演説をぶっていく。
  進 藤「幸い、ゼネコンの数社がいい感触を示している。うちの
      実績から言っても、銀行のほうは心配ない。今が『エメ
      ラルド開発』の矜恃というやつを、誇らしく宣言すると
      きだ。歴史に名前を残すつもりで頑張ってくれ」
        が、重役たちは口をつぐんで乗ってこない。
  進 藤「……張り合いのない連中だな。このプロジェクトは」
  創  「(遮るように)反対します」
  進 藤「うん?」
  創  「私は恵門先生が下りたことで、話は凍結されたものと思
      っています。これは他の重役たちも同じ……」
  進 藤「何」
        虚を衝かれて見るが、誰も目を合わせてこない。
  創  「こんな時期にリスクが大きすぎます。うちはいま公共事
      業の受注だけで、十分余力を持ってやっている。この不
      況時にドン・キホーテを買って出るのは、自殺行為に等
      しいんじゃないでしょうか」
  進 藤「(顔色が変わる)……」
  創  「大体、一年でプランを熟成させようという話からして無
      茶ですよ。誰が見ても机上で二年、完成までには少なく
      とも三、四年はかかるプロジェクトだ。何を焦ってるの
      かしりませんが、うちは一匹狼じゃない。いまは他と一
      緒に息をひそめていればいいんです」
  進 藤「……お前は馬鹿かッ!」
        瞬間で怒りを迸らせる進藤が、力任せに机を叩く。
        その勢いに室内が一挙に緊張して、
  進 藤「うちがここまで生き残ってきたのはどうしてだ。今のこ
      の時代が来るのを見据えて、踊らないできたからじゃな
      いか。これだけ偽者どもが馬脚を露してる時代だぞ。こ
      んな時だからこそ打って出るんだ」
        怒りに任せた獅子吼が他を圧していく。
  進 藤「お前たちは俺のことを、独断専行だと言って陰口を叩く
      が、そうさせているのはお前らのその優柔不断だ。誰が
      何と言おうと、このプロジェクトは推進する。これは社
      長命令だ、反対は受け付けない!」

○ 同・社長室

        進藤、創と常務の甲斐を伴って戻ってくる。
        デスクにつく表情が、一瞬子供を見る親の柔らかい
        それに変化する。
  進 藤「創、まだ孫は出来ないのか」
  創  「え」
  進 藤「光江が寂しがってる。父親に逆らうのも結構だが、たま
      には実家に顔でも出したらどうだ」
  創  「(素直に聞けない)……」
  進 藤「(秘書に)めぐみちゃん、コーヒー三つ」
        と、
  創  「そんな時間はありませんよ」
  進 藤「うん?」
  創  「ぐずぐずしてると遅刻です」
        壁の時計を確かめる創が、常務を促してうっそりと
        ドアへ向かっていく。
  進 藤「……おい、何の話だ」
  創  「……?」
  進 藤「次の予定は、昼飯を食いながらの勉強会だろう」
        疑問もなく言い募るのを、創、甲斐、秘書が怪訝な
        面持ちで見つめ返す。
  甲 斐「あの、その前に安西建設の副社長との会見が」
  進 藤「誰が決めたんだ。聞いてないぞ」
  創  「何言ってるんだよ。親父が」
        つい地の出た創があわてて言い繕って、
  創  「社長が直接アポイントを取った会見でしょう」
  進 藤「俺が?」
  甲 斐「そうですよ。さあ急がないと」
  進 藤「いつだ」
  創  「参ったな。一昨日その電話で」
        苛立たしげに振り返ると、進藤が狐につままれたよ
        うな表情でたたずんでいる。
  進 藤「……そんな馬鹿なことがあるか。俺は覚えがないぞ」
        独り言のように呟くその顔色が、正体の掴めない不
        安で曇っている。
  創  「(甲斐と顔を見合わせて)……?」

○ 大学病院・全景

○ 同・八木の研究室

  八 木「それはまたお前さんらしくもない話だな」
        白衣姿の八木智之が、友人関係を窺わせる笑顔で進
        藤の訴えを聞き流す。
  八 木「珍しく定期検診に来たと言うから、おかしいとは思った
      んだが、本当の狙いはそっちか」
  進 藤「正直、二度目までは気にも留めていなかったんだ」
        もどかしげに頷く進藤の表情からは、心なしかいつ
        もの威勢が消えている。
  進 藤「ところがその三度目の約束というやつが、どうにも記憶
      にない。半信半疑で手帳を見ると、確かに自分の字で予
      定が書いてある。冗談にしても質が悪すぎる。こっちに
      はそんなメモを取った記憶すらないんだ」
  八 木「(聞いている)……」
  進 藤「若い頃、酒で正体を失った経験は何度もあるが、あの空
      白感とはまるで違う。何と言ったらいいのか、地面に全
      く足がついていないような、妙な不安感が」
  八 木「睡眠はどうだ」
  進 藤「……そう言えば、最近夜中にちょくちょく目が覚めるよ
      うになった。全体に眠りが浅くなっているというか。一
      日中苛々している日もあって、気がつくと無闇に部下を
      叱り飛ばしたりしている」
  八 木「なるほど」
        頷きながらカルテにペンを走らす八木、その顔色が
        かすかに真剣みを帯びている。
  八 木「ま、原因はお定まりのストレスだろう。とりあえず睡眠
      薬を出しておくから、一週間ほど様子を見てまた」
  進 藤「……睡眠薬ね。そんなもののお世話になるなんて、考え
      たこともなかった」
        受けて笑う八木が区切りをつけようと、
  八 木「昔のようには行かないさ。お互い五十の坂を越えた身だ、
      こっちも情けないほど物忘れはしょっちゅうだよ」
        さっさとカルテを片づけて、旧友同士の打ち解けた
        笑顔を向けている。

○ 同・中庭

        進藤と八木が親しげな余韻で散策していく。
  八 木「その後、おふくろさんの具合はどうだ」
  進 藤「うん?」
  八 木「お元気なのか」
  進 藤「(肩をすくめ)……まあ、先方からは何も言って来ない
      し、悪くはないんだろう」
  八 木「その様子じゃ、見舞いにも行ってないな。ああいう病気
      には家族の思いやりが一番なんだが」
  進 藤「その説教なら、毎晩光江から聞いてるさ」
        閉口したように見返ると、八木がしきりに耳たぶを
        掻いているのが目に入る。
  進 藤「(ふと)……」
        眉をひそめて見つめる進藤の胸に、改めて不吉な予
        感がよみがえってくる。
  進 藤「八木」
  八 木「うん?」
  進 藤「古い付き合いを信じて聞く。何が起こってるんだ」
  八 木「え」
  進 藤「お前には高校のころから、何か困ったことがあると耳た
      ぶを掻く癖があった」
  八 木「(手が止まる)……そうだったかな」
  進 藤「俺はどうかしちまったのか」
        と、
  八 木「(一笑に付して)みかん、電車、27」
  進 藤「……?」
  八 木「覚えたか」
  進 藤「……みかん、電車、27」
  八 木「100から7を引くと」
  進 藤「93」
  八 木「もう一回7を引くと」
  進 藤「……86。おい?」
  八 木「続けて」
  進 藤「(訳が分からないまま)79、72、65、58……」
  八 木「(頷いて)さっきの三つの単語は」
  進 藤「……みかん、電車、27」
  八 木「満点だ。何の問題もない」
        悪戯っぽく笑いかける八木が、
  八 木「簡単な痴呆の判定テストだよ。他にも幾つか設問はある
      が、そのスピードなら平均以上だ。進藤武則はまだまだ、
      憎まれっ子で世に憚るってことさ。ハハハ」
  進 藤「痴呆?」
  八 木「うん?」
  進 藤「痴呆のテストと言ったか」
  八 木「……だから、ものの例えだよ。気にするな」
  進 藤「(小骨が刺さった感じで)……」

○ 海沿いの国道

        進藤の運転する乗用車が疾走していく。
  進藤のN「それが、その病気のことを漠然と意識した、最初の出
      来事だった。正体の掴めない不安感が、重く淀んだしこ
      りのように膨らんで、私の足は自然に母親が入院する特
      別養護の老人ホームに向かっていた」

○ 小高い丘の上

        痴呆介護専門の老人ホーム『×××園』──。
        そのロータリーに横付けて進藤が降り立つ。
  進 藤「(建物を見上げて)……」
        久しぶりに訪れる施設へ足を踏み入れていく。

○ 同・施設の廊下

        進藤、病室を目指して歩いていく。
        人形に子守歌を歌いながら徘徊する老女。
        ソファーで眠りこけている老人。
        虚ろにテレビを見ている老人たちの集団。
        さまざまな痴呆に冒された姿がすれ違っていく。
  進 藤「(目を背けて)……」
        と、突き当たりのごみ箱に、立ち小便をしている老
        人の姿を目撃する。
  看護婦「あらあら、田所のおじいちゃん、またやっちゃった」
        唖然とたたずむ傍らを、看護婦がすり抜ける。
  看護婦「そうだよね、火事になると困っちゃうもんね」
        叱るというよりはなだめる感じで、老人の肩を抱い
        て病室へ消えていく。
  園長の声「あの老人は、元消防夫なんです」
        声に見返ると、白衣姿の女医が立っている。
  進 藤「(軽く一礼)園長先生……」
  園 長「夜昼となく、ああやってごみ箱にオシッコをして回って。
      誰にも怒ることなんか出来ません」
  進 藤「(複雑に聞いて)……」

○ 同・個室

        ドアのプレートに『進藤友子』の名前。
  進 藤「おふくろ、俺だ」
        おざなりにノックして顔を覗かせる。
        と、枕元を探していた老女が、警戒心を露わにして
        キッとねめつける。
  友 子「……あんただね、財布を盗んだのは」
  進 藤「え」
  友 子「ドロボー」
  進 藤「……!」
  友 子「(いきなり絶叫)ドロボー、ドロボー!」
  進 藤「おふくろ!」
        なおも叫ぶのへたじろいで立ち往生。
  園 長「(気配に顔を出して)どうしました」
  友 子「(必死の形相で)先生。この男だ、こいつが私のお金を
      盗んだんだ。このヤロー」
        殴りかかるのをふわりと止めて、
  園 長「またやられたの。どうして進藤のおばあちゃんの財布だ
      けが、毎日無くなるんだろう」
  看護婦「きっと、どこかに置き忘れたのよ。一緒に見てあげるか
      ら、もう少し探してみよう。ね」
  友 子「違う、この男が盗んだんだ。ドロボー、ドロボー!」
        園長の腕を振りほどこうと暴れるのを、
  進 藤「(茫然と見つめて)……」

○ 同・園長室

        進藤、園長──。
  園 長「大切なものだと思うから、秘密の場所に隠す。その途端
      に場所はおろか、隠したことすら忘れてしまう」
  進 藤「元は金銭には無頓着なほうだったんですが……」
  園 長「他に大切なものがあったからですよ。今のお母さんには
      恐らく財布が一番大切なものなんでしょう」
  進 藤「(含むものがある口調に)……?」
  園 長「進藤さん、いま現在、全国で三万人の痴呆老人たちが入
      所の順番を待っています。五年間の自宅介護で入れたお
      たくは、まだ運がよかったのかもしれない。でも、厄介
      払いが出来たと思ってもらっては困ります」
  進 藤「……」
  園 長「来世紀の初めには、痴呆症の人口が百五十万人に達する
      だろうと言われています。少なく見積もってもその二倍
      から三倍、下手をすると一千万人近い人が、何かの形で
      痴呆とかかわり合うことになる。これはいじめと同じ問
      題なんです。学校まかせ、病院まかせにしてそれで済む
      という、簡単な話じゃないんですよ」
        厳しく告げる表情がふと和らいで、
  園 長「お忙しいのは分かりますが、せめて一ヵ月に一度くらい
      は。たとえ息子さんと分からなくても、それでも患者さ
      んには違うものなんですから」
  進 藤「(苦く黙り込んで)……」

○ 進藤の自宅(夜)

        進藤と創が、疲労困憊した様子の友子を支えて、玄
        関にもつれ込んでくる。
  光 江「(迎えて)どこに行ってたんですか、お母さん」
  進 藤「(憮然と)家へ帰りたかったんだそうだ」
  光 江「家へって、ここがお母さんの家じゃないですか」
  友 子「……私の家はこんなハイカラなところじゃないよ」
        フロアに座り込む友子は、疲れも手伝ってか駄々を
        こねて上がろうとしない。
  友 子「お便所もお風呂も、どこにも見つからないんだもの。何
      がどこにあるか、全然分からないんだもの」
  進 藤「だから、おふくろのために建て替えたんだって、何べん
      も言ってるだろう。ほら」
        苛立たしげに立たせる進藤の鼻がピクリと動く。
  進 藤「……おい、何か匂わないか」
  創  「……漏らしたらしい、大きいほうを」
        途端──、
        カッと頭に血が昇る進藤、汚らわしいものでも放る
        ように友子を妻に押しつける。
  進 藤「冗談じゃねえぞ、男が母親の下の世話なんか出来るか。
      光江、女同士だ、お前に任せたからな!」
        憤然と階段を登って、二階の書斎へ消えていく。
  光 江「あなた……!」
        そんな光景に電話のベルの音がかぶって──。

○ エメラルド開発・社長室

  秘 書「社長、聖愛医科大学の八木先生からお電話です」
  進 藤「(受け取って)進藤だ」
  八木の声「やあ、明日の再来のことなんだが、五階の脳神経科の
      ほうに顔を出してもらえないか」
  進 藤「うん?」

○ 大学病院・研究室

  八 木「(気軽な口調)そっちの方が設備も整っている。どうせ
      なら、人間ドックのつもりで頭の検査をしてみよう」
  進藤の声「頭?」
  八 木「いや、そんな大袈裟なもんじゃない。こんな機会に、自
      分の頭のなかを覗いておくのも悪くないと思ってね」

○ 元の社長室

        あくまで軽口を装った声が続いて、
  八木の声「それと、ついでに一つテストを受けてもらう」
  進 藤「……?」
  八木の声「WAIS、ウェクスラー成人用知能検査といって、い
      つかの100引く7よりは、もう少し精度の高い大人の
      IQテストだ。念のためだよ、待ってるぞ」
  進 藤「八木……」

○ ブックセンター

        気鬱そうに入ってくる進藤が、医学書のコーナーを
        探して書棚の前に立つ。
       『痴呆の事典・高齢化社会に向けて』──。
        一冊の単行本の背表紙が目を引く。
  進 藤「(見つめて)……」
        抜き取って、ページをめくる手がふと止まる。
  進藤の声「痴呆、いわゆるボケ症状の九十パーセントは、脳血管
      性の痴呆とアルツハイマー型痴呆、及び両者の混合型に
      よって占められる。この内より厄介なのは、いまだに原
      因が解明されず、有効な治療法も確立されていない、ア
      ルツハイマー型痴呆症である」
        読み進む声が真剣みを帯びてくる。
  進藤の声「さらに深刻なのは、四十代、五十代、稀に三十代でも
      起こるという、若年性アルツハイマー症のケースである。
      働き盛りの真っ只中で突発するこの痴呆症は、老人性の
      それとは明らかに異なるもので、一般には遺伝で起こる
      という学説が支持されてきた」
        進藤は不安の正体に気づいて立ち尽くす。
  進 藤「……まさか!」

○ 大学病院・レントゲン室

        SPECT。SINGLE PHOTON EMI
        SSION CT──。
        そのスキャナーのベッドが動きだし、進藤が暗いト
        ンネルの中へ吸い込まれていく。

○ 同・CTの内部

        闇の空間に機械の回る音だけが反響していく。
  進 藤「(思わず目を閉じる)……」

○ 同・モニター画面

        進藤の脳の断面が、次々に映し出されていく。

○ 同・モニター室

        その画像を八木以下の医師たちが注視している。
  八 木「(一転して厳しい表情)……」

○ 同・検査室

        柄にもなく緊張した進藤が、クリニカル・サイコロ
        ジストの女医と対している。
  女 医「まず質問に答えていただきます。東京から台湾へ旅行す
      ると、どの方向へ行くことになりますか」
  進 藤「南……南西かな」
  女 医「戦後の歴代アメリカ大統領を、五名挙げて下さい」
  進 藤「ジョン・F・ケネディ、クリントン、ニクソン……」
        ちょっと答えに詰まって、
  進 藤「痴呆症に罹ったのがレーガンで、ピーナツ農場のあの白
      髪は何と言ったかな。ほら、民主党の……」
        喉まで出かかったのがもどかしい。
  女 医「(淡々と続ける)八人で六日かかる仕事を、半日でやる
      には何人必要ですか」
  進 藤「え、あ……すみません、もう一度」
  女 医「八人で六日かかる仕事を、半日でやるには何人」
  進 藤「……一日でやるには六倍の、六八、四十八人が必要だか
      ら、半日ではその二倍の九十六人だ」
  女 医「材木とアルコールはどのように似ていますか」
  進 藤「材木とアルコール?」
  女 医「そうです。二つの似ているところを答えてください」
  進 藤「ちょっと待ってくださいよ……ええっと、燃えるところ
      かな。そう、両方とも炭素を含んでいる」
  女 医「(頷いて)では、次は道具を使って行います」
        断る女医が、鞄の中から新たな用紙を何枚かと、色
        のついた積木を取り出している。

○ 同・中庭

        解放されて出てくると、外は抜けるような青空。
        進藤、眩しそうに見上げて吐息、何気なく目につい
        た野外用の椅子に腰を下ろす。
  進 藤「カーターだ!」
        一瞬、先ほどの名前を思い出して叫ぶ。
  進 藤「クソッ、何でそんな簡単な名前が……」
        と、
  桐乃の声「その椅子、どうですか」
  進 藤「え」
        聞き覚えのある声に見返ると、
  進 藤「(軽い驚き)武井さん……!」
  桐 乃「しばらくでした」
        意外な人物が屈託なく微笑みかけている。
  桐 乃「どうですか、座り心地」
  進 藤「ああ……」
        改めて自分の座った椅子を確かめて、
  進 藤「そう言えば、腰を下ろした途端に忘れていたことを思い
      出させてくれた。魔法の椅子ですか、これは」
  桐 乃「まさか。それ、私が作ったんです」
  進 藤「え」
  桐 乃「寄付させてもらおうと思って持って来たんですけど、な
      かなか思うようなものが出来なくて。やっぱり趣味の片
      手間仕事じゃ、駄目なんですね」
        何のわだかまりもない表情が新鮮で美しい。
  進 藤「それにしても驚いたな、こんな所で」
  桐 乃「その後、いかがですか」
  進 藤「うん?」
  桐 乃「先生の代わり」
  進 藤「ああ……」
        進藤は遅まきながら、軽い後悔にとらわれる。
  進 藤「あの時は失礼しました。どうも気分が苛々していて」
  桐 乃「先生も悪いんです、私なんかを代わりになんて」
        おどけて微笑みかけ、隣に腰を下ろす。
        いい天気だと大きく伸びをする無心さに、進藤はふ
        と聞いてみようかと思いつく。
  進 藤「あの五十万坪、あなたならどう造ろうと思った」
  桐 乃「え」
  進 藤「いや、半日コースの人間ドックというやつでね。結果が
      出るまで、何をしようかと」
  桐 乃「私は暇つぶしですか」
  進 藤「そういうわけじゃないんだが……参ったな」
        その笑顔に釣られて、桐乃は考え込んでいく。
  桐 乃「そうですね……まず二十万坪は、無条件に自然のままを
      残すかな」
  進 藤「……」
  桐 乃「次の二十万坪を、里山に換えて」
  進 藤「里山?」
  桐 乃「人と他の生き物が一緒に棲む、境界のような森です。と
      なりのトトロみたいな空間って言うのか。光が当たって、
      風通しがよくて。微生物も植物も動物も、すべての生き
      物が絶妙のバランスで息をしている場所。そんな空間は、
      もう人工的に作りなおすしかない」
  進 藤「なるほど」
  桐 乃「それから、残りの十万坪を人間にもらいます」
  進 藤「(聞いている)……」
  桐 乃「造園の世界では、良く景観十年、風景百年、風土千年と
      いう言い方をします。一つの文化風土に根ざした街づく
      りは、千年単位で考えなければ意味がない」
  進 藤「……」
  桐 乃「あの丘陵には、それを実現できるだけの大きな魅力があ
      ります。最初に目に見える風景があって、建物もその中
      の一つの景観として、全体の調和を乱さずにおさめるこ
      とができる。特にあの一帯には、人生経験を経てきたお
      年寄りが住むのに、変わらない懐かしさのようなものが
      あふれている。その風土はきっと未来も変わらない。私
      はそれを絶対に壊したくありません」
  進 藤「(じっと見つめて)……」
        桐乃はその視線に気づいて、恥ずかしそうに笑う。
  桐 乃「生意気ですね」
  進 藤「いや」
        否定する進藤がなかば独り言のように、
  進 藤「……もしかすると、私はあなたのことを見くびっていた
      のかもしれないな」
  桐 乃「はい?」
        と、
  八木の声「こんな所にいたのか」
        振り返ると、八木がうっそりと立っている。
  八 木「お待たせした」
  進 藤「うん……」
        一挙に現実が戻って、進藤は憂鬱に立ち上がる。
  進 藤「(ふと)そうだ、明日会社に来てもらえませんか」
  桐 乃「え」
  進 藤「あなたには是非もう一度会って、じっくりと話を聞いて
      みたい。場合によっては、その場で契約書に判をついて
      もらうことになるかもしれない。待ってますよ」
  桐 乃「進藤さん……?」

○ 同・八木の研究室

        進藤の向かいに八木、そしてもう一人の医師が対面
        して腰を下ろす。
  八 木「脳神経科の高野先生だ。今日は専門医の立場から、ずっ
      と付き合っていただいた」
        紹介もそこそこにファイルをめくって、
  八 木「まずWAISテストの判定だが、言語性検査のIQが1
      22、平均が100とされるから相当優秀だ」
  進 藤「問題はもう一つの、道具を使ったほうだな」
  八 木「うん?」
  進 藤「少し時間が足りなくてあせった」
  八 木「……そうか。積木や図形の問題は、むしろお前さんの専
      門分野に近いはずなんだが」
  進 藤「(意表をつかれて)……」
  八 木「確かに動作性IQのほうは、出来にバラつきがあって低
      めの判定が出ている」
  進 藤「幾つだ」
  八 木「90」
  進 藤「……ずいぶん低いな」
  八 木「まあ、一応正常の範囲ではあるんだが」
        奥歯にものが挟まったような口調に、見ると八木が
        しきりに耳たぶを掻いている。
  進 藤「(じっと見つめて)……」
  八 木「(視線に気づいて)……」
        八木、あわててその手を元に戻す。
        気詰まりな沈黙──。
        進藤は暗澹としたものに襲われながらも、気持ちを
        抑えようと静かに尋ねる。
  進 藤「俺はおふくろと同じ病気に罹ってしまったのか」
  八 木「え」
  進 藤「少し調べたんだ。あの病気は遺伝するという説があるこ
      とも知っている。本当のことを教えてくれ」
        真っ直ぐに刺さる問いに、八木は一瞬たじろいだよ
        うに視線を逸らす。
  八 木「……出来れば、奥さんにも話を聞いてほしいんだが。こ
      れは高野先生も同じ意見で」
  進 藤「馬鹿いえ」
        苦しそうに告げるのを笑い飛ばして、
  進 藤「俺たちの結婚生活がどういうものか、良く知っているは
      ずだ。光江が涙を流すとでも思ってるのか」
  八 木「……」
  進 藤「(高野に)先生、覚悟は出来ているつもりです。八木に
      言えないのなら、先生の口から」
  高 野「(八木を窺って)……」
  進 藤「どうしたんです、私は本気ですよ」
        重く淀んだような沈黙に、進藤は二人の医師を見据
        えて言葉を絞り出す。
        と、
  高 野「普通、こういうケースは殆どないんです」
  進 藤「……?」
  高 野「大部分の例では、先に周囲が異常に気づきはじめる。と
      ころがその頃には、本人はもう病に冒されていることす
      ら理解できなくなっている。進藤さんのような疑いを抱
      いた人が、本人の意思で直接病名を確かめたいと希望す
      るケースは、極めて珍しい。というより、私たちにとっ
      ても初めての体験なんですよ」
  進 藤「(その口調に)……」
  高 野「しかしこれからの高齢化社会、こういうケースは確実に
      増えてくるでしょう。当然、医者にも信念に基づいた真
      摯な接し方が要求される。これをスタディ・ケースにと
      言っては語弊があるが、私は進藤さんの意思を尊重すべ
      きだと思う。どうですか、八木先生」
  八 木「(苦く頷く)……」
        瞬間、進藤の全身を戦慄の予感が駆け抜ける。
  進 藤「すると……」
        高野は一瞬言いよどむが、意を決したように、
  高 野「進藤さんにはわずかながら、早期発症型のアルツハイマ
      ー病の疑いが認められます」
  進 藤「(思わず中空を仰ぐ)……」
  高 野「ただし、疑いであって確定診断ではない。確定診断はあ
      くまで、脳の剖検、つまり解剖による病理的組織診断に
      よらなければならないとされていますから」
  進 藤「(眩暈にも似た感覚)……」
  八 木「お前さんの脳の片側には、多少の血流の低下が認められ
      る。そのわずかな低下と、IQテストの結果と、それか
      らお前の母親のことも参考として加味した結果、残念な
      がらそういう診断を下さざるをえなかった」
        痛恨の思いを絞る八木の声が、身じろぎも忘れた進
        藤の耳に遠く響いている。

○ 居酒屋(夜)

        いきなりあふれる喧騒──。
        そこだけ取り残されたように、進藤と八木が一隅で
        酒を酌み交わしている。
  進 藤「俺はこれからどうなっていくんだ」
        悲痛みを帯びた問いに、八木は答えられない。
  進 藤「蛇の生殺しは許さないぞ。あそこまで残酷な告知をした
      んだ。俺はこれからどうなる」
  八 木「……アルツハイマー病の症状は三期に分けられる。まず
      記憶が次々に失われて、それが段々と理解や判断能力に
      まで及んでくる。中期になると、周囲にいる人間や物事
      の判別がつかなくなり、日常生活にも大きな支障をきた
      すようになる。そして自分が自分であることの認識すら
      失ってしまって、それが末期になると」
  進 藤「運動能力もなくした末に、寝たきりで死を待つだけの廃
      人になる。おふくろを見てきてるんだ、それぐらいは俺
      にも分かっている。薬は、治療法はないのか」
  八 木「脳の働きを高める薬はある。だが根本的な治療薬はない。
      この病気はまだ、原因も諸説紛々の段階なんだ。お前が
      言う遺伝で起こるという説の他にも」
  進 藤「アルミが原因だという説もある。本で読んだよ」
  八 木「何より、アルツハイマー病自体が実態のない、何種類か
      の違う病気だという学者もいるくらいだ」
  進 藤「……要するに他の、例えば癌や心臓病ほどには、正体は
      分かっていないということか」
        二人は辛い会話を、酒に紛らして対していく。
        その店の喧騒が次第に小さくなって──、
  進藤のN「人間の脳には約百五十億個の神経細胞がある。二十歳
      を過ぎるとどんな健康な人間の脳でも、そのうち十万個
      ずつが毎日失われ、二度と再生することはないと言われ
      る。アルツハイマー病とは、その脳神経細胞の大量殺人
      事件なのだと、高野医師が別れ際に告げた。だが、私が
      一番知りたいことはそんなことではなかった」
        再び喧騒が戻って、進藤はさりげなく切り出す。
  進 藤「時間は」
  八 木「(敏感に)うん?」
  進 藤「自分が自分であることを認識していられる時間。そうだ
      な、精神余命とでも言うのか」
  八 木「精神余命……」
  進 藤「俺が壊れてしまうまでに残された時間は、あと」
  八 木「……そこまで言わせるのか」
  進 藤「(見据えて)頼む、教えてくれ!」

○ 進藤の自宅・晴子の部屋(夜)

  進 藤「一年だぞ、一年」
        進藤がろれつの怪しい舌で、
  進 藤「癌と同じで、若い分ボケの進行も早いんだと」
        ゆらり、晴子のベッドに腰を下ろそうとする。
        と、
  晴 子「座らないで。私のベッドなんだから」
        パジャマ姿の晴子が拒絶するように、ミニコンポの
        スイッチを入れる。
        進藤は衝撃に酔いも手伝ってか、構わずに大声でが
        なりたてていく。
  進 藤「だからと言って死ぬわけじゃないのが、なお始末に悪い。
      信じられるか、俺の同級生だぞ。何が悲しくて、男が五
      十そこそこで赤ん坊と同じになって……」
  晴 子「うるさいな、勝手に入ってきて。他人の心配してる暇が
      あったら、おばあちゃんのこと考えたらどうなの。お酒
      くさいのは嫌いなの、出てってよ」
        音楽のボリュームを上げ、ヘッドホンを当てるとも
        う耳を貸そうとはしない。
  進 藤「(一気に酔いがさめて)……」

○ 同・進藤の書斎(深夜)

        進藤、蹌踉とした足取りで入ってきて、デスクに向
        かうとじっと中空をにらむ。
  進藤のN「精神余命一年。その宣告が繰り返し甦って、恐ろしい
      ほどの狼狽、困惑が、圧倒的な勢いで腹の底から押し上
      げ、全身をからめ捕られるような気がした」
        深い吐息──。
        ふと手帳を取り出すと、何事かを書きつけていく。
  進藤のN「何をどうすればいいのか。みっともなく混乱しながら
      も、私はまずこれからのすべての行動を、克明にメモと
      して残すことに決めていた。文字というものを忘れ、そ
      こに記されたすべてのことを忘れ去ってしまう日までに、
      私にはまだやり遂げなければならないことが残されてい
      る。一つは必ず例のプロジェクトを実現させること。完
      成を見ることは恐らく出来ないだろうが、せめてその端
      緒につくまでは。そしてもう一つは……」

○ エメラルド開発・社長室

  進 藤「(素っ頓狂な声)『家族の絆』?」
  桐 乃「おかしいですか」
        ランドスケープのラフスケッチ画を挟んで、進藤と
        桐乃が対している。
  進 藤「いや、おかしいというよりは驚いた。あなたに似合うよ
      うな気もするが、まったく似合わない気もする。よりに
      よって、テーマはそれかと」
  桐 乃「人によっては、古くさいって顔をしかめるだろうし、ク
      サイって笑われるかもしれませんけど」
  進 藤「(茶化して)さしずめ、私はその筆頭だ」
  桐 乃「でも、例えば老人のための街は、もうアメリカで実践さ
      れています。そこは確かに福祉の行き届いた理想郷に見
      えますけど、やっぱり若い世代とのコミュニケーション
      不足という、大きな問題を抱えている」
  進 藤「……」
  桐 乃「結局、老人だけの街とか、子供だけの街とか、男だけの
      街とか女だけの街とか、そんなものはいびつなんだと思
      います。きれいも汚いもない、いろんな喜怒哀楽が混じ
      り合って初めて一つの街になる。だから……」
  進 藤「今度の計画はコンセプトを立て直すべきだと」
  桐 乃「ええ」
  進 藤「(苦笑して)まあ、最後まで妥協しないことだ。これか
      ら、こっちのわがままに閉口することになる」
  桐 乃「……?」
        進藤は改めて桐乃のスケッチを観察していく。
  進 藤「気に入らないんだよ、このイメージ画は。まだまだ直し
      てほしいところが山ほどある」
        口やかましい注文主の顔になって宣言している。

○ 湾岸のホテル(夜)

        そのラウンジバー──。
        ゆったりと落ちついたボックス席で、進藤と桐乃が
        グラスを傾けていく。
        仕事が一段落した二人のあいだには、昼間とは違う
        くつろいだ雰囲気がある。
  進 藤「(ぽつり)……案外そういうものかもしれないな」
  桐 乃「はい?」
  進 藤「いや、百年単位、千年単位で住まいを考えると、変わら
      ないのは結局、『家族の絆』という当たり前の人間関係
      だけなのかもしれない」
  桐 乃「……」
  進 藤「俺は父親を知らずに育ってね」
        自然に言葉が口をついて、進藤は淡々と独白する。
  進 藤「おふくろがいま流行りの『未婚の母』というやつで、ほ
      とんど女手一つのまま育てられた」
  桐 乃「……」
  進 藤「定石どおりにグレた時代があって、あと一歩で少年院と
      いう羽目になった。その時の、裁判所でのおふくろの証
      言は凄まじかった。俺はこんなに寂しくて、こんなに激
      しい女の血を引いているのかと、目から鱗が落ちた。こ
      の女から生まれたのなら、俺は大丈夫だと」
  桐 乃「(何かが響いて)……」
  進 藤「その母親が六十幾つでボケてしまった」
  桐 乃「え」
  進 藤「早発性のアルツハイマー型痴呆。気が付いた時には、も
      う息子の顔も見分けがつかなくなっていて」
  桐 乃「……」
  進 藤「向こうではあの病気のことを、神の残酷な悪戯というら
      しい。寒けがするほどピッタリの言葉だ。ちょうど仕事
      が軌道に乗りはじめていたころで、そんなもの見たくも
      聞きたくもない。迷いもせず、女房に介護を任せた。五
      年間のすったもんだが続いた末に、ようやく特別養護の
      老人ホームに空きが出た。待ってましたとその施設に放
      り込んだ。おふくろはまだ、そこで生きている」
  桐 乃「(屈折を感じ取って)……」
  進 藤「俺は本当に欲しかったものを手に入れたのか。答はノー
      だ。この歳になってまだ、『家族の絆』という何でもな
      いようなものに、そっぽを向かれたままでいる」
        皮肉めかすと不味そうに顔をしかめて、一気にグラ
        スを呑み干していく。
  桐 乃「(虚空に目を泳がせて)……」

○ 同・付近の桟橋(夜)

        進藤と桐乃が酔いを冷ますようにたたずむ。
        静寂──。
  桐 乃「(ぽつん)……半年前に、義理の父を亡くしました」
  進 藤「……?」
  桐 乃「進藤さんとお会いしたあの病院で。癌でした」
  進 藤「そう……」
  桐 乃「結婚した途端にその父が倒れて。義理の母は身体が弱い
      ものですから、結局私が一人で看病を。約束が違うって
      一応はごねたんですけど、仕事も辞めなきゃいけない状
      態になって。それから二年間……」
  進 藤「……」
  桐 乃「今になってみると、何て余裕のないイヤな女だったんだ
      ろうって思いますけど、その渦中にいるときはとても。
      どうして私だけが、血もつながっていない年寄りのオシ
      メをかえなきゃいけないんだって」
  進 藤「(見つめて)……」
  桐 乃「疲れてしまったんですね、きっと。子供を流産したころ
      から、夫との関係も気まずくなっていって。父が亡くな
      って元に戻るのかなとも思ったんですが、やっぱりどち
      らからともなく別れるしかないかって」
  進 藤「(響くものに)……」
  桐 乃「実家はとっくに兄が継いでいますし、跳ねっ返りの出戻
      り娘が大きな顔して帰るには、ちょっと抵抗のある土地
      柄で。お前は手に職があるんだから、何の心配もしてな
      いって言われて、ああそうですかって」
  進 藤「……」
  桐 乃「私の家族はそういう家族です」
        最後の一言におどけを含むと、桐乃は人懐っこい笑
        みを浮かべて見返る。
  進 藤「(強い眼差しで凝視している)……」
  桐 乃「(笑みが消えて)……」

○ 桐乃のマンション(深夜)

        その表にタクシーが停車する。
        後部座席で寝息を立てている進藤を、
  桐 乃「(そっと)進藤さん」
  進 藤「うん?……あ、今夜は楽しかった」
        目を開ける進藤、握手の手を差し出す。
  桐 乃「……少し休んでいきませんか。バツイチ女がおいしいコ
      ーヒーを入れてあげます」
        進藤、その思いやる眼差しを見つめて逡巡。
        が、
  進 藤「……また今度にさせてもらうよ」
  桐 乃「……」
        桐乃は小さく頭を下げて、車を降りていく。
  進 藤「ああ、桐乃さん」
  桐 乃「……?」
  進 藤「(一瞬で磊落さを取り戻して)次に会った時には、本気
      で口説かせてもらうからな」
        冗談めかす進藤に、桐乃の顔が得たりと輝く。
  桐 乃「残念でした、私はマザコン男はキライなんです」
  進 藤「(受けて大笑い)参ったな、ますますあんたのことが好
      きになってきた。運転手さん、やってくれ」
        すっかり飲まれた上機嫌で、進藤はおかしそうに手
        を上げながら走り去っていく。
  桐 乃「(見送る表情がまた変わって)……」

○ 進藤の自宅・書斎(深夜)

        入ってくる進藤、オットマンの椅子に身を沈める。
        鈍い疲労感が襲ってくる。
  進 藤「……100、93、86、79、72、65」
        一つずつ確かめるように、引き算を試している。

○ 同・自宅の表(翌朝)

        進藤が出勤姿で出てくる。
        と、突然、物陰からゆらりと姿を現す人影。
  男  「(抑揚のない声で)進藤」
  進 藤「誰だ」
        と、人影の手に一閃する大ぶりのナイフ。
        迷わず地を蹴って、一直線に体当たりしてくる。
  進 藤「(慄然)……!」
        立ちすくむ腹部に、焼けつくような痛みが走る。
        見知らぬ男が、憎悪の表情で腹を抉っている。
  男  「お前が悪いんだよお」
        進藤は信じられない目を見開いて、傷口を押さえな
        がらくずおれていく。
  晴 子「パパッ!」
        玄関のドアが開いて、通学姿で出てきた晴子の悲鳴
        が一帯に響いている。

○ 進藤の自宅・全景(深夜)

        友子の絶叫が響きわたる──。

○ 同・リビング(深夜)

        なおも叫んで暴れようとする友子の口を、光江が必
        死の形相でふさぐ。
  光 江「お願いです、静かにしてください!」
        懇願しながら押さえ込むのへ、振りほどこうともが
        く友子の息が詰まっていく。
        次第に弱々しくなる抵抗に、光江はハッと我に返っ
        て塞いでいた手を離す。
        と、
  友 子「(再び絶叫)……!」
        瞬間でパニック状態に陥る光江、憎悪がたぎってそ
        の頬を渾身の平手打ち──。
  光 江「叫びたいのは私のほうよ、何がそんなに憎いのよ!」
        疲労の極みに達した表情で、涙を迸らせている。

○ 病院の個室

        進藤、ベッドの上で目を覚ます。
        視線をめぐらすと、枕元に光江と創がいる。
  進 藤「……そうか、俺は刺されたんだった」
  創  「あれから大変だったんだぞ。警察は大挙して来るし、お
      ふくろは半狂乱になるしで」
  光 江「悪運が強いというか。ナイフがベルトに当たって、傷は
      一センチの深さしかありませんでした」
  進 藤「……晴子はどうしてる」
  創  「さっきまでいたんだけど、何の心配もない軽傷だってい
      うんで、帰したところだ」
        進藤は傷口の絆創膏を押さえて、わずかに顔をゆが
        めながら笑う。
  進 藤「いいザマだな」
  光 江「ホントに。それにしても、青山があんなにあなたのこと
      を恨んでいるとは、思いもしませんでした」
  進 藤「青山?」
  創  「ああ、あいつはその場ですぐに逮捕された。親父に首を
      切られたのを恨んで、ずっと命を狙ってたと言うんだけ
      ど、逆恨みもいいところだ」
  進 藤「ちょっと待った」
        進藤はその男のことを全く覚えていない。
  進 藤「あの男は会社の人間だったのか」
  光 江「え」
        訝しげな声音に、唐突な狼狽が襲いかかる。
  進 藤「いや、その……咄嗟で顔がよく見えなかったんだ」
        一気に頭に血が昇って、冷静さが失せる。
  進 藤「……そうか、青山だったのか、犯人は」
        動揺を押さえ、懸命に失態を隠そうと、
  進 藤「しょうがないやつだな。ロクに仕事もできないからリス
      トラの対象にされるんだ。建築屋が無能を棚に上げて、
      刃傷ざたじゃ世も末か。ハハッ」
  創  「……親父」
        声の調子が変わったのに見返ると、創が射抜くよう
        な視線で見据えている。
  創  「どうなってるんだ、この前から」
  進 藤「うん?」
  創  「青山は経理担当だった男だ。会社の金を横領して、首に
      なった事務員じゃないか」
  進 藤「……!」
  創  「覚えてないのか」
  進 藤「(戦慄が走る)……!」
        激しい衝撃に世界が暗転、進藤は一瞬の間に奈落の
        底へ突き落とされる。
        恐怖で全身が震えだす。
  光 江「(瞠目)……あなた?」
  進 藤「出ていけ」
        次第に震えが大きくなって止まらない。
  進 藤「出ていけッ!」
        錯乱した絶叫が白い壁に反響して──。

○ 同・病院の駐車場

        車が着いて、桐乃があわてて降り立つ。
        蒼白な足取りで、玄関を目指して走っていく。

○ 元の個室

        桐乃、ノックの手ももどかしく駆け込んでくる。
        と、ベッドを降りた進藤が、パジャマを脱ぎ捨て背
        広に着替えようとしている。
  進 藤「よお」
        その目がおどけを含んで輝く。
  進 藤「あんまり退屈なんで、内緒で逃げだそうと思っていたと
      ころだ」
  桐 乃「……良かったア」
        桐乃は思ったより元気そうな様子に、一挙に力が抜
        けて椅子に座り込む。
        ホッと安堵した笑顔が、進藤には一層好もしい。
  進 藤「こんなことじゃくたばらないさ」
        冗談めかして笑いかけると、
  進 藤「ちょうど良かった。車で来たんだろう、連れていって欲
      しいところがあるんだ」
  桐 乃「え」
  進 藤「大丈夫だよ、傷の心配ならどうってことはない」
  桐 乃「……でも」
  進 藤「どうしても行きたい所があるんだ。行って一言言ってや
      らないと気が済まないところが」
        進藤の表情が変わって、怒りを含んだ吐露。
  桐 乃「(困惑して)……」

○ 海沿いの国道

        桐乃の運転する乗用車が疾走していく。

○ 同・走る車の中

        後部座席に座った進藤が、メモを取っている。
  進藤のN「許せない、そんな思いでいっぱいだった。よりによっ
      て、なぜ一番継ぎたくなかった血を受け継がされてしま
      ったのか。その時の私は、焦燥を母親にぶつけることで
      しか、心の均衡を見いだせない状態だった」

○ 小高い丘の上

        ×××園の建物が陽光に照らされている。

○ 同・施設の廊下

        進藤が病室を目指して歩いていく。
        桐乃が戸惑ったように後を追って続く。

○ 同・個室

  進 藤「おふくろ、入るぞ」
        ノックもなしにいきなりドアを開ける。
        と、看護婦がベッドのシーツを取り替えている。
  看護婦「あら、お嬢さんと一緒じゃなかったんですか」
  進 藤「え」
  看護婦「進藤のおばあちゃんなら、さっきお嬢さんが見えて、中
      庭の方に散歩に行かれましたよ」
  進 藤「(意外な名前に)晴子が……?」

○ 同・中庭

        友子を伴ってやってくる晴子が、その車椅子を日溜
        まりに止めてたたずむ。
  晴 子「覚えてる? 今日はおばあちゃんの誕生日」
  友 子「へえ……じゃあ、私は幾つになったんだろう」
  晴 子「幾つだと思う」
  友 子「……まだ五十にはなってないはずだから、四十八だった
      か、九だったか」
        晴子は受けて笑うと、慈しむように容器を開けてス
        プーンを取り出していく。
  晴 子「はい、お誕生日祝いのプリン。お口開けて」

○ 同・建物の陰

        進藤がそんな光景を認めて、ふと足を止める。
  進 藤「(不可思議な印象で見つめる)……」
        傍らに立つ桐乃も、そんな光景に吸い寄せられてじ
        っと見入っていく。

○ 元の中庭

        嬉しそうにアーンをする友子が、ピチャピチャと好
        物を飲み下していく。
  友 子「いつもご親切にしていただいて。ところで、あなたさん
      はどなたでしたかね」
  晴 子「私は晴子。おばあちゃんの孫です」
  友 子「孫? 私には孫なんかいませんよ。だって、まだ息子の
      武則は高校生だもの」
  晴 子「(驚きもせず)へえ」

○ 元の建物の陰

  進 藤「(じっと見つめて)……」
  桐 乃「(そんな進藤を)……」

○ 元の中庭

  晴 子「ね、その武則って息子さん、どんな子供なの」
  友 子「あの子は小さい頃はとってもいい子だった。私のことを
      とても大事にしてくれてね」
        目を細めた友子の述懐が続いていく。
  友 子「学校の成績も良かったし、私が熱を出したりすると寝な
      いで看病をしてくれてねえ」
  晴 子「……」
  友 子「それが、この頃はちっとも親の言うことなんか聞きやし
      ない。昨日も警察から電話がかかってきて、誰かを殴っ
      たとか言うから、思いきり叱ってやったんだ」
        その目が次第に熱い迸りを見せて変わる。
  友 子「お前を育ててる母親は、そこらの半端な母親とはわけが
      違う。私はお前をこんな男に育てるために、ここまで一
      人で生きて来たんじゃない。どうしても私を捨てると言
      うんなら、お前を殺して私も死ぬ」
  晴 子「(気圧されたように)……」

○ 元の物陰

  進 藤「(痛く刺さって)……」
  桐 乃「(凝然と聞いて)……」

○ 元の中庭

  友 子「そうだ、今日はあの子の裁判の日だった」
  晴 子「え」
  友 子「すぐに行かなきゃ、武則が少年院に入れられてしまう」
        何を思ったのか、ゆらりと立つ友子が彷徨うように
        歩きはじめていく。
  晴 子「おばあちゃん……!」
        あわてて呼び止める晴子の目が、ふと物陰に立つ人
        影を捉える。
  晴 子「パパ!」
  進 藤「(気まずく)……」
  桐 乃「(小さく黙礼)……」

○ 同・付近の高台(夕景)

        進藤、晴子、車椅子の友子、そして控えめに離れた
        桐乃が夕陽を浴びて佇む。
  進 藤「驚いたよ。お嬢さんはこの施設で一番の、おばあちゃん
      孝行なんだと褒められたときには」
  晴 子「そ」
        短く答える晴子の表情からは、もう先ほどの無心な
        面持ちは消えている。
  晴 子「それって、パパはこのホームで一番の親不孝だっていう、
      裏返しだと思うけど」
  進 藤「(返せない)……」
  晴 子「半年ぶり、一年ぶり? どっちでもいいけど、痛い目に
      合って少しは目が覚めたわけ」
  進 藤「(苦笑して)その顔」
  晴 子「……?」
  進 藤「子供の頃、おふくろが俺を叱った顔とそっくりだ」
  晴 子「(肩をすくめて)褒め言葉と思ってもらっとく。私、お
      ばあちゃんのこと好きだから」
  進 藤「そうか……」
        妙にその言葉が響いて、進藤は母親に目を移す。
        友子はいまは全く無表情になって、黙している。
  桐 乃「あの……」
        桐乃はその場にそぐわない自分を意識して、
  桐 乃「私、下で待ってますから」
  晴 子「いいじゃない、ここにいれば。別に見られて困る関係で
      もないんでしょう」
  桐 乃「ええ、でもやっぱり」
        頭を下げ、踵を返して行く時──、
  友 子「駄目だよ、皆んな仲良くしなきゃ」
  進 藤「うん?」
        友子がぽつんと呟いて、かすかに笑っている。
  友 子「(進藤に)お前を産んだころの私には、それが分からな
      かったんだ。ねえ、武則」
  進 藤「おふくろ……!」
  友 子「そうあの子に伝えてやってもらえませんか、先生」
  進 藤「……」
        沈黙──。
        言い知れぬ思いが沸いてきて、進藤たちはしばらく
        無言のまま佇む。
  進 藤「(ぽつん)……晴子」
  晴 子「何」
  進 藤「お前、癌とアルツハイマーと、どっちの病気を選ぶかと
      言われたらどうする」
  晴 子「……癌かな」
  進 藤「百人に聞けば、百人がきっとそう答えるだろうな」
  晴 子「……」
  進 藤「こうやって揺り戻しを繰り返しながら、確実に最期に向
      かっていく。別れの言葉も、誇りを持った死に方も、何
      一つ自分らしいことを残せないまま、あの人はボケて死
      んだという事実だけが残る。こんな恐ろしい病気に、お
      ふくろは良く耐えていられると思うよ」
  晴 子「(その声音に)……」
        と、
  桐 乃「アルツハイマー病には、特効薬があるんです」
        遠慮がちに、しかし意を込めて桐乃が口を開く。
  進 藤「(敏感に)……?」
  桐 乃「他の病気でも同じ。自分のことを丸ごと、あるがままに
      受け入れてくれる人がいるっていうこと」
  晴 子「……」
  桐 乃「人って、どんなにボケても、目の前にいる人間が敵なの
      か味方なのかは分かるんです。残念だけど、いまの医学
      じゃ痴呆症は直せない。だったら、同じボケるんなら自
      分のことを好きだって、そう言ってくれる人達のなかで
      ボケていったほうが幸せでしょう」
  進 藤「(意表を衝かれて)……」
  桐 乃「看病するほうだってそう。そこはトイレじゃない、ご飯
      はさっき食べた、恥ずかしいから出歩くなって、一々カ
      リカリしてたら、それこそ身体が持たない。海みたいに
      ゆったりと流れていけばいいんです」
  晴 子「(見つめて)……」
  桐 乃「……私にはそれが出来なかった。私もお母さんと同じで
      す、今頃になってそのことが良く分かる」
        寂しそうに呟いて、友子の髪を優しく撫でてゆく。
  晴 子「(じっと見つめて)……」
        進藤は鉛のような鈍い衝撃に打たれて、桐乃をそし
        て友子を見比べる。
  進 藤「……おふくろ」
        呟いて思わず手を伸ばす。
        その髪をそっと撫でてやろうとする。
        途端──、
  友 子「(悲鳴)……!」
  進 藤「……!」
        激しく拒絶する友子の絶叫──。
        身悶えするように進藤を拒み、友子は何度も何度も
        終わりのない悲鳴を繰り返す。
  進 藤「(慄然と立ち尽くす)……!」
  桐 乃「(言葉を失って)……」
  晴 子「ダメよ、いまさら優しくしても。おばあちゃんにはもう、
      何年も前からパパは敵なんだから。ねえ」
        挑むような一瞥を投げかける晴子、くるりと踵を返
        すと車椅子を押していく。
        進藤、何かを叫びたいが言葉が出てこない。
        視線の先を、母と娘が遠ざかっていく。
  進 藤「(喪失感に打ちひしがれ)……」
  桐 乃「(居たたまれない思いで)……」

○ 同・付近の海岸(夜)

        車を停めた進藤と桐乃がたたずんでいる。
        満天の星空の下には、他に誰もいない。
        桐乃が少し寒そうに、腕を抱えた時──、
  進 藤「……死ぬか死なぬか迷うたときは、死ぬが良しか」
  桐 乃「え」
  進 藤「アルツハイマー病に罹る前の脳細胞は、突然凄まじい勢
      いで活動を始めるんだそうだ」
  桐 乃「……?」
  進 藤「健康な脳細胞のように、穏やかに死んでいくわけじゃな
      い。言わばマラソンを全速力で突っ走るような勢いで、
      全力を使い果たして息絶えるらしい」
  桐 乃「……」
  進 藤「俺も同じようなものかもしれない」
  桐 乃「……?」
  進 藤「生まれてこの方、当たるを幸い、人をなぎ倒しながらこ
      こまで突っ走ってきた。他のことを省みる余裕もなかっ
      たと言えば聞こえはいいが、ただ人に負けるのがイヤで
      突っ張っていたというだけのことだ」
  桐 乃「……」
  進 藤「そして、もうすぐ全力を使い果たそうとしている」
        尋常ではないものをその口調に感じて、桐乃はいぶ
        かしく進藤を窺う。
  進 藤「野良犬ならまだいい、負け犬にだけはなりたくない。俺
      はどうしようもないんだ。桐乃さん、頼む、あんたの手
      で俺に有終の美を飾らせてくれ!」
        見返って頭を下げる進藤が、暗い絶望の彼岸へと思
        いを馳せてたたずんでいる。
  桐 乃「(強い不審が沸き上がって)進藤さん……」

○ エメラルド開発・会議室

  進 藤「解任動議?」
        進藤が愕然と叫んで一座を見渡す。
        発言者の創を筆頭に、甲斐以下の取締役たちが硬い
        表情で席についている。
  創  「解任ではありません。代表取締役社長の、名誉会長への
      昇格を求めると提案しました」
  進 藤「……代表権を取り上げるということか」
  創  「以下、理由を申し上げます。第一、代表取締役は無謀な
      宅地開発を独断で進行させつつあり、当社に莫大な損害
      を与える恐れが大であること」
  進 藤「(唖然と聞く)……」
  創  「第二、代表取締役はマスコミにも取り上げられた傷害事
      件の当事者となり、当社の信用を傷つける行為をなした
      こと。第三、代表取締役は病に……」
        無理に胸を張っていた口調が急に先細る。
  進 藤「(ピクリと)何を言うつもりだ」
  創  「(言えない)……第三、代表取締役は不要な小切手を振
      りだし、当社に欠損を与える事態を招いたこと」
  進 藤「小切手?」
  創  「これがその現物です。常務が回収して事なきを得ました
      が、わずかな額でも最悪の場合は……」
        創がかざす小切手を、進藤は怪訝に覗き込む。
  進 藤「(凝然と)こんなもの、俺には……」
  創  「覚えがありませんか」
  進 藤「(絶句)……!」
  創  「そこに記されているのは、確かに代表取締役のサインと
      印鑑です。もし忘れたと言うのなら……」
  進 藤「馬鹿なことを言うな!」
        思わず怒鳴り声になって唾棄する。
        と、甲斐が創よりも緊張した様子で口を開く。
  甲 斐「では議案の性格上、私が議長を代行いたします」
  進 藤「(信じられない)甲斐……!」
  甲 斐「専務取締役より提案されました、代表取締役交代の緊急
      動議について、賛成の諸君の起立を求めます」
        創、続いてバラバラと他の取締役たち。
        そして、最後に意を決したように甲斐も。
  甲 斐「起立多数。よって本議案は承認されました」
  進 藤「……お前ら!」
        一座はしばらく水を打ったように静まり返る。
        唐突な実感が、進藤の身を貫いてゆく。
  進 藤「……本気なのか」
  甲 斐「では引き続き、新代表取締役選任の審議に入ります。以
      後、名誉会長のオブザーバーとしての同席は認められま
      すが、発言権は認められません」
  進 藤「(一座をねめつける)……」
        誰も自分のことを見ていない。
  進 藤「本当に終わりなのか、こんな茶番で」
  甲 斐「発言を控えてください」
  進 藤「(不思議に怒りはなく)……」
        抗弁する気力も萎えて、進藤は力なく立ち上がる。
        蹌踉とドアへ向かっていく。
  創  「(呼び止める)親父」
  進 藤「……?」
  創  「今日は家に帰ってくれよ。おふくろと話がある」
  進 藤「(虚ろに見つめて)……」

○ 繁華街

        虚脱した表情の進藤がさまよっていく。
  進 藤「何で、俺なんだ」
        茫然自失とした様子で足を引きずっていく。
  進 藤「どんな顔をして受け入れろと言うんだ」
        すれ違う若者の一団に肩をぶつけてよろめく。
  進 藤「(気づかず)俺はそんな人格者じゃない」
        チーマー風の少年たちがニヤリと顔を見合わせる。
  少年A「やるか」
  少年B「トーゼン」
  進 藤「(怪訝に)……?」
        と、
  少年C「オヤジ狩りだ!」
        叫び声を聞いた瞬間、進藤の身体は路地裏に引きず
        り込まれている。

○ 同・路地裏

        殴る、蹴る──。
        進藤、抵抗する間もなく、完膚ないまでに叩きのめ
        されていく。
        次々に少年たちのパンチが、足蹴が繰り出され、思
        いきり倒れ伏して砂を噛む。
        朦朧としてゆく意識のなかで、少年たちがズボンの
        ポケットを探っている。
  若者C「結構持ってるじゃん」
  若者B「どっかの社長だったりして」
  若者A「オヤジには変わりねえよ。行くぞ」
        蔑むような声が遠ざかっていく。
  進 藤「(感情を失った目で)……」

○ 桐乃の部屋(夜)

        暗い──。
        その薄闇のなかで、桐乃が放心したように、自作の
        椅子に身を沈めている。
        留守番電話に残されたメッセージが、抑揚のない口
        調で流れていく。
  甲斐の声「エメラルド開発常務の甲斐でございます。本日、進藤
      武則は急な病のため、やむなく名誉会長の職に身を退き
      ました。従いまして、武井先生と進めておりましたプロ
      ジェクトは凍結という結論に至りました。お電話で失礼
      とは存じますが、取り急ぎ……」
        桐乃、もう何べんも聞いたテープを切る。
  桐 乃「(暗然と呟く)……やっぱりの『や』、まさかの『ま』、
      意外じゃないよの『い』」

○ 進藤の自宅・リビング(夜)

        進藤、光江、創、そして晴子──。
        進藤はもう錯乱から回復しているようだが、その顔
        には疲労の色が隠しきれない。
  光 江「驚きました、警察から電話をもらったときには」
  進 藤「……すまなかった、創に来てもらって助かった」
  創  「(そんな憔悴ぶりに)……」
  光 江「八木先生がすべて教えてくれました。どうしてもっと早
      く言ってくれなかったんです」
        と、晴子が耐えきれないように席を立ち、階段を駆
        け上がっていく。
  光 江「(見送ってぽつん)きっと、自分にも同じ血が流れてい
      ると知って、恐ろしくなったんでしょう」
  進 藤「……」

○ 同・晴子の部屋(夜)

        晴子、しゃくりあげるように泣いている。

○ 元のリビング(夜)

        光江の硬い表情が見る間にゆがむ。
  光 江「すみません、こんな言い方しか出来なくて」
        語尾が震え、こらえきれない嗚咽がもれる。
        その目からとめどもなく涙が流れるのを、進藤は不
        思議な感慨で見つめる。
  進 藤「……お前が涙を流すとは思わなかった」
  光 江「あなたには、私の気持ちが何も分かってないんです」
        耐えきれずに叫ぶ光江が、押さえ込んでいた思いを
        一気に吐露していく。
  光 江「夫を亡くして何年の子持ち女が、六つも年下の男と再婚
      して。向こうの狙いは実家の財産だ、年をとったら捨て
      られるぞって、散々周りに嗤われて。その通り、こっち
      がそうなる前からやりたい放題。挙げ句にご主人はアル
      ツハイマーに冒されました、見守ってくださいって。私
      がどんな悪いことをしたんです!」
  進 藤「(耐えて聞く)……」
  光 江「私だってね、晴子が生まれた頃は幸せだったんです。こ
      の人が成功するためなら、どんなことだって援助してや
      る。いつかこの人が、二人のことを嗤った連中の鼻をあ
      かしてくれるって。だから、お母さんの看病も黙って引
      き受けて、空っぽの家でもきちんと掃除して、そうやっ
      てここまで来たんです。どうして、その私がこんな仕打
      ちを受けなきゃいけないんですか!」
  創  「(じっとうなだれている)……」
        懸命に嗚咽を抑える光江を、進藤は苦い面持ちで見
        つめるしかない。
  進 藤「……お前がしてほしいことを言ってくれ」
  光 江「え」
  進 藤「離婚届けに判を押せというならそうする。財産を生前分
      与しろというならそうする。お前には、おふくろのこと
      から何から、ずっと面倒を押しつけたままで来た。その
      挙げ句がこの体たらくだ。この上、俺の看病まで頼む資
      格はない。今ならまだ、お前の望むことが分かる。それ
      が、今の俺の偽りのない本心だ。言ってくれ、お前が本
      当に欲しかったものは何だ」
        と、涙を拭った光江が静かに顔を上げる。
        ひたと進藤を見据えて、怨嗟を込めた一言。
  光 江「もう手遅れです」
  進 藤「うん?」
  光 江「あなたも私も変わりました」
  進 藤「……」
  光 江「一緒に変われれば良かった」
  進 藤「……そうか」
        進藤は自己嫌悪に沈んで、重く長い息を吐く。
  進 藤「アリと、キリギリスだな……」
        小さく笑って、うなだれたままの創を見返る。
  進 藤「創」
  創  「(顔を上げる)……?」
  進 藤「ひとつだけ言っておく。俺は、お前が思っているような
      目で、お前を見たことは一度もない」
  創  「(じっと見返して)……」
  進 藤「だから、お前の行為はただ一点、会社のためを思っての
      ことだったと理解している。それでいいんだな」
  創  「(またうなだれていく)……」
  進 藤「光江と晴子のことを頼んだぞ」
  創  「……親父」
        創はその思いを受けて、崩れそうな顔を上げる。
  創  「俺は……仕方がなかったんだ」
  進 藤「馬鹿、勝ったやつがオロオロしてどうする。自分で選ん
      だ代表取締役の座だ。そんな顔をしてると、すぐにでも
      あいつらに足元を掬われるぞ」
        口調にいつもの迫力が戻ってねめつける。
  創  「(またうなだれていく)……」

○ 進藤の書斎(深夜)

        進藤がデスクに向かっている。
        無心な表情でペンを走らせていく。
        綿々と便箋に綴られてゆくその冒頭に、
       『遺書』──。
        と、さりげなく記された文字がある。
  進藤のN「思っていた以上の速さで、私の人格は壊れ、尊厳もま
      た失われていく。潔くはないが惨めでもない。逃げてい
      るようだが何かに向かっている。一つの終わりではある
      がすべての終わりではない。結局私に残ったのは、自ら
      が自らであることを自覚していられる一刻に、毅然とし
      て死を選ぶという決断だけだった」

○ 抜けるような青空

○ 高速道路

        雲一つない白日の下を、進藤の運転する乗用車が疾
        駆していく。

○ 同・一般道

        景色が変わって、遙かな山並みを望む道。
        進藤がゆるやかなペースで走りつづけている。

○ 遙かに広がる丘陵地

        進藤、駆け登ってきて車を停める。
        と、先に着いていた一台の乗用車から、ゆっくりと
        降り立つ人影がある。
  進 藤「桐乃さん……?」
        意外な人物との邂逅に、進藤はふと思い出す。
  進 藤「そうか、ここで会おうと連絡したんだったな。忘れると
      ころだった」
        桐乃は内心を窺わせない表情で、一歩ずつ歩んで進
        藤の正面に立つ。
  桐 乃「見てください」
        丸めた大きなケント紙を目の前に突きつける。
  桐 乃「イメージ画の直しです」
  進 藤「(食われながらも苦笑)おい、それはもう」
  桐 乃「見てほしいんです」
        進藤は少し嬉しくなって受け取る。
        車の屋根の上に広げて、じっと見入っていく。
        桐乃は身じろぎもせずに窺う。
        その進藤の顔つきが次第に険しくなっていく。
  桐 乃「……どうですか」
  進 藤「駄目だな、これは」
  桐 乃「……」
  進 藤「あんたが喋った立派な演説が、どこにも絵になっていな
      い。これじゃ俺が喋ったままだ。どうして俺の意見に合
      わせる。武井桐乃の魅力はどこにある」
        居丈高な経営者の進藤が一気に復活する。
  進 藤「物を作る醍醐味ってのはな、注文主の言うことを聞いた
      ふりしながら、裏でベロ出してテメエのやりたいことを
      貫くところにあるんだ。あんたのその優しさはいつか致
      命傷になる。もっとわがままになれ」
  桐 乃「(目を逸らさない)……」
  進 藤「今度の顛末は、昨夜イタリアに電話しておいた。先生は
      そういうことなら、あんたを向こうに呼んで手伝わせる
      と言っていたが、これじゃ行くだけ無駄だな」
  桐 乃「言われなくても、イタリアには行きません」
  進 藤「何」
  桐 乃「あなたが先生に、そうして欲しいと頼んだことは知って
      います。でも、私は日本に残ります」
  進 藤「……?」
  桐 乃「いまは地球のどこにいても、パソコンのネットワークで
      仕事が出来る時代です。あなたを置いて一人で行くこと
      はできない。もう決めたんです」
        感情が昂るのを抑えて、進藤をねめつける。
  進 藤「(訝しく見返す)……」
        桐乃はゆらりと踵を返すと、丘陵地を見下ろす丘の
        縁に歩んでたたずむ。
  桐 乃「(背中で)晴子ちゃんに聞きました。二人でずっと、あ
      なたのことを話しました。病気のことも」
  進 藤「……!」
        凝然と立ち尽くすのへ、激して振り返る。
  桐 乃「あなたこそ私をこんな所に呼んで何をしたかったの。自
      分が分からなくなる前に、とにかくここまではやったん
      だって、自己満足でもしたかったわけ。それとも最後の
      未練で、ここを見てから死のうとでも思ったの。どっち
      でもいいけど、カッコつけたオヤジに不幸の種まき散ら
      されても、周りが迷惑するだけだわ、そんなの!」
        いきなり語尾が震えて、涙がふくれる。
  進 藤「(気圧されて)……」
  桐 乃「あなた、晴子ちゃんに嫌われてるって思ってるでしょう。
      あの娘はね、幼稚園の保母さんになりたいって言ってた
      子供のころから、ずっとあなたに構ってほしくて仕方が
      なかったの。いつもあなたが声を掛けてくれるのを、眠
      らずに待っていたの。でも、あなたは笑うどころか叱っ
      てもくれなかった。思い切ってこっちから行こうとする
      と、その目が決まってこれ以上入ってくるなって」
        進藤は愕然とその叫びを聞く。
  進 藤「(思わず)違う、俺は」
  桐 乃「違わない、私には良く分かる」
  進 藤「(激しく動揺して)……!」
  桐 乃「最初に会った時も、二度目に会った時も、何度会っても
      そう。今だってあなたの目は、ぎりぎりのところで人を
      拒んでる。誰も自分を愛してないって、勝手に決め込ん
      でる。こんなに皆んなが好きだって言ってるのに、自分
      だけが自分のことを嫌いだって、気持ち良がって傷つい
      たふりしてる。サイテーよ、そんなの!」
  進 藤「……!」
        思ってもいなかった核心に、否定したくても言葉が
        もつれて出てこない。
  進 藤「俺は……」
        茫然とその場に立ち尽くす。
  進 藤「俺はただ……」
        絶望と恐怖と孤独と、そんなないまぜの感情に苛ま
        れてうなだれていく。
  進 藤「……チクショー!」
        止めどもない震えが、沸き上がってくる。
  進 藤「……こんな理不尽、怖くて耐えられねえよ!」
        押さえ込んでいた叫びが迸る。
  進 藤「どうしたらいいか分からねえんだよ。好きだとか嫌いだ
      とか、そんなもの初めから好きに決まってるじゃねえか。
      そんな連中の前で、ションベンもクソも垂れ流しになる
      んだぞ。女房も子供も分からなくなって、色ボケで娘の
      ベッドに潜り込んだりするかもしれねえんだぞ。俺はま
      だ五十一だ。もう一花も二花も咲かせてみせると思って
      た、人一倍プライドの高い、始末に悪い中年オヤジだ。
      悔しいんだよ。腹が立つんだよ。苦しいんだよ!」
        一気に思いを吐き出して、慟哭していく。
        桐乃はそんな進藤を、切ないほどの癒しに満ちた眼
        差しで見つめる。
  桐 乃「私が守ってあげる」
        ひしと抱きしめる刹那──、
        進藤の内面にわだかまっていたものが、大きな衝撃
        とともに瓦解する。
  進 藤「……!」
        進藤は声にならない呻きを絞り、体当たりするよう
        に桐乃の全身にすがっていく──。

○ 湾岸のホテル・一室(夕景)

        進藤と桐乃が一つにつながっている。
        その深いうねりが赤く染まって、二人はやがて遙か
        な高見へと昇りつめていく。

○ 同・一室(夜)

        桐乃、ベッドの上で目を覚ます。
        傍らを見ると、進藤が安心しきったような表情で寝
        息をたてている。
  桐 乃「(微笑で見入る)……」
        と、腹の虫がグウと鳴る。
        桐乃は笑ってそっと抜け出すと、起こさないように
        静かにクローゼットのドアを開ける。

○ 同・ロビー(夜)

        洋服に着替えた桐乃がエレベーターを出てくる。
        通りかかったフロント係を呼び止めて、
  桐 乃「あ、すみません。この辺にコンビニあります?」

○ 元のホテルの部屋(夜)

        進藤、ふと目を開ける。
        視線をめぐらして見る。
        薄暗い、白い壁の空間がそこにある。
  進 藤「……どこだ、ここは」
        呟く声に不審な響きがにじむ。
        あっと思いついて、ベッドの傍らを見る。
        誰もいない。
  進 藤「桐乃」
        小さく呼んで、部屋の様子を窺う。
        どこからも返事は返ってこない。
  進 藤「桐乃!」
        唐突な悪寒に襲われて、トイレ、クローゼットとド
        アを開けて覗き込む。
        求める人影はそこにもない。
  進 藤「どこなんだ、ここは」
        錯乱の予兆──。
  進 藤「俺はどうしてこんなところにいる!」
        何も思い出せないし、何も理解できない。
        いきなり、恐怖の波が牙を剥く。
  進 藤「桐乃……!」
        叫んでドアの外へ飛び出していこうとする。
        が、裸同然の自分に気づく。
        途方に暮れて立ちすくむ。
        と、クローゼットにスーツが掛かっているのを発見。
  進 藤「(安堵の吐息)……」
        ズボンを履き、ワイシャツのボタンを掛け、そそく
        さと上着を羽織る。
        と、その内ポケットに何やら異物感がある。
        怪訝に手を入れると、一通の封筒が出てくる。
        その表書きに『遺書』の二文字──。
        瞬間、進藤は記憶を取り戻す。
  進 藤「そうか……俺は死のうとしてたんだった」
        錯乱から解放され、むしろ安心したように笑って落
        ち着きを取り戻している。

○ 同・ホテルの表(夜)

        コンビニの袋を下げた桐乃が戻ってくる。

○ 元の部屋(夜)

        桐乃、細めにドアを開けて入ってくる。
        が、ベッドの上はもぬけの殻。
  桐 乃「……進藤さん?」
        訝しく部屋の様子を見回す。
        と、デスクの上に置きっぱなしになっている封書。
       『遺書』──。
        その字が唐突に目に飛び込んでくる。
  桐 乃「(戦慄の予感)……!」

○ 同・ホテルの非常階段(夜)

        進藤が手すりにもたれてたたずんでいる。
        地上の世界に明かりが灯って、人々がいつもと変わ
        らず蠢いているのが見える。
  進 藤「(見下ろして)……」
        長い息を吐くと、薬の袋を取り出す。
        残った睡眠薬の錠剤を一気にあおって、ポケットウ
        イスキーで飲み下していく。

○ 同・廊下(夜)

        蒼白な桐乃が、非常口を駆け上がっていく。

○ 元のホテルの非常階段(夜)

        桐乃、駆け込んでくる。
        もどかしく見回すが、進藤の姿はそこにはない。
        手すりに駆け寄って、恐る恐る下を覗き込む。
        地上では、何もない日常が繰り広げられている。
  桐 乃「(ホッと安堵)……」
        一瞬で踵を返すと、再び階段を駆け下っていく。

○ 同・屋内プール(夜)

        進藤は人けの途絶えたプールサイドにいる。
        薬と酒が効いているのか、その目は朦朧として、な
        かば眠っているように見える。
        月明かりが注いで水面に反射し、空間自体がゆらゆ
        らと揺れているように思える。
        無音の静かな世界が、進藤の決意を誘ってくる。
  進 藤「……ここだ、ここなら静かに死ねる」
        進藤はロレツのもつれた舌で呟いて、そっとプール
        に足を入れる。
        小さく笑って底に立つ。
  進 藤「……これで楽になれる」
        ゆっくりと泳ぎだし、真ん中へと向かう。
        その中央にプカリと浮いて、天井を仰ぐ。
  進 藤「さよならだ」
        静かに呟いて、目を閉じる。
        その顔が水中に没して、進藤は身を任せて漂う。
        あとは意識を失ったように、じっと動かない。
        長い静寂──。
        と、
  進 藤「……!」
        突然、咳き込む進藤、ガバッと身を起こすと死に物
        狂いで泳ぎだす。
        プールサイドに一直線、濡れ鼠で這いずり上がる。
        そのままうずくまって、激しく咳き込んでいく。
        身も蓋もなく慌てふためいて、肩で大きく息をつき
        ながら、嘔吐感に身をよじる。
        水面が大きく波うって、月明かりの反射が先ほどよ
        り激しくゆらめいている──。

○ 小高い丘の上

        施設の建物を望む日溜まり。
        桐乃の椅子に座った進藤と、車椅子の友子がのんび
        りと日向ぼっこをしている。
        現実なのか夢なのか、友子の表情は生気にあふれて
        何の屈託もない。
  友 子「なかなか死ねないもんだろう」
  進 藤「そうだな」
  友 子「ま、ブザマでももうしばらくは生きてみるんだね。私は
      そろそろ帰らなきゃなんない」
  進 藤「どこに」
        友子はそれには答えずゆっくりと立ち上がる。
        気持ち良さそうに大きく伸びをして、
  友 子「ああ、幸せだった」
        心の底から言葉を吐いて、何とも言えない柔らかい
        表情で微笑みかけている。
  進 藤「……おふくろ!」

○ 元のプール(夜)

        ようやく咳が止まって、呼吸が楽になる。
        進藤は全身を放るように大の字に寝ころぶ。
        ふと笑いがこみ上げてくる。
        自己憐憫とも自己韜晦とも違う、何か風船が弾けた
        ような爽やかさが沸き上がってくる。
        進藤は声を上げて笑う。
        晒すだけの醜態を晒して、胸の奥底から愉快そうな
        笑い声を迸らせている。
        と、
        桐乃が切迫した表情で駆け込んでくる。
  桐 乃「……進藤さん!」
  進 藤「よお、どうやら死に損なったようだ」
        照れたように笑いかけるのを、
  桐 乃「(思わず抱きしめて)良かった……!」

○ 進藤の自宅・全景

○ 同・玄関

        進藤を送り届けた桐乃が、硬く佇んでいる。
        光江と創が応対に出ている。
  桐 乃「お酒と睡眠薬はもう抜けているはずです。申し訳ないこ
      とをしてしまいました」
        謝罪するように頭を下げるのへ、
  光 江「桐乃さんと仰ったわね」
  桐 乃「はい……」
  光 江「敷居が高かったでしょうに、良く送り届けてくれました。
      本来なら、進藤に土下座でもさせるところですが、あの
      調子です。私が代わってお礼を」
  桐 乃「いえ」
  光 江「と言っても、あなたの全部を許すわけには行かない」
  桐 乃「はい……」
  光 江「ですから、今日のところはひとまず帰ってください」
  桐 乃「(小さく)……失礼します」
        思いを抑えて出ていきかけるのを、
  光 江「(ふと呼び止める)桐乃さん」
  桐 乃「……?」
  光 江「進藤は結局、根っからの仕事人間でした。何もすること
      がなくなったら、尚更ボケが早まるかもしれません。進
      藤が何かやりたいと言いだしたときには、また力を貸し
      てやってくれませんか。ねえ、創」
  創  「……それがいいかもしれないな」
        桐乃は意外な言葉に思わず顔を上げて見つめる。
        光江が射抜くような目でこちらを見据えている。
  桐 乃「(目を逸らさずに)……」
        と、光江の目がかすかに和んで、
  光 江「馬鹿ね、あんな男に引っ掛かって」
  桐 乃「……!」
        桐乃は重い衝撃に、思わず頭を下げて全身で気持ち
        を表している──。

○ 同・リビング

        普段着に着替えた進藤が入ってくる。
        心配そうな表情の晴子が、じっと見つめている。
  進 藤「おい、そんな目で人を見るもんじゃない」
        軽口をきく進藤の顔には、諦めを突き抜けた受容の
        笑みがうっすらと浮かんでいる。
  晴 子「……」
  進 藤「心配するな、俺はもう大丈夫だ。二度と自殺なんかしな
      い」
  晴 子「……パパ!」
        晴子は進藤の胸にすがって肩を震わせる。
        そんなところへ、光江と創が戻ってくる。
        進藤はなだめるように晴子から身体を離して、応接
        ソファーに腰を下ろす。
  進 藤「何年ぶりかな、家族全員が顔を合わせるのは」
  三 人「(思い思いにソファーへ)……」
  進 藤「光江、皆んなも聞いてくれ」
        口調が変わって、進藤は真剣な表情で向き直る。
  進 藤「思いがけずこんなことになってしまった。これ以上、お
      前たちの手を煩わせるわけにはいかない。来るべきとき
      が来たら、迷わずに俺を病院に送ってほしい」
  光 江「あなた……」
  進 藤「皆んなもう十分にやってきた。感謝している。また、お
      前たちが俺のために疲れ果てて、すさんでいくのかと思
      うと耐えられない。死に神に見放された男の見栄だ、最
      後くらいは恰好をつけてリタイアさせてくれ」
  創  「……」
        と、
  光 江「勝手なところだけは、相変わらずですね」
  進 藤「うん?」
        見返ると、光江が口ほどにはないふわりとした表情
        で見つめている。
  光 江「そうやって、いつも自分だけで問題を解決した気になっ
      て。私の気持ちはどうなるんです」
  進 藤「……」
  光 江「何の相談もなしに、看病なんかするわけがないって決め
      つけて。私はね、介護のベテランなんですよ」
  進 藤「……」
  光 江「いいでしょう。どうしても手に負えないと思ったときに
      は、あなたを入院させます。でも、それまでは私が責任
      を持って、オシメを換えさせてもらいます」
  進 藤「……!」
  光 江「もちろん、晴子にも手伝ってもらいます。それから、あ
      の桐乃さんという方が、もしその気なら」
  進 藤「光江……」
  光 江「あの方にはきちんと妻の気持ちを伝えておきました。半
      分だけ許してあげますって」
  進 藤「……」
  光 江「(かすかにおどけを含んで)あとの半分は、これからの
      あなた次第ということにしておきます」
  進 藤「(小さく頭を下げる)……」
        創と晴子が、そんな両親を見つめて──。
        張り詰めているが、どこか暖かい余韻を感じさせる
        沈黙が、しみるように流れていく。

○ 大学病院・全景

○ 同・八木の研究室

        進藤、その対面に厳粛な表情の八木と高野、二人の
        医師が控えている。
  進 藤「というわけで、俺の病気の進行を観察することが、今後
      の治療の参考になればと思ってね」
  八 木「……」
  進 藤「(高野に)先生、私が無自覚な行動を取ったら、その様
      子はきっちりと記録して欲しい。むろん、私の死後は私
      の脳を提供することを約束します。心行くまでこの頭を
      使って、研究に役立ててください」
        高野、気持ちを抑えて小さく頷く。
  高 野「それまでに、何とか新薬を完成させたいな」
  進 藤「……」
  高 野「いつかもお話したとおり、全力疾走のマラソンをジョギ
      ングのペースに抑えればいいんです。従来のように脳の
      活動を刺激するより、抑制する方向で治療法が見直され
      ている。光明は見えているんです」
  進 藤「(見つめて)……」
  高 野「進藤さん、諦めないでください。大量殺人犯の逮捕は、
      そう遠い未来のことじゃない」
  進 藤「……まだ希望はあると」
  高 野「(頷いて)地球上の何億という人達が、その日が来るの
      を待ち望んでいる。そのためにも、私たちも進藤さんに
      残された時間と、正面から向き合って戦いますよ」
        進藤の内に感動が沸き上がってくる。
  進 藤「それじゃますます、私に出来ることは、身を持ってアル
      ツハイマー病のすべてを解明する手がかりになることし
      かない。それでいいんだよな、八木」
  八 木「……俺は、友人としてお前のことを誇りに思う」
        八木が粛然とした声で頷いている――。

○ 小高い丘の上

  T  『一年後』

        特別擁護施設の中庭の日溜まりに、桐乃の椅子に座
        った進藤の姿がある。
        そしてその傍らの車椅子の上には、額に入った一枚
        の写真が飾られている。
        友子の遺影──。
        燦々とした日差しを浴びて、進藤は心地良さそうに
        両脇を見やる。
        桐乃と晴子が嬉しそうに立っている。
        微笑で見交わしてまた目を転じると、施設の隣の空
        き地にトラックが停まっている。
        数人の作業員たちが、そのトラックから手際よく資
        材を下ろしていく。
  進 藤「始まるんだな」
  桐 乃「ええ」
  晴 子「ここに幼稚園が建つんだ」
  進 藤「年寄りと子供たちが一緒に遊べる空間。園長の夢と、桐
      乃さん、あんたの夢が合わさった結果だ」
  桐 乃「進藤さんと晴子ちゃんの夢も」
  進 藤「(肩をすくめ)だいぶスケールは落ちたけどな」
  晴 子「でも、創アニキが建設を請け負ってくれたのよ」
  進 藤「ま、後は任せた。しっかり完成させてくれよ」
  晴 子「もちろん」
        ふわりと受けて笑う進藤の表情は輝いている。
  桐 乃「(笑って)私の田舎では……」
  進 藤「うん?」
  桐 乃「この病気のことを、二度わらしって言うの」
  晴 子「知ってる。わらしって子供のことでしょ」
  桐 乃「そう、もう一度子供に返って行くから」
  進 藤「二度童子、いい言葉じゃないか。そうやって遊びながら、
      楽しく老いていくんだよ」
        三人のくつろいだ笑い声が一斉に──。
  桐 乃「(晴子に)行こうか」
  晴 子「うん」
        女二人が弾むような足取りで、工事現場のほうへ走
        り去っていく。
        進藤は一人その場に残って、母親の遺影とともに目
        の前に広がる光景を見つめる。
        ブルドーザーが唸りを上げて動きだし、空き地の造
        成が始まっていく。
        進藤の胸にはその音が、何かの始まりのような思い
        がけない鮮やかさで響きわたる。
        手帳を取り出して、メモを書きつけていく。
  進藤のN「今日でこのメモも終わりだ。もう書いてあることの大
      半が、思い出せなくなってきた」
        束の間、手を止めて中空を仰ぐ。
  進藤のN「だが、不思議に安らかだ。私は生きて、生かされてき
      た。いま私の身体はほのあたたかい陽光に包まれ、かつ
      てないほどの安息と充足に満たされている。この爽やか
      な秋の果てしない大気の中へ、身も心も魂も溶けていく
      ようだ。溶けて、永遠と一体になる。今なら、まるで親
      しい友に告げるように、さりげなく自分自身に告げられ
      るだろう。ともかくも精いっぱい生きてきた自分に、感
      謝と労りと、そして静かな別れを……」
        遠くから誰かが自分を呼んでいる声がする。
        慈愛に満ちた眼差しで、桐乃と晴子の二人がこちら
        に向かって手を振っている。
        進藤は小さく手を振り返して笑う。
        そして、習慣的に左手を目の前に持ってくる。
        手首には光る丸いものが巻きついている。
        絶え間なく動く針が何を意味するのか、いぶかしく
        思われる。
        ただその動く針が、長いあいだ自分を恐れさせ、安
        らがせなかったもののように感じられる。
        進藤はそれを手首から外し、高々と空へ向けて放り
        投げる。
        次第に視界が白く輝きはじめてゆく。
        進藤は無上の至福感に身をまかせながら、ゆっくり
        と『白愁のとき』へ入っていく──。