火曜サスペンス劇場(九十四年)

夜の事情

  原作・連城三紀彦   脚本・パルプンテ   演出・大室 清
  〈登場人物〉   外 浦 淳 一(三十七才)          佐 野 史 郎      ○   安 原 信 夫(五十九才)          芦 田 伸 介      ○   安 原 千栄子(五十六才)          久 我 美 子      ○   中     谷(二十九才)          竹 内   力      ○   外 浦 幸 枝(三十才)           金 久 美 子   小野田 玲 子(二十四才)          田 村 翔 子      ○   そ  の  他
○ 郊外の閑静な住宅街(深夜)         ある一軒家――。         二階の書斎に男の影がひとつ、薄闇に溶けるように         ぼんやりと浮かび上がる。         外浦淳一、デスクについて虚空を見つめたまま、じ         っと身じろぎもしない。         壁際のコンポのデジタル時刻が、二十三時五十九分         から0時0分へと音もなく変わる。         外浦、どこか疲労のにじんだ様子で小さく吐息、ゆ         らりと立ち上がる。         続き部屋になった寝室の戸口に立ち、硬い視線を隣         の暗闇に凝らしてたたずむ。 ○ 同・二階の寝室(深夜)         女がひとり、ダブルベッドの上で絞殺されて、仰向         けに横たわっている。
○  安原の家・茶の間(深夜)

        テレビから『君が代』のメロディが流れている。
        座椅子についた安原信夫が、壁の時計を見上げる。
        もう明日になっている。
  安 原「……遅い」
        不機嫌に呟いて、リモコンのスイッチをOFF。
        やや苛ついた様子で、座卓の皿のラップをめくる。
        握り飯をほおばり、かたわらの冷えた茶をすする。
        と、しじまを破る電話の呼び出し音。
  安  原「……!」
        間髪を入れず受話器に飛びついて、
  安 原「産まれたかッ」
  中谷の声「係長」
  安 原「(拍子抜け)……中谷」
        刑事課の部下、中谷の声が短く響いている。
  中谷の声「コロシです。いま車を迎えにやります」

○ 外浦の家・全景(未明)

        新築間もない一戸建ての外壁が、点滅する赤灯に染
        まって不気味に浮かび上がる。
        警察関係の車両群がずらりと集結して、物々しい警
        戒体制が敷かれている。

○ 同・二階の寝室(未明)

        鑑識のカメラのフラッシュが焚かれ、慌ただしい現
        場検証が行われている。
        外浦の妻、幸枝の死体の首に巻かれた青いネクタイ。
        床に倒れて電球が粉々に砕け散ったスタンド。
        ドア付近にひっくり返ったナイトテーブル。
        その上から転げ落ちたのか、大ぶりの灰皿と周辺の
        フロアに散乱する煙草の吸殻――。
        何者かが争ったあとも生々しい空間である。

○ 同・一階のリビング(未明)

        応接セットをはさんで、若手の刑事川西を従えた安
        原が、外浦と対している。
  安 原「所轄の安原といいます、この度は……」
  外  浦「外浦です、ご迷惑をおかけして」
        外浦、慇懃に一礼して名刺を手渡す。
  安 原「(遠く読む)関東国税局、総務部資料室付、係長」
  外  浦「そちらと同じ、親方日の丸の身分というわけです」
        かすかに皮肉めかす眼鏡の奥で、冷たく安原を値踏
        みする目が光っている。
        安原、身についた刑事の目でじっと見返す。
        二人の鋭い見つめ合いが一瞬――。
        同時に視線が離れて、安原ふわりと部屋を見回す。
  安 原「(感嘆の声)それにしても、立派なお宅で驚きました」
  外 浦「分不相応な御殿住まいの報いですか、ハハ」
        自嘲を込めたすさんだ笑い声が短く。
  安 原「(奇妙な違和感に)……」
        と、検死官が作業を終えて降りてくる。
  安 原「どうです」
  検死官「詳しい結果は解剖待ちだが、死亡推定時刻は今夜の午後
      九時から十時のあいだ。死因はネクタイによる絞殺と見
      てまず間違いないだろう」
  外 浦「(無反応に聞く)……」
        安原、納得したように頷いて、
  安 原「外浦さん、お聞きのとおりです。早速ですが、奥さんの
      死体を発見されたあたりの事情から……」
  外  浦「その前に、煙草を吸わせてもらえますか」
        外浦、ひょいと外してパッケージを取り出し、火を
        点けて美味そうにくゆらせていく。
  安 原「(じっと目をそらさない)……」
  外 浦「(意に介したふうもなく)皮肉なもんですね」
  安 原「はい?」
  外 浦「妻は生前、私が家で煙草を吸うのをひどく嫌っていまし
      た。この部屋で一服するのは初めてなんです」
        ふうっと煙を吐きだして、薄く笑いかける。
  安 原「(次の言葉を待つ)……」
        と、
  外 浦「幸枝には私のほかに愛人がいた」
        外浦、誰にともなく傍白――。
  安  原「(抑えて)……ほう?」
  外 浦「もう一年以上になりますか、今夜もその相手が二階にい
      たことは間違いありません」
        焦点を置き忘れた目で斜交いにのぞき込んで、
  外 浦「刑事さんも見たでしょう、妻の死体の側には、これとは
      違う吸殻が何本も散らばっていた」
        煙そうに顔をしかめながら、煙草をねじり消す。
  外 浦「(謎でもかけるように)それにあの通り、クローゼット
      の扉も開きっぱなしになっていましたし……」

○ 元の寝室(未明)

        壁にはめ込みの収納ドアが、大きく開いている。
        そのポールに掛けられた、無数のネクタイ類。

○ 元のリビング(未明)

  安 原「(探るように)……つまり、その男がタンスにあったネ
      クタイで奥さんを殺害したと」
  外 浦「さあ、私は警察じゃありませんからそこまでは」
        揶揄するように笑う外浦、そのワイシャツにはネク
        タイが締められていない。
  安 原「(正体のつかめない疑惑に)……」
        と、
  中 谷「係長、ちょっと」
        顔を覗かせる中谷が、物言いたげに外へ誘っている。

○  同・一階の和室(未明)

  中  谷「これを見てください」
        中谷、押収した書類の束を差し出す。
  安 原「家のローンの契約書か……三十一万四千六百円!」
  中 谷「新築一年、あと二十九年間、毎月それだけを払いつづけ
      ていく計算になっています」
  安 原「(目を剥いて)……」
  中 谷「それどころじゃないんですよ、次が女房名義のクレジッ
      トカードの請求書なんですが」
        分厚いメールの束を指し示して、
  中 谷「宝石店、ブティック、美術商……信じられない額が、月
      々亭主宛てに請求されてきてます」
  安 原「(一枚ずつ確認して)……これは公務員の給料の限界を
      はるかに超えている」
  中  谷「で、最後にこういう面白いものが出てきました」
        やおら得意げに、一番下の書類を抜き出してみせる。
  安 原「……夫婦掛け合いの生命保険証」
  中 谷「額面は死亡時一億円、今回の場合受取人はもちろん」
  安 原「外浦淳一か」
        安原、凝然とその保険証に見入っていく。
  中 谷「(早くも断定口調で)良くある情痴事件というやつです
      よ。わざわざ係長に電話をするまでもなかったな」

○  元のリビング(未明)

        中谷、自信をただよわせて戻ってくる。
  安 原「(続いて)……」
        と、外浦の姿が消えている。
  中 谷「あの男は?」
  川 西「(のんびりと)トイレですが」
  中 谷「バカッ、何で監視してない!」
        思わず怒声で踵を返し、表へ飛び出しかける。
        と、うっそりと入ってくる外浦と鉢合わせ。
  中 谷「(気まずく)……」
        事態を悟ったのか、外浦の唇に微苦笑が浮かぶ。
  外  浦「刑事さんはいま、私が妻を殺した犯人だと疑っている」
  両刑事「(意表をつかれて)……!」
        外浦、ゆっくりとソファーに座りなおし、何の感興
        も見せずに言葉を継いでいく。
  外 浦「どう思われても仕方ありませんが、残念ながらその件に
      関しては、私には確かなアリバイがある」
  中 谷「アリバイ?」
  安 原「(凝視して)……」
  外 浦「先ほど、幸枝の死亡推定時刻は午後九時から十時のあい
      だだったと聞きました。だったらその時間、私は神奈川
      県のある場所で別の女と一緒に過ごしていた」
  中 谷「あんた、いつまでもいい加減なこと言ってると」
  安  原「外浦さんのほうにも、愛人がいるというんですか」
        気色ばむ中谷を制して、口をついた質問に、
  外  浦「とことん間が悪く生まれついてるんですよ、ボクは」
        自虐を含んで呟く外浦、まるで事態を愉しむように
        顔いっぱいの表情で笑いかける。
  外 浦「妻が殺されたまさにその時間、私は自分の愛人を真鶴の
      別荘で殺していたんです」
  安 原「(絶句)……!」

○ 真鶴有料道路(早朝)

        海沿いのアスファルトを、サイレン音もけたたまし
        く覆面パトカーが疾走していく。

○ ある別荘風の洋館・表(早朝)

        その面パトが急停止して、神奈川県警の鈴村、高井
        両刑事が転げるように降り立つ。
        と、先に駆けつけていた二人の制服警官が敬礼。
  鈴 村「中はッ!」
  警官A「誰も応答がありません!」
  警官B「鍵は開いているようです」
  鈴 村「(手袋をはめながら)ヨシ、入るぞ」
        高井を促して玄関を開け、内へなだれ込んでいく。

○ 同・二階の寝室(早朝)

        階下から上を望む二人、油断なく目を配りながら階
        段を上がってくる。
  両刑事「(一室の前に立って)……」
        高井、緊張した仕種でそっとドアを開ける。
        廊下の照明が差し込む薄暗い室内に、
  両刑事「……!」
        凝固、思わず息を呑んで立ち尽くしている。

○  東京の所轄署・全景(早朝)

○  同・取調室(早朝)

        川西に監視された外浦が、飄々と控えている。
        憮然とした表情の安原と中谷が入ってくる。
  外 浦「(その顔に)どうです、言ったとおりだったでしょう」
  中 谷「まだ身元が確認されたわけじゃない」
  外  浦「だから、その女は赤坂のクラブのホステスで、名前を小
      野田玲子というんです」
        柳に風でうそぶくのへ、安原、苦虫を噛みつぶした
        感じで対面に腰を下ろす。
  安 原「……確かにあんたが供述したとおりの場所で、若い女の
      不審死体が発見された」
        外浦、他人事のように薄笑い。
  安  原「神奈川県警はその女性の死亡推定時刻を、午後九時から
      十時のあいだと見ていると連絡してきた」
  外  浦「同じだ、こっちの事件と」
        空気が淀んだように動きが止まった室内。
  外  浦「要するにこういうことですよね。車でいくら高速を飛ば
      しても、最低二時間はかかる真鶴で、玲子を殺していた
      私に東京で妻を殺すことは不可能だという……」
        毛虫のような感触の声が、安原の耳を這っていく。
  外 浦「良かった。これでようやく、ボクが幸枝を殺していない
      ことが信じてもらえます。ハハハ」
  中 谷「(この男何者だと)……」
  安  原「(沸き上がる強い疑惑に)……」
        と、
  川 西「係長」
        一旦出て戻ってきた川西が、廊下へ招いている。

○ 同・廊下(早朝)

  川 西「いま奥さんから電話がありました。母子ともに健康、男
      の子だそうです。おめでとうございます」
  安 原「そうか……」
        仏頂面で頷く安原、安堵と複雑さのまじった吐息。

○  同・会議室

        署長の佐野、刑事課長の倉本以下、安原、中谷ら関
        係者たちが一堂に会した捜査会議――。
  倉 本「神奈川が、外浦を任意出頭させてくれと言ってきた」
  中 谷「待ってくださいよ、こっちのヤマはどうなるんです」
  倉  本「(むっつりと)ヤツが真鶴のコロシを主張している以上、
      無視するわけにもいかないだろう」
  中 谷「じゃあ、幸枝は誰がやったんです。愛人が殺したなんて、
      言い逃れに決まってるじゃないですか」
  倉 本「そういうのを見込み捜査というんだ!」
        一瞬険悪な空気がただよって、気まずい沈黙。
  安  原「……どちらにしても、うちも当分あの男からは目を離せ
      ない。私が同行しよう」
        と、
  佐 野「安原さんはあと十日で定年でしたね」
        佐野がまだ三十そこそこの風貌に、拭いがたいエリ
        ート臭を匂わせて口を開く。
  佐 野「この事件はどうやら長引きそうです。いかがでしょう、
      あとは若い者に任せていただいて、ベテランにはお知恵
      だけを拝借するということで」
        おざなりのねぎらいを込めた微笑。
  安 原「(敏感に)……どういう意味ですか」
  佐 野「はい?」
  安 原「(淡々と)確かに署長から見れば、私は親父のような年
      寄りかもしれないが、せめて働くことを許されたあいだ
      は、きっちり仕事をさせてもらえませんか」
  佐 野「(気圧されて)私はただご苦労さまでしたと」

○  東名高速道路

        所轄の覆面パトカーが下り車線を疾走していく。

○ 同・車内

        運転席の中谷、後席の安原、そして外浦――。
  中 谷「皆んな裏で拍手してましたよ」
  安 原「うん?」
  中 谷「(嘆き節)あの署長とオレ、同い年なんです。同じ大卒
      で、どうしてこうも差がつくんですかね」
        外浦、その話に口唇をゆがめて、流れさる景色に目
        を移している。
  安 原「(じっと窺って)……」

○  神奈川県警・全景

○ 同・取調室

        机の上の、証拠品の赤いネクタイ――。
        安原、中谷の立会いのもと、外浦が鈴村、高井両刑
        事の尋問を受けている。
  外 浦「玲子とは一年半ほど前に知り合いました。役人の特権で、
      業者の接待を受けて店へ通っているうちに、どちらから
      ともなく愛し合うようになって……」
        前にも増して捉えどころのない口調。
  外 浦「あとはお定まりの修羅場です。すっかり玲子に入れ揚げ
      てしまって。やがて妻のほうにも愛人ができたのは、そ
      んな事情もあったのかもしれません……」
        むしろ安原と中谷を意識する感じで、
  外  浦「ところが、その玲子に新しい男ができて別れ話が持ち上
      がった」
  高 井「男?」
  鈴 村「小野田玲子にも愛人がいたのか」
  外 浦「別れるくらいならこの手で殺してやる。あの日は最初か
      らそのつもりで、いつも玲子との情事に使っていた別荘
      に彼女を誘い出しました。そして、以前誕生日にプレゼ
      ントされたこの赤いネクタイで……」
        無表情にぎゅっと首を絞める手真似。
  中  谷「こっちも凶器はネクタイか。女房には男、亭主には女、
      その女には新しい男。揃っていいタマだな」
  安  原「(じっと見つめて)……」

○ 真鶴の別荘・表

        面パトが着いて降り立つ安原と中谷、ひょいと制服
        警官に警察手帳を示す。
  警官A「(敬礼)……!」

○ 同・二階の寝室

        二人、警官Bに案内されて階段を上がってくる。
  警官B「こちらです。死体が搬出されている以外は、すべて発見
      時のまま現場保存してあります」
        安原、頷いて何気なく部屋に足を踏み入れた途端、
  安  原「……これは!」
        思わず小さく叫んでその場に立ち尽くす。
        ダブルベッドの上に、そこで殺人があったことを示
        すマーキングの人型。
        床に倒れて電球が粉々に砕け散ったスタンド。
        ドア付近にひっくり返ったナイトテーブル。
        その上から転げ落ちたのか、大ぶりの灰皿と周辺の
        フロアに散乱する煙草の吸殻――。
        何者かが争ったあとも生々しい空間である。
        中谷もその光景に、同じ思いで愕然とたたずむ。
  中  谷「まるで東京の現場のコピーじゃないか!」

○ 同・現場の再現(事件当日の夜)

        赤いネクタイで絞殺された女、小野田玲子がダブル
        ベッドの上に仰向けに横たわっている。
        そのだらりと下がった左腕の時計が、午後九時半を
        さしたまま止まっていて……。

○  県警・刑事課の部屋

        安原、中谷、割り切れない様子で戻ってくる。
        と、デスクで何やら書面を作成していた鈴村が、
  鈴 村「(上機嫌)ああ東京さん、ちょうど良かった。これから
      外浦の逮捕状を請求するところです」
  両刑事「……!」
  鈴  村「小野田玲子の首に巻きついていたネクタイが、事件当日
      外浦が局を出るときに締めていたものだったという、部
      下の証言がとれたんですよ」
  高  井「(横合いから)現場に散乱していた煙草も、日頃外浦が
      表で吸っている銘柄と一致しました。吸い口から検出さ
      れた血液型も、ヤツと同じAB型でしたし」
  安 原「(慌て気味)その前に、あの現場のことで……」
  鈴  村「(遮って)何と言っても、別荘に女の死体があるという、
      犯人しか知りえない供述が決定的な証拠になりました。
      お先に一件落着にさせてもらいましたよ、ハハハ」
  中 谷「(カッと)冗談でしょう。最初にヤツの身柄を引っ張っ
      たのは東京ですよ」
  高 井「外浦がゲロしてるのは、うちの管轄のコロシだ」
  安 原「とにかく……執行はもう少し待っていただきたい」
        やや険悪な雰囲気になりかけるとき、廊下を慌ただ
        しく駆けてくる足音。
        刑事A、ノックもせずにドアを開けて、
  刑事A「(叫ぶ)鈴チョーさん、外浦がッ!」

○ 同・取調室

        押っ取り刀で飛び込んでくる中谷、続いて鈴村と高
        井、そして安原がうっそりと。
        と、外浦が悪びれもしない表情で控えている。
  外 浦「すみません、安原さんに改めてお話したいことが」
  安 原「……(対面に座る)」
  外  浦「今までの供述はぜんぶ嘘です。私は玲子を殺してはいま
      せん。玲子を殺したのは、あいつの新しい男です」
  高 井「このヤロー……!」
        鈴村、中谷、一瞬声を失って佇立している。
  安  原「(抑えて)……どういうことだ」
  外 浦「今度こそ本当のことを言います。あの日は確かに午後六
      時に玲子と逢いましたが、それは車を貸してくれという、
      彼女の頼みを聞くためでした」
  安 原「……」
  外 浦「騙されたんですよ。てっきり買い物に使うんだと思って
      たんですが、玲子はそのあと男と一緒にあの別荘に行っ
      たんです。彼女には合鍵も渡してありましたから」
        落ちつきはらった表情をふと曇らせて、
  外 浦「真鶴の別荘で見つかった吸殻は、私の車の灰皿にあった
      ものでしょう。残念ながら顔も名前も知らないんですが、
      その男が私を陥れるためにしたことですよ」
  鈴 村「しかし、凶器のネクタイはあんたのものだった」
  外 浦「(どこ吹く風と)あの堅苦しい庁舎を出たら、誰だって
      ネクタイくらい外したくなるでしょう。車を降りるとき
      に中に忘れてきたんです」
  高 井「だったら、何でいままで自分が殺したと」
  外 浦「妻殺しの嫌疑から逃れるための一心でした。つい嘘に嘘
      を重ねて……でも、玲子を殺したのは私じゃありません。
      私にはアリバイがあるんです」
  中 谷「アリバイ?」
  外 浦「ええ、安原さんたちも良くご存じのアリバイが」
        芝居がかった目で斜交いにのぞき込むと、
  外 浦「真鶴で玲子が殺された午後九時半には、ボクは東京の自
      宅で妻を殺していましたからね」
        あの顔いっぱいの表情を浮かべて笑いかけている。
  安 原「(激しく見つめて)……!」

○  同・玄関

        引き立てられてくる外浦が、安原と中谷に伴われて
        再び覆面パトカーに乗り込む。
        鈴村と高井が歯噛みするように見送っている。
        発車――。

○  外浦の家・表(事件当日の夜)

        外浦が徒歩で帰宅してくる。
        門の前で立ち止まり、ふと屋敷を見上げる。
        二階の一室に、ぼんやりと明かりが灯っている。
  外浦の声「あの日、家に帰りついたのは午後の九時すぎでした」
        玄関のドアレバーに連動した、電気錠の暗証番号を
        押し、扉を開けて邸内へ入っていく。

○ 同・二階の寝室(事件当日の夜)

        外浦、階段を上がってきてぬっと部屋へ。
        と、険しい表情でベッドから跳ね起きる幸枝。
  幸 枝「ノックぐらいしてよ、いつ帰ってきたの!」
  外 浦「(目敏く)……!」
        そのかたわらのナイトテーブルの上の灰皿に、煙草
        の吸殻が山積みになっている。
  外 浦「(思わず)お前は亭主には吸うなと言っておきながら、
      違う男には部屋で煙草を許すのか!」
        隠しようのない事態に、幸枝は居直って向き直る。
  幸 枝「(わざとらしい吐息)そうよ、煙草だけじゃないわ」
  外 浦「何ッ」
  幸 枝「(憎悪の極みで)どうせなら、あの人にもう少しいても
      らうんだった。二人が一緒のところを見たら、あなたも
      別れる決心がついたでしょうからね」
  外 浦「……殺してやるッ!」
        外浦、カッと我を失って飛びかかる。
  幸 枝「……!」
        拍子にスタンドが倒れて、ガチャンと電球が切れる。
        暗くなった室内で、逃れようとする幸枝の足がナイ
        トテーブルを蹴る。
        すさまじい物音を立ててテーブルが倒れ、灰皿の吸
        殻があたりに散乱する。
  外 浦「チクショー……!」
        叫んで、壁のクローゼットの扉を開ける。
        青いネクタイを抜き出し、幸枝の首に巻きつける。
        渾身の力で締め上げていく。
  幸 枝「(必死に抵抗するが)……!」
        幸枝、全身を痙攣させて――絶命。
  外 浦「(大きく肩で息をつく)……」
        次の瞬間、外浦はハッと我に返る。
        茫然、頭を抱えて床に座り込んでいる。

○ 同・表(事件当日の夜)

        二階の明かりが消えている。
  外浦の声「とんでもないことをしてしまった。どうしたらいいか
      分からなくて、そのまま頭を抱え込んでいました。気が
      ついたら、いつの間にか二時間も経っていて……」

○ 元の寝室から書斎(事件当日の夜)

        外浦、同じ姿勢でじっとうなだれている。
        と、突然、隣室の書斎で電話のベルが鳴る。
  外 浦「(顔を上げる)……!」
        ベルの音、催促するように鳴りやまない。
  外  浦「(恐る恐る)……はい」
  電話の声「外浦さんかい」
  外 浦「……」
  電話の声「初めましてだな。オレが誰か、分かるよな」
  外 浦「……玲子の?」
  電話の声「その玲子を真鶴の別荘で殺した。あんたの車に忘れて
      あったネクタイを使ってな」
  外 浦「(慄然)……!」
  電話の声「ちょっとした痴話喧嘩の弾みでね。オレはいま東京に
      戻ってきた。車は近くの公園に乗り捨ててあるから、す
      ぐに取りにいったほうがいい」
        あざ笑うように通話が切れている。

○  東名を走る覆面パトカー

        中谷、安原、そして外浦――。
  安 原「(ボソリ)あんたみたいなホシには、オレの長い刑事生
      活のなかでも出会ったことがない」
  外 浦「褒め言葉だと信じて、素直に受け取っておきますよ」
  安 原「恐らくこのヤマが、オレの現役最後の仕事になるだろう。
      有終の美が飾れるかどうか……」
  外 浦「ボクもせいぜい楽しませてもらいます」
        あとはそれぞれの思いを秘めた沈黙を乗せて、車は
        来たときとは逆に東京へとひた走っていく。

○ 関東国税局・全景

○ 同・総務部の応接室

        怜悧な風貌の部長、仁科が安原と中谷に対している。
  仁 科「(記者会見でもするように)最初に申し上げておきます
      が、今回の事件は外浦君が私的に起こしたものであり、
      私どもはいっさい関知しておりません」
        典型的な官僚口調をにじませて、煙草をふかす。
  中 谷「外浦の奥さんは、都心でフィットネスクラブを経営して、
      手広く活躍していたようですが」
  仁  科「幸枝さんといいましたか、彼女は本庁のかつての局長の
      娘さんという出自ですが、最近の人となりについてはま
      ったく知る立場にございません」
  中 谷「例えば、夫婦仲が悪かったというような話も」
  仁 科「(頷いて)小野田玲子さんについても、確かにあの赤坂
      のクラブは出入りの店の一つですが、外浦君と彼女が情
      を通じた関係だとは、誰一人想像すらしませんでした」
  中 谷「外浦は、まったく逆の供述をしてるんですが」
  仁 科「(木で鼻をくくったように)いま申し上げたとおりです。
      付け加えることは何もございません」
        ほとんど取りつく島もなく、チェーンスモーク。
        話が途切れて、やや気まずい沈黙。
  安  原「(気分を変えようと)随分煙草を吸われるんですね」
  仁 科「(それがどうしたと)……」
  安 原「そういえば、外浦淳一は五年前のある脱税指南事件に連
      座していたそうで」
  仁 科「(ピクリと反応)……!」
        安原、その変化を見逃さずにすかさず、
  安  原「優秀だったそうですね、事件にかかわるまでの外浦は」
        仁科、探るように安原のとぼけた風貌を凝視する。
  中  谷「(もわけが分からず)……?」
  仁 科「……いいでしょう、あの事件は一時マスコミにも騒がれ
      たことですから」
        仁科、気持ち居直ってまた煙草に火を点ける。
  仁 科「仰言るとおり、外浦君は同期の連中の中でも飛び抜けて
      切れる人材だった。その上本庁の上司の娘をめとってこ
      れ以上こわいものはない。いずれポストの階段を順調に
      登っていくのは、誰の目にも明らかでした」
  安 原「……」
  仁 科「魔がさしたんですな。ちやほやされて舞い上がっている
      うちに、いつの間にか業者接待の誘惑に巻き込まれてい
      た。まあ実態は、当時の課長の背任を見て見ぬふりする
      しかなかったというところだったようですが」
  中 谷「(初めて聞く話に)……」
  仁 科「泣いて馬稷を切るというやつですか。局長の一声で課長
      は懲戒免職、その部下だった外浦君も局の資料室付とい
      う閑職に一気に降格された。見事な懲罰人事だと一時は
      評判になったもんです。ま、一二年待てば本庁に呼び戻
      すくらいの約束はあったんでしょうが」
  安 原「……その義理の父親も、三年前にクモ膜下出血で」
  仁 科「(むしろ愉快そうに)あれは決定的な挫折だった。本庁
      復帰の望みを完璧に絶たれたあとは、与えられた仕事を
      タレ流しているだけのデモシカ組に成り下がって。以来、
      ずっと昼行灯のままというわけです、ハハハ」

○ フィットネスクラブ

        レオタード姿の女性会員たちが、音楽に合わせてエ
        アロビクスの汗を流している。

○ 同・オフィス

        安原と中谷がやや居心地悪そうに、ハイレグの若い
        インストラクターと対している。
  安 原「(見回して感嘆の声)大したもんだ」
  陽  子「でも幸枝さん、間が悪かったんです」
        陽子、身についた営業スマイルを満面に、
  陽 子「彼女、お父さんが亡くなる前に、生前分与で長い間の夢
      だったオーナーに就任したんですけど」
  中 谷「生前分与?」
  陽 子「すぐにこの不景気でしょう、思ったほどはお客さんが」
  安  原「そういえば真鶴の別荘も、父親が亡くなる前に幸枝さん
      が受け継いだものらしいですね」
  陽 子「何でも知ってるんだ、刑事さん」
  中 谷「(オレは知らないと)……」
        と、
  陽 子「(いきなり)やっぱり、旦那さまが犯人なんでしょう」
  中 谷「(眩しく)え。あ、いや」
  安 原「……何か心当たりが?」
  陽 子「ええ、幸枝さん、生徒としてもあんまり熱心なんで、旦
      那さま幸せねってからかったことがあるんです。そした
      らとんでもない、私たちはもう完全に冷えきってるの、
      私が身体を磨くのは他の人のためなのよって」
  安 原「……!」
  陽 子「ホントは夫と別れてその人と一緒になりたいんだけど、
      そんなことを言ったら殺されてしまうって」
  中 谷「その相手の名前は!」
  陽 子「ゴメンナサイ。彼女、口ほどには男遊びするタイプじゃ
      なかったから、その時には半分冗談だと思って」
        と、ガラスの向こうを、中年女性会員を引き連れた
        男性インストラクターが通りかかる。
  陽 子「(呼び止める)栗ちゃん」
        栗林、ドア越しに軽薄な笑顔をのぞかせる。
  陽 子「幸枝さんのことで刑事さんが見えてるんだけど、あなた
      何か知ってることない」
        栗林、途端にむっと口をとがらせて、
  栗 林「知るわけないでしょうが、雇われインストラクターがオ
      ーナーのことなんか」
        ニベもなく言い捨て、振り切るように去っていく。
  陽 子「可愛くないヤツ」
        女性会員たちが好奇心丸出しで、額を寄せている。
        と、中谷のポケベルが場違いな音を立てて――。

○ 臨海公園・駐車場

        覆面パトカーが滑り込んでくる。
        と、外れの一角に車を停めた青年が人待ち顔で。
  中 谷「真木さん?」
  真 木「(ペコリ)……」
  中 谷「署のほうに電話をもらったそうで」

○ 同・海辺

        季節外れのウィンドサーファーの姿がちらほら。
  安 原「そうですか、車のセールスを。時節がら大変でしょう」
  真 木「(屈託なく)まあ体力だけが勝負ですからね。毎晩ジョ
      ギングで体を鍛えています。それで、たまたまアパート
      があの家の近くなもんですから」
  中 谷「事件の夜にも、何か目撃したことがあるとか」
  真 木「(頷いて)いつも九時半ちょうどに部屋を出て走ってる
      んで、時間は九時三十五分ぐらいだったと思います。あ
      の家の前を通りかかったら……」

○ 外浦の家・表(事件当日の夜)

        トレーナー姿の真木がジョギングしてくる。
        と、
  男の声「殺してやるッ!」
        怒声――。
  真 木「(思わず足を止めて見上げる)……!」
        その視線の先に、明かりが灯った二階の部屋。
        続けざまにガラスの割れる音が響いて、同時にスタ
        ンドの照明が消える。
        一瞬で暗くなった部屋から、何かが倒れて人が争う
        ようなすさまじい物音――。
  男の声「チクショー……!」
  真 木「(呆気に取られてたたずむ)……」

○ 元の海辺

  中 谷「男の怒鳴り声がしたんですか!」
  真 木「ええ、どう見ても只事じゃないし、一瞬110番すべき
      かなと思ったんですけど……」

○ 元の外浦の家・表(事件当日の夜)

        真木、道路をはさんだ公衆電話を見返る。
       『故障中』の札が、デカデカと貼ってある。
        どうしようかと思案、もう一度二階を見上げる。
        と、
  男の声「あ、すみません、ただの夫婦喧嘩ですから」
        暗い部屋からつくろうような声が掛かって、カーテ
        ンがスルスルと閉まっている。

○ ファーストフード店(夕景)

        中谷、がぶりとビッグバーガーにかぶりつく。
  中  谷「引っ掛かりますね。ただの夫婦喧嘩ですからなんて、外
      浦はそんなことオレたちには一言も供述していない」
  安 原「……顔を見たならともかく、声だけじゃ確認は無理か」
  中  谷「結局、女房を出世の手段に利用しようとして裏切られた
      男の、逆恨みの犯行ということですか」
  安 原「……どっちにしろ、幸枝の殺害時刻はあのセールスマン
      の証言から考えて、午後九時三十五分と断定してほぼ間違
      いない。玲子が殺されたのが午後九時三十分、わずか五分
      の違いでどちらも外浦に関係のある女が殺されたことだけ
      は、揺るぎのない事実だ」
  中  谷「それにしても驚いたな。いつの間に、あんな外浦の昔の
      ことを調べ上げたんですか」
  安 原「(不思議そうにバーガーを食べながら)高校時代の友人
      で、たまたま国税庁に勤めている男がいてね」
  中 谷「(納得)……」
  安 原「その男が言うには、例の事件は一種の冤罪らしいんだ」
  中 谷「冤罪?」
  安  原「外浦たちはただ詰め腹を切らされただけだと。本当の脱
      税指南の黒幕は、彼の直属の上司だった局長……」
  中 谷「幸枝の親父だって言うんですか!」
  安 原「(あくまで淡々と)それが本当だとしたら、外浦の屈折
      は相当根深いだろうな」
  中 谷「しかし、それじゃ実の娘も切って捨てたということに」
  安 原「その見返りに、あの体育クラブを出す金と別荘を、父親
      から巻き上げたとも考えられる」
  中  谷「(打たれたように見て)……恐ろしい人だな」
  安  原「ひとつ質問してもいいかい」
  中 谷「はい?」
  安 原「(にこりともせず)最近の若いデカさんは、毎日こんな
      不思議なものを食ってるのかね」
        中谷、軽く受けてひょいと立ち上がる。
  中  谷「じゃあ、行きましょうか」
  安 原「まだ開店には間があるぞ」
  中 谷「(悪戯っぽく)その前に寄るところがあるでしょう。忘
      れてるとは言わせませんよ」

○ 大学病院・全景(夜)

○  同・病室(夜)

        産婦人科病棟を来る安原、突き当たりの部屋の名札
        を確かめて室内へ。
  由美子「(赤ん坊を傍らに)お父さん」
        一人娘の由美子が、母親の笑顔で迎える。
  千栄子「やっと現れましたか」
        妻の千栄子が、呆れ顔で皮肉めかして笑う。
        安原、ことさらな無表情で赤ん坊を一瞥する。
  千栄子「ほら克也ちゃん、忙しぶりっ子のおじいちゃんですよ」
  安 原「克也?」
  千栄子「あなたがいつまでも顔を出さないから、勝手に名前をつ
      けさせてもらいました。おお、可愛い可愛い」
        千栄子、抱き上げて嬉しそうにあやしていく。
        初めて見る孫の顔が、安原の間近にある。
  安  原「(一瞬頬がゆるむのをこらえて)……」
        と、
  由美子「(さりげなく)あ、これ隆志さんから二人に」
        由美子、枕元から小さな封筒を差し出して示す。
        安原、怪訝に受け取って見る。
  由美子「私たちの感謝状。修善寺温泉の無料宿泊券。交通費も入
      れといたから、日にちは二人で相談して決めて」
  千栄子「……由美子!」
  由美子「(おどけに紛らせて)長い間ご苦労さまでした。ゆっく
      りとフルムーンを楽しんで、骨休めしてきてください」
  千栄子「ありがとう……!  ほら、あなたも」
  安 原「まだ一週間も先の話だ」
        安原、木で鼻をくくったように言い残し、前にも増
        した仏頂面でプイと出ていく。
  母 子「(顔を見合わせて微苦笑)……」

○ 赤坂・全景(夜)

○ 同・あるクラブ(夜)

        突然、ホステスたちのけたたましい笑い声。
  小ママ「浦チャンと玲子が?  嘘でしょう」
        安原と中谷が、一角のボックスで聞き込み中。
  小ママ「(問題外と)悪いけど、浦チャンってああいう粘着タイ
      プでしょう、女の子たちの評判は最悪だったわよ。それ
      に初めからレールを外れてる人だし、あのハデ好みの玲
      子が付き合っても何の得もないじゃない。ねえ」
        相席のホステスたちが、同意して黄色く笑う。
  安 原「……やっぱり、外浦の愛人話には信憑性がないと」
  小ママ「当たり前じゃない。嘘ついてるのよ、浦チャン。第一、
      玲子には別の本命がいたはずよ」
  安 原「(ピクリ)……?」
  小ママ「いくら聞いても相手は教えてくれなかったけど、その人
      と結婚するのが夢なんだって。でもその夢は絶対に叶わ
      ないんだって、ノロケてるんだか悲しんでるんだか分か
      らない感じでいつも。ねえ」

○ 玲子のマンション(夜)

        エレベーターが開いて、安原と中谷が降りてくる。
  中 谷「302号室ですから、左だと思います」
        二人、部屋番号を探して歩きかける時、
  男の声「安原さん」
        フロアの蔭から、渋面をのぞかせる人影。
  安 原「鈴村さん……」
        鈴村、高井、両刑事である。
  鈴 村「東京さんが、小野田玲子のマンションに何の用で」
  安  原「(それには答えず)狙いは玲子の新しい男ですか」
  鈴 村「(こちらも答えず)おたくの方こそ、その後どう?」
  安 原「まあ、靴の上から足を掻いているところです」
        本能的な刑事同士の化かし合い。
        と、
  高 井「(気配に)鈴チョーさん」
        目配せにつれて、四人、さりげなく物陰に身を隠す。
        エレベーターのドアが開いて、男が一人降りてくる。
        目深に帽子をかぶった、二十歳前後の優男――。
        男、外廊下を歩いてふと302号室の前に立つ。
  安  原「(表情が変わる)……」
        男、そっとノブを回すが鍵が掛かっている。
        メーター裏の、鍵の隠し場所を探る素振り。
  男  「(見つからない)……」
        コートのポケットから道具を取り出し、慣れた手つ
        きで解錠にかかってゆく。
  高 井「そこまでだッ」
        高井、待ちきれずに大見得で飛び出す。
  男  「(瞬間)……!」
        非常口に肩から激突、脱兎のごとく逃げだす男。
  中 谷「(跳躍)……!」
        先を争うように、二人が追跡を開始――。

○ 同・非常階段から駐車場(夜)

        男、必死で鉄階段を駆け下る。
  中 谷「ジャマだッ!」
        高井を押し退け、転がるように追いすがる。
        あと三段からジャンプ一番。
        コンクリートにもつれ込んで、鮮やかな関節技。
  高 井「立てッ、この人殺しが!」
        こっちのものだとばかり、高井が横合いから襟首を
        つかんで引き上げる。
        中谷、負けじと男の帽子を鷲づかむ。
  男    「(坊主頭を剥き出しに)何だよッ、何で姉貴の家にサツ
      が張ってんだよ!」

○ 近所の交番(夜)

  高 井「(素っ頓狂に)弟ォ?」
  健 作「だから、姉貴が死んだなんて知らなかったんだよオ」
  玲子の弟、健作、机に突っ伏して滂沱の涙。
  健 作「昨日ムショから出てきたばっかりでよお、金借りようと
      思って来たら……チクショー!」
        絶叫、やおら立ち上がって、
  健 作「誰がやったんだ、ヤローぶっ殺してやる!」
        頭に血が昇って、手当たり次第あたりを蹴飛ばす。
  鈴 村「(気まずく)分かったからもうやめろ、なッ」
        安原、中谷、拍子抜けした感じで見つめている。

○ 所轄署・取調室

        安原をかたわらに、中谷が出来上がった調書を事務
        的に読み上げてゆく。
  中 谷「そのジョギングをしていたセールスマンが目撃したこと
      は、すべて事実です。以上、妻の幸枝を殺害した経緯に
      ついて申し上げました。今はただ罪の意識に苛まれ、取
      り返しのつかない罪を犯してしまったと深く後悔してお
      ります。この上は一日も早い法の裁きを願って、妻の冥
      福を祈るばかりです」
  外 浦「(微笑のなかの無表情な目)……」
  安 原「(ぶっきらぼうに)上がな、とにかく起訴の材料をそろ
      えろとうるさい。あんたが言うとおりに書いた。それで
      良かったら、署名捺印してくれ」
        ボールペンと朱肉を差し出して、憮然。
        外浦、微笑のまま調書を取ってゆっくり目を通す。
        何の前触れもなく、静かに二つに切り裂いてゆく。
  中 谷「(唖然)……!」
        と、外浦の表情に、例の小馬鹿にしたような顔いっ
        ぱいの笑みが浮かび上がる。
  外  浦「安原さん、この調書はぜんぶ嘘です」
  安 原「(不思議に驚きもなく)……」
  外 浦「(うわ言のようにくねって)やっぱり本当のことを言い
      ます。玲子の本命の男はいくら探しても無駄ですよ。そ
      れは私だったのですから……周囲にはただの客とホステ
      スを装ってひた隠しにしていましたが、本当の関係はも
      う底無しの泥沼になっていたんです」
  安 原「(次の言葉を待つ)……」
  外 浦「証拠があります。事件の何日か前、義理のある結婚式に
      夫婦でいやいや出席させられて。そのあいだに留守番電
      話に録音された、玲子の声が残っています」

○ 関東国税局・資料室

        フロッピーがうず高く並べられた一角に、何かの資
        料らしいマイクロテープの陳列棚。
        安原、中谷の二人が、仁科の立ち会いのもとに一本
        一本をヘッドホンで確かめてゆく。
  外浦の声「局の資料室を探してみてください、そこにテープが隠
      してある。それを聞いてもらえば、私が玲子を殺そうと
      決心した気持ちが分かってもらえるはずです」
        その何本目かに、中谷の表情がアッと変わる。
  外浦の声「私には妻が殺された時刻のアリバイがあるんです。真
      鶴で玲子を殺していたという確かなアリバイが……」

○ 所轄署・会議室

        刑事課一同がそろった席上で、マイクロテープの音
        声が再生されていく。
  玲子の声「夫婦そろって、着飾ってお出かけですか。私がいない
      と駄目だなんて甘い言葉をささやいたのは誰よ。あなた
      の立場を考えて私、二人の関係をひた隠しにしてるけど、
      こうなったら全部をばらすわよ。局のお偉方には、ひい
      きのお客さんも大勢いるんだし……」
        嫉妬もあらわに受話器を叩きつける音。
        中谷が硬い表情でテープを止めて、
  中 谷「お聞きのとおりです。小野田玲子の声だという裏は、複
      数の関係者から取ってあります。テープに細工をした跡
      は、一切見つかりませんでした」
  安  原「記録からみて、事件の五日前に吹き込まれたものである
      ことは間違いない。外浦の隠し球だったというわけだ」
  倉  本「あのコウモリ野郎、どういうつもりなんだ。コロシのア
      リバイにコロシを主張するなんて」
        混乱して、一座が同じ思いの苦い沈黙。
        と、
  佐  野「法律を甘く見ているんです」
  一  同「……?」
  佐 野「両方の犯人がどちらも自分だということを立証できない
      以上、まず起訴されることはないし、有罪判決を下され
      ることもないとタカをくくってるんですよ」
  倉 本「それはどういう?」
  佐 野「分かりませんか。二つの事件でともに有罪だと立証でき
      ない限り、法律はどちらの事件にも無罪だという決定を
      下すほかないでしょう」
  安 原「(ふと)外浦はそんな底の浅いヤツじゃない」
  佐 野「(敏感に反応)……じゃあ、安原さんはどういう風に考
      えているんです」
  安 原「分かりません。ただ二つの現場はあまりにも似通いすぎ
      ている。外浦が何かの意図を持って、われわれに挑戦状
      を突きつけていることだけは確かでしょう」
  佐 野「結構ですね、何も進展していない」
        佐野、キッと眉を吊り上げて口の端をゆがめる。
  佐 野「私は一年で警察庁に戻るからといって、預かり者の立場
      に甘んじるような男じゃありません。信賞必罰で、非協
      力的な部下には捜査を外れてもらいますからね」
  倉 本「係長。署長ももう……」
        佐野、虚勢を張るように一同を睥睨して、傲岸に署
        長の威厳をつくろう。
  佐  野「今回の一件では、マスコミも妙な動きを見せ始めていま
      す。誤解を招かないためにも、事件解決までは一切の取
      材に応じないように。これは本部長命令です」

○ 同・刑事課の部屋

  中 谷「(憤懣やる方なく)何が誤解を招かないようにだ。責任
      逃れしてるだけだろうが」
        安原、毒づく中谷を従えて戻ってくる。
        と、デスクから立ち上がる女性職員。
  女性職員「あ、オトーサン、お客さんです」
        三十がらみの女がソファーから立ち上がって、
  女  「相馬でございます」
        安原、どうもと頭を下げて中谷に、
  安 原「幸枝さんの大学時代の親友だ。お前さんも話を聞くか」

○  同・取調室

        外浦と安原、そして中谷が対峙している。
  中 谷「その親友の証言によれば、あんたと幸枝サンは本気で愛
      し合って一緒になった。二人の結婚生活が破綻したのは、
      五年前の脱税指南事件のときだ」
  外  浦「(他人事のように)……」
  中 谷「あんたの女房の父親は、保身のために平然と、何も知ら
      ない娘婿に自分の罪を押しつけた。信じられない裏切り
      に一度は役所を辞めようと思ったあんただが、発覚を恐
      れる義理の父親の手はあらゆる方向に延びていた」
  外 浦「(聞いているのかいないのか)……」
  中 谷「(軽蔑を含んで)手足をもぎ取られたあんたが選んだ道
      は、結局すべてを諦めて飼い殺しの身に甘んじることだ
      った。そんな情けない男の本性を見せられたら、女じゃ
      なくても亭主にも父親にも失望するだろうな」
  外 浦「幸枝は、その見返りをたっぷり手に入れました」
  中 谷「生前分与でか。夫婦してサイテーだよ」
  外 浦「いまのボクよりは、ずっとマシだと思いますが」
        安原、無言のまま強い視線で外浦を凝視――。
  外  浦「(おどけに紛らせて)いいでしょう、安原さんには負け
      ました。これが最後です、正直に言います。ボクが本当
      に殺したのは、やっぱり幸枝のほうなんです」
        外浦、韜晦を弄ぶようにすべてを侮蔑して嗤う。
        と、
  安 原「オレはあんたが二人とも殺したんだとにらんでいる」
        静かに核心をつく安原の呟き。
  中  谷「(虚をつかれて)……!」
  外  浦「……なるほど」
  安 原「それ以外の可能性を考えたことは一度もない」
        にわかに凛とした緊張、二人の視線がからみ合う。
  外  浦「……亭主に愛想を尽かした妻、嫉妬に狂って人を罵倒す
      るだけの愛人、その上に泥沼の三角四角関係ときたら、
      確かに二人を殺す動機は十分だ」
  安 原「茶番はもういい。あんたのチャチなアリバイは、必ずオ
      レが崩してみせる」
  外 浦「間に合うといいですね、定年までに」
  安 原「(真っ直ぐに)……!」
  中 谷「(言葉を失ってそんな二人を見比べる)……」
        無言の刃を斬り結ぶ安原と外浦の耳に、表に到着す
        るパトカーのサイレン音が響いている。

○ 冴え冴えと冷たい夜空

○  所轄署・留置場(深夜)

        外浦が虚空に視線を泳がせて、うずくまっている。
        孤独の影を宿して、ひっそりと身じろぎもしない。
  外 浦「(呟くように口ずさむ)♪月がとっても青いから 遠回
      りして帰ろ あのすずかけの並木路は〜」
        次第に激して、声が大きくなってくる。
  外 浦「(ゆらりと立ち上がる)♪思い出の小道よ  腕をやさし
      く組み合って  二人きりでさあ帰ろう〜」
  看 守「外浦ッ、何してる!」
        最後の異常な大声に、看守があわてて駆けつける。
  外 浦「♪月がとっても青いから 遠回りして帰ろ〜」
        外浦、まったく無視、本音を屈折させた身ぶりで喉
        も裂けよと蛮声を張り上げている。

○  夕刊紙の見出し記事

     『エリート署長の憂鬱・宙に浮いた逮捕状!』
     『前代未聞・アリバイの往復に翻弄される警察!』
     『ボクが殺したのはどっち・国税マンの挑戦状!』

○ 刑事課の部屋

        ひっきりなしに電話のベルが鳴り響いている。
  川 西「ハイ、刑事課……ああ、その件なら私が伺います」
  中 谷「(別の電話に)バカヤロー、悪戯電話に付き合ってるヒ
      マはないんだよッ」
        受話器を叩きつける途端にもう次のベル。
  中 谷「ハイッ、捜査本部」
        そんな騒ぎの真っ只中、佐野がデスクの倉本に夕刊
        紙を突きつけてがなり立てている。
  佐 野「(度を失って)何なんですか、これは。誰がリークした
      んですかッ……課長ッ!」
        倉本、送話口を手でふさいで、
  倉 本「忙しいんです、後にしてくれませんか。ハイ、じゃあお
      たく、外浦の家の近所にお住まいなわけね」
        なお電話が鳴り響いて、
  女性職員「署長、手が空いてるんだったら電話に出てください」
  佐 野「(わなわなと)……許せませんよ、こんなものッ!」

○ 同・剣道の稽古場

        喧騒をよそに、安原が板の間にたたずんでいる。
        その視線の先に剣道着姿の署員が二人、裂帛の気合
        で竹刀を斬り結んでいる。
  安  原「(じっと見入って)……」
        と、中谷がふらりと入ってくる。
  中 谷「やっぱりここでしたか」
  安 原「ああ、あんまり下がうるさいんでな」
  中 谷「まったく、飯食ってる暇もありませんよ。大部分は無責
      任なガセ電話ですが、いくつか引っ掛かる情報も……」
        ファイルされたメモ書きを数枚手渡す。
  安 原「(一枚ずつ子細にめくって)……幸枝と玲子の新しい男
      の情報はないのか?」
  中  谷「やっぱりネタ流したのは、係長なんだ」
  安  原「うん?」
        ふと目を上げると、中谷がどこか共感を込めた表情
        で見つめている。
  中 谷「オレ、外浦が二人とも殺したという、安原さんの珍説に
      乗っかることに決めましたんで。ヨロシク」
        安原、渋面を返事の代わりに、当たりをつけたメモ
        をひょいと抜き出す。
  安  原「行くぞ」
        さっさと踵を返して、出口へ向かっている。

○ 都心のホテル・ロビー

        安原と中谷が、濃い化粧の女ミチルに対している。
  中 谷「じゃあ、おたくは一年前に、玲子さんと同じあの赤坂の
      店に勤めていたわけだ」
  ミチル「それで事件の何日か前にね、このホテルのロビーで浦チ
      ャンとマジな顔で話し込んでる玲子を見たわけよ」
  安 原「(手応えの予感)……」
  ミチル「(一角を指して)ほら、あそこの席。思わず声かけよう
      かと思ったんだけど……」

○ 同・ロビー(ミチルの回想)

        昂然と顔を上げ、邪険に男の手を払う玲子。
        かたわらに座った外浦が、なだめすかすように小声
        で何かを頼み込んでいる。
  ミチルの声「何か揉めてる感じだったし。ま、いいかって……」

○ 元のロビー

  中 谷「……何を話してたか分かりますか!」
  ミチル「(言下に)ムリよお、あんな遠いとこだもん。それより
      さあ、あそこの奥、蔭になったとこにスッゴイ目で二人
      をにらみつけてる女がいてさあ」

○ 同・ロビー(ミチルの回想)

        外浦と玲子の背中を望むテーブル。
  ミチルの声「幸枝さんて言うの、あれ浦チャンの奥さんだった」
        嫉妬に燃えた目の幸枝が、身じろぎもせずに……。

○ 元のロビー

  安 原「外浦幸枝が?」
  ミチル「(夕刊紙を示して)だからあ、この写真見てすぐにアッ
      と思ったの。そんで電話したんじゃない」
  中 谷「愛人のいる女房が、何でいまさら亭主に嫉妬するんだ」
  ミチル「知んないわよ。私は見たままを喋ってるんだから」
  安 原「(不審げに)……」

○ 外浦の家・付近の路地

        少し離れた並びの家――。
        前庭に立つ主婦が、安原と中谷に向けて、
  主 婦「(饒舌なお愛想笑い)どうも。お役に立てるかどうか」
  安  原「(メモを見て)事件の数日前に、この辺りで小野田玲子
      さんを見かけたというお話で」
  主 婦「そうなんですよ。何だか思い詰めたような暗い顔で、門
      の前を行ったり来たりしてるもんですからね」

○ 外浦の家・表(主婦の回想)

        玲子が煮詰まった表情で、家の気配を窺っている。
        カートを押して帰ってくる主婦、ふと足を止める。
  主 婦「外浦さんのお宅に御用?」
  玲 子「(ビクッと振り返る)……!」
  主 婦「さっきから、ずっとそこにいらっしゃるわよね」
  玲 子「(いきなりの敵意)いけませんか」
  主 婦「……外浦さんなら、ご夫婦揃って知り合いの結婚式よ」
  玲 子「(金切り声にも似て)二人で出掛けたの!」

○ 元の付近の路地

  安  原「結婚式?」
  主  婦「こっちにまで恨みがあるような顔で、ジロッとにらみつ
      けられて。思い出しても寒けがする」
        主婦、ぶるっと身震い、両腕をさすって頷く。
  中 谷「と言うことは、あの留守番電話」
  安 原「その直後にかけたものだ。幸枝もあのテープを聞いたと
      すれば、三つ巴の修羅場になってもおかしくない」
  主  婦「(得意満面)でしょう。だからこういうことは、きちん
      と協力しなきゃいけないって主人にも……」
        と、中谷のポケットベルがけたたましく。
  中 谷「あ、ちょっと」
        中谷、見回して路上の公衆電話に駆け寄っていく。
        安原の目に、そのダイヤルを押していく姿。
  安 原「(ふと)……そう言えば事件があった夜、あの公衆電話
      が故障していたという話を聞きましたが」
  主 婦「はい?」
        主婦、その質問に首をひねって、
  主 婦「おかしいわね。明け方、新聞記者が電話してるの見たけ
      ど……夜のうちに直したのかしら」
  安 原「(小骨が刺さった感じ)……」
        と、
  中 谷「係長、大当たりですよッ!」
        道をはさんで中谷の興奮した大声。
  中 谷「幸枝の男を知ってるというタレ込みですッ!」
  安 原「(待ち望んでいたものに)……!」

○ フィットネスクラブ・表

        タイヤを軋ませて、面パトが急停車する。
        押っ取り刀で飛び出す安原、今日は中谷を後ろに置
        いてフロアへ向け突進。
        と、対面からスポーツバッグをさげた目指す人影。
  安 原「(射すくめるような一喝)栗林ッ!」

○ 同・オフィス

        突然、弾けるような栗林の高笑い。
  栗 林「ボクがオーナーの愛人ですか、そりゃ傑作だ」
        露悪趣味をただよわせて肩をひくつかせ、
  栗  林「おおかた、オバタリアンたちの誰かがチクったんでしょ
      う。ちょっといい女だと、見境いなく口説くと噂のイン
      ストラクターですからね」
  中 谷「(疑いも見せず)外浦幸枝もその一人だったのか」
  栗 林「(まだ愉快そうに)まあ、口説いたことだけは認めます
      よ。でもね、鼻にも引っかけてもらえませんでした。男
      を見る目がないというか、ハハ」
        安原、眼光紙背に徹す迫力、剃刀のような鋭さで栗
        林の奥底を切り裂こうとのぞき込む。
  栗 林「そんな蛇みたいな目でにらまないでくださいよ」
  安  原「……まず、事件の日の行動から」
  栗 林「(気圧されながらも)いいですよ。幸か不幸か、あの日
      はデモンストレーションで沖縄に出張してました」
  中 谷「沖縄?」
  栗 林「那覇のホテルでイベントがありましてね」
        と、表を陽子がはつらつと通りかかる。
  栗 林「(救いの神に)陽子」
        陽子、安原たちに気づいて軽く会釈。
  栗 林「(ことさら甘えるように)刑事さんたちに言ってやって
      くれよ。×月×日は二人で南の島にいて、仕事が終わっ
      たあとはホテルで朝まで違う汗かいてましたって」
  陽 子「……バカ!」
  栗  林「と言うわけです。自家用ジェットでも持っていない限り、
      夜中に沖縄から東京に戻ってくるのはムリですよ」
  中 谷「いい加減なこと言ってんじゃねえよ!」
  陽 子「(事態に気づいて)……栗ちゃんの言うことは本当です。
      あの日は十二時すぎまで皆んなと呑んでて、そのあと」
        陽子、頬を染めて消え入るようにうつむいていく。
        意気込みが萎んだぶん、何かの残骸のような沈黙。
  栗  林「お互い、とんだガセネタに踊らされたもんだ。ハハハ」
  安  原「(落胆の色も濃く)……」

○ 安原の家・茶の間(夜)

        座卓についた老眼鏡姿の安原が、大学ノートを広げ
        て万年筆を走らせている。
        千栄子が、どこかうきうきとした様子で、その前に
        腰を下ろす。
  千栄子「あなた、克也の写真が出来上がってきました」
        DPEの封筒を示し、嬉々として笑いかける。
  安 原「(顔も上げず)あとで見る」
        千栄子、気にかけた風もなく、写真を一枚ずつ確か
        めながらミニアルバムに収めていく。
  安原の声「外浦は真実を三つ話す顔で、嘘を七つ話す。問題は幸
      枝の新しい男、玲子の新しい男、この二人が何故これほ
      ど徹底的に捜査をしても、手掛かりすら浮かび上がって
      こないかという点だ。この二人の人物が、事件の核心を
      握っていることだけは疑いがない。定年まであと四日間、
      真相究明に残された時間は限られている……」
        むっつりと、手探りで湯呑みをさぐる。
        と、絶妙の頃合いで熱いお茶が目の前に。
  千栄子「最後の捜査ノートですね」
  安 原「うん?」
        初めて目を合わせる安原の背後、その書棚にずらり
        と並んだ歴史を物語る大学ノート群。
  千栄子「あまり、うまくいってないんでしょう」
  安 原「(仏頂面の答え)……」
        老夫婦、何となく向かい合う恰好になって、
  千栄子「旅行、いつにしましょうか」
  安 原「任せる」
  千栄子「修善寺なら、坂巻さんのお墓参りができますね」
  安 原「……!」
        安原、ピクリと反応、思わず千栄子を凝視。
        千栄子、そんな視線を柔らかく受け止めて、
  千栄子「ひとつ、お願いがあるんですけど」
  安 原「……?」
  千栄子「濡れ落ち葉族にだけはならないでくださいね」
  安 原「ヌレオチバ?」
  千栄子「あなたみたいに仕事一筋できた人が、定年を迎えるとと
      かくそうなるんですって。何にもすることがなくなって、
      ただ女房の背中にベッタリまとわりつくだけで」
  安 原「(ムッと)誰がいまさら」
        千栄子、軽くかわして一人笑い。
        布巾を手に、ゆっくりと座卓を拭いながら、
  千栄子「(ポツン)また剣道を始める気はないんですか」
  安 原「(敏感に)……!」
  千栄子「私、お面をかぶったあなたの姿を見て、ああこの人なら
      と決めたんですけど」
  安 原「……二度と竹刀は握らない」
        安原、過剰とも思える呟きを口の端に乗せて、
  安 原「あの時にきっぱり誓ったんだ。お前も最後はそれでいい
      と、泣いたじゃないか」
  千栄子「(見つめ返して)……」
        苦いものを含んだ沈黙――。
        と、千栄子、一瞬で感傷を振り切るように、
  千栄子「(おどける)警部補殿、リンゴでもむきましょうか」
        安原には長年見慣れたはずのその表情が、自分でも
        驚くほど癇に障る。
  安  原「お前は私に出世してほしかったのか」
  千栄子「(かすかに眉をひそめ)誰もそんなこと……気持ちは分
      かりますけど、あなたらしくもない」
  安 原「オレらしいというのは、どういうことだ」
  千栄子「(ふわりと受けて)大丈夫ですよ、焦らなくても。あな
      たなら、きっと解決できます」
        おかしそうに笑ってリンゴをむき始めている。
  安  原「……出掛けてくる」
        安原、憮然と外して立ちズボンに足を通してゆく。
  千栄子「電話もないのにどこへ」
  安 原「散歩だ」
        ニベもなく上着を羽織って、玄関へ向かっている。
  千栄子「(見送って小さく吐息)……」

○ アーケード(夜)

        安原が石畳の上を、アテもなく歩いていく。
        人けの途絶えた一帯に靴音が響いて、その背中には
        孤独な焦燥感がにじんでいる。

○  所轄署・取調室(深夜)

        昼間の喧騒が消えた空間に、外浦と安原が二人きり
        で向かい合っている。
  外 浦「(むしろ楽しむように)規則違反じゃないんですか。こ
      んな時間に、それも一対一で」
  安  原「オレは昔からムシャクシャすることがあるとここに来る
      んだ。黙ってそこに座ってろ」
        口を尖らせてじっと宙をにらんだまま――。
        外浦、そんな安原の様子を興味深く見つめる。
  外  浦「(薄く笑って)……安原さん、あなたどうして警察官な
      んかになったんです」
  安 原「……?」
  外 浦「あなたは自分の組織から、一行はみ出してる人だ」
  安  原「あんたこそ、役人が似合わない男じゃないか」
        外浦、雰囲気を愉しんで謎でもかけるように、
  外 浦「ボクは子供のころから、将来は総理大臣になるんだと作
      文に書くような子でしたからね」
  安 原「あんたのような人間の悲劇は、他の大部分の人間が馬鹿
      に見えるということだ。そのくせ一度挫折を経験すると、
      簡単に馬脚をあらわしてしまう」
  外  浦「(軽く受けて)何でもお見通しなんだな」
  安 原「……あんたは五年前の事件以来、本物の自分からコピー
      の自分に裏返った。無理やりにねじ曲げてでも、そう決
      めた。あんたの野心は、もぎ取られたプライドを取り戻
      す一点だけに向けられた。あんたは自分をこんな風に貶
      めた、すべてのものに復讐することに決めたんだ」
  外  浦「そこらの野良犬にでも食わせたいような、最低のプライ
      ドだと思いませんか」
        自分をあざ笑う響きに、安原はじっと外浦を窺う。
  安  原「あんたが本当に欲しかったものは何なんだ」
  外 浦「(肩をすくめ)だから、ボクは生まれつき間が悪いんだ
      と言ったでしょう」
        外浦、皮肉に笑ってあとはもう口を開こうとしない。

○  外浦の家・表

        路地に面パトが停車して、安原と中谷が降り立つ。
  中  谷「(ボヤく)結局、ここに戻ってきたのか」
  安  原「現場百ぺんの譬えもある。残された道は、原点に戻って
      洗い直してみることしかない」
  中  谷「あと三日か……」
  安 原「(玄関の前に立ち)まだ三日だ。開けてくれ」
  中 谷「いい加減に暗証番号覚えてくださいよ」
        中谷、気乗り薄に電気錠の四桁番号を押していく。

○ 同・二階の寝室

        割れたスタンドが片隅に立てかけられ、ナイトテー
        ブルも元に戻された検証後の空間。
        中谷が吐息で窓辺に立ち、意味もなくカーテンを開
        け閉めしてたたずんでいる。

○ 同・隣の書斎

  安  原「(見えない痕跡を求め)……」
        安原、執念を見せて隅々にまで目を凝らしていく。
        と、中谷がなかば諦めを見せてドアを入ってくる。
        ふと壁のステレオに目を留める。
  中 谷「(皮肉に)それにしても、大した趣味の持ち主だよな」
  安 原「うん?」
  中  谷「このコンポ、オレらには手も届かない代物なんですよ」
  安 原「……小さくないか」
  中 谷「(受けて)オレはこのずっと格下のヤツを、目覚まし代
      わりに使ってるんですけどね」
  安 原「目覚まし?」
  中 谷「タイマーですよ。ほらここ、やってみましょうか」
        カセットボックスから適当な一本を抜き出し、何気
        なくテープデッキにセットする。
        デジタル時刻を一分後に合わせ、タイマーをON。
  中 谷「(腕時計を見て)五秒待ってください」
        と、きっかりに電源がON、テープが回り始めて、
  外浦の声「(いきなり大音量)八ヶ岳山麓、夕景のなかの音楽」
  中  谷「おっと」
        思いがけないボリュームに、あわててツマミを絞る。
        川のせせらぎに乗せて、チチチ……と澄みきった鳥
        のさえずりがこだましてゆく。
  中 谷「と、本当はドリカムの美和ちゃんの歌で起きるんですが。
      ちょっと選曲に失敗しました」
  安 原「……山の音か」
  中 谷「(も耳を傾けて)外浦が録音したんですかね。らしくな
      いけど、いい音作ってるな」
        深い幽谷を思わせる山の調べが、やや場違いに部屋
        の空気を震わせている――。
        と、来客を告げるチャイムの音。
        中谷が怪訝に壁のインターホンの受話器を取る。
  中 谷「……はい」
  巡回員の声「イースタン警備保障でございます。ホームセキュリ
      ティの定期検査に伺いました」

○ 同・一階のリビング

        セキュリティ・パネルを前に、作業服姿の巡回員と
        安原、中谷が対している。
  巡回員「そうですか。手順で回ってるんで、このお宅がそんなこ
      とになってるなんてちっとも知りませんでした」
        妙に馴れ馴れしい営業スマイルで、
  巡回員「(敬礼)ご苦労さまです。じつはね、私も三年前に官を
      辞めたデューダ組なんですわ」
  安  原「……そのセキュリティというのが、私には良く」
  中 谷「時々テレビでやってるでしょう。外から電話をかけて風
      呂沸かしたり、エアコンつけたりするやつ」
  巡回員「このパネルのなかに、コンピューターに連動した回線が
      内蔵されているわけです」
  安 原「ほう……」
        パネルを見やる視線が、何も理解していない。
  巡回員「(笑って)こりゃ、見てもらうのが一番早そうだ」
        床のキットボックスから、携帯電話を取り出す。
        名簿と照らし合わせて、電話番号をプッシュ。
        と、親機のホームテレホンに呼び出し音。
  巡回員「(離れて)いいですか」
        テレコントロールの暗証番号を押す。
        と、リビングの照明が一斉に点灯――。
  安  原「……なるほど」
  巡回員「まだまだ、もっと色んなことができますよ。どうですか、
      お二人のお宅にも」

○  同・ガレージ

        中谷がリモコンを押して、電動シャッターが上がる。
        内へ入ると、駐車した外浦の車。
        中谷、キーを差し込んでドアを開け、
  中 谷「中のほうはお願いします」
        ボンネットを開け、念入りにチェックしていく。
  安 原「しかし、この家は車まで機械だらけだな」
        安原、操作ボタンのメカ群に目を留めて呆れた呟き。
        試しにひょいとボタンの一つを押してみる。
        と、サイドウインドーがスルスルと下がる。
  安 原「……(隣のボタンを押す)」
        今度はウインドーが低い唸りで上がってくる。
  安 原「(目に映るものに)……?」
        ガラスに一片の小さな紙が張りついている。
        窓の隙間に入り込んでいたものが、開閉につれて姿
        を現したものらしい。
  安  原「中谷」
        手に取って示すのへ、寄ってきた中谷とのぞき込む。
        次の瞬間――、
  中  谷「係長!」
  安 原「(鋭く)真鶴道路の領収書だ」
  中 谷「××円、普通車、×月×日……」
  安 原「事件のあった日か!」
  中 谷「(輝く)これ……もしかしたら!」

○ 真鶴有料道路・全景

○ 同・料金所

        付近の広い路肩スペース――。
        安原と中谷が、中年の係員に詰め寄って直談判。
  中 谷「(領収書を振りかざし)この料金所を、午後九時五十分
      に通過してるレシートなんです!」
  安  原「その時間に、不審な車を見たという記憶は」
  係 員「(勢いにたじたじと)ムリですよ。確かにその日、ゲー
      トに立ってたのは私ですけどね」
        中谷、最後まで聞かず畳みかけるように、
  中 谷「この男なんですが……!」
        外浦の写真を取り出して、正面に突きつける。
  係 員「参ったな……」
        と、
        係員の表情が、怪訝に変わってためつすがめつ。
  係  員「……ああ、あの男の人だ」
  安 原「(予感)……!」
  係 員「(もう一度じっくりと見て)うん、思い出した。この人
      のことならはっきり覚えてますよ」
  中 谷「(手応えに)……!」
        係員、そうだそうだと写真を指差しながら、
  係 員「料金を払った後で、急に気分が悪くなったらしくて」
  安 原「気分が?」
  係 員「ちょうどここ、この辺に車を停めて……」

○ 同・料金所(事件当日の夜)

        同じ場所に、外浦の乗用車が停まっている。
        辺りにかすかに響く、苦悶のうめき声。
  係 員「……?」
        係員、不審げにボックスを出て車に歩み寄る。
        風を入れるためか、ウィンドーを開けた運転席に突
        っ伏して声を殺している人影。
  係 員「もしもし」
        脂汗にまみれた顔を上げる男、外浦――。
  係 員「大丈夫ですかッ、救急車呼びましょうか」
  外 浦「……(手で拒絶)」
        顔をそむけるように、車をダッシュさせている。
  係 員「(呆気に取られて見送る)……」

○ 元の料金所

  係  員「薬でもやってたんじゃないですか。あのあとすぐ交代し
      たんだから、うん、確かに十時ちょっと前だ」
        中谷、すわと安原に顔を見合わせる。
  中 谷「外浦は真鶴にいた……!」
  安 原「(抑えて)玲子が殺されたのが九時半、あの別荘からこ
      こまでは十分もかからない」
  中  谷「あのヤロー、さんざん振り回しやがって」
  安  原「外浦は玲子を殺している。その直後にこの道を通って東
      京に帰った。それだけは間違いない」
  中 谷「やりましたね、安原さん!」
        中谷、一瞬会心の笑みを浮かべて快哉。
        が、すぐに我に返って、
  中  谷「……しかし、それじゃ幸枝殺しのほうは?」
  安 原「(むっつりと頷いて)どうやらオレたちは、よその事件
      を解決してしまったようだ」
  中 谷「(一挙に興奮が冷め)……」

○ 所轄署・玄関

        いきなりカメラのフラッシュが連発――。
        マスコミ連の怒号が渦巻くなか、鼻高々の鈴村と高
        井に連行された外浦が姿を現す。
        外浦、不敵な表情を浮かべながらも誰かを探す視線、
        見つからずに車へ乗り込む。
        護送車、後足で砂でもかけるように去っていく。

○ 夕刊紙の見出し記事

     『やっと解決・コウモリ野郎愛人殺しで再逮捕!』
     『神奈川県警・代打逆転サヨナラホームラン!』
     『東京は面目丸つぶれ・女房を殺したのは誰!』

○  神奈川県警・全景(夜)

        折からのにわか雨が、コンクリートを叩いていく。

○  同・廊下(夜)

        静まり返っていた一帯に、突然笑い声が響く。
        安原が鈴村に伴われて歩いてくる。
  鈴 村「まあ本来は規則違反なんですが、安原さんには格別のお
      手伝いをいただいたことだし。二三十分は大目に見るこ
      とにしましょう、ハハハ」
        取調室の鍵を開けるのへ、安原、うっそりと中に。
        高井の事情聴取を受けていた外浦が、さして驚きも
        せずにゆっくりと見返る。
  外 浦「来ましたね」

○ 同・取調室(夜)

        外浦と安原、二人が気負いもなく対峙してゆく。
  外 浦「安原さんには、もう一度会いたいと思っていた」
  安 原「なかなか、明鏡止水の心境とはいかないもんだな」
  外 浦「そんなことはないでしょう、鮮やかに有終の美を飾った
      じゃないですか」
  安  原「定年まであと二日、今度のことでオレは完全に現場を外
      された。どういうめぐり合わせか、明日一日女房と温泉
      旅行に行くはめになった」
  外 浦「ゆっくりと寛いできてください」
  安  原「それがな……オレは今でも、あんたが二人とも殺したと
      思ってるんだ」
  外 浦「(内心を窺わせず)……」
        二人、探るように見つめ合って、空気までが張り詰
        めたような緊張。
        雨の音が降りしきって、長い静寂――。
        外浦、安原、二人はそれぞれの胸に去来するものを
        無言で噛みしめている。
  安  原「(ポツン)オレは自分が警察官になるなどとは、思って
      もいなかった……」
  外 浦「それにしては優秀じゃないですか」
  安  原「ただ人より少し剣道の腕が達者だった。その腕を見込ま
      れて、警視庁に引き抜かれたというわけだ」
  外  浦「(興味深げに)……それで、サムライ安原信夫としては
      もう最高位にまで昇りつめて」
  安 原「竹刀は三十年も前に棄てた。それ以来防具を身につけた
      ことは一度もない」
  外 浦「……?」
  安 原「(虚空に目を彷徨わせ)目の前で同僚が殺されたんだ」
  外 浦「え」
  安 原「まだホシがひそんでいるのを確認しないで、現場に踏み
      込んだオレのドジだった」
  外  浦「(じっと見つめて)……」
        安原、気持ちを抑えて淡々と言葉を継いでいく。
  安  原「葬式の翌日が避けられない遠征試合でな。その乗り換え
      駅の待合室で、用を足して戻ってくると……」
        遠くを見やる視線で、ふうっと大きく吐息。
  安  原「(自分を笑うような響き)わずかな隙の間に、自慢の防
      具が盗まれていた」
  外 浦「……!」
  安 原「きれいさっぱりだ。その途端に何もかもがバカバカしく
      なった。警察官を辞めようと思ったが、女房が泣いて反
      対した。要するに勇気がなかったということだ。親方日
      の丸の身分を捨てる代わりに竹刀を棄てた」
  外  浦「……そして、本物の自分からコピーの自分に裏返った」
  安 原「……!」
  外 浦「(怒ったように)本当は猛烈に腹が立ったんだ。同僚を
      殺した犯人にも、防具を盗んだこそ泥にも、殺された同
      僚にも隙だらけの自分にも。あなたはそのとき初めて気
      がついたんですよ、野良犬の境遇なら許せても、負け犬
      になるのは耐えられない屈辱だということにね」
  安  原「……あんたのことを言ってるように聞こえるよ」
  外 浦「……ボクは安原さんほど確信犯じゃありません」
        外浦、安原、お互いの胸の内に濃密な視線を注ぐ。
        雨の音、ますます強く降りしきって――。
        と、
        外浦の表情が、突然苦痛にゆがむ。
  安 原「おい?」
        外浦、全身を海老反りにして苦悶にのたうつ。
  安 原「(尋常でない様子に)外浦ッ!」
        外浦、脂汗を浮かべて必死に痛みに耐えながら、
  外 浦「(声を絞り出す)……安原さん、今さら言っても無駄で
      しょうけど、皆んな何も分かっちゃいない。警察も検察
      も、あなたも完璧にボクに負けたんですよ」
        最後の気力を振り絞って笑いかけた刹那、魂が抜け
        たようにその場へ昏倒している――。

○ 在来線の特急が走る

○ 同・車内

        安原と千栄子が、旅装でシートに並んでいる。
  千栄子「癌?」
  安 原「それもあちこちに転移していて、手のつけようがないら
      しい。保ってあと一ヵ月。こんな状態で良く取り調べに
      耐えられたもんだと、医者も呆れていた」
  千栄子「(も呆れて)本人はそれを知っていたんですか」
  安 原「だろうな。近くの掛かりつけの医者に行って診察を受け
      たんだが、医者は詳しい症状を告げずに、すぐ大学病院
      へ行けとそれだけを命じたらしい」
  千栄子「……で」
  安 原「行かなかった。恐らくもう手遅れだということを解って
      いたんだろう」
  千栄子「それじゃあ」
  安 原「死期を悟った男が、愛人を道連れにした覚悟の無理心中、
      警察も検察もそういう形で結論をつけた。まあ結局、女
      房殺しの犯人は分からないままというわけだが……」
  千栄子「(表情を曇らせ)そんな状態じゃ裁判も……」
  安 原「外浦は拘置所の医療病棟で、じっと死を待っている」
  千栄子「どうして誰も気がつかなかったんですか」
  安 原「(非難を含んだ口調に)……」

○ 修善寺の温泉郷・全景

○ ある寺院の墓地

        坂巻浩司の墓――。
        かつての同僚に花と線香を手向け、じっと手を合わ
        せてたたずむ安原。
        そのかたわらで千栄子が、寡黙な思いやりをたたえ
        て雑草を摘み取っている。
  千栄子「良かったですね、祥月命日にお参りできて」

○  温泉旅館・全景

○ 同・客室

  仲 居「こちらのお部屋でございます」
        仲居に案内された安原と千栄子が入ってくる。
        千栄子、うきうきと窓際に立っていきなり歓声。
  千栄子「あなた」
        安原、並んで見ると山肌が陽光に染まって、一面の
        絶景が広がっている。
  安 原「(満足げに)さすがは隆志君だな」
  仲  居「ただいまお茶をいれて参りますから」
        仲居が満面の笑みで出ていって、夫婦は旅装を解こ
        うと隣の部屋のふすまを開ける。
  安 原「(一瞬)……!」
  千栄子「(も足を止めて)あなた……」
        艶めいた色彩の布団が二組、早くもぴったりと合わ
        せて延べてある。
  安  原「(憮然と見て)……」
  千栄子「でも、ちょっと面白そう」
        千栄子が含み笑いで足を入れるのへ、
  安 原「バカ、そんな歳か」
  千栄子「分かってますよ。はい、二つに離しましょう」
        千栄子がひょいと布団の一端を抱えて、安原ともど
        も引き離しにかかる。
  安  原「(ふと)……?」
  千栄子「(下ろしかけた手で)まだ離すんですか」
  安 原「うん……いや」
        安原、手を下ろして、二つに離れた布団を鋭い視線
        で見つめてたたずんでいる。

○ 同・客室(夜)

        安原、千栄子、黙々と夕餉に舌鼓を打っている。
  千栄子「どうしたんです、さっきから黙り込んで」
  安 原「(心ここにあらず)……」
  千栄子「(肩をすくめ)ごちそうさまでした。私はテレビでも見
      させてもらいますよ」
        備え付けのテレビのスイッチをON。
        と、
  千栄子「(目を見開く)何ですか、これ!」

○ テレビの画面

        全裸の若い女が、ベッドで身体をくねらせている。
        激しい息づかいの喘ぎ声――。
        その上に覆いかぶさっている、もう一人の若い女の
        豊満な肉体があって……。

○ 元の客室(夜)

  千栄子「いやらしい」
        チャンネルを変えようと、浴衣の手を伸ばす。
  安 原「そのままだ!」
        一喝する声に振り返ると、安原の目が食い入るよう
        に画面を見つめている。
        女同士の狂態、喘ぎ声がますます高まって、
  千栄子「あなた……」
        汚らわしいものでも見るように眉をひそめた時、
  安 原「そうだったのか!」
        安原の痛恨の叫びが、大きく室内に響いている。

○ 神奈川拘置所・全景

○ 同・医療病棟の病室

        見る影もなく衰弱した外浦が、ベッドに半身を起こ
        して微笑んでいる。
        旅装のままの出で立ちで訪ねた安原、そしてかたわ
        らに従う中谷の姿がある。
  安 原「いよいよ今日で幕引きだ。明日からはもうこうしてあん
      たとも自由に会えなくなる」
  外 浦「最後のお別れというわけですか」
        外浦、中谷をうかがって人なつこい笑みで会釈。
  外 浦「ようやく真相がつかめたようですね」
  安  原「中谷刑事が私の推論に従って、色々と調べてくれた」
        中谷、促された恰好で硬い表情、前へ進み出る。
        安原、譲ってゆっくりと窓際に立ち、鉄格子越しの
        表の景色をじっと見やる。
  中  谷「外浦幸枝、小野田玲子、二人の本命と目される愛人がい
      くら手を尽くしても見つからなかったのは当然だ。この
      二人こそが、他でもない愛人同士だったんだから」
  外 浦「(否定も肯定もせず)……」
  中 谷「そう考えると何もかも辻褄がハッキリする。玲子が店の
      同僚たちに、自分の結婚の夢は絶対に叶わないと秘密め
      かしたわけ。そして、あんたの家の留守番電話に残した
      脅迫まがいのメッセージ」
  外 浦「……」
  中 谷「あれはあんたに向けられた言葉じゃなかった。亭主とは
      別れると言いながら、あんたと二人で着飾って出掛けた
      幸枝に対する、嫉妬に駆られた行為だった」
  安 原「……」
  中 谷「当然、あんたの家の前でうろついているのを目撃された
      時も、玲子は恋人の幸枝の行動を見張っていたのだとい
      うことになる。その逆で、新宿のホテルで目撃された幸
      枝も、あんたと二人でいる玲子に嫉妬して憎悪の目でに
      らみつけていたというわけだ」
  外  浦「(衒いが消えて)……その時ボクは、女房と別れて欲し
      いと談判していたとでもしておきますか」
  中 谷「もともと人一倍プライドの高いあんただ。ただでさえ女
      房を、それも女に寝取られて怒り狂っていたところに、
      癌の宣告の追い打ちを受けた。絶望に駆られたあんたは、
      せめて自分の命が尽きる前に、どん底へ突き落とした二
      人の女を道連れにしてしまおうと考えた」
  外 浦「さあ、いよいよ本論に入ってきましたね」
        外浦、まるで他人事のように呟いて笑う。
  安  原「(じっとたたずんだまま)……」
  中  谷「分かってみれば実に単純な目くらましだった。現場が二
      つだと思うから、いつまでも矛盾が解決しない。同じ場
      所で二人が殺されたと考えれば、嘘のようにすべてのカ
      ラクリが解けるじゃないか」
  外 浦「(納得したように頷く)……」
  中  谷「二人は事件の日の午後九時すぎ、真鶴の別荘で落ち合う
      約束をしていた。あんたは先回りして待ち伏せしていた
      んだ。九時半と九時三十五分、五分の死亡時刻のズレか
      ら見て、恐らく玲子のほうが一足先にやって来た」

○ 真鶴の別荘(事件当日の夜)

        玄関に立つ玲子が、合鍵でドアを開ける。
        一階の明かりを点け、うきうきとした足取りで二階
        への階段を上がっていく。
        疑いもなく寝室へ入ってきた途端――、
        物陰から飛び出す人影。
  玲 子「浦チャン……!」
  外 浦「(さらりと)サヨナラ」
        外浦、手にした赤いネクタイで、有無を言わさずそ
        の首を絞め上げていく。
        玲子、ダブルベッドにもつれ込んで抵抗するが、
  玲 子「(なす術もなく)……!」
        絶命――。
  外 浦「(大きく息をついて)……」
        外浦、いきなりベッド脇のスタンドを蹴り倒す。
        ガチャン、電球が割れて粉々に砕け散る。
        続いて、ナイトテーブルを裏返しに叩きつける。
  中谷の声「それからあんたは第一の現場を工作した。仕上げには
      自分の車の灰皿を使ってな」
        外浦、用意した灰皿から煙草の吸殻をまき散らす。
        と、玄関にチャイムの音。
  幸枝の声「玲子、来てたの」
        弾むような調子で、幸枝が入ってくる気配。
        外浦、すかさず寝室を出て踊り場の物陰にひそむ。
        幸枝、浮き立つような足取りで階段を上がってくる。
  幸 枝「今夜は思いっきり悪いことして愉しも、ね」
        共犯者の笑みで階上をうかがって媚びる途端――、
        ぬっと前に立ちはだかる外浦。
  幸  枝「あなた……!」
  外  浦「(失望の呟き)サイテーの遺言だ」
        逃げる暇も与えず、青いネクタイをつかみだしてそ
        の首を渾身の力で絞め上げる。
  外  浦「死ねッ……!」
  幸 枝「(わずかに抗うが)……!」
        幸枝、何が起こったのかも良く分からないまま、息
        の止まった状態でくずおれてゆく。

○  元の病室

  外  浦「……面白い話だ」
        外浦、疲れたのかベッドに身体を横たえていく。
        安原、そんな外浦の枕元の椅子に腰を下ろす。
  中 谷「そしてあんたは、幸枝の死体を車のトランクに押し込ん
      で一路東京へ取って返した。ただ、真鶴の料金所で気分
      が悪くなったのはまったく計算外だった。もうずいぶん
      病状が進行していたんだろうがな」
  外 浦「あの時は苦しかった……」
        外浦、思い出すように呟いて目を閉じる。
  中  谷「片道二時間の距離。今にして思えば、あんたは最初から
      ヒントを与えていたんだ。何とか自宅に帰り着いたあん
      たは、幸枝の死体をベッドに寝かせると、今度は第二の
      現場にちょっとした小細工をしてから、おもむろに女房
      が殺されていると110番した」
  外 浦「煙草は……東京の現場に転がっていた吸殻は、別荘に残
      されていた銘柄とは違っていたはずですよ」
  中 谷「だから小細工をしたと言っただろう。あの吸いさしが本
      当は誰のものか、恐らくは国税局一のヘビースモーカー、
      仁科部長のものだと係長はにらんでいる」
  外 浦「(ゆっくりと身を起こす)……」
        と、安原が苦渋を含んだ視線で見つめている。
        外浦、突然快哉を叫ぶような拍手を送る。
  外 浦「素晴らしい推理ですよ。でもね安原さん、その謎解きに
      は決定的な欠陥がある。あなたの推論に従うと、九時半
      すぎに東京で聞こえた殺してやるという声と、スタンド
      が割れて明かりが消えたことの説明がつかなくなる」
  安 原「その謎も、解けてみれば拍子抜けする仕掛けだったよ」

○ 外浦の家(事件当日の夜)

        寝室と書斎、その続き部屋のドアが開きっぱなしに
        なっていて……。
        スタンドの明かりだけが点いた無人の部屋に、電話
        の呼び出し音が響く。
        と、
        二十一時三十五分、デジタル表示のタイミングに合
        わせて、コンポの予約スイッチがONになる。
  外浦の声「殺してやるッ!」
        回り始めたテープから、いきなり外浦の怒声が大音
        量で流れる。
        続けざまに、ガラスの割れる音が響いて何かが倒れ、
        人が争うようなすさまじい物音。
  外浦の声「チクショー……!」
        その最中に、無機的な信号音が電話機から聞こえる。
        暗証番号の遠隔操作が行われたらしく、スタンドの
        明かりが不意に消える。
        一瞬、静寂の間から――、
  外浦の声「あ、すみません、ただの夫婦喧嘩ですから」
        再び無機的な信号音が響いて、今度はカーテンが自
        動的に閉まっている。

○ 元の病室

  中 谷「あんたの一人芝居の怒鳴り声、人が争うような派手な物
      音。そんな音をテープに吹き込むことぐらい、録音マニ
      アのあんたには簡単なことだろう。あとはあのステレオ
      にテープを仕掛けて、九時三十五分に音が鳴るようにタ
      イマーを掛けておけば、いつも下を通るジョギングのセー
      ルスマンが確実に聞いてくれる」
  外 浦「……少し窓を開けて音が洩れるようにしておけば、言う
      ことはありませんね」
  中 谷「それに築後一年にしかならないあんたの家には、最新の
      セキュリティ・システムが完備されている。別荘の部屋
      から電話をして、スタンドの明かりが消えるように操作
      すれば簡単なことだ。カーテンの開け閉めまで自動で出
      来るというんだから、オレも驚いた」
  外 浦「……電話回線じゃ、顔までは見せられませんからね」
  中 谷「仕上げは前もって、自宅の前の公衆電話に『故障中』の
      紙を貼っておくことだ。翌朝にはなくなっていたという
      から、まず真鶴から戻ってきたあんたが剥がしたんだろ
      う。そこまで押さえておけば、どんなお節介野郎でもそ
      の場で警察に通報する恐れはない」

○ 外浦の家・表(事件当日の夜)

        帰宅してくるマイカーが、ガレージに停止する。
        運転席の外浦、途中で回収した『故障中』の札を丸
        めてポケットにしまう。
        エンジンを切って降り立ち、辺りに人目がないのを
        窺って、トランクの蓋をそっと開ける。
        ビニールに包まれた幸枝の死体――。

○ 同・二階の寝室(事件当日の夜)

        外浦、幸枝の死体を抱えて入ってくる。
        ダブルベッドに寝かせると、首にもう一度青いネク
        タイを巻きなおす。
        明かりの消えたスタンドを、ゆっくりと床に倒す。
        音を立てないように、細心の注意で電球を割る。
        ナイトテーブルをひっくり返し、大ぶりの灰皿をそ
        っとフロアに転がす。
        ハンカチにくるんだ仁科の吸殻を、辺りにまき散ら
        して第二の現場を工作していく。
        110とボタンをプッシュする音がかぶって、
  外浦の声「(いきなり切迫)……もしもし、妻が、いま戻ってき
      たら妻が殺されているんです!」

○ 元の病室(夕景)

        折からの夕景ににじんで、赤く染まった外浦が静か
        に窓外を見やっている。
        その沈黙に付き合って、安原も虚空に目を据えたま
        まじっと無言を続けている。
        二人のあいだに漂う濃密なものが、中谷にはこれ以
        上立ち入る隙を与えない。
  中 谷「……(小さく一礼)」
        足音を殺して出ていく。
        と、
  外  浦「(罪深さを受容する目)さすがだな。白状すると、初め
      て安原さんの顔を見たとき、この刑事だけはいつか真相
      にたどり着くだろうなと思ったんですよ」
  安 原「……」
  外 浦「(最後の小さな皮肉)でもね、安原さんの推理は肝心な
      ところで間違っている」
  安 原「……?」
  外 浦「いくら破滅寸前の仲の女房でも、亭主が癌で余命いくば
      くもないと知ったら、複雑なものがあって当然でしょう。
      幸枝はボクの前で、あなたの死は必ず私が看取ってあげ
      ると言って泣きました。同じように玲子もね」
  安 原「……」
  外 浦「玲子はもともとボクの愛人だった。当時は幸枝のほうに
      心が移っていたかも知れないが、それでもボクの病気が
      回復不能だということを知って、幸枝と一緒にあなたの
      死を看取ると手を取って泣いてくれたんです」
        外浦の表情には何の怒りもすさみもなく、また喜び
        も哀しみも一切がない。
  外 浦「(ただ穏やかに)事件の日の翌日、ボクは大学病院に行
      って入院の手筈を整えることになっていた。もう二度と
      外に出てくる日はないだろうから、最後の夜くらいは三
      人で一緒に過ごそうという話になったんです。あの別荘
      の寝室で、二人はこれまでになかったほどボクに優しく
      接してくれた。そうされればされるほど、ボクは無性に
      寂しくなってきて……こんなにボクを愛してくれている
      女たちをこれ以上悲しませることはできない、そう思っ
      て気が付いたら……。二人を殺した動機を強いて言葉に
      すれば、そういうことになるのかな」
        外浦、それですべてだと静かに横たわる。
  安  原「……(手を貸してやる)」
  外  浦「これからボクはどうなるんです」
  安 原「……それは中谷が決めることだ」
  外  浦「ボクは何でも構いませんよ。安原さんのおかげでやっと
      静かに死ねるんですから」
        外浦はそう呟くと、残骸のように眼を閉じる。
        その瞼から清冽に光るものが一筋流れ落ちていく。
        安原の胸にはそれが痛いほど響く。
        息苦しいまでの赤い空気に融け込んで、二人はいつ
        までも静謐な空間にたたずんでいる――。

○ 同・拘置所・表(夜)

        安原、蹌踉とした足取りで出てくる。
        と、中谷が壁に寄りかかって待っている。
  中  谷「(ぶっきらぼうに)……報告書は少し遅れますから」
  安 原「うん?」
  中 谷「外浦が生きているあいだに出来るかどうか」
  安 原「(思いが響いて)……それがいいのかもしれないな」
        余韻を残した沈黙――。
        ふと見ると、中谷が口をへの字に宙を仰いでいる。
  安 原「中谷……」
  中 谷「はい」
  安 原「お前、オレと同じ道を歩むんじゃないぞ」
        と、中谷、途端におどけた表情をつくろって、
  中 谷「(明るく)オレは誰かサンと違って野心満々ですよ」
  安  原「……それならいいんだ」
  中 谷「(肩をすくめて)じゃあ行きましょうか、慰労会に。今
      夜はとことん付き合ってもらいますからね」
  安 原「ああ、何軒でも付き合うさ。ハンバーガー以外ならな」
        安原、にこりともせずに車へ乗り込んでいく。

○ 抜けるような青空(翌朝)

○  公園

        暖かい陽だまりのなか、安原と千栄子が並んでベン
        チに腰を下ろしている。
  千栄子「(微苦笑)男の人って、最後まで見栄を張るんですね」
  安  原「うん?」
  千栄子「そんな寂しい嘘、誰が聞いたって分かりますよ。その人
      には最初から愛人なんていなかった。その人はただ一人
      の頼りだった奥さんにも裏切られて……」
  安 原「女というのは、最後まで冷たいもんだな」
  千栄子「はい?」
  安 原「あの男は今、自分でもそうだったのだと信じている。黙
      ってそういうことにしといてやればいいじゃないか」
  千栄子「(小さく二度)……」
        安原、その気配にふと見返る。
        不意に顔をそむける千栄子が、目ににじむものをそ
        っと指で拭っている。
        安原、見なかったふりでゆっくりと立ち上がる。
  安  原「(ポツンと)……あの男は、自分の人生を白紙同然にし
      た『お国』に、小さな復讐をしたんだ」
        呟いて、目の前に続く並木道を淡々と歩いていく。
  千栄子「(並びかけ)……復讐」
  安  原「同じ公務員だった者として、私にはあの男の気持ちが良
      く分かる。どうせ人生最後の数ヵ月を、病院のベッドに
      縛りつけられて過ごすのなら、むしろ警察の監視の下で
      とあの男は考えた」
  千栄子「(突かれて)……」
  安 原「たとえ自由の身だったとしても、死を看取ってくれる者
      もいないあの男には、自分を公務員の名のもとに檻のな
      かに閉じ込めた『お国』に対して、一泡ふかせることし
      か眼中になかったんだ」
  千栄子「……犯罪者としてなら、死ぬまでのあいだのベッドを国
      が与えてくれる」
  安 原「私は、あの男はそこまで計算していたと思っている。外
      浦は罪を逃れるために、アリバイの往復を繰り返したん
      じゃない。捜査をひたすら混乱させて、真相が分かる日
      を一日でも先に延ばし、ただ従容として死を迎えたかっ
      ただけなんだってね」
  千栄子「(痛惜に言葉を失う)……」
        あとはただやるせない沈黙が流れて……。
        と、
  千栄子「(感嘆の声)いいお天気ですねえ」
        千栄子、立ち止まって一瞬で明るい笑顔。
  安  原「(見上げて)……ああ」
  千栄子「終わったんですね、本当に」
  安 原「……そうだな」
  千栄子「(半分おどけて)どうしましょう、今日から」
  安  原「そんな濡れ落ち葉族みたいな目で見るな」
        憮然と返す安原の顔が、意外にも照れを含んでいる。
  安 原「私はあの男とは違う。ちゃんと余生を楽しむ方法は考え
      てあるさ」
  千栄子「え?」
  安 原「(言いよどむが)また……剣道を始めようと思う」
  千栄子「あなた!」
  安 原「(一瞬よぎった笑顔)これから、退職金で防具を買いに
      行く。付き合ってくれるだろう」
  千栄子「(輝く)もちろんです!」
  安 原「ヨシ、じゃあその前にジジババ面して、可愛い孫の顔で
      も見に行くか」
  千栄子「ハイ」
        一番見慣れた夫らしい仏頂面に、老妻は心底嬉しそ
        うに笑って大きく頷き返している。

○ 拘置所・裏門

        ひっそりと霊柩車に乗せられる柩、裏門釈放の犯罪
        者が一人、どこへとも知れず運び去られていく。
  T  『外浦が深夜の病室で、静かに息を引き取っているのを発
      見されたのは、それからわずか十日後のことだった』