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納得できない『逆説の日本史』(補論)
さて、数少ない成果の一つが、パンフレット『御寺泉涌寺』(\300)です。そう、井沢氏が『逆説2』で引用されていた、あれです。
氏は、次のように述べます。
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実は、天武が天智と「無縁」な人間であることについては、もう一つ衝撃的な事実がある。(中略) (p.259) |
この文章を素直に読んでしまった人は、まず(a)この寺が相当昔から天皇家の菩提寺で、歴代天皇の位牌が次々と納められてきた、(b)その中で天武以後称徳女帝までの八代だけが位牌がないのだ、という風に受けとめてしまいますが、それは違います。
まず(b)ですが、これは『逆説2』の続きにパンフレットからの引用があるように、桓武・光仁・天智が最も古いわけですから、斉明以前の天皇は1人も位牌がありません。つまり、「無縁仏」と言うなら、天智の父母も含めてみな「無縁仏」なのです。
次に(a)ですが、このパンフレットの最初に、
| (前略)四条天皇は大師(=月輪大師:引用者注)の御転生と称され仁治三年(一二四二)正月天皇崩御の際には御山陵も当時に御造営になり、それより歴代の山陵は多く当山境内に設けられ皇室の御香華院として七百年間特別の御崇敬と御殊遇を賜る。 |
とあるように、13世紀までは別に皇室の菩提寺でも何でもなかったことが分かります。
つまり、仮に「天武以後称徳女帝までの八代」を祀らないという意図があったとしても、それは13世紀以降の意図であるということなのです。
そして、『逆説2』も引用するように、パンフには、
| (前略)平安京の第一代天皇桓武天皇、その御父光仁天皇、その直系の御祖天智天皇、この三天皇が霊明殿に奉祀の特にお古い御方で、歴代天皇が奉祀されている。 |
とあります。
これらから導かれる穏当な推測は、この寺は13世紀の四条天皇の山陵造営から皇室の菩提寺としての性格が芽生え始め、遡って当時の都である平安京の初代天皇と、その父と、やはり直系で有名な天智天皇までを奉祀の対象に設定した、ゆえに平城京の天皇もそれ以前の天皇も、原則として奉祀されていないのだ、というものではないでしょうか。
そしてそれは、彼らを奉祀の対象としてないことが、井沢氏らが大騒ぎするような問題として捉えられていなかった、それが「日本古来の伝統」であったことを逆に教えてくれます。
「菩提寺というのは、これも言うまでもなく先祖代々の霊を祀るところだ」から、そこに入っていないのは大変なことだ、というのは、果たして古代中世でどの程度常識なのか、現代的な感覚で決めつけるのではなく、実際の事例から考えていくのが歴史ではないでしょうか。
そもそも井沢氏らは、「天武以後称徳女帝までの八代」が祀られていない理由をどう考えておられるのでしょう。天武が天智と血縁がないからでしょうか。それなら、天智の娘である持統・元明はなぜ祀られていないのでしょう。
また、井沢氏はタタリにこだわりますが、ならば「子孫断絶」した天武こそ、祀っておくべきではないのでしょうか。この辺り、全然論旨が通りません。
さらにもう一つ。上で引用したパンフの内容ですが、『逆説2』はここで引用を切っていますが、実は続きがあります。
| されている。明治四年(一八七一)九月、宮中に皇霊殿が造営されて、内裏の仏像や、諸寺の尊牌がすべて泉涌寺霊明殿に移安されることになった。 |
つまり、現在泉涌寺霊明殿に納められている尊牌は、もともとここにあったもの以外に、明治四年にここに移されたものもかなりありそうです。天智や光仁・桓武の尊牌が最初(それがいつかも分からない)からここにあったのかどうかすら、このパンフから知ることはできません。
またもや、ですね。
ついでながら、天皇陵への奉幣の件も簡単に。
「歴代の天皇陵に対する奉幣の儀が、天武系の天皇に対しては、まったく行われていない」とは、おそらく『延喜式』の規定(中務省)から述べておられるものと思われます。調べてみると、確かに天武〜称徳の山陵について奉幣の儀はありません。
しかし、こちらも泉涌寺同様、天智より前の時代の天皇の陵で奉幣されているのは1つもありません。明らかに、平安京時代+光仁・天智が対象です。よって、上記の泉涌寺問題への批判と同じになります。
また、施基皇子(光仁の父)も奉幣対象となっており、父系への強いこだわりが分かります。一方、早良親王も奉幣を受けています。怨霊への配慮でしょうね。他方、なぜか嵯峨・淳和が奉幣の対象から外れています。
どうもこの山陵への奉幣は、単純に「先祖供養」と言い切れないものがあるように思えます。ここに含まれていないから天武は皇族でない、というような断定はとてもできません。