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(13)宝塚市伊孑志

2003.08.03.

 実に1年3か月ぶりの「ちょっと意外な古代史スポット」になってしまいました。なかなか新規開拓ができなくて....。

伊孑志(地名表示)今回のスポットは、兵庫県宝塚市です。宝塚というと「づか」こと宝塚歌劇があまりに有名で、モダンな印象が強いです。実際、以前にご紹介した中山寺近辺をのぞくと、明確な歴史スポットはないのですが、それでもちょっと気になる地名があったので、それを今回はご紹介してみようと思います。

 気になる地名とは、右の写真にあるものです。「伊孑志」と書いて「イソシ」と読みます(「ことえり」でも変換できました!)。
 この聞き慣れない「イソシ」という言葉ですが、『新撰姓氏録』を探すと、大和国(神別)に「伊蘇志臣」という氏族が出てきます。この氏族は、伊蘇志臣東人(『続日本紀』天平勝宝2年5月19日条)、伊蘇志臣総麻呂(同宝亀6年正月庚寅条)、伊蘇志臣眞成(同延暦4年1月7日条)、伊蘇志臣廣成(『続日本後紀』承和2年3月8日条、「右京人」とある)など、地方豪族ながら正史に見つけることができます。

 『宝塚市史』は、「伊蘇志臣は、武庫郡石井郷に伊孑志の集落があることから、この地にもともとこの氏族が居住していたと考えられており、式内社伊和志豆神社があるこの地域の氏族なのかも知れない。」と書いています(327頁)。

 伊和志豆神社は、現在も宝塚市伊孑志(阪急今津線の逆瀬川駅近く)にあります。

由緒書はこちらをクリック(28KB)

 もっとも、平安時代そのままの場所に立っているわけではないようです。川端道春『宝塚の風土記−民話と伝説 地名のおこり』(川瀬書店)によると、「かつつての社地はもっと武庫川辺近く建立されていましたが、水害によって見佐村が流失する憂き目に合ってから、神社を守るために現在地に移され」たとのことです。もっとも、現在地も武庫川からそうは離れていないので、小規模な移動だったと思われます。この地域に長く鎮座している神社であることに違いはないでしょう。
 そもそも、宝塚市内に式内社は2つしかない(もう一つは売布神社)のですが、この伊和志豆神社は延喜式内社でも大社の格を持っており、また『日本三代実録』によれば、貞観元年正月27日に従五位下を授かっています。なかなか重要な神社だったようです。

 ところで、先に述べた「伊蘇志臣」ですが、『文徳実録』仁寿2年2月8日条には、次のような記事があります。

参議正四位下行、宮内卿兼相摸守、滋野朝臣貞主卒す。貞主は右京人なり。曾祖父、大學頭兼博士正五位下、楢原東人、該に九經に通ず。号して名儒と為す。天平勝寳元年、駿河守と為る。時に黄金を土出し、東人採りて之を献ず。帝、其功を美して曰く、「勤なる臣なり。遂に勤臣の義を取り、伊蘇志臣の姓を賜ふ。父、尾張守従五位上(伊蘇志臣)家譯、延暦年中に滋野宿祢の姓を賜る。

 つまり、伊蘇志臣東人はもとは「楢原東人」であったが、天平勝寳元年に任国の駿河で黄金が産出したので、その功績により(「勤臣」なので)伊蘇志臣の姓を賜ったというのです(その子の家譯は、延暦年中に「滋野朝臣」を賜姓された、ともあります)
 これが正しいとなると、「伊蘇志」は地名ではなく、(公務に)いそしんだ」ことによる命名であり、摂津国の「伊孑志」とは無関係、ということになってしまいます(『宝塚市史』は、なぜかこの記事に触れていません(^^;)。

 ここからは憶測になるのですが、上の記事の滋野朝臣貞主の弟と思われる滋野朝臣貞雄という人物がおり、彼は貞観元年の12月22日に「摂津守」のまま没しています(『三代実録』)。宝塚は摂津国(武庫郡)に属します。偶然かもしれませんが、あるいはこの伊和志豆神社の地に「イソシ」という地名がついたのは、「伊蘇志」を旧姓とする摂津守滋野朝臣貞雄の何らかの意図が関係しているのかもしれません。彼が死んだ年(貞観元年)に、伊和志豆神社に従五位下が授けられたのも、関係がありそうな気もしてきます。




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