総合TOP古代史雑談「時には古代の話を」史跡館国分寺はどこ?

遠江--静岡県磐田市ーー
2003.08.17.up



 静岡県の磐田市といえば、誰でも思いつくのは、サッカーJリーグ「ジュビロ磐田」だと思います。というか、それしか思いつかないというのが、(私も含めて)大抵の方の実情ではないかと(^^;
 しかし、遠江国分寺はここにありました。

JR磐田駅には…

はためくジュビロの旗

駅前にはジュビロ君の像と…

ともはにわの像があります

ともはにわの解説文

 磐田市は数多くの古墳と文化財とに恵まれている これはその中のひとつ鞆の埴輪を約三倍に拡大してかたどったものである 鞆とは いうまでもなく弓を射るとき手首につける武具である 方面に刻まれた直線と弧の交錯する直弧文はおおらかな形状によく調和して格調の高い美をかもし出し世界でも数少ない貴重な存在である これを見る人それぞれになにものかを考え感じとっていただければと思う 磐田市


うーん、「世界で数少ない貴重な存在」は誉めすぎだと思う..。

 ここでユニークというか面白いのは、駅前の観光案内所で自転車を貸してくれること、これが半日100円と格安なこと、そしてそれがパス=ヤマハの電動ハイブリッド自転車だということです。そう、磐田はヤマハ発動機の本社がある町なんですよね。

 パスですが、はじめて乗ったのですがなかなか快適です。坂道が快適なのは言うまでもない(磐田市内はけっこうアップダウンがあったので助かった)のですが、さらには走り出しの「加速」が気持ちイイ(カラダが軽く後ろに傾く感じ)です。でも買うには高いなぁ..(7万近いんですよね)。

 さて、台風が近づく中、パラパラと雨もちらついてきました。時間があまりないので、ポイントをしぼって回りました。駅前にあった略地図をupしておきますので、ご覧になりたい方はこちらをクリック(24KB:別画面)してください。

国分寺跡は、早く大正12年に史跡の指定を受けています。
発掘調査は昭和26年に行われ、翌年には「特別史跡」に格上げになっています。
↑史跡の南東から北東向きに遠望。広い公園になっています。
←「史蹟遠江国分寺址」碑

金堂跡

礎石や根石から、間口27.6m×奥行き14.4mの
重層入母屋瓦葺きと推定されています。

金堂の基壇は高さ90センチ

けっこう大きな礎石です

七重塔跡

国分寺は七重塔です。

少し高く整備されています

かなり大きな塔心礎です

 国分尼寺は、時間の関係で(というより降りだした雨が気になって)残念ながらパスしました。

 すぐ隣が磐田市役所なのですが、ここには国分寺の復元模型が展示されていました。また、時間が合わなかったので見ませんでしたが、CGによる再現映像も上映していました。なかなか力を入れているな、という印象です。
 模型を見ると分かりやすいのですが、伽藍配置は東大寺式(金堂も講堂も中央に一直線で並ぶ。ただし塔は片方のみ)です。写真中央の大きな建物が金堂です)。


 オマケ的になりますが、パスもあることですし、ついでに御殿遺跡公園に立ち寄りました。

駅の南にある小さなスペースです

航空写真から

御殿遺跡の解説文より

 御殿・二之宮遺跡は(略)弥生時代から中世・近世にかけて営まれた遺跡です。特になら時代には、文字の書かれた木札や土器(木簡・墨書土器)が出土していることから、この地に遠江の国の役所が置かれていたと推定されていました。
 平成4・5年度に発掘調査した結果、この場所から直交するように配置された古代の大規模な建物跡が見つかりました。配置や規模から役所の建物の一部と推定されます。国分尼寺と国分僧寺の中心線を真南に延長した場所にあたることから、古代の都市計画に基づいて建物が造られたと考えられます。

 磐田市教育委員会文化財課

奈良時代の建物跡

防人の歌の碑もありました

 説明文は明言をさけているようですが、遠江国府をここに比定する説もあったかと思います。より有力なのは、国分寺より北の見付地区のようですが..。
 防人の歌の碑文にも、ここが国府ではないか、という考えがうかがえます。

防人の歌の碑の解説より

 畏きや 命被り 明日ゆりや 草が共寝む 妹なしにして(20-4321)
                      国造丁長下郡 物部秋持

 我が妻も 絵に描きとらむ 暇もが 旅行く吾れは 見つつ偲はむ(20-4327)
                      長下郡 物部古麿

 わが国最古の歌集である万葉集に、天平勝宝七(七五五)年の防人たちの歌八十四首を収めている(中略)。その冒頭歌は遠江国防人の長で、当地長下郡出身の物部秋持であった。
 物部秋持は出立の前夜に国府において、その使命感と残してゆく妻を思う率直な気持ちを方言で歌っている。
 物部古麿は一般の防人で、唐突な指名のために、妻を残して慌ただしく旅立たねばならぬ嘆きを、切々と歌う。妻の肖像を携えたいという発想は、万葉集中例のない独創的なものであった。
 遠い故郷の祖先が、家族への愛を歌い、ふるさとを思う魂の叫びと祈りに共感して、永く伝えるためにこの歌碑を建立する。


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