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古代史ファンの中でも、とりわけ大津皇子は人気があるようです。
大津は天武の皇子で、母は早くに没した太田皇女(天智の娘で皇后持統の同母姉)。非常に高い身分である上に、人柄にも才能にも恵まれていました。奈良時代の漢詩集『懐風藻』には、「幼年にして学を好み、博覧にして能く文を属(つづ)る。壮に及びて武を愛(この)み、多力にして能く剣を撃つ。性頗(すこぶ)る放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼ぶ。是に由ちて人多く付託す」とまさに絶賛されています。彼を謀反人と断ずる『日本書紀』ですら、「容止墻岸。音辭俊朗。爲天命開別天皇所愛。及長辨有才學。尤も文筆を愛す。詩賦の興(おこ)りは大津より始まれり」と賞賛しており、彼の人望は相当なものだったようです。
朱鳥元年(686)10月、大津は皇太子に対する謀反で逮捕され、訳語田宮で死を賜わります。24歳でした。『万葉集』でも、詞書で簡潔に状況を述べています。
大津皇子の死されし時に、磐余(いはれ)の池の陂(つつみ)にて流涕(りゅうてい)して御作(つく)りたまひし歌一首
「磐余池」がどこにあったのかは確定できてませんが、奈良県桜井市に「池内」「池尻」の地名が残っていることから、現在の桜井市の西南部、香具山の東北のあたりとされています(『万葉集注釈』)。
処刑は池のほとりで行われたのでしょうか(絞首刑と思われます)。死を目前に詠んだ辞世として、非常に有名な歌です。(「ももづたふ」は「磐余」の「い」にかかる枕詞)
磐余の池に鳴いている鴨を、今日限り見て、私は死んでいくのか。
さて、ここからは、大津ファンからのブーイングを覚悟して書きます(^^;
この歌は、本当に大津が詠んだものなのでしょうか。私にはずっと疑問でした。
そう考える理由の一つは、江戸時代の切腹じゃあるまいし、ホントに(この時代に)辞世をしたためたのか、という疑問です。謀反が発覚して処刑される大津。さぞ無念だったでしょう。その彼が、「私は死んでいくのだなあ」という歌をしたためている図が、私にはどうしても思い描けないのです。
もっとも、この謀反自体が冤罪だった、持統女帝の陰謀に陥れられたのだ、ということがなかば常識のように言われています。私はそうだとは思いませんが、仮に冤罪だったとすれば、さらに彼の無念は強いわけで、いよいよ私にはこの歌とのつながりが実感できません。
もう一つの理由は、「雲隠りなむ」です。
貴人が死ぬことを「雲隠れ」という用法があるのはもちろん知っています。が、それを自分自身に使うのは変ではないでしょうか?「私はお隠れになるのだろうか」ですよ?いかに天武の皇子とはいえ、ちょっと納得いきません。というか、その場面を思い浮かべると、苦笑してしまいます。
万葉集にも、ほかにも、「雲隠れ」の用例はありますが、自分が死ぬことに使った例を私は知りません。
0205 王は神にしませば天雲の五百重が下に隠りたまひぬ
0441 大皇の命畏み大殯の時にはあらねど雲隠り座す
0461 留めえぬ命にしあれば敷布の家ゆは出でて雲隠りにき
そんなことをずっと考えていたのですが、岩波『新日本古典文学大系』の脚注に、次のようにありました。
歌の結句「雲隠る」の語は、死ぬことの敬避表現であるから、自らの死にはふさわしくない。したかって、この歌は皇子自身の作ではなく、皇子周辺の人の作った歌であろうと推測される。それが皇子作として伝承されるに至ったのであろう。
私と同じ疑問を持っている人がいた!と、思わず喜んでしまいました。さらに探してみたところ、小学館『日本古典文学全集』の頭注も「第三者の言葉と考えられる」と述べています。
では漢詩の方はどうなのだという反論はあろうかと思います。
ご存じの方も多いと思いますが、上述の『懐風藻』には「臨終」と題する大津の五言詩が載っています。こちらも名作とされていますので、紹介しておきます。
金烏西舎に臨(て)らひ 鼓声短命を催(うなが)す
泉路賓主無し 此の夕(ゆふへ)家を離(さか)りて向かふ
(訳…日は西の家屋を照らし、夕刻を告げる鼓の音は自分の短い命をうながす。死出の道には客も主人もなく自分独りだ。この夕べ自分は家を離れて独り死出の旅路へ向かうのである)
ところが、同じ『日本古典文学全集』の頭注は、この詩についても、「類似の中国詩がかなりあるので、皇子の非業の死を傷んで詠んだ後人の仮託ではないかと思われる」と述べています。
考えてみれば、死刑に臨んで漢詩と短歌と両方の辞世を残すというのも、緊迫感とか無念という感覚からするとちょっとどうかなぁ(^^;と思います。
ただ、だからといって大津の死が軽くなると言いたいのではありません。
むしろ、彼の処刑が悲劇として受け止められ、広く長く人々に語り継がれたからこそ、こうした仮託が生じたわけです。
これらの歌を、大津の言葉としてではなく、大津の無念に共感した人々が彼に向けた言葉、あるいは大津の無念を代弁しようとして後世に発した言葉と受け止めれば、とても重い"ことの葉"だと思いますが、いかがでしょう。
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