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今月の"ことの葉"
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No.1→20No.21→40No.41→60 /No.61→

No.61→80 もくじ
通番

ことの葉(冒頭部分など一部)
80
先ず起きて属星(ぞくしょう)の名字を称すること七偏
79
当代は家人にはあらずや。
78
猟箭中(ししやお)へる雀鳥(すずめ)の如し。

77
にくし。さのたまはば、今日は立たじ。
76 家告(の)らな 名告らさね
75 朕、これを傷むこと、日に深し。

74
百済王等は朕が外戚なり。

73
対応の声を「噫(あい)」と曰ふ

72
今日のみ見てや 雲隠りなむ

71
春すぎて夏来たるらし

70
一年(ひととせ)を去年(こぞ)とや言はん 今年とや言はん

69
(おすひ)の裾に 月立たなむよ

68
下動み 地(なゐ)が震り来ば

67
受領ハ倒ル所ニ土ヲツカメ

66
内はほらほら 外はすぶすぶ
65 最後の除目行ひに参り給へるなり
64 用なき歩きは よしなかりけり

63
山吹の立ちよそひたる 山清水汲みに行かめど 道の知らなく

62
見つ

61
後の君の曰はまく『愚かに癡しき婦人…』

 

80

先ず起きて属星(ぞくしょう)の名字を称すること七偏。

「九条右丞相遺誡」

 この「九条右丞相遺誡」は、藤原師輔(もろすけ)の残した家訓です。

 師輔は藤原忠平の次男で、村上天皇の外戚として権力を握り、その家は「九条家」とも呼ばれました。師輔の子には伊尹・兼通・兼家がおり、その兼家の子が道隆・道兼・道長ですから、まさに摂関家の本家本流と言っていいでしょう。
 その九条家でに伝えられた家訓が、この「九条右丞相遺戒」(「九条殿遺誡」とも)です。内容は、日常生活や心構えなど多岐に渡りまが、その冒頭に"朝起きたらすること"が列挙されており、これがなかなか面白いので、今回はこれをご紹介しましょう。

先ず起きて属星(ぞくしょう)の名字を称すること七偏。<微音、その七星は、貪狼は子の年、巨門は丑亥の年、禄存は寅戌の年、文曲は卯酉の年、廉貞は辰申の年、武曲は巳未の年、破軍は午の年なり>

 まず起きたら、属星=陰陽道で自分の生まれ年に当たる星(北斗七星の1つ)の名前を七回、ただし小さな声で唱えなさい。

次に鏡を取りて面(おもて)を見、暦を見て日の吉凶を知る。

 これは分かりますよね。鏡と暦をチャック!

次に楊枝を取りて西に向かひ手を洗へ。

 楊枝とは意外ですが、要するにハミガキ。なぜ西を向くのでしょうね。

次に仏名を誦して尋常に尊重するするところの神社を念ずべし。
次に昨日のことを記せ<事多きときは日々の中に記すべし>

 日記は次の日に書くのが基本なんですね。

次に粥を服す。
次に頭を梳(けず)<三ヶ日に一度梳るべし。日々梳らず>り、次に手足の甲(つめ)を除け<丑の日に手の甲を除き、寅の日に足の甲を除く>

 髪の手入れが3日に1回?それはちょっと…(^^; ツメ切る日も干支で決まっているんだ…。

次に日を択びて沐浴(ゆするあみ)せよ<五ヶ日に一度なり>。沐浴の吉凶<黄帝伝に曰く、凡そ月ごとの一日に沐浴すれば短命なり。八日に沐浴すれば命長し。十一日は目明かなり。十八日は盗賊に逢ふ。午の日は愛敬を失ふ。亥の日は恥を見る云々といへり。悪しき日には浴むべからず。その悪しき日は寅・辰・午・戌・下食の日等なり>

 入浴に関する禁忌の数々。いやあ、すごいですね。命が縮んだり、盗賊に逢ったり…。
 何しろ遺訓ですから、子々孫々と忠実に守ったんでしょうね、これ。

 でも、こういう"感覚"が"古代"なんだなぁと、実感もします。

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2005.12.29.
 

79

当代は家人にはあらずや。

『大鏡』宇多天皇

 これは、陽成天皇のセリフです。

 陽成天皇は、時の実力者である藤原基経と対立し、さらに殺人事件という大スキャンダルを引き起こして、ついに退位させられてしまいます。まだ元服したばかりの16歳でした。

 陽成には何人か弟がいましたが、基経を中心とする朝廷は彼らに皇位を移さず、陽成の祖父の弟にあたる光孝が皇位につきます。光孝はいわば「皇族の長老」で、当初は暫定的な措置だったらしく、それを示すように自分の子どもたちをすべて源氏に臣籍降下させます。
  が、その後の情勢の変化からか、降下した皇子のうちの一人、源定省が皇位を継ぐことになります。それも、父光孝の死去前日に親王に戻され、翌日つまり天皇の崩御したその日に皇太子に立てられ、さらに即日即位するというあわただしさでした。

 この親子が皇位に選ばれた大きな理由は、藤原基経との人間関係だと考えられています。実は光孝の母親と基経の母親は実の姉妹であり、また光孝の姪は基経の妻となっており、さらに基経の妹淑子と宇多の母の班子とは"お隣さん"で、親密な関係を持っていたのです。

 いずれにせよ、面白くないのが陽成です。そのあたりの事情を、『大鏡』は次のように書いています。

(宇多は)陽成院の御時、殿上人にて、神社行幸には舞人などせさせたまひたり。位につかせたまひて後、陽成院を通りて行幸ありけるに、「当代は家人にはあらずや」とぞ仰せられける。さばかりの家人持たせたまへる帝も、ありがたきことぞかし。

 宇多は源定省であった時、陽成の神社行幸に際して舞人を勤めていた、というのです。そこで出てきた不満の言葉が、これだった、というわけです。

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2005.10.31.

 


78

猟箭中(ししやお)へる雀鳥(すずめ)の如し。

『日本書紀』敏達14年8月15日条

 これは物部守屋のセリフです。

 場面は、敏達天皇の没後の殯(もがり)宮の儀礼中のこと。大臣の蘇我馬子が誄(しのびごと=死者を慕ってその霊に向かって述べる言葉)を奉ろうとするのですが、その姿を見て、何かと対立して仲の悪い(のちに戦争になりますから)物部守屋が嘲笑して言った言葉が、これです。

大きな矢で射られたスズメみたいだ」

 岩波文庫の頭注は、「小柄な身に大刀を帯びた馬子の不恰好さを喩えたもの」としています。絵的には分かります。分かりますが、かなり小柄な私としては、他人事ではないです。
 しかもハンドル名もスズメ♂だし(^^;
 そういう意味で、"好き"ではないですが、記憶に残る言い回しとして紹介させていただきました。

 もっとも、馬子も一応やり返しています。守屋が誄を奉っている間に、緊張からか手足が震えていた(「手脚揺(わなな)き震ひて誄たてまつる」)のを見て、

「鈴を懸くべし」

と笑ったとあります。鈴を懸ければ音がして面白いだろうというくらいの意味でしょうか。でも、身体的特徴を笑った守屋の方が悪質で(←感情的?私)、かつ与えたダメージも大きいような気がしますね..。

 書紀はこれに続けて、「是に由りて、二の臣、微(やうやく)に怨恨を生す」としています。子供じゃあるまいし、そういう単純な話ではないうでしょうが、エピソード的には面白いかもしれませんね。

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2005.09.26.

77

にくし。さのたまはば、今日は立たじ。

『枕草子』275

 出典は『枕草子』ですが、清少納言の言葉ではありません。

 275段は「大藏卿ばかり」としてよく知られている、ちょっとした笑い話です。『枕草子』はいわゆる「ものづくし」が有名ですが、他にも宮廷生活のさまざまなシーンが書き留められており、私はけっこう好きだったりします。
 短い段なので、全文を引用します。

 大藏卿ばかり耳とき人はなし。まことに、蚊のまつげの落つるを聞きつけ給ひつべうこそ ありしか。
  職の御曹司の西面に住みしころ、大殿の新中将宿直
(とのい)にて、ものなどいひしに、そばにある人の、
「この中将に扇の繪
(え)のこといへ」
とささめけば、
「いま、かの君立ち給ひなんにを」
と、いとみそかにいひ入るるを、その人だにえ聞きつけで、
「なにとか、なにとか」
と耳をかたぶけ来るに、遠くゐて、

「にくし。さのたまはば、今日は立たじ」
とのたまひしこそ、いかで聞きつけ給ふらんとあさましかりしか。

(岩波文庫『枕草子』より/改行位置は見やすく変更)

 訳がなくても、だいたい分かるのではないでしょうか。

 この話の"主人公"は「大蔵卿」=藤原正光という人物です。この人、とにかく耳がいい(「耳とき」)。どのくらい良いかというと、「蚊のまつげの落つるを聞きつけ」るほどだという(笑)。

 さてある時、清少納言は「そばにある人」と話をしていました。その場に中将が宿直でいたのですが、「そばにある人」は少納言に、
「中将さんに、扇の絵のことを言ってよ」
と話しかけます。どういう絵なのか、どういう事情があるのかは分かりませんが、遠くにいる大蔵卿正光が気になった少納言は、
「あの方が立ち去られたらね」
と小声でヒソヒソと(「いとみそかに」)返事したのですが、声が小さすぎて相手に聞こえませんでした。
「なに、なに?」
 ところが、遠くにいるはずの大蔵卿にはちゃっかり聞こえていて、
「イヤですね。そうおっしゃるなら、今日は立ちませんよ!」

 隣にいた人は、何のことか分からなくてキョトンとしていたでしょう。バツの悪い清少納言はどんな顔をしていたことやら....。その場面を思い浮かべると、ちょっと笑えます。

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2005.08.29.


76

家告(の)らな 名告らさね

『万葉集』1−1

 この言葉は、『万葉集』冒頭の長歌から選びました。

泊瀬朝倉宮に御宇し天皇の代
天皇御製の歌

(こ)もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家告(の)らな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居(を)れ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告らめ 家をも名をも 1-0001

(かごも良いがごを持ち、へらも良いへらを持って、この岡で若菜を摘んでおられる乙女よ、家をお告げなさいな、名を名乗りなさいな。(そらみつ)大和の国は、ことごとく私が治めているのだ、全部私が支配して居られるのだ。私こそ名乗ろう、家も名前も。)

(読み下し文と和訳は岩波『新日本古典文学大系』)

 古代(に限らないかも)には、実名を敬避する習俗がありました。実名(本名)を呼ぶことを避け、通常は呼び名や、官職などで呼び合っていました。天皇の名前は文書上に書き記すことも避けていた(名前のあるべきところに「諱」と書く)時期もあったくらいです。

 また、女性が自分の本名は"秘密"であり、それを教えることは結婚を許すことを意味すると考えられていたようです。

紫は 灰さすものそ 海石榴市(つばいち)の 八十の衢に 逢ひし子や誰(たれ) 12-3101
たらちねの 母が呼ぶ名を申さめど 道行き人を誰と知りてか 12-3102

 「籠(こ)もよ」の歌の詠み手の男性が「家をお告げなさいな、名を名乗りなさいな」と言っているのは、単に名前を聞いているのではなく、求婚しているというわけです。

 実は雄略天皇には、『古事記』に別の求婚説話が残されており、どうも「そういうキャラ」と考えられていたようです。もっとも、「我こそいませ」は敬語で、天皇とはいえ自分に敬語を使うというのも変なので、この歌は雄略の自作ではなく、伝承された歌であるとも考えられますが。

 なお、「家告らな」は原文表記は「家吉閑」。これがなぜそう読めるかですが、「吉」は「告」の誤り、「閑」は「奈」の草書体から誤ったもの、と解釈されているそうです。うーん、すごいなぁ。

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2005.07.25.

75

朕、これを傷むこと、日に深し。

『寛平御記』仁和4年10月27日

 『寛平御記』とは、平安中期の天皇、宇多の日記です。天皇の日記が残っているのも貴重ですが、現存する日記としても最古級で、貴重なものです。

 ところでこの日記は、887(仁和3)年の践祚当日から始まっています。本来なら喜びに充ち満ちているはずですが、実はこの時期の宇多は大いに苦しんでおり、日記に自分で「朕内心鬱憤」と書いているほどです。その原因は、有名な「阿衡の紛議」です。

 そもそも、宇多は天皇になれる地位にいませんでした。父光孝天皇は、自分の子どもたちを皆源氏として臣下に降ろしたからです。にもかかわらず宇多が天皇になれたのは、太政大臣藤原基経の推薦によります。
  その経緯から、宇多は基経を関白に任命します。関白に任じる詔勅が出され、基経は先例により一旦辞退します。奥ゆかしいこと(^^; 天皇は二度目の詔勅を出しましたが、その詔勅に「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」との一文があり、中国の殷代の古い役職「阿衡」を引用したのですが、この阿衡は位は高いが職掌がない(名誉職)だという説があったようで、これを知った基経は激怒し、半年にわたって朝廷への出仕をボイコットしてしまいます。

 もちろんこれは「言いがかり」です。実は基経は、この4年前にも、公務をボイコットして陽成天皇を追いつめた「前科」がありますから。
 今回、政界の実力者である基経が追い落としを狙っていたのは、この「阿衡」任命の詔勅を起草した、参議橘広相です。
 橘広相は、宇多の学問の師であると同時に、娘の義子(よしこ)を宇多に嫁がせており、すでに二人の皇子(斉中親王・斉世親王)が生まれていました。
 橘氏は、奈良時代には左大臣橘諸兄を出し、平安初期には嵯峨皇后として重きをなした橘嘉智子を出した名族です。承和の変をへて、往年の勢力はないものの、基経にとっては警戒すべき存在だったのでしょう。
 また、基経は自分の娘の温子(よしこ)を宇多に嫁がせようとしており、その点でも広相は排除したい相手でした。

 宇多は抵抗しましたが、やがて貴族たちの中で孤立していき、結局は弁解の宣命を発して基経に関白就任を懇願するという屈辱に甘んじることになります。さらに翌年、温子が入内して、紛議は基経の完勝に終わります。

 この「朕、これを傷むこと、日に深し」という言葉は、事件から少し後の日記に出てきます。短い言葉ですが、いまだに癒えない彼の無念、悔しさが伝わってきます。

 もっとも、広相は890年に亡くなり、基経も翌891年に死去します。また、温子はついに宇多の皇子女を産みませんでした。なかなか世の中は思うように行かないものですね…。

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2005.06.27.


74

百済王等は朕が外戚なり。

『続日本紀』延暦9年2月27日条

 これは、あの桓武天皇が、自分の出自を言葉(詔)にしたものです。

 是の日、(桓武)詔して曰く、「百済王(こにきし)等は朕が外戚なり。今、所以(このゆゑ)に、一両人を擢(ぬきあげ)て、爵位を加へ授く」とのたまふ。(『続日本紀』延暦9年2月27日条)

 「百済王氏は朕の外戚である。だから今、数人を抜擢して位を与えたのだ。」
 実際、この日は叙位があり、その中に百済王玄鏡(従四位下)、百済王仁貞(正五位下)、百済王鏡仁(従五位下)の三人の名前があります。
 「外戚」とは母方の親戚をさす言葉です。桓武の父は白壁王(天智の孫)でもちろん皇族ですが、母親の皇太后高野新笠は、渡来系氏族の和朝臣乙継の娘でした。
 前年末にこの高野新笠が亡くなっており、上記の言葉や叙位は、そのことが関係していると思われます。仁貞は皇太后新笠に仕えていましたし、他の二人も当時活躍していた官人です。
 皇太后の伝に、「皇太后、姓は和(やまと)氏。諱は新笠。贈正一位(和)乙継の女なり。母は贈正一位大枝朝臣真妹。」「宝亀年中に。姓を改めて高野朝臣と爲す。」「后の先は、百済武寧王之子純陀太子より出づ。」「其の百済の遠祖都慕王は、河伯の女、日精に感じて生める所なり。皇太后は即ち其の後なり」という説明があり、その出身が百済の王族であることが分かります。

 かといって、そのことが桓武天皇にとって自慢できることであったかは、疑問があります。渡来系氏族を母に持つ天皇には前例がなく、桓武の即位についてはとやかく言う声があったのではないかと思います。上記のセリフは、これを押し切る、「そうだよ、おれの母親は渡来系だよ、何か問題あるか!?」という、開き直りというか、自らの誇りを守ろうとしている姿が浮かんできます。

 実は、同様のセリフはこの少し前、淳仁天皇によってなされています。

「其れ先朝の太政大臣藤原朝臣は、唯に功天下に高きのみに非ず、是れ復た皇家之外戚なり。(中略)追って近江國十二郡を以て封じて淡海公と爲す」。(『続日本紀』天平宝字4年8月7日条)

 方や藤原氏、方や渡来系氏族。母親の身分によって子どもの地位に差ができることが多かったこの時代、この出自の差は歴然です。しかし、それをコソコソかくしたり、禁句にしたりするのではなく、詔に入れて発してしまうところに、桓武のエネルギーを感じることもできます。

 また、桓武の立太子は、最初からスムーズに進んだわけではありません。
 父光仁が即位した当時の皇太子は、皇后井上内親王(聖武の娘)の子である他戸親王でした。しかし、藤原百川らの策謀があって?、皇后も皇太子も、謀反の罪で五条に流され、幽閉されて非業の死をとげました。
 そのあとに、新しい皇太子に指名されたのが、桓武です。
 他戸は天武系の聖武天皇の血統を、母から受け継ぎでいました。そういう他戸を「押しのけて」皇位に着いたわけですから、桓武が自らの出自に対して強い自意識を持つのも無理からぬところです。

 ところで、桓武の母の高野氏(和氏)と詔にいう百済王氏とは、出自は似ていますが、別の氏族です。
 百済王氏は、百済義慈王の王子の余(よ)禅広を始祖とする渡来系氏族です。禅広は舒明朝に義慈王によって日本に派遣され、百済滅亡後に日本にとどまって、持統朝に百済王の氏を与えられました。奈良平安時代にかけて多くの人物が活躍しています。上記の三人もその例ですが、女性でも、百済王明信は夫藤原継縄の没後に桓武の後宮に入って寵愛されましたし、百済王教徳の女である貞香も桓武の後宮に入っています。百済王慶命は嵯峨天皇に寵愛されて従二位にまで昇りました。

 桓武のこの宣言は、彼ら彼女らにとっては「追い風」だったことでしょう。
 また高野(和)氏の方ですが、一例をあげると、新笠の甥に当たる和朝臣家麻呂は中務卿にまで昇り、71歳で没し、従二位大納言を追贈されました(『日本後記』延暦23年4月27日)。
 しかし、その薨伝を見ると、「人となり木訥(ぼくとつ)にして才学無し。帝の外戚を以て特に擢進せらる。蕃人の相府に入る(公卿になる)は、此より始まる。人位余有り、天爵足らずと謂うべし」と、かなり辛辣な批評がされています。
 考えてみれば、旧来の中央貴族たちにとっては、渡来系氏族の活躍は、あまり望ましいものではなかったのかもしれませんね。

 逆に言えば、そういった旧勢力と一定の距離を置きたい、排除できないまでも新しい力を取り込みたい、という考えが、桓武にはあったのかもしれません
 そう考えると、このセリフの重みが少し増すような気もします。

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2005.05.30.

73

対応の声を「噫(あい)」と曰ふ。

『魏書』東夷伝倭人条

 いわゆる「魏志倭人伝」の中で、倭の習俗を説明している箇所です。

大人の敬はれる所を見るに、但、手を搏(う)ち、以て跪拜(きはい)に当つ。<中略>下戸、大人と道路に相逢へば、逡巡(しゅんじゅん)して草に入り、辞を伝え事を説くには、或いは蹲(うずくま)り、或いは跪(ひざまづ)き、両手は地に拠(よ)り、之が恭敬を為す。対応の声を「噫(あい)」と曰ふ。、比ぶるに然諾(ぜんだく)の如し。

 「大人」が上の身分、「下戸」は下の身分のことで、子どもじゃないとかお酒が飲めないのかいう意味ではありません。念のため。

 倭人伝は中国の史料ですから、当時の中国の風習と比較しています。「跪拜」というのは、膝をついて反立ちになる中国式の姿勢(手は自由)のことです。
  倭ではこの姿勢ではなく、手を打ち合わせるだけ(「手を搏ち」)という作法と、うずくまったりひざまづいて両手を地面につける作法(「或いは蹲り、或いは跪き、両手は地に拠り」)とがあったようです。
  このうち、後者の姿勢で対応する声が「アイ」であった、それは「承知しました(「然諾」)」と同じような意味である、と言っています。
 ここに、弥生時代の倭人の"声音"が記録されているわけで、なかなか興味深いです。

 「承知しました」なら「はい」かなと、今日的常識からは考えるのですが、「はい」が「あい」に聞こえたのか、当時は「あい」だったのか....。

 なお、『日本書紀』推古10年9月条に、「朝礼を改む。因りて詔して曰く、『凡そ宮門を出で入らむことは、両つの手を以て地を押し、両つの脚をもて跪きて、梱(とじきみ=門の内外のしきり)を越えて、立ちて行け』とのたまふ」とあります。倭人伝の姿勢に近いですね。

(参考文献:義江明子『つくられた卑弥呼』ちくま新書)

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2005.04.25.

72

ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ

『万葉集』巻3−416

 古代史ファンの中でも、とりわけ大津皇子は人気があるようです。
 大津は天武の皇子で、母は早くに没した太田皇女(天智の娘で皇后持統の同母姉)。非常に高い身分である上に、人柄にも才能にも恵まれていました。奈良時代の漢詩集『懐風藻』には、
「幼年にして学を好み、博覧にして能く文を属(つづ)る。壮に及びて武を愛(この)み、多力にして能く剣を撃つ。性頗(すこぶ)る放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼ぶ。是に由ちて人多く付託す」とまさに絶賛されています。彼を謀反人と断ずる『日本書紀』ですら、「容止墻岸。音辭俊朗。爲天命開別天皇所愛。及長辨有才學。尤も文筆を愛す。詩賦の興(おこ)りは大津より始まれり」と賞賛しており、彼の人望は相当なものだったようです。

 朱鳥元年(686)10月、大津は皇太子に対する謀反で逮捕され、訳語田宮で死を賜わります。24歳でした。『万葉集』でも、詞書で簡潔に状況を述べています。

大津皇子の死されし時に、磐余(いはれ)の池の陂(つつみ)にて流涕(りゅうてい)して御作(つく)りたまひし歌一首

 「磐余池」がどこにあったのかは確定できてませんが、奈良県桜井市に「池内」「池尻」の地名が残っていることから、現在の桜井市の西南部、香具山の東北のあたりとされています(『万葉集注釈』)。
 処刑は池のほとりで行われたのでしょうか(絞首刑と思われます)。死を目前に詠んだ辞世として、非常に有名な歌です。(「ももづたふ」は「磐余」の「い」にかかる枕詞)

磐余の池に鳴いている鴨を、今日限り見て、私は死んでいくのか。

 さて、ここからは、大津ファンからのブーイングを覚悟して書きます(^^;

 この歌は、本当に大津が詠んだものなのでしょうか。私にはずっと疑問でした。

 そう考える理由の一つは、江戸時代の切腹じゃあるまいし、ホントに(この時代に)辞世をしたためたのか、という疑問です。謀反が発覚して処刑される大津。さぞ無念だったでしょう。その彼が、「私は死んでいくのだなあ」という歌をしたためている図が、私にはどうしても思い描けないのです。
 もっとも、この謀反自体が冤罪だった、持統女帝の陰謀に陥れられたのだ、ということがなかば常識のように言われています。私はそうだとは思いませんが、仮に冤罪だったとすれば、さらに彼の無念は強いわけで、いよいよ私にはこの歌とのつながりが実感できません。

 もう一つの理由は、「雲隠りなむ」です。
 貴人が死ぬことを「雲隠れ」という用法があるのはもちろん知っています。が、それを自分自身に使うのは変ではないでしょうか?「私はお隠れになるのだろうか」ですよ?いかに天武の皇子とはいえ、ちょっと納得いきません。というか、その場面を思い浮かべると、苦笑してしまいます。
 万葉集にも、ほかにも、「雲隠れ」の用例はありますが、自分が死ぬことに使った例を私は知りません。

0205 王は神にしませば天雲の五百重が下に隠りたまひぬ
0441 大皇の命畏み大殯の時にはあらねど雲隠り座す
0461 留めえぬ命にしあれば敷布の家ゆは出でて雲隠りにき

 そんなことをずっと考えていたのですが、岩波『新日本古典文学大系』の脚注に、次のようにありました。

歌の結句「雲隠る」の語は、死ぬことの敬避表現であるから、自らの死にはふさわしくない。したかって、この歌は皇子自身の作ではなく、皇子周辺の人の作った歌であろうと推測される。それが皇子作として伝承されるに至ったのであろう。

 私と同じ疑問を持っている人がいた!と、思わず喜んでしまいました。さらに探してみたところ、小学館『日本古典文学全集』の頭注も「第三者の言葉と考えられる」と述べています。

 では漢詩の方はどうなのだという反論はあろうかと思います。
 ご存じの方も多いと思いますが、上述の『懐風藻』には「臨終」と題する大津の五言詩が載っています。こちらも名作とされていますので、紹介しておきます。

金烏西舎に臨(て)らひ  鼓声短命を催(うなが)す
泉路賓主無し       此の夕(ゆふへ)家を離(さか)りて向かふ
(訳…日は西の家屋を照らし、夕刻を告げる鼓の音は自分の短い命をうながす。死出の道には客も主人もなく自分独りだ。この夕べ自分は家を離れて独り死出の旅路へ向かうのである)

 ところが、同じ『日本古典文学全集』の頭注は、この詩についても、「類似の中国詩がかなりあるので、皇子の非業の死を傷んで詠んだ後人の仮託ではないかと思われる」と述べています。

 考えてみれば、死刑に臨んで漢詩と短歌と両方の辞世を残すというのも、緊迫感とか無念という感覚からするとちょっとどうかなぁ(^^;と思います。

 ただ、だからといって大津の死が軽くなると言いたいのではありません
 むしろ、彼の処刑が悲劇として受け止められ、広く長く人々に語り継がれたからこそ、こうした仮託が生じたわけです。
 これらの歌を、大津の言葉としてではなく、
大津の無念に共感した人々が彼に向けた言葉、あるいは大津の無念を代弁しようとして後世に発した言葉と受け止めれば、とても重い"ことの葉"だと思いますが、いかがでしょう。

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2005.03.27.

71

春すぎて夏来たるらし 白妙の衣ほしたり天の香具山

『万葉集』巻1−28

 この歌は、例の「小倉百人一首」にも取られているので非常に有名ですが、例によって『万葉集』とは歌の細かいところが変わっています。

 百人一首:春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山
 万葉集 :
春すぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山

 この歌は『新古今和歌集』にも(百人一首と同じ形で)採録されており、当時はこれが定着した「読み方」だったようです。

 比較してみると、「来るらし」の方が「来にけらし」よりも歯切れがいいように思います。逆に言うと、なめらかさに欠けます。また、「ほすてふ」は「ほすといふ」ですから、「ほしたり」より間接的になります。
 万葉集の方は歯切れ良く断定的、百人一首の方はなめらかで穏やか、といった印象がします。個人的な好みとしては、万葉の方が彼女=持統女帝のキャラに合っているような気がします。

 ちなみに、万葉の漢字表記は、

   春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山

です。
 これは素人考えですが、「来良之」を「来にけらし」と読むのも苦しいですが、「乾有」を「ほすてふ」と読むのはさらに無理ではないかと(^^;

 まあ現代にも「リメイク」なるものがあり、昔の流行歌が歌詞を少し変えてはやったりしています。大抵は、元の歌詞の方がイイですねぇ(^^;<年寄り発言

 また、この歌の現実の情景についてですが、夏になると香具山に白い衣が干されるという初夏の習俗があり、それを目にした天皇が季節の移り変わりを感じて詠んだ、というのが通説です。
 一方、藤原定家はこの「白妙の衣」を卯の花の見立てであるという解釈をしていたようです。
 さらに異説を提示されたのが中西進氏で、この「白妙の衣」は実は香具山に積もる雪をあえてこう見立てたのだとされています(講談社現代新書『万葉の秀歌(上)』)。すると実態の季節そのものが変わり、寒い冬の最中にあえて夏の到来を詠ったということになるわけです。
 里中満智子さんの人気コミック『天上の虹』でも、この解釈で描いておられました。

 確かに面白いけど、さてどうでしょう(^_^)

※この歌と解説は、ずっと以前に「古代史クイズ」としてupしたものに一部加筆しました。
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2005.02.27.

70

年の内に春はきにけり 
ひととせをこぞとやいはん ことしとやいはん

『古今和歌集』巻1−1

 この歌は、『古今和歌集』冒頭という"記念すべき"歌です。古今集は最初の勅撰和歌集ですから、勅撰和歌集のスタートを飾る歌ということになりますね。

 詠んだのは在原元方。詞書には、「ふるとしに春たちける日によめる」とあります。「春たちける日」とは立春のことです。歌の意味は、

  年内に「春」がきた 同じ一年のことを去年と言おうか 今年と言おうか

となるでしょうか。

 この歌の意味を理解するには、当時の暦の知識が必要です。詳しくは拙サイトの「旧暦について」をお読みいただきたいのですが、ここで簡単に説明しておきます。

 「立春」は二十四節季の一つで、ふつうは2月3日か4日に当たります。 その前日が「節分」で、豆まき行事で広く知られていますね。
 二十四節季は、(太陽暦の)一年を24等分したものです。有名なものには、夏至・冬至・春分・秋分や啓蟄・大雪・小雪などがあります。小寒・大寒も二十四節季で、この間が「寒の入り」と呼ばれ、非常に寒くなる時期です。
 古代(というか江戸時代まで)の暦は、太陰暦が基本でした。
 太陰暦は月の満ち欠けに1カ月を合わせるもので、毎月15日はほぼ満月、 1日はほぼ新月になります。ところが、月の満ち欠けの周期は約29.5日なので、1カ月は29日(小の月)と30日(大の月)が半々となります。このため、12カ月で354日にしかなりません。太陽暦の一年とは約11日足りないことになります。季節が分からなくなるわけです。
 世界にはこのままで使う暦(たとえばイスラム暦)もありますが、四季の変化に会わせて農耕を行う中国や日本では、このままでは不便すぎます。そこで、閏月をいれて調節するのですが、それでもやはりけっこう大きなズレが残ります。
 そこで、太陰暦の月・日とは別に、二十四節季を暦に加え、季節を知ることができるようにしたのです。

 ついでに言うと、多くの年中行事がこの古い暦(旧暦)で行われてきました。しかし、明治になって公式には太陽暦が採用されてしまい、暦と年中行事が合わなくなってしまいました。正月は「春」というにはまだ寒く(しかし年賀状には「新春」とか「迎春」と書きます)、三月三日は桃には早すぎ、七月七日はまだ梅雨でなかなか晴れない、というわけです。こうした行事は、旧暦でやった方が「伝統的」だと思うんですが…。

 さて、立春は春の始まりです。冬が終わりに近づき、新しい一年がいよいよ始まる、というイメージがあります。また、たいてい立春は旧暦でも1月に入ってから来ます。
 ところが、何年に一度かは、12月の終わりに立春が入ってしまうことがあります(実は今年2005年がまさにその年で、2月4日が立春ですが、旧暦では12月**日に当たります)。
 すると、年内に立春がきた=春になった、ということになり、春の始まりが旧年の中にある、という不思議?な状況になります。一年の始まりが春なら、立春のある日は今年になるが、しかし師走だから去年だし…という、軽い遊びの歌です。

 古代のような暦でなければ、この感覚は味わえません。そういう意味でも好きで、"ことの葉"に入れさせていただきました。

※この歌と解説は、ずっと以前に「古代史クイズ」としてupしたものに一部加筆しました。

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2005.01.30.

69

(おすひ)の裾に 月立たなむよ

『古事記』景行天皇段

 倭建命(タマトタケルノミコト)は東国への"遠征"の途次、尾張で美夜都比売(ミヤヅヒメ)と婚姻しようとします。二人で杯を交わしている時、ふとヒメの衣服の裾に月経の血が付いていることに気づいたミコトは、「… 汝が著(け)せる 襲の裾に 月立ちにけりと歌いかけます。これに応えたヒメの歌は、

…あらたまの 年が来経(きふ)れば あらたまの 月は来経(きへ)往く
諾(うべ)な諾な諾な 君待ち難に 我が著せる 襲の裾に 
月立たなむよ

というものです。長い月日あなたを待ったので、裾にも月がたったのでしょう、というわけです。

 そして、二人は「御合」します。

 この歌を"ことの葉"に選んだのは、そういうセックスの好みの問題では決してなく(^^; 女性の月経という"血の穢れ"を微塵も感じさせない、あっけらかんとした言い方が楽しいからです。

 女性にとって不可避である月経は、昔から"穢れ"とされてきました。日常でも「言いにくい」こと、タブー扱いになっていますが、神社への参拝が許されなかったりする場合もあり(今でも残っている?)、女性への差別的扱いの一つの根拠になってきました。
 そういう観点からすると、この二人のやりとりは、実に明るくオープンです。

 そもそも、月経を"穢れ"として忌避するのは、いつ頃から始まったことなのでしょうか
 図書館で見つけた論考、西山良平氏「王朝都市と≪女性の穢れ≫」(女性史総合研究会編『日本女性生活史』1)によると、次のように推定できるとのことです。

  • 8世紀〜9世紀前半までの法律解釈では、月経のみならず出産や死穢を忌避するという明確な指摘はまだない。
  • 9世紀前半には、神事における出産の忌避が規定されたが、妊娠や月経の忌避は9世紀後半からで、出産より曖昧。
  • 9世紀初期、伊勢神宮を中心に血の忌避が拡大し始める。都の記録に"血の穢れ"が見られるようになるのは9世紀中頃からであるが、それは女性の月経に限らず、男性の鼻血なども同様に忌避されていた。が、10世紀後半になると、あまり強くは回避しなくなる。
  • 月経の忌避は、10世紀初期に、伊勢斎宮から賀茂斎院に拡大し、これが10世紀中頃以降に都の貴族に急激に影響したと考えられる。
  • また忌避は。半世紀ほど遅れて、神事から仏事に及んでいった。
  • 9世紀は、女性が政治・文化・儀礼から排除されていく時期であり、その重大な根拠として≪女性の穢れ≫が成長していくと考えられる。

 もちろん、古代と現代を直接結びつけることはできません。
 しかし、月経や出産による"穢れ"意識を、"人類普遍の真理"とか、"大昔から変わらない常識"とかいう風に片づけてしまうのではなく、結局は歴史や文化の中で作られてきたものなんだ、と考えてみることは、これからの世の中を考えていく上で、けっこう大切なのではないか、と思います。
 その上で、残すべき文化なのかどうかを考えましょう。

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2004.12.26.

68

下動(とよ)み 地(なゐ)が震(よ)り来ば 破(や)れむ柴垣

『日本書紀』武烈即位前紀

 古い時代、地震のことを「なゐ」と言いました。日本書紀などの古訓でも、「地震」は「なゐ」と訓じられています。
 ただし、『角川古語大辞典』によれば、「なゐ」は「なゐふる」「なゐゆる」の形で用いられることから、
「なゐ」は元来大地の意味であったか、としています。『小学館古語大辞典』もほぼ同じ見解で、さらに「ゐ」は「雲居」などの「ゐ」と同じか、としています。やがて「なゐ」だけで地震を表すようになったようです。

 台風を「のわけ」、地震を「なゐ」と、言葉の響きはなかなかに美しいのですが、自然の猛威と被害の深刻さに変わりはありません。否、十分な予報も対策もなかった古代こそ、恐怖であったはずです。そのためではいでしょうが、どちらの言葉も現代にはほとんど伝えられていません。

 地震の記録は、『日本書紀』『続日本紀』などの記録に頻繁に見られます(最古の例は『日本書紀』允恭5年7月14日条)。多くはシンプルに地震があったとだけ記していますが、時折くわしい被害状況や、時の天皇の詔が残されています。

 『続日本紀』天平6年4月7日条には、「地大きに震りて、天下の百姓の廬舍を壤つ。圧死せる者多し。山崩れ川壅り、地往々拆裂くること、勝げて数ふべからず。」とあります。阪神大震災や新潟県中越地震を思い出してしまいます。17日条には、天皇(聖武)の詔があります。「地震(なゐ)ふる災は、恐るらくは政事に闕けたること有るに由らむ。」つまり地震という災害は、政治がなっていないからではないかと考えているというのです(災異思想)。
 なお、この地震の時には、関連する太政官符(「地震状」)が伯耆国から出雲国へ発送されたことがわかっています(「天平六年出雲国計会帳」)。内容は分かりません。災害の事後対策だったのでしょうか。

 また『続日本紀』天平16年5月11日条には、さらに詳しい記録があります。「肥後国に雷なり雨ふり、地震(なゐ)ふる。八代・天草・葦北の三郡の官舍并せて田二百九十餘町、民家四百七十餘区、人千五百廿餘口、水を被りて漂沒す。山崩るること二百八十餘所、圧死せる人册餘人。並びに賑恤を加ふ。」と具体的。岩波『新古典文学大系』の脚注によると、この記事から推定される地震規模は、マグニチュード7になるとのことです。

 ところで、今回の"ことの葉"ですが、これは一人の女性をめぐっての"言い合い"です。皇太子時代の武烈天皇と、平群大臣の子の鮪(しび)は、物部大連の娘の影媛を奪い合い、二人の間で"歌合戦"が始まります。その中で鮪が、

大君の 八重の組垣 懸かめども 汝を編ましじみ 懸かぬ組垣
(大君の立派な組垣を造りたいと思うだろうが、汝=太子には編めないだろうから、幾重もの垣はできはしない)

と歌ったのに対抗して、太子(武烈)は、

臣の子の 八節の柴垣 下動み 地が震り来ば 破れむ柴垣
(臣の子=鮪の編み目の多い立派な柴垣。それは見かけは立派だが、地下が鳴動して地震がきたらすぐ壊れるような芝垣だ)

と言い返します。そこに、「なゐ(那為)」が登場するわけです。

 それにしても、言い合いとはいえ地震を引き合いに出すとはいただけません。上にも述べたように、古代では災害は天子の徳の不足、悪政の結果だと考えられていました。いずれ即位する太子でありながら…。もっとも、そのあたりも、悪逆非道の天皇として描かれる武烈"らしい"ところなのかもしれませんが。

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2004.11.28.

67

受領ハ倒ル所ニ土ヲツカメ

『今昔物語集』28-38

 受験で覚えた記憶のある方もおられるのではないかと思います。有名なセリフですね。

 律令制度で、各国を統治する役職を「国司」と総称しますが、必ずしも全員が任国へ赴任したわけではありません。平安時代中期以降は、都の高級貴族が地方へ赴くのを嫌がったこともあり、現地に行かない者(これを「遙任」)に対して実際に赴任する国司(の最高位者)を「受領」と呼ぶようになりました。
 平安中期以降は、中央による地方へのコントロールが弱まり、また治安も悪化していきます。そんな中で、徴税など受領の権限は強くなっていきます。中央の目が届かないのを良いことに、あざとく稼ぐ受領が少なくなかったようです。

 さて、お話は『今昔物語集』にあります(巻28−38)。信濃守の藤原陳忠(のぶただ)も、こうした受領の一人。任期が終わって(つまり財産をためこんで)都へ帰る途中、とある峠で道を踏み外し、馬ごと谷底へ落ちていってしまいました。
 深い谷だったため、従者たちは彼は死んでしまったにちがいないと思ったのですが、しばらくすると下の方から彼の声が聞こえてきます。どうやら、木の枝にひっかかって助かったらしいのですが、彼が言うには、とにかく紐で籠(馬のエサを入れて運んでいたもの)を下ろせとのこと。てっきりそれに乗って上がってくるのだと思うと、やけに軽い。見ると、籠いっぱいにキノコ(平茸)が入っています。
 従者たちが首をかしげていると、もう一度下ろせという声。今度は、陳忠自身が乗っていましたが、手にはちゃっかり平茸を3本ほど握っていました。
 つまり彼は、いつ落ちて死ぬか分からないギリギリの状況で、たまたま周囲に生えていた平茸を見つけた。ふつうなら我が身大事でさっさとあげて貰うところなのに、彼はまずできるだけ平茸を採って運ばせ、最後に自分が上がってきたわけです。
 そんな彼に従者たちは失笑するのですが、陳忠は真顔でこう言います。

 僻事(ひがごと)ナ不云(いひ)ソ、汝等ヨ。宝ノ山ニ入テ、手ヲ空クシテ返タラム心地ゾスル。「受領ハ倒ル所ニ土ヲツカメ」トコソ云ヘ

 オマエら何を言ってるんだ。オレは宝の山に入って空手で帰ったような気分だ、と。
 
「受領ハ倒ル所ニ土ヲツカメ」というのは、「転んでもただで起きるな」という意味です。この言葉は、当時の受領のがめつさ、悪徳さを表していると言われます。
 ですが、「倒れるところに土をつかめ」そのものは、そつがない、ムダなく行動する、いつも目を光らせていろ、くらいの意味で、そんなに悪い言葉ではない気がします。
 ここで問題なのは、「受領は」がついていること。つまり当時、すでに受領はそういうものである、そうでなければ意味がないという観念が定着していたらしいことでしょう。今昔物語の語り手も、「イとムクツケレ」つまり常軌を逸していると言っています。
 とはいえ、言い回しそのものは好きなので、ご紹介しておきます。

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2004.10.24.

66

内はほらほら、外はすぶすぶ。

『古事記』上巻

 『古事記』を信じれば、このセリフはネズミのものです(^^; "ことの葉"66回目にして、人間(と神)以外は初登場!

 兄たちの嫉妬で命の危険を感じたオオクニヌシ命は、スサノオ命の治める「根之堅州国(ネノカタスクニ)」に逃れます。そこで出会ったのがスサノオの娘のスセリヒメ。二人は結ばれるわけですが、父スサノオはオオクニヌシをなきものにしようと、さまざまな"ワナ"をしかけます(が、スセリの手助けもあってすべて失敗します)。
 場面は、そのうちの一つ。スサノオは鳴鏑(ナリカブラ:飛ぶ時に音が鳴るようにした矢)を広い野原の中に射込んで、それをオオクニヌシに取りに行かせ、あとから火を放って野原ごと焼いてしまおうとします。
 この絶体絶命のピンチに、一匹のネズミが現れ、今回のセリフを言う、というわけです。

 なお、もとの表記では次のようになっています。

鼠云「内者富良々々<此四字以音>外者須々夫々<此四字以音>

 古事記は、序文にもあるように、漢文(風)の表記に万葉仮名風の1字1音の表記を取り入れ、この<此四字以音>のような分注をつけるケースが時々あります。ここの「ほらほら」「すぶすぶ」の表記も、訳することなく音のままで表記しています。そらまあそうでしょう。この場合は漢訳はできますまい。
 なお、「須々夫々」は「すぶすぶ」ではなく「すすぶぶ」ではないか、という風に考えてしまうのですが、「々」の入れ方は当時かなり融通が利く(というかいい加減)ので、こういう場合は「すぶすぶ」です。

 ところで肝心の意味ですが、通常は「ホラホラは、ぽっかり穴になってうつろな状態をいう擬態語、スブスブは、すぼまって狭い状態をいう擬態語」(小学館『日本古典文学全集 古事記・上代歌謡 』頭注)であり、したがって「内部は空洞になっているよ、外側は狭くなっているけど」とネズミが教えてくれたと解釈されています。
 実際(と言っても神話ですが)、この言葉を聞いたオオクニヌシはその足下を踏みつけると穴がぽっかりとあき、そこに落ちて、すんでのところで難を逃れます。

 まあそういう話なのですが、そういう意味なら「外は狭いけど内は広いよ」という方が自然な言い方ではないか、なぜ倒置するのかという小さな疑問は残ります。ちょっと理屈っぽい?かも。
 もっとも、「外」を「と」と読むのが通説で、その場合「うちはほらほら、とはすぶすぶ」の方が「とはすぶすぶ、うちはほらほら」よりも語調がいいので、それが理由かもしれません。

 また新潮『日本古典集成 古事記 』の頭注は、「ネズミの鳴き声を模した表現である」と断言しています。古代人には、ネズミの声が「うちはほらほらとはすぶすぶ」と聞こえたのでしょうか?ちょっと理解不能です(「うち」の「ち」は「チュー」に通じるかもしれませんが....)。

 同じ『集成』は「火除けのまじないの言葉であったろう」としています。これは通説らしく、他の資料でも「火除けのまじないの言葉といわれる」(岩波『日本思想大系 古事記 』)、「この句は一種の呪詞である」(『文学全集』)という注がついています。
 どの資料にも、なぜこれが火除けのまじないたりえるのかの説明はありません。何となくはわかるのですが、どうも釈然としません。この神話がもとになって火除けのまじない言葉になったのか、もともと火除けのまじない言葉としてあってそこからこの神話が生まれたのか、神話とは直接関係がないのか。また、外に類似の例があるのか、単なる推測なのかも分かりません。

 阿刀田高氏は『楽しい古事記』の中で、この「すぶすぶ」が「ブスブスと燃えている」状態を表しているという解釈をされています。真偽のほどはともかく、これはわかりやすい解釈です。これなら"火除けのまじない"に結ぶつきそうに思いますが、いかがでしょうか?

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2004.09.26.

65

最後の除目行ひに参り給へるなり

『大鏡』兼通伝

 藤原道長の父にあたる藤原兼家と、その兄兼通との官位の競争、平たく言えば兄弟げんかは有名です。

 二人の父は九条殿藤原師輔で、伊尹(これただ)という兄がいました。この伊尹は円融天皇の摂政でしたが、摂政就任翌年に死んでしまったので、兼通と兼家のどちらかが後任となります。
  実は当時、弟兼家は正三位大納言兼右大将にまで上っていましたが、兄兼通は従三位権中納言。1つ劣っていました。
 ところが兼通は、"逆転の切り札"を用意していました。妹で帝の母である安子に嘆願して、「関白をば次第のまま(兄弟順)にさせ給へ」という手紙を書いてもらっていたのです。兼通は、これを使って帝から関白に任命されます。翌年の除目では官位も昇進し、中納言から大納言を飛び越えて正三位内大臣に、さらに翌年には左右大臣を飛び越えて正二位太政大臣に上りつめるのです。

 まさに大逆転ですが、それだけでは終わりません。兼通は兼家の出世を妨害しまくります。兼通が関白だった6年の間、兼家の官位は全く上昇しません。意図的に押さえられているわけです。『栄華物語』によれば、兼家が円融に娘を入内させようとしたところこれを妨害したりしています。

 兼家の不満はさぞやと思われますが、いよいよチャンスが回ってきます。悪いことはできないもので、今度は兼通が病に倒れたのです。さあ、今度こそは自分の番だ。そう考えたに違いありません。
 いよいよ危篤とわかった夜、兼家は早速車を出して宮中へ急ぎました。

 一方の兼通。病で意識も定かでない時に、弟の車がこちらへ向かっていることを聞きます。兼家は宮中に行く途中なのですが、兼通は自分を見舞いにしてくれたと思いこみ、喜んで準備をしていると、車は当然の事ながら素通り。ここで兼通は激怒し、

「かきおこせ」との給へば、人々あやしとおもふほどに、「車に装束せよ。御前もよほせ」とおほせらる

(「さあ抱き起こしてくれ」とおっしゃるので、人々が「これはどうも変だ」と思ううちに、また「車に仕度をさせよ。前駆の者どもを招集して用意させよ」とおっしゃる)

(『大鏡』以下同じ)

 なんと瀕死の状態から立ち上がり、これから参内しようというのです。なんという執念!思わず笑ってしまいます(^^;
 兼通は威儀を正し、息子たちの肩に寄りかかって参内します。これを見て驚いたのは兼家。てっきり死んだものと思っていた兄が、幽鬼のように目の前に現れたのですから、さぞ肝を潰したことでしょう。
 そして兼通は、帝の御前にひざまづき、ひどく不機嫌な顔で、このセリフを吐くのです。

「最後の除目行ひに参り給へるなり」とて、蔵人頭召して、関白には頼忠のおとど、東三条殿おとどをとりて(中略)東三条殿をば治部卿になしきこえて、いでさせ給ひて、ほどなくうせ給しぞかし。

(「最後の除目を行いに参内しました」と奏上されて、蔵人頭をお召しになって、関白には頼忠の大臣を任じ、東三条殿=兼家公の大将を取り上げ、(中略)兼家公を治部卿に落とし申して、ご退出なさってから、間もなくお亡くなりになったのですよ。)

 まさに「最期の除目」。ここまでやるかぁと、感心してしまう一言です。

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2004.08.22.

64

用なき歩(あり)きは よしなかりけり

『竹取物語』

 『竹取物語』に出て来る言葉で、その響きがとても好きなセリフです。
 場面は物語の最初の方。美しく成長(変化)したかぐや姫の噂を聞き、多くの男たちが姫を得ようと群がって来ます。

ついでながら、ここのところで男達の心情を表現した言葉である「得てしがな見てしがな(手に入れたい結婚したい)」もなかなか好きな"ことの葉"だったりします。

 それはともかく、男達は、召使いに話しかけるなど色々と手段を講じるのですが、何の成果もありません。そのうち、

あたりを離れぬ君達(きんだち)、夜を明かし、日を暮らす、多かり。おろかなる人(=熱意に欠ける人)は、「用なき歩きは、よしなかりけり(=無用の歩きはつまらぬことだったな)」とて、来ずなりにけり。

(新潮日本古典集成『竹取物語』より)

ということになるのです。

 「用なき歩きは、よしなかりけり」が好きな理由の一つは、音です。「用」の「よ」と「よし」の「よ」で頭韻を踏んでいるだけでなく、「なき」の「き」と「歩き」の「き」、「歩き」「なかり」「けり」の3つの「り」、「なき」と「なし」の対句など、随所に響きあってリズムを生んでいます。

 また、これはあきらめてしまった男たちの捨てゼリフです。どこか「あのブドウはすっぱい」というイソップ童話に近い感覚があり、読んでいて微笑してしまいます。そんなところも好きです。

 なお、集成の頭注によれば、底本の「ようなき」を「えう(要)なき」や「やう(益)なき」の誤りとする説があるそうです。現代語に直せば、「用なき」=無用、「要なき」=不要、「益なき」=無益、といったところでしょうか。意味はそれほど変わらないのですが、現代音では「ヨウ」と同じなのに、「よう」「やう」「えう」と表記が違うというのもなかなか面白く、話のタネの多いセリフです。

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2004.07.25.

63

山吹の立ちよそひたる 山清水汲みに行かめど 道の知らなく

『万葉集』巻2-158

 この歌は、題詞に「十市皇女の薨ぜし時に、高市皇子尊の作らす歌三首」あるように、高市が十市に贈った3首の挽歌のうちの一つです。

みもろの 三輪の神杉 已具耳矣自得見監乍共 寝ねぬ夜ぞ多き(2-156)

三輪山の 山辺まそ木綿(ゆふ) 短木綿 かくのみゆゑに 長くと思ひき(2-157)

山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく(2-158)

紀に曰く、「七年戊寅の夏四月、丁亥の朔の癸巳、十市皇女卒然(にわか)に病発(おこ)りて宮の中に薨ず」といふ。

※1首目の「已具耳矣自得見監乍共」は難解で定訓はありません。

 この3首の中では一番分かりやすいのが「山吹の」の歌でしょうか。

山吹が花の装いをこらしている。山の清水を汲みに行こうと思うが、道の分からないこと。

 道が分からないとは、どこへの道なのか。十市の墓所でしょうか。『日本書紀』によれば、彼女が葬られたのは「赤穂」という地でした。現在の北葛城郡広陵町(赤部村)、あるいは奈良市高畑町(式内赤穂神社)が推定されていますが、いずれにせよ道が分からないような深山幽谷ではありません。
 また、歌には
山吹が歌われていますが、これも時期がズレています。山吹は春4〜5月頃の花ですが、十市が亡くなったのは天武7年の4月であり、赤穂に葬られ4月16日は太陽暦換算で6月1日です。ちょっと遅すぎるでしょう。

 これらのことをふまえ、この歌の前半部分は情景描写ではなく、山吹(黄)+清水(泉)=黄泉、つまり死後の世界を暗示していると解釈されています。そして、その死後の世界への道が分からない、と。

 そもそも、なぜ死後の世界を「黄泉」と表現するのか。なぜ黄色なのかも、実は素朴な疑問として感じていました。その答えは分からないのですが、この歌を見ると、黄色→黄泉というイメージが当時の人々の意識の中に確かにあったことは伝わってきます。そういう点でも、"ことの葉"に数えさせていただきました。

 もう一つは、「知らなく」という言い方です。どことなく現代的で目を(耳を?)引いたのですが、調べてみると「知らなく」は結構用例の多い、常套句だったようで、意外でした。
 ただ、
「不知久」(6-990,11-2552など)「之良奈久」(15-3749,17-3892など)といった用字法が多い中で、この歌では全然違う文字を使っています。

道之白

 考えすぎかもしれませんが、「鳴」という文字に、深い山で迷っている時に遠くで鳥が鳴いている、というイメージがぴったり来ます。古墳の埴輪にもあるように、鳥と死は結びつきますし..。

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2004.06.27.

62

「見つ」

『平中物語』第2段

 『平中物語』は、平貞文(891〜923)を主人公とする物語です。『源氏物語』の中にその名が登場する(「末摘花」「若菜(上)」」)ことから、平安前期10世紀半ばには成立していたと考えられています。平貞文は桓武天皇の4世孫という高貴な身分で、左兵衛佐・三河権介、従五位下にまでのぼっていますが、なぜ「平貞文」が「平中」になるのかは実は定かではありません。『尊父文脈』に「号平中」と書かれているので異論はないのですが....。

 さて、『平中物語』は『伊勢物語』同様、主人公の恋愛遍歴を題材としているわけですが、平中には『伊勢』の在原業平のような恋愛カリスマ性はなく、けっこう情けないケースが目立ちます。「『平中物語』は失恋の挿話の集大成である、といってもいい」(中村真一郎『日本古典に見る性と愛』)と断ずる方もおられるほど。
 その中でも最も有名なのが、この
「見つ」の物語でしょうか。

 又、この男の、こりずまに(=性懲りもなく)、言ひみ言はずみある人(=言い寄ったり言い寄らなかったりする相手)ぞ、ありける。かれを「にくし」とは思ひはてぬものから、返り事もせざりければ、「この、奉る文を見たまふものならば、賜はずとも、ただ、「見つ」とばかりは宣へ」とぞ、言ひやりける。

 「お送りした文をご覧になったのならば、お返事はいただけなくても、せめて『見た』とだけでも…」という平中の懇願に、彼女の返事は、

 されば「見つ」とぞ、言ひやりける。

というものだったわけです。

 私も関西ですから、このくらいのネタでは笑えません(^^)が、"平安時代の(もしかして現存最古の)ボケ"と思えば微笑ましくはあるし、何よりシンプルで好感は持てます(もちろん彼女は笑いを取ろうとしたのではないですが)。
 この話は当時から有名だったようで、のち『今昔物語集』にも採られます
(巻30「平定文、本院侍従に仮借(けそう)するこ話第一」)。女性の名前が何の根拠か「本院侍従」(有名な歌人の本院侍従とは別人のようです)という名前となったのはまあご愛敬として、例のエピソードは次のように「変化」していまっています。

 侍従ノ返事ヲダニ不為(セザリ)ケレバ、平中歎キ侘テ、消息ヲ書テ遣タリケルニ、「只、『見ツ』ト許(バカリ)ノ二文字ヲダニ見セ給ヘ」ト、絡(クリ)返シ泣〃クト云フ許ニ書テ遣リタリケル、使ノ、返事ヲ持テ返来タリケレバ、平中、物ニ当テ出会テ、其ノ返事ヲ急ギ取テ見レバ、我ガ消息ニ「「見ツ」ト云フ二文字ヲダニ見セ給ヘ」ト書テ遣タリツル、其ノ「見ツ」ト云フ文字ヲ破リテ、薄様ニ押付テ遣タル也。

 自分の書いた手紙の「見つ」という文字の部分を破って紙に貼って送ってきたというわけです。こういう話にするために、平中の手紙が、『平中物語』では「宣へ」だったのが『今昔』では「文字ダニ見セ給ヘ」に変えられているわけですが、それも含めて私には、過剰演出で笑う気にもなりません(^^;

 なお、『平中物語』ではこのあと、二人の歌の贈答に続いていきます。

(平中)夏のひに 燃ゆる我身のわびしさに みつにひとりの ねをのみぞなく

( 女 )いたづらに たまる涙の みづしあらば これして消てと 見すべき物を

 「みつ(見つ)」を「みづ(水)」にかけて平中は歌を贈り、女はそれを受けて返歌しています。このあたり、単なる失敗談にしてしまわない、貴族らしいなかなか情緒のある物語になっていますね。

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2004.05.30.

61

後の君の曰はまく、『愚かに癡(かたくな)しき婦人(めのこ)、天下に臨(きみとしてのぞ)みて頓にその県(あがた)を亡ぼせり』とのたまはむ。

『日本書紀』推古32年10月朔日条

 『日本書紀』推古天皇32年。聖徳太子こと厩戸皇子はすでに亡くなっていました。かつて厩戸と3頭体制をとっていた推古天皇と蘇我馬子でしたが、厩戸の死によってバランスが崩れたのかどうか、馬子は無理難題を推古にもちかけます。

 馬子は言います。

「葛城県(あがた)は、元臣(やつかれ)が本居(うぶすな)なり。故、其の県に因りて姓(かばね)名を為せり。是を以て、冀(ねが)はくは、常に其の県を得(たまは)りて、臣が封県とせむと欲ふ」

 「葛城県」は「県」とあるように、天皇の直轄地となっていました。地名の通りもともとは葛城氏の本拠地だったと考えられますが、馬子は自分たちの出身でもあると主張し、この地を自分に賜るように奏上したわけです。
 葛城氏と蘇我氏が同じ本拠地であるとか、
「其の県に因りて姓(かばね)名を為せり」=地名に因んで氏の名としたなど、思わず首を傾けたくなりますが、『聖徳太子伝暦』に「蘇我葛木臣」という表現がありで、全くのでたらめではないかもしれません。

 しかし、推古はこれをやんわりと拒否します。

「今朕は蘇何より出でたり。大臣はまた朕が舅(をじ)たり。故、大臣の言をば、夜に言さば夜も明かさず、日に言さば日も晩(くら)さず、何れの辞(こと)をか用ゐざらむ。然るに今朕が世にして、頓(ひたぶる)に是の県を失ひてば、後の君の曰はまく、

 自分は蘇何(蘇我)の出身で、大臣馬子は伯父である。だから、馬子の言葉にはすぐに従ってきたが、今回は従えない。私の時代に易々とこの県を失っては、後の世の天皇にそしられる、と言うわけです。
 そして、今回の"ことの葉"となります。

 『愚かに癡(かたくな)しき婦人(めのこ)、天下に臨(きみとしてのぞ)みて頓にその県(あがた)を亡ぼせり』「つまり愚かな女の天皇が天下を治めていたから大事な直轄地を失ってしまったのだ」と後々言われてしまうではないかと主張しています。
 もちろん、大臣の申し出を断るための方便であるとも考えられますが、それにしても、婦女子が天皇をすることに対する抵抗、揶揄のようなものがあってこその発言であると考えられます。
 現代、女性の社会進出は日本でもようやく進んできましたが、やはり「女のくせに」「これだけら女は」という揶揄は、男女を問わず、まだまだ耳にします。
そういった"逆風"は、どうやらここまで遡ることができそうです

 この時代を、単純に「女性が輝いていた時代」は、ちょっと言えないようです。

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2004.04.25.