最初に、このサイトで藤原道長が出てきたことについての言い訳を(^^;
「平安時代はもう古代じゃない」という考え方もあるのは知っています。文学の世界では、文法の違いなどもあって、奈良(万葉あたり)までを「上古」、平安を「中古」と区別していますし、風俗などでも、唐風全盛の奈良時代と十二単の平安中期はかなり違います。でも、中世と比べるとやはり「古代」として共通している部分の方が多いので、私としては「古代」は平安中期までは含みたいと思っています(10世紀には武士が誕生するなど中世の要素も生まれていますが、都の貴族社会については「古代」でいいと思います)。
さてこの歌は、藤原道長が寛仁2年(1018)10月16日に詠んだものです。場は、彼の三女である威子が後一条天皇の皇后に立てられた日の祝宴。幸福の絶頂であった彼は、宴の酒の勢いもあってか、ライバルであった右大将藤原実資の前でこの歌を披露します。そのやりとりは、実資の日記『小右記』に記されています。
この夜が満月であった(旧暦の16日ですから)のが偶然なのかどうか分かりませんが、道長は絶頂にある自分を満月になぞらえて歌を作ったわけです。内心ムカついていた実資は、やりとりをこと細かく書いています。
太閤(道長)、下官(私=実資)を招き呼びて云はく、
「和歌を読まんと欲す。必ず和す(=返歌する)べし」
といへり。(私)答えて云ふ、
「何ぞ和したてまつらざらんや(=必ず返歌しますよ)」
と。又(道長)云はく、
「誇りたる歌になむ有る、但し宿構(=事前に用意していた)に非ず」
といへり。
この後に、くだんの歌が続きます。
「何ぞ和したてまつらざらんや」と言った時の実資は、どんな顔だったのでしょうか。愛想笑いを浮かべつつ、「け!」(佐々木マキ風(^^;)と思っていたのでしょうねぇ。「宿構に非ず」にしても、「ウソつけ!」といったところでしょう。私もそう思います(^^; 確かにまあ平凡でややくどい気もする歌ですし。
さて、これを受けて返歌しなければならなくなった実資はこう返答します。
余(私=実資)申して云ふ、
「御歌優美なり。酬答に方(すべ)無し。満座只此の御歌を誦すべし。
これもなかなかの明言で、好きです私(^^;
返歌を考えるのもイヤなので、この歌をみんな(満座)で声を揃えて歌いましょう!と主張したわけです(唐の詩人白居易にも同じような例があることを持ち出しています)。
諸卿饗応、余また数度吟詠す。太閤和解、殊には和を責めず。
この時の道長の心境いかばかりといったところです。勘違いして大喜びしたのか、実資の切り返しに苦々しく思ったか..。彼の日記『御堂関白記』は残っていますが、この日の記述の中に歌のことは、やはりと言うべきか(^^;、何も書かれていません。
もう一つ。満月は確かにピークですが、あとは欠けていくだけです。実際、道長や藤原氏の栄華は、このあと斜陽を迎えていくわけで、その意味でも言葉というのは怖いものですね。
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