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今週の"ことの葉"
バックナンバー

No.1→20/No.21→40No.41→60 No.61→

No.1→20もくじ
通番

ことの葉(冒頭部分など一部)

20
月やあらぬ 春や昔の春ならぬ

19
此の世をば 我が世とぞ思ふ

18
倭王は天を以て兄となし 日を以て弟となす

17
日出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す

16
難波津に咲くやこの花

15
や雲立つ 出雲八重垣

14
田居に出で 菜摘む我をぞ

13
今日降る雪の いや頻け吉事

12
寺を造ることは元 汝が父の時より起れり

11
その時に非ずと雖も 事已むこと能わず

10
天下の富を有つは朕なり

富士の高嶺に 雪はふりける

宗我大郎に如くはなし

鞍作 天宗を尽くし滅ぼして日位を傾けむとす

成り成りて成り余れる処
あなにやし えをとこを
来むと言ふも 来ぬ時あるを
東は毛人を制すること五十五国
悪事も一言 善言も一言
憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ 

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20

月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして

『古今和歌集』巻5ー747

 この歌は、『古今和歌集』巻15冒頭におさめられていて、長い詞書があり、歌の詠まれた事情が伝えられています。

五条后の御所の西の対屋に住んでいた女性と、公然とではなく交際を続けていたが、それがどうしたことか一月の十日過ぎに、よそに隠れてしまった。彼女の居所は聞いていたが、文通さえもすることができないでいた。翌年の春のこと、梅の花が盛りで、月が感興をそそった夜、去年のことを恋い慕い、あの西の対に行って、月が西に傾くまで開け放たれた板敷きの間に臥せったあげくに詠んだ歌。

 月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして

 私が好きな在原業平の、中でも大好きな歌です。古くから名歌とされてきましたが、とりわけ難解な歌としても知られています。これまで色々な訳がなされており、しかも自分にはどれもしっくりこないという(^^;

 私が考えた訳は、つぎのようなものです。

月は今夜は出ていないというのか?
この春は昔の春とは違っているか?
わたしのこの身だけが変わっていなくて....(変わったのはあなたではないか!)

※今回、色々と考えてみたのですが、かなりの長文になってしまったので、別コーナー(「スズメ♂の調べてきました」)にupしました。興味のある方はそちらをご参照ください。

 まあ意味ともあれ(^^;、初句と2・3句で繰り返される「…や…ぬ」の係り結びから生まれるリズムが心地良く、特に初句の言い切りの力強さがとても印象的な歌で、言葉の力を感じます。

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2003.03.30.

19

此の世をば我が世とぞ思ふ望月の欠かけたる事も無しと思へば

『小右記』寛仁2年10月16日条

 最初に、このサイトで藤原道長が出てきたことについての言い訳を(^^;

 「平安時代はもう古代じゃない」という考え方もあるのは知っています。文学の世界では、文法の違いなどもあって、奈良(万葉あたり)までを「上古」、平安を「中古」と区別していますし、風俗などでも、唐風全盛の奈良時代と十二単の平安中期はかなり違います。でも、中世と比べるとやはり「古代」として共通している部分の方が多いので、私としては「古代」は平安中期までは含みたいと思っています(10世紀には武士が誕生するなど中世の要素も生まれていますが、都の貴族社会については「古代」でいいと思います)。

 さてこの歌は、藤原道長が寛仁2年(1018)10月16日に詠んだものです。場は、彼の三女である威子が後一条天皇の皇后に立てられた日の祝宴。幸福の絶頂であった彼は、宴の酒の勢いもあってか、ライバルであった右大将藤原実資の前でこの歌を披露します。そのやりとりは、実資の日記『小右記』に記されています。
 この夜が満月であった(旧暦の16日ですから)のが偶然なのかどうか分かりませんが、道長は絶頂にある自分を満月になぞらえて歌を作ったわけです。内心ムカついていた実資は、やりとりをこと細かく書いています。

太閤(道長)、下官(私=実資)を招き呼びて云はく、
 「和歌を読まんと欲す。必ず和す(=返歌する)べし」
といへり。(私)答えて云ふ、
 「何ぞ和したてまつらざらんや(=必ず返歌しますよ)」
と。又(道長)云はく、
 「誇りたる歌になむ有る、但し宿構(=事前に用意していた)に非ず」
といへり。

 この後に、くだんの歌が続きます。

 「何ぞ和したてまつらざらんや」と言った時の実資は、どんな顔だったのでしょうか。愛想笑いを浮かべつつ、「け!」(佐々木マキ風(^^;)と思っていたのでしょうねぇ。「宿構に非ず」にしても、「ウソつけ!」といったところでしょう。私もそう思います(^^; 確かにまあ平凡でややくどい気もする歌ですし。

 さて、これを受けて返歌しなければならなくなった実資はこう返答します。

余(私=実資)申して云ふ、
 「
御歌優美なり。酬答に方(すべ)無し。満座只此の御歌を誦すべし。

 これもなかなかの明言で、好きです私(^^;
 返歌を考えるのもイヤなので、この歌をみんな(満座)で声を揃えて歌いましょう!と主張したわけです(唐の詩人白居易にも同じような例があることを持ち出しています)。

諸卿饗応、余また数度吟詠す。太閤和解、殊には和を責めず。

 この時の道長の心境いかばかりといったところです。勘違いして大喜びしたのか、実資の切り返しに苦々しく思ったか..。彼の日記『御堂関白記』は残っていますが、この日の記述の中に歌のことは、やはりと言うべきか(^^;、何も書かれていません。

 もう一つ。満月は確かにピークですが、あとは欠けていくだけです。実際、道長や藤原氏の栄華は、このあと斜陽を迎えていくわけで、その意味でも言葉というのは怖いものですね。

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2003.03.23.

18

倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴(き)き跏趺(かふ)して坐し、日出ずれば便(すなわ)ち理務を停め、いう我が弟に委ねんと。

『隋書』倭国伝

 前回と同じ『隋書』倭国伝からのご紹介です。
 該当部分は、前回の「日出る処」より前にあります。有名な「日出る処」の遣隋使は607年(隋の大業3年=推古15年)ですが、その前の600年(隋の開皇20年=推古8年)にも倭からの使節が隋にやってきているのです。
 『隋書』倭国伝によると、時の皇帝文帝が使者に倭の風俗をたずねたところ、倭の使者がこのように答えたというのです。

「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、いう我が弟に委ねん」

 王は三兄弟の次男で(そんな歌が前に流行りましたね(^^;;)、長男が天、三男が日(太陽)である、だから倭王は未明に出御して仕事を始め、日が昇ると辞める、というわけです。
 実に面白いというかユニークな世界観です。そこには、記紀に伝える神話(太陽神アマテラスの子孫が天皇家である..)とは微妙に違う、もっと素朴な神話伝承が感じられます。こちらの方が「オリジナル」だったのかもしれません。
 また、古い時代には朝廷の政務は「文字通り」早朝に行われていました。官人たちは日の出前に出勤しなければならない決まりでした(平安中期頃から、逆に夜中心になっていきますが)。これは推古朝当時も同じで、かの憲法十七条にも
「群卿百僚、早く朝(まい)り晏(おそ)く退でよ」と書かれています。これが「日出ずれば便ち理務を停め」と合致するのは偶然ではないと思います。

 が、この世界観は文帝によって頭ごなしに比定されます。

 高祖いわく、「これ大いに義理なし」と。ここにおいて訓えてこれを改めしむ。

 いつの時代も大国は傲慢で、自分たちの世界観を押しつけてきます。まあ、「天子」であるべき皇帝にとって、倭王ごときが「天弟」を名乗られると困るのでしょうが..。もっとも、これに対する回答=次の遣隋使の国書が「日出る処の天子」では、むしろ悪化しているというべきですが。

 なお、この600年の遣隋使は、『日本書紀』に記載がありません。その理由について、単なる欠落なのか、書紀の編者が隠蔽したのか、あるいはこの遣使は推古朝ではない別の勢力によるものであるとか、様々な説が古くから出ています。
 どの説がいいのか俄には判断しかねますが、実は『隋書』でも「倭国伝」と「本紀」では倭の遣使の年次に不一致があり、あれやこれやで遣隋使の回数については3回説から6回説まであって決着していない--つまり問題は600年の遣使だけではない--ということだけ、附記しておきます。


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2003.03.16.

17

日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや。

『隋書』倭国伝


 『隋書』倭国伝に伝える、607年の遣隋使の国書の文言です。あまりにも有名な言葉で、学校で習ったことを覚えている方も多いでしょう。また、現伝する"ことの葉"の中では、前にご紹介した『宋書』倭国伝の倭王武の上表文についで古い部類に入るものです。

 隋の皇帝の煬帝はこれに不快で、「蛮夷の書、無礼なる者あり。復た以て聞するなかれ」という言葉を発しています。かなりのご立腹です。
 煬帝が何に立腹したのか。かつては、
「日出る処」=新興国家日本、「日没する処」=傾いてきていた隋、という対比が問題だったと説明されていたこともあるのですが、最近はこの説明は使われません。「日出る処」云々はむしろ東西を示すのが主であり、問題は「天子」であったと言われています。
 中華思想によれば、世界の中心は中国=隋であり、「天子」はその隋の皇帝のみを指す特別な地位です。「王」とは格が違うわけです。その「天子」を、倭ごとき東夷の野蛮国の王ごときが勝手に自称してきたのですから、これはもう大変です。
 また、
「書を致す」とか「恙なきや」といった言い回しも、下から上へというより対等な姿勢が見えてきます。

 これが、いわゆる「聖徳太子の対等外交」と高く評価されているものです。マンガとかドラマとかも、ほぼそういう前提で描かれているのですが、私は前々からこれに少々疑問があります。
 この国書が無礼なものであるのは確かですが、それは本当に無礼を承知の上での"賭け"だったのか、それとも文字通りの単なる"礼儀知らず"だったのか(^^;、私には俄に決しがたいのです。

 というのも、あとの経過が結構弱気なんです。
 『隋書』によると、この遣隋使の答礼使を日本に迎えたとき、倭王は
「我れ聞く、海西に大隋礼儀の国ありと。故に遣わして朝貢せしむ。我は夷人、海隅に僻在して、礼儀を聞かず」と言ったとあり、やけに殊勝です。また、これに対する日本側の返書の内容が『日本書紀』に記されていますが、そこにも「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」とあり、全然対等の姿勢ではないのです。

 まあ、日本が隋の冊封に入らなかった(朝貢はしたが臣下にはならなかった)のは確かで、その点は朝鮮諸国等とは違うのですが....ね。

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2003.03.09.

16

難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花

『古今和歌集』仮名序


 前回同様、この歌も『古今和歌集』の仮名序にあるものです(やはりなぜか万葉にはありません)。

 この歌は、王仁の作と伝え、手習いの最初のお手本にしたと仮名序に書かれています。
 時代は下りますが、『枕草子』(20段)にも
「とくとく、ただ思ひまはさで、難波津もなにも、ふとおぼえむ言を」とあります。「難波津の歌でも何でもいいから思いつくのを早く早く!」というわけで、難波津の歌は常識中の常識、初歩の初歩の歌だったことがうかがえます。また『源氏物語』(若紫)でも、幼い時の紫の上にことを「まだ難波津をだに、はかばかしう続けはべらざめれば」、つまり「まだ難波津の歌もちゃんと書けない(ほど幼い)」と表現されています。

 より古い時代はというと、平城宮出土の木簡や土器に書かれたものが数点見つかっています。例えばこんな具合です。
  ・
請請解謹解謹解申事解□奈爾波津爾  佐久夜己乃波奈
   (後半が「なにはつに さくやこのはな」です)
  ・
仁彼彼川仁佐(にははつにさ) 仁彼川仁佐久己(にはつさくこ)
 両者では使われている万葉仮名が少し違いますが、これは時代による用字の変化によるものです。この歌は、万葉仮名の練習(習書)に使われていたと考えられています。
 最近では、平成10年に徳島市国府町の観音寺遺跡から、
「奈尓波ツ尓作久矢己乃波奈」と書かれた7世紀末の木簡が発見されましたし、平成13年に藤原宮跡から出土した木簡には
  表 
奈尓皮職職職馬来田評
  裏 
奈尓皮ツ尓佐久矢己乃皮奈泊留己母利□真波々留部止佐久□□□□□□職職
とあり、こちらも7世紀末のものです。この人、「職」の字が苦手なのでしょうか。それとも、就職の願掛け?(^^;

 ところで最後の木簡の用字ですが、このままだと「難波津に咲くやこの花ごもり」になってしまいます。これが間違いなのか、それとも替え歌なのか、専門家の間でも解釈が分かれているようです。
 いずれにせよ、当時の人々に広く愛され口ずさまれた歌と言えるでしょう。

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2003.03.02.

15

や雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣作る その八重垣を

『古今和歌集』仮名序


 この歌は、『古今和歌集』の仮名序に「最初の和歌」として紹介されています。

あらがねの地(地上の話)として、すさのをの命よりぞおこりける。ちはやぶる神世には、歌の文字も定まらず、すなほにして、言の心わきがたりけらし。人の世となりて、すさのをの命よりぞ、三十文字あまり一文字はよみける<すさのをの命は、天照大神のこのかみ(兄)なり。女と住みたまはむとて、出雲の国に宮造りしたまふ時に、その処に八色の雲のたつを見て、よみたまえるなり(略)>

 スサノオを「人の世」というのはどうかとか、兄じゃなくて弟だろうとか、色々と突っ込みたい箇所はあるのですが(^^; この歌が和歌のおこりであるというのは、紀貫之の時代には常識化していたようです。

 『古事記』によれば、この歌は「須賀宮」を作ったとき、そこから雲が立ち上ったので詠んだとされています(『日本書紀』も同じ)。島根県大原郡大東町にある須賀神社は、そんなわけで「和歌発祥の地」とされているようです。

 それでいて、この歌は『万葉集』にはおさめられていません。なぜでしょうね?

や雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣作る その八重垣を

 この冒頭の「や」は、記紀の原文では「夜」です。「八」して「八雲」と訓じられている場合もあるのですが、「や」を「いよいよ」といういう意味として、ひらがなのまま(あえて漢字を当てるなら「弥」)にするテキストもあるようです。

 歌としては、「八重垣」が3回くり返されているリズムが絶妙です。

  ○○○○△ ○△○●●●● 
  △○○○○ ●●●●△○○ 
        ○○●●●●○
             ※△はつ(づ) ●●●●は八重垣

 七音の第2、4、5句すべてに「八重垣」があり、しかも7音の中で「八重垣」という4音の入る位置がみな違うのも微妙な味を出していますし、その前後にくり返される「つ(づ)」の音もリズムを生んでいるように聞こえます(専門的知識なしに適当に「分析」してますので軽く聞き流してくださいね(^^;)。

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2003.02.23.

14

田居(たゐ)に出で 菜摘む我をぞ 君召すと 漁(あさ)り追ひゆく
山城の うち酔
(ゑ)へる子ら 藻葉乾せよ え舟繋けぬ

『口遊』書籍門


 この歌?ですが、ひらがなに直してみるとこうなります。

  たゐにいで なつむわれをぞ きみめすと あさりおひゆく
  やましろの うちゑへるこら もはほせよ えふねかけぬ

 お気付きかと思いますが、これは「いろは歌」と同じように、かな(音)を1回ずつ使って意味が通るように配列したもの("字母歌")です。この「田居に出で」の歌もその一つで、源為憲が著した『口遊(くちずさみ)』という当時(970年成立)の初歩教科書におさめられています(ただし原文は漢字)。

 意味が一応通っていることはスゴイと思うのですが、有名な「いろは歌」に比べると完成度は低いですね。
 また、『口遊』はこの歌を紹介したあと、「今案ずるに、世俗踊に曰く、阿女都千保之曾里女の訛説なり。此の踊勝れりとす」と書いています。「阿女都千保之曾里」とあるのは、「あめつちほしそら」つまり「あめつち」(源順の家集『順集』におさめる)のことをさしていると思います。それよりは優れていると。
 「田居に出で」を引用し、「あめつち」と比べていることからして、『口遊』の頃には「いろは歌」がなかったのでしょう。

 とはいえ、先人の苦労がしのばれます(合掌)

 なお、この『口遊』はとても面白い資料です。「貴族の子弟に要用の諸教材を口に唱えて覚えやすい形に編集」(『国史大事典』)したもので、例えば七高山、十陵といった"ベスト〜"の類、五臓六腑や三界六道・七曜などの名数などがズラリ。三国史・五経・七大寺・八省なんて、1000年の時を越えていまの受験生も全く同じものを覚えてますよー(^^; 
 陰陽道や管弦・雅楽関係から単位の換算や九九もありますし、はては服薬時の願文やら馬が腹痛を起こした時?の呪文なんてのもあります。『續群書類従』930(第32輯上)に収められていますので、興味のある方は図書館などで探してみてください。

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2003.02.16.

13

新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや頻(し)け吉事

『万葉集』巻20−4516


 この歌はいわゆる「万葉最後の歌」になります。
 作者は大伴家持。詞書には、「(天平宝字)三年春正月一日、因幡国庁にして饗(あへ)を国郡の司等に賜ふ宴の歌一首」とあります。元日に国司主催の饗宴を催すのは、令の規定(儀制令)にも合致しているようです。
 歌の内容は、「新しい年のはじめの初春の今日降る雪のように、いよいよ重なるがよい、良いことが。」という、新年の寿ぎの歌です。
 元旦の雪は豊作の予兆と言われていたようです。積雪を豊作の予兆とするのは中国では知られた話で、『詩経』(小雅−信南山)毛伝に「豊年の冬は必ず積雪あり」とあり、それを受けて『文選』の「雪賦」に「尺に盈(み)つるときは則ち瑞を豊年に呈(あらわ)し」とあります。

 ところで、この歌に家持の「失意」を見る解釈が半ば定説のようになっています。彼が因幡守に任じられたのは前年の天平宝字2年6月ですが、その前年に橘奈良麻呂の乱があり、大伴氏からも処罰者が出ていることから、この因幡守任官を左遷と見るわけです。
 しかし、歌そのものを読んだ感じではそういう気が私にはしません。『萬葉集評釈』は、「此の歌は新国守にふさわしい明解な作で、何らの陰影も帯びていない」としています。従来の「失意」説をふまえて、それに異を唱えているのでしょう。私も同感です。
 確かに、兵部大輔という要職から、上国とはいえ地方官への任命は本意ではなかったでしょう。奈良麻呂の事件での同族の検挙の記憶もあったでしょう。でも、この歌の中にそういった鬱屈した思いを読みとるのは、どうも先入観のような気がします。むしろ、「これから!これから!」という切り替えのようなものを感じなくもないです。

 実は最初に引用した『文選』の「尺に盈つるときは則ち瑞を豊年に呈し」には続きがあり、「丈に袤(あが)るときは則ちわざわいを陰徳に表す」(一丈に上る時には陰気が陽気に打ち勝って災いを生ずることがある)と言っているのです(^^; あまり積もりすぎても問題なんですね。家持のこのあとの人生を考えると、「いや頻け」が積もりすぎたのかな、という気がしなくもないです。

 ご参照→http://homepage3.nifty.com/osuzume/oldquiz/kakomon1.htm#Anchor329221 

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2003.02.09.

12

「また寺を造ることは元、汝が父の時より起れり。今、人の憂といふ。その言に似ず」ととふ。是に奈良麻呂、辞(ことば)(つま)りて服(つみにしたが)ふ。

『続日本紀』天平宝字元年7月4日


 この場面、いわゆる「橘奈良麻呂の乱」です。

 時に天平勝宝9年=天平宝字元年(757)6月、当時政権を固めつつあった藤原仲麻呂に反発するグループの謀反計画が発覚します。首謀者は、前政権の首班だった左大臣橘諸兄の子、奈良麻呂でした。

 さて、ここは彼に対する尋問の場面です。謀反の理由を尋ねられた奈良麻呂は、現政権が「東大寺を造りて、人民苦び辛む」ことなどをあげたのですが、それに対して、「東大寺造営は、オマエの父親が始めた事業じゃないか」という、あまりにもごもっともな反論(というか"突っ込み"(^^;)で..。私、奈良麻呂クンのこの大ボケ具合が大好きだったりします。
 また、大仏造営が重荷であったのは、当時すでに衆目の一致するところだったこともよく分かります。

 なお、橘氏はごく新しい氏族です。奈良麻呂の祖母、諸兄の母である県犬養三千代が、和銅元年(708)11月、元明天皇からその忠誠を賞され、橘を浮かべた杯を賜り、「橘宿禰」を与えられたのが始まりです(のち「朝臣」)。

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2003.02.02.

11

朕意(おも)ふ所有るに縁りて、今月の末暫く関東に往かむ。その時に非ずと雖も、事已むこと能わず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず

『続日本紀』天平12年10月26日


 古代における「関東」の「関」は、不破(東山道)・鈴鹿(東海道)・愛発(北陸道)より東を指します。この史料の場合、聖武はこのあと伊勢国へ行幸しグルっと回って近江方面へ戻ってきますので、鈴鹿か不破ということになるでしょう。

 時期は九州で藤原広嗣の乱の真っ最中です。ただし、今にも都へ攻め上って来るという切迫した状況ではありません(むしろ収束方向だったようです)。危険だから東国へ避難するというわけではないので、謎の行動とされてきました。
 私としては、聖武は乱による軽いパニックを起こしたのではないかと考えてきました。伊勢行幸はまあ先勝祈願でしょうが、それにしてはウロつきすぎだし、平城京にも戻ろうとしていませんし。

 ところで、昨年夏(新聞発表は8月初め)、滋賀県大津市の膳所城下町遺跡で、奈良時代中頃の大規模な宮殿跡が見つかり、この時(天平12年)の聖武の行幸地の一つ、禾津頓宮であろうと発表されました。頓宮跡の遺構の発見そのものが初めてのことらしいのですが、想像以上にしっかりとしたもので、大きな話題になりました。
ところで、滋賀県教育委員会の報告は、「これまで聖武天皇の天平12年の行幸に関しては、動乱に対する避難等の評価が多かったが、今回の頓宮と見られる大型建物の発見により、行幸は消極的な意味合いのものではなく、旧勢力間の対立の渦巻く平城京を捨て、天皇の治世の理想を具体化するために恭仁京への遷都を断行することを前提に、周到に準備された行動と解すことが可能となる」と述べています。(「天皇の治世の理想を具体化」というのは、彼のこの行幸が天武天皇の壬申の乱における行動と重なる部分が多いことによります)。

 「ホンマかいな」というのが、私の正直な感想です(^^;
 この勅を見ると、「思うところがあって」だの「適切な時期ではないが」だの「驚いたり怪んだりしないように」だの、気弱な言い訳めいた言葉が並んでいます。そこからは、おどおどと困惑している聖武の顔しか浮かびません(だからある意味、このセリフは好きです)。とても「治世の理想を具体化」とは思えないんですが....。

 それにしても、天皇が動くと「行幸」となり「頓宮」が造られるわけで、それが予想を超えて本格的というのも大変なこと。聖武クンには、そのへんのことを自覚してほしいものですね。

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2003.01.26.

10

それ、天下の富を有(たも)つは朕なり。天下の勢を有つは朕なり。この富と勢とを以てこの尊き像を造らむ。事成り易く、心至り難し。

『続日本紀』天平15年10月15日


 今回は、「ガッコで習った」という暗い?記憶のある方もおられたかも。そういえばセンターテストの真っ最中ですね(^^; 受験生ならよくご存じの、聖武天皇の「大仏造立の詔」の一部です。

 それにしても、本人に悪気はないと思うのですが(笑)、なんとも横柄な物言いです。「天下の富も権勢も朕が持っている。そんな朕が建権力に任せて大仏を作るのは簡単だが、それでは願掛けにならない」。そこには、一応完成された律令国家--中央集権国家の絶大な権力を手にした天皇の実感がこもっています。
 当時の日本の人口は約600万人と言われています。そこから集められたさまざまな税は、ほぼきちんと都に集められ、国家と等しい存在である天皇がそれを左右する権利を持っていました。また、軍隊は全国の農民から徴集された兵士によって編成される壮大なもので、奈良平安初期において、天皇を敵に回して勝った例はありません(例外は上皇であった孝謙くらいでしょうか)。

 しかし、その絶大な力は、大仏を作るためのものではなかったはずです。
 律令国家は、まずは隋唐という巨大な国家への対抗のために必要となり、特に663年の白村江の敗戦後の軍事的緊張と危機感の中で急速に確立していった「軍政」です(そのための「防人」です)。
 対外的には平和な時代(では必ずしもないのですが)に生まれ、天皇になった聖武。手にした権力の大きさが分かっていないのか、分かっているけど使いこなせないのか。祖父藤原不比等や天武・天智がこの言葉を聞いたら、どんな反応をするだろうかと考えると、苦笑するしかありません。

 なお、この直後はこう続きます。

但恐るらくは、徒に人を労(つから)すことのみ有りて能く聖に感(かま)くること無く、或るは誹謗を生して反りて罪辜に堕さむことを。

 「ただ徒に人々を苦労させることがあっては、この仕事の神聖な意義を感じることができなくなり、あるいはそしりを生じて、却って罪におちいることを恐れる。」----なんか、あなたが恐れていた通りになってませんか?聖武クン。

 昨年12月10日、滋賀県信楽町黄瀬の鍛冶屋敷遺跡で、奈良時代の大規模な鋳銅工房跡が確認されたと奈良県教委から発表され、大きく報じられました。溶解炉と鋳込み場のセットが13基という大規模なもので、仏像台座の鋳型も見つかり、大仏ができる予定だった甲賀寺に銅製品を供給する官営の大工房だったようです。

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2003.01.19.

田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 富士の高嶺に 雪はふりける

『万葉集』3−318


 お正月の風物にも色々ありますが、「百人一首かるた」もそのひとつではないでしょうか。今年はNHKがドラマを作ったり教育テレビの趣味悠々でやったりと、なぜか力入れているようですが..。

 いわゆる「小倉百人一首」は、平安末鎌倉初の藤原定家の採録によるものです。当然、彼及び彼の時代の好みで選ばれているわけですが、選択だけでなく歌そのものも万葉のものとは語句が違っている場合があります。
 違っているということでよく知られているのは、有名な持統天皇の「春すぎて」の歌と、この山部赤人の「田子の浦」の歌でしょうか。
 持統の歌の方は、以前の「古代史クイズ」で出題してしまったので(→クリックで別ウィンドウに表示します)、今回は赤人の歌の方を取り上げました。

 なお、クイズ的には、「ま白にそ」の「そ」(ぞ)が強調の係助詞ですから、係り結びの結びがふつうは必要で、「ふりける」(終止形は「けり」、その連体形)が正解です。

 新古今集=百人一首の方は、「田子の浦に うち出てみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」となっています。「田子の浦ゆ」と「田子の浦に」の差は見逃しますが(^^; 「雪はふりつつ」と「雪はふりける」では意味がかなり違います。
 前者は、いままさに雪が降り積もっているところだ、という意味になります。一方、後者では、(富士の頂が「ま白」だから)きっと雪が降り積もったのだなあという意味になり、情景が異なります。
 田子の浦あたりから見上げた富士山がどのようなものか、実際に見たわけではないので断言は避けますが、富士山の頂上に「いま雪が降っている」のが、下から確認できるのかどうか、私には疑問です(^_^; 富士山は、近くでみると余計に遥か高くそびえ立っているからです。
 一方、山頂の積雪を見て雪が降ったのだなぁと思う万葉の表現なら、情景として無理もなくよく分かります。
 新古今時代の都人は、おそらく本物の富士山を見たことはないでしょう。新古今の「雪は降りつつ」は、実際の景色を見ての感慨ではなく、パターン認識というか、頭の中で作ったイメージっぽく感じます。

 だから私は万葉が好きなんですねど、ね。

 持統の時にも書いたのですが、最近よく耳にする昔のヒット曲のリメイクに似ている気がします。もとの曲を知っている者から言わせてもらえば、ほぼ例外なくオリジナルの方がいいですから..。

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2003.01.12.

旻法師....因りて大臣に語りて云ふ、「吾が堂に入る者、宗我大郎に如(し)くはなし。....」

『藤原氏家伝上』


 先週の"ことの葉"と対になっていると思うのがこの言葉です。

 出典は『藤原氏家伝』(『家伝』)。その名の通り、藤原氏の家の伝記です。その「上」は藤原鎌足の伝記で、別名「大織冠伝」といい、著者は藤原仲麻呂とされています。成立は奈良時代の天平宝字4年(760)頃と認められています(ちなみに「下」は藤原武智麻呂の伝記)。よって、ここに「大臣」と書かれているのは、藤原鎌足のことです。
 こういう性格の史料なので、内容は鎌足の顕彰の色合いが強く、丸ごと信じるわけにはいきません。ただ、それは日本書紀も同様。むしろ書紀が伝えない内容が残されている可能性があり、成立も古いためにそこそこ信頼されている史料です。

 この箇所は、鎌足が僧旻のところで学んでいた時のエピソードです。旻は遣隋使として中国に渡り、帰国後はその文化を伝え、のちに国博士として大化改新のブレインとなる人物です。その彼は、鎌足に向かって宗我大郎=蘇我入鹿への評価を口にします。「私のところで学んでいる人物の中の誰も入鹿には及ばない」、つまり彼がナンバーワンだというわけです。(「如くはなし」=「如かず」で、「及ばない」の意味です。「百聞は一見に如かず」の「如かず」ですね)
 もっとも、このセリフのすぐ後は、

但し、公(あなた=鎌足)の神識奇相、実に此の人に勝れり。

となっており、入鹿を誉めると同時に鎌足も持ち上げる内容になっています。まあ、鎌足の伝記なのですからムリもないのですが..。
 ですから、この「宗我大郎に如(し)くはなし」にも、潤色や誇張がないとは言えません。しかし、なんの根拠もなくこういうことを書くとも思えません。少なくとも、入鹿が野心と暴挙だけの人物ではなく、当時秀でた人物と思われていたことは確かでしょう。
 基本的に入鹿親子を悪し様に書いている書紀にも、入鹿が政治をするようになって治安が良くなったことがしぶしぶ(?)書かれています(皇極元年正月15日条)。

 ところで、「大郎」は「太郎」と同じで長男であったことによる呼び名だと思うのですが、彼には弟や妹はいなかったのでしょうか。また、大臣の職務を行えたわけですからそこそこの年令だったと思うのですが、子どもはいなかったのでしょうか。その辺りのことが、書紀にも家伝にも全然書かれていないのがちょっと不思議です。

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2003.01.05.

「鞍作、天宗を尽くし滅ぼして、日位を傾けむとす。豈(あに)天孫を以て鞍作に代へむや。」

『日本書紀』皇極4年6月8日


 世にいう「大化改新」の始まり、乙巳の変という名のクーデター、天皇の現前での蘇我入鹿暗殺のときの中大兄皇子の言葉です。

 「鞍作」は蘇我入鹿の別名です。この箇所の直後に、「蘇我入鹿、更(また)の名は鞍作」という本注があります。皇極元年正月条にもほぼ同じ本注がありますし、皇極3年6月朔日条にも「蘇我鞍作」という表記がなされています。
 入鹿に別名があるというのは意外な感じがするかもしれませんが、この時代、けっこう別名を知られている人物が書紀に見えます。例えば大伴長徳は「馬飼」(孝徳即位前紀)、蘇我日向は「身刺」(大化5年3月17日)、高田根麻呂は「八掬脛(やつかはぎ)」(白雉4年5月12日)という別名を持っています。記録されてはいないものの、他にも別名を持っている人物は結構いたのではないでしょうか。
 また、「入鹿」という名前が後世になって付けられた(それも悪意をもって)ものであるという、かなり知られた説もありますが、私には疑問です。動物名をもつ人物はけっこういますし、ズバリ「入鹿」という人名も他に見られたはずです。
 なお蘇我入鹿は、「宗我大郎」とか「林大臣」という呼び方もされています。

 それはともかく、中大兄皇子は入鹿をこのように断罪しました。要は、天皇家にとって変わろうとしている、と言いたかったようです。「天宗」「日位」といったあまり見かけない用語を使っていたり、「豈(あに)..や」という反語表現を使ったりと、かなり漢文的で、中大兄皇子が発した言葉そのままとは思えませんが..。
 この断罪が冤罪なのかどうか。書紀は蝦夷・入鹿父子を極悪な存在として強調していますが、そこにはかなりの虚飾が感じられます。しかし、まったくの冤罪とも思えません。
 当時、強大な唐帝国の登場により、東アジアには緊張が走っていました。百済では国王である義慈王が自らクーデターを敢行して権力を強化していました。一方高句麗では、宰相の泉蓋蘇文が国王らを暗殺、傀儡政権を立てて政権を掌握していました。こうした動きを、入鹿も中大兄も知っていたでしょう。入鹿は泉蓋蘇文を、中大兄は義慈王を、それぞれ強く意識し目指していたような気がしてならないのです。
 中大兄のこのセリフから、逆に志半ばにして殺された入鹿の無念が伝わってきます。

 なお、このセリフの前に、斬りつけられた入鹿が天皇(皇極)にすがったセリフが書かれています。

「当に嗣位(ひつぎのくらい)に居すべきは、天子なり。臣、罪を知らず。乞ふ、垂審察(あらためたま)へ」

 でも、あの入鹿がこの期に及んでこんなセリフを吐いたようには思えないんです、私(^^;

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2002.12.22.

6

ここに伊邪那岐(イザナギ)命、詔(みことのり)たまはく、「我が身は成り成りて成り余れる処一処あり。故、この吾が身の成り余れる処をもちて、汝が身の成り合わざる処にさし塞ぎて、国土を生み成さむと以為(おも)ふ。生むこと奈何(いかに)。」と....

『古事記』神代巻

 前回に引き続き、ご存じ伊邪那岐・伊邪那美の、結婚の場面の言葉です(順序的には、先週の箇所より前になりますが..。もっともそれは『古事記』の場合で、『日本書紀』は逆順になっています)。

 古代は「性」に対して開放的というか陽気というか、あっけらかんとしたところがある、とはよく言われることです。ただ、それは性交の描写が多いというわけではないので、邪(よこしま)な期待で記紀を読んでも失望するだけです(^^; 隠微なものとして秘匿しようとするから隠微なのですから..。

 さて、この場面はズバリ「性交」の神話的表現になっています。しかもきわめて即物的。
 「成り余れる」「成り合わざる」が抽象的な概念ではないことは、「さし塞ぎて」という表現で分かります。ただ、「それだけ」では性交=生殖活動は完成しないのは明かですから、決して行為の描写そのものでもなきく、ある程度は抽象化(シンボル化)されているのも確かです。
 しかし、日本書紀と比べると、古事記の表現の素朴さは際立ちます。

陽神の曰く、「吾が身にまた雄の元といふ処有り。吾が身の元の処を以て、汝が身の元の処に合わせむと思欲ふ」とのたまふ。

 ここでは、「雄の元」という表現になっていて、かなり抽象的です(一方の女性の方は「雌の元」とされています)。それを「合わせ」るというのは、性交というよりも「陰と陽の合一」的な、思想的な表現になっているように思えます。
 先週も触れましたが、書紀にはいくつかの別伝=一書が収められています。そのうち、古事記に非常に近いと言われている第一の一書には、

陽神の曰く、「吾が身にまた具(な)り成りて、陽の元と称する者一処有り(以下略)

とあり、書紀本文と古事記の中間的な表現になっているのが興味深いです。

 まあ、ここまで厳密に調べたのは今回が初めてですが、この古事記のストレートな表現は素朴で好きです。変な知識や思想、あるいはそれに名を借りた「言い訳」じみたものがないからです。
 なお、古事記にある最後の「生むこと奈何(いかに)」という、相手の同意を求める言葉もいいですね。書紀には、本文にもどの一書にも、この言葉はありません..。

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2002.12.15.

伊邪那美(イザナミ)命、先に「あなにやし、えをとこを。」と言ひ、後に伊邪那岐(イザナギ)命、「あなにやし、えをとめを。」と言ひ…

『古事記』神代巻

 ご存じ伊邪那岐・伊邪那美の、結婚の場面の言葉です。

 ここはいわば「プロポーズ」の箇所。「あなにやし、えをとこを」つまり「あらまあ!いいオトコ(^_^)」といったところで、先に女性である伊邪那美が「告白」し、ついで伊邪那岐が「あなにやし、えをとめを」と言います。
 ところが、このあと産まれた2子、水蛭子と淡島は「良からず」と否定されてしまいます。そして、その理由を天つ神の命に尋ねたところ、女が先に言ったのがいけないとされ、改めてプロポーズのやり直しをして、淡路島以降の日本列島を産んでいくことになります。

 女性が先に告げたのがダメというのは、男性優位、夫唱婦随の儒教倫理的でしょう。ジェンダーと言ってもいいかもしれません。ただ、この次の段階(高天原)の神話の中心神が天照大神という女神であることからしても、古代日本がもともとから男性中心思想一本だったとは考えられませんから、中国から伝わってきた儒教倫理が、古事記編纂の段階ですでに浸透してきているのでしょう。

 『日本書紀』を見てみると、さらに話はキツくなってます。イザナミが「あなうれしや。美(うま)し少男(おとこ)に遇(あ)ひぬること」と言うと、イザナギはすぐ不機嫌になり、「吾はこれ男子なり。理(ことわり)まさに先ず唱ふべし。如何ぞ婦人にして、かえりて言先つや。事既に不祥(さがな)し。以て改めて旋るべし」と、それこそジェンダーガチガチの(^^;セリフです。天の神の指示をあおぐ必要もなく、問答無用と言いたげな断言の仕方です。古事記より「進んで」ますね。
 もっとも、これは書紀の本文=公式見解です。書紀の神代巻は、「一書」としていくつかの別伝をおさめています。この箇所についても10もの別伝を掲載していて、その中には古事記とほぼ同じ内容のものもあるのですが、最後の「一書」が面白いので、ご紹介しておきます。

陰神(めかみ)先づ唱えて曰く、「あなにゑや、えをとこを」とのたまふ。便(すなわ)ち陽神(をかみ)の手を握(と)りて、遂に為夫婦して、淡路洲を生む。次に蛭児。

 女神が一方的に告白して、男の返事すら待たずに手を握って(ひっぱって?)ズンズンと事を進めてしまうという、なんとも豪快なお方(^^; こちらの方が古い神話の形を伝えているのではないかという説があるようです。
 あとで出てくる黄泉の国での出来事におけるイザナミとイザナギの行動パターンからしても、書紀の本文のような「亭主関白」より、こっちの「かかあ天下」の方が合っている気がするのですが....。

 ところで、「をとめ」と対になる言葉は「をとこ」です。「をと」が語幹で、「め(女)」と「こ(子)」が対になっています。「ひめ」「ひこ」と同じパターンですね。「をのこ」対になる言葉は「めのこ」です。こちらは「のこ」が共通の語尾で、「を」と「め」が対になるわけです。

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2002.12.08.

来むと言ふも 来ぬ時あるを 来じと言ふを 来むとは待たじ 来じと言ふものを

『万葉集』巻4−527

 万葉を代表する女性歌人、大伴坂上郎女の歌です。もちろん相聞歌で、歌を贈った相手は、藤原四兄弟の末弟、藤原麻呂です。

 それにしても、学校で古典文法の教材にすればいいような(^^;「来」のくり返しです。和語で読んでみてもリズミカルで好きなのですが、実はもとの漢字表記も縦横に対句をなしています。

将来云毛 不来時有乎
不来云毛 将来常者不待
     不来云物乎

 果たして坂上郎女自身がこのように書いたのか、万葉の編者の教養によるものなのか。断定はできないのでしょうが、いずれにしても見事なものです。
 またこの歌は、五七調という面からもきれいな形をしています。対になった2つの「五七」を対比して、リズム的にも意味的にも一度閉じたあと、そっと出てくる最後の「七」が非常に効果的です。

 さて、技法的なことはこれくらいにして内容ですが、これは素直に読んでいいでしょう。「来ないと言うのだから期待はしません。来ないと言うのですから…」と。
 ただ、最後のニュアンスを「でもやっぱり待っているのよ..
(;_;)」と読むか、「待ちませんよ!(-"-)」と読むかは、好みの問題でしょうか。

 この歌は、麻呂から贈られた歌への返歌の中にあるのですが、麻呂からの歌というのが3首(4-522〜524)ともみな同じように「しばらく会っていない、会いたいなぁ」という趣旨のもの。ただ、「会いに行く」というニュアンスは全然ありません。
 これに対して郎女の歌は4首。うち3首(4-525、526、528)は、いずれも「あなたが来るのを待っています」という趣旨のものです。これらでバランスは取れているのですが、その中にあえてこの「来むと言うも」の歌がはさみ込まれているのです。
 「会いに行きたいけどぉ〜」とウダウダ言う恋人に、「いつまでもお待ちしていますよ」と美しい歌を贈りつつ、その中に混ぜられた「来」のオンパレード....。そこに込められているのは、ぐっと押さえられた切ない想いでしょうか?それともプン!とすねたふくれっ面でしょうか?
(^_^;

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2002.12.01.

東は毛人を制すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国

『宋書』倭国伝

 この句は、『宋書倭国伝』におさめられている倭王武の上表文の一節です。
 倭王武は、いわゆる「倭の五王」の一人。「倭の五王」は、五世紀にあいついで王位についた倭の五人の王(讃・珍・済・興・武)で、いずれも中国(南朝)に献使して冊封(具体的には爵位)を求めました。ちなみに倭王武が最終的に得たのは、「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」という実に長い長い爵位。現代的感覚ではギャグ的ですらありますが、古代人の言語感覚(言霊)では真剣そのものなのでしょう。

 倭王武が478年に南朝(宋)に献使した際、有名な上表文を奉っています。高い爵位を求めてアッピールするためですが、その中にこの一節があります。冒頭で、「昔より祖彌(そでい)躬(みず)から甲冑をつらぬき、山川を跋渉(ばっしょう)して寧処に遑(いとま)あらず」、つまり「昔から私の祖先は自ら甲冑を着け、山を越え川を渡って各地で戦い、休む暇もありませんでした」と先祖の国土平定の努力を誇示しています。それに続くのがこの句で、平定した国々を数え上げている、というわけです。
 東方の人々をさす「毛人」は、のち(書紀以降)には「エミシ」と読んだようで、「蝦夷」とも書いて、東国人をさしていたものと考えられます。その言葉が、五世紀の中国の史書にも出てくるのは興味深いことです。
 一方の西方ですが、上表では「衆夷」です。こちらはのちには「熊襲(くまそ)」「隼人(はやと)」と呼ばれていて、一致しません。問題は「渡りて海北」で、これが朝鮮半島をさすのかどうかです。北陸など日本海沿岸ではないかという解釈もあり、断言できません。

 面白いのは、ずっと後の『隋書倭国伝』で、倭国の政治制度の説明がなされている箇所があり、ご存じ冠位十二階も紹介されているのですが、その直後に「軍尼百二十人あり」という記述があります。「軍尼」は「クニ」でしょうから、国造(くにみやつこ)のような地方官のことをさしているのでしょうが、その数120が、宋書倭国伝の東55と西66の合計121とほぼ同じなのです。これは偶然なのでしょうか?

 なお、この上表文はおそらく「現存最古」の「ことの葉」です。

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2002.11.24.

吾は悪事も一言、善言も一言、言い離つ神、葛城の一言主大神ぞ。

『古事記』下巻雄略天皇段

 ある時、雄略天皇(大長谷若建命)が百官とともに葛城山に登ると、向こうの尾根伝いにこちらと全く同じ姿をした一行が現れます。そこで天皇が「君主である私と同じようにするのは誰だ?」と問いかけると同じように答える。怒って一行揃って矢をつがえると、相手も全く同じことをする。そこで、天皇は「ではお互いに名乗ろう」というと、相手がようやく答えます。それがこのセリフです。
 わるいことも良いことも一言で言い放つ、というのは、この神が一言いいはなったことは(善悪に限らず)その通りになる、という意味でしょう(現在奈良にある一言主神社では、「一言だけ願うと叶う」と伝えられているようですが、かなり庶民的に解釈されたものだと思います)。託宣というか、言霊というか、その力が特に強い神なのでしょうか。

 それにしても、気味の悪い話です。山中で自分たちと同じ姿をした一行に出会い、言葉も行動も同じことをするというのはかなり不気味で、「遠野物語」を彷彿とさせる場面です。本来、実体を持たない「神」が姿をなす時には、このような「技」を使うのでしょうか。天皇はこのセリフを聞いて畏まり、武器をおさめ、百官の衣服を脱がせて献上させるのですが、ムリもありません。
 このセリフには、そうした神の威勢というか、神々しさというか、言葉のもつ重さというか、そういったきわめて「古代的」な世界を感じます。

 なお、同じ場面は『日本書紀』(雄略4年2月)にもありますが、話が大きく変えられています。天皇は百官を引き連れておらず(省略?それとも一人で??)、相手は「面貌容儀」が「相似」していて、さらに天皇は相手が神であるとなぜか知っており、しかも名乗り合ったあとは一緒に馬を並べて狩りをするのです。
 なぜこんな話になってしまうのでしょう。どうせ、天皇の権威を神に並べようという作戦なんでしょうが、興ざめきわまりないですね。

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2002.11.17.

憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむそ

『万葉集』巻3−337

 題詞に「山上憶良臣の宴を罷めし歌一首」とある通り、素直に読んでいいでしょう。「らむ」のくり返しによるリズム感は心地よく、大好きな歌の一つです。「憶良らは」と、自分の名前を直接歌に詠み込んでいるのも珍しく、宴席で彼がこの言葉(歌)を発した場面が鮮やかに浮かび上がります。

 ところで、彼は子と「その母」つまり妻と、どちらにより強く「引かれて」退出するのでしょうか。一般には「子」とされていますが(彼の子どもへの愛は有名ですから)、私には「その母」に思えます。子が泣くというのは、「その母」へつなぐための前置きというか、口実というか..。「子どもがいますんで。ええ、お母ちゃんも大変ですし」と照れながら座を外すのですが、本心は「早く帰ってカミさんの顔が見たいなぁ」というのではないかと..(^^;

 なお、前後の歌がいずれも大伴旅人を中心とする大宰府での歌であることから、この歌も同じ頃に大宰府での宴席で詠われたと考えられれています。とすると、当時彼はすでに70歳前後となり、その彼に「子泣くらむ」はおかしいという解釈があります。あるいはこれより過去の歌が挿入されているのかもしれません。が、憶良のホンネが私の思うようであったなら、70歳でも構わないというか、その方が、「おいおい、いくつになるんだアンタの子どもは?」「要はカミさんとこに帰りたいんだろ!」という旅人たちのツッコミが聞こえてきそうで楽しいのですが、いかがでしょう。

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2002.11.10.