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今週の"ことの葉"
バックナンバー

No.1→20/No.21→40/No.41→ No.61→

No.21→40 もくじ
通番

ことの葉(冒頭部分など一部)

40
願はくは 妾をな見たまひそ

39
もしそなはらば なぞしも

38
火中に立ちて 問ひし君はも

37
春はあけぼの!

36
男もすなる日記といふものを

35
夜の衣をかへしてぞきる

34
あが手と着けろ これの針持し

33
父母が頭かき撫で幸くあれて

32
馬声蜂音(いぶ)せくもあるか
31 夏痩せに良しといふ物そ鰻取り食せ
30 池田の朝臣が鼻の上を掘れ
29 我が恋力記し集め
28 ふるべゆらゆらとふるべ
27 歌枕見て参れ
26 政事は常の祀小事は今の帝行ひ給へ
25 野守は見ずや君が袖振る
24 人妻ゆえに吾恋めやも
23 帝后立ちたまふべきものならばこの矢あたれ
22 虎に翼を着けて放てり
21 夢かうつつか寝てかさめてか

40

願はくは、妾をな見たまひそ。

『古事記』上巻

 「天孫降臨」したニニギノミコトの子のホヲリノミコト(山幸彦)は、色々あって(^^; 海神の娘トヨタマヒメと結婚し、地上に伴います。そして出産にあたり、「他世界の人は、子どもを産む時には本国での姿になって産みます。ですから、

(あれ)今、本の身をもちて産まむとす。願はくは、妾をな見たまひそ。

私もからもとの姿になって産むので、私を見ないでください」と願って、産屋でお産をします。
 夫はしかし、約束を守れず、

その産まむとするを窺伺(かきま)みたまへば、八尋鮫(ワニ)に化りて、匍匐(は)ひ委蛇(もこよ)ひき。

 これを見て、山幸彦は驚いて逃げてしまいます。それを知ったトヨタマヒメは、「自分は海から夫の元へ通おうと思っていたのに…」と、海神の国との境界を塞いで海へ帰ってしまったということです。あれあれ(^^;

 トヨタマヒメを知らない方でも、"このパターン"はご存じではないかと思います。

 「見ないでね」と言われているのに、見なければ何事も起こらないのに、ついのぞき見してしまって、大切なモノを失う、恐ろしい目に遭う、という"パターン"です。
 同じ『古事記』でも、イザナギが黄泉の国でイザナミの姿を見てしまい、イザナミの復活はご破算になったばかりか却って追いかけられ命からがら逃げるハメになっています。
 また時代は少し下りますが(中巻)、垂仁天皇の皇子ホムチワケは、出雲で美女ヒナガヒメと契ったものの、よく見ると蛇だったので逃げ出し、ヒナガヒメに船で追いかけられてます(^^;

 類似の話は、『今昔物語集』や『◯◯◯◯』に見えるらしいです。定番ですね。「夕鶴」は、最も新しい例でしょうか。また、もちろん日本に限るものでなく、西洋や中国にもあるようです。

 ところで、「八尋鮫(ワニ)」ですが、「鮫」は原文では「和邇」となっています。古い時代には、サメ(鮫)のことを「ワニ」と言ったらしいというのが通説です。例の「因幡の白兎」神話も同様で、山陰地方には今もサメのことを「ワニ」という地方があるそうです。
 でも、個人的には「ホントかな?」と思うんですが..。いえ、ホントのワニ(クロコダイル)が日本にいたというつもりはないのですが、もっと別の動物(あるいは架空の)ではないかという気がするんです。何となくですが。

 なお、『日本書紀』は、ワニではなく竜だったとしています。そんな系統の神話がホントにあったのでしょうか?怪しいです。天皇の祖先がワニの子では体裁が悪いということで、改ざんしたのではないか、という疑っています。

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2003.08.24.

39

むら草に 草の名はもし備(そな)はらば なぞしも花の咲くに咲くらむ

『俊頼髄脳』14

 この歌の特徴は、「回文歌」であることです。

  むらくさにくさのなはしもそなは→ら
  むらくさにくさのなはもしそなは←↓

 回文歌は、中世以降そこそこ知られているのですが、この歌はどうやら現存最古のものらしく(河出書房『ことば読本 ことば遊び』に従います)、また出来も良いように思います。

 ただし、時代は「ギリギリ古代」かな(^^;
 これを伝えている史料は、『俊頼髄脳』という歌学書で、著者は源俊頼。彼が、時の関白であった藤原忠実の依頼で、その娘(のちの高陽院泰子)の后がね教育のため、天永2年(1111)から永久2年(1114)の間に述作してものです(『国史大辞典』)。いわば、歌を作るための心得書みたいなもので、そのなかに、こんな歌もあるんだよ」と紹介されています。
(『俊頼髄脳』は、小学館の古典文学全集に収められています。また『俊頼口伝集』とも呼ばれており、『群書類従』--続々編の巻15-181頁--にはこの書名で収めています)。

 で、この歌の作者は、『俊頼髄脳』には「摂論尼」とか「抄論后」と記されています。おそらくは筆写されていくうちに似ている字(「摂」と「抄」、「尼」と「后」)が入れ替わってしまったのでしょうが、いずれにせよ意味不明で、実在の誰にあたるかは不明とされています。
 まあ、「后」にせよ「尼」にせよ女性のようですが、源俊頼が『俊頼髄脳』を書いたのと同時代の人か、あるいはそれより古い時代のものでしょう。あるいは、俊頼の頃にはすでに「伝説化」していて、作者の名前も不正確にしか伝わっていなかったのかもしれません。とすれば、いよいよ作られた時代は「古代」になっていきます。

 なお、他の回文歌の例を見ると、神社や寺院へ奉納されている場合が見られます。こういう歌ができるのは、ある種の超常現象、めでたいことと受け止められていたのでしょう。

 ところで、この歌に限りませんが、これが回文として成り立つためには、音の清濁を無視しなけれななりません。例えば、この歌なら「なぞ」が「なそ」、「そなはらば」が「そなはらは」でなければ回文になりません。
 ご存じのように、平安以降のかな表記では濁音の表記がないため、古代には濁音がなかったという説もあったそうですが、さすがにそれは無かった(つまり濁音はちゃんとあった)ことが、万葉仮名の研究で証明されています。ですから、古代であっても、回文で清濁を無視しているのは、「周知の無理」「了解済みのルール」だったようです。 この歌は『日本書紀』にはありません。『古事記』のみが伝えています。

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2003.08.17.

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38

さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも

『古事記』中巻・景行天皇

 この歌は『日本書紀』にはありません。『古事記』のみが伝えています。

 ヤマトタケル(古事記の表記は「倭建」)の東征の途中、「走水の海」(現在の浦賀水道とされています)を一行が渡ろうとした時、「渡りの神」が波を起こして進めなくしてしまいます。その時、「后」の弟橘(オトタチバナ)比売は、自ら犠牲となって海に身を沈めます。この歌は、そのときに彼女が歌ったものであると伝えています。
 ここで、「相武の小野に燃ゆる火」と言っているのは、この箇所の直前、ヤマトタケルが、相武国造の策略で、野に出たところを火攻めにされて危うかったという場面を踏まえています。
 つまりヤマトタケルは、敵に陥れられて火に囲まれた絶体絶命のピンチの時にも、妻オトタチバナの身を案じて(「火中に立ちて問ひし君」)声を掛けた、そのタケルのことを思い出しながら、オトタチバナは海へ沈んでいったということになります。

 確かに美しくも悲しいお話なのですが、この歌そのものについては、別の解釈があります

 この歌に限らないのですが、記紀の中に収められている歌には、もともと民間の歌謡であったものを組み込んだと思われるものが少なくないのです。
 例えばこの歌の場合も、この火は春の野火と見ることができます。「相模の野に燃え盛る春の野火の中に立って私に言い寄られた君よの意で、農村における若い女性の恋の歌と解せられる」(岩波古典文学大系・頭注)という解釈になるわけです。

 まあ、確かに戦の最中、火に囲まれている状態で后の身を案じている場合じゃないですし、沈んでいく彼女が最期に歌ったにしては、ちょっと演出過剰な気もします。
 また、その火攻めにあった場所は、古事記は焼津である(という地名伝承)としており、ご存じのように焼津は相模ではありません

 どうもこの歌は、ヤマトタケルの戦いの伝承の中に入れるよりも、野焼きの恋歌として読む方がしっくりくるような気が、私はしています。

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2003.08.03.

37

春はあけぼの!

『枕草子』第1段

 あまりにもあまりにも有名な、『枕草子』の冒頭の一節です。
 『枕草子』には、他にも好きな言葉はいくつかあるのですが、この一文を差し置くわけにはいかないでしょう。

 ところで、この文はどういうふうに訳すべきなのでしょう。中学ではじめて教わった時、「春は曙が趣がある」とノートに訳を書かされて、「趣って何?」と軽い反発を覚えたのを記憶しています(^^;
 「趣がある」と補うべきなのかどうか、異論もあるようです。『枕冊子全注釈』(角川書店)には、「春はあけぼのなり」「春は曙だ」と補う説、「春はあけぼの」のまま補わない説なども紹介されています。

 確かに、意味を正しく補うなら「をかし=趣がある」しかないのでしょう。ずっと後ろにではありますが、「雨などの降るさへをかし」とありますから。

 ただ、私としては、清少納言が「春はあけぼの」と小気味よく言い切っていることを、受け止めたいなぁと思うのです。
 確かにここは"地の文"であって、会話ではありません。しかし、内容から考えて、この文はいわゆる"地の文"ではないことは明かで、誰かに語りかけているのと似た文脈であると考えるべきだと思うのです(だからこそ、"ことの葉"に加えたわけですが)。

 機械的に言葉を補ってしまっては、「春はあけぼの」と言い切った価値がなくなってしまいます。ここは清少納言の「言った」そのままにしておきたいところです。そこで、このコーナーではあえて、「春はあけぼの!」「!」をつけて表記してみたいと思います。

 なお「あけぼの」ですが(^^;、「ほのぼのと明けゆくころ」からしている言葉で、類語の「あかつき」や「しののめ」よりも後の時刻を指す言葉だそうです。
 しかし、「春眠暁を覚ず」。夏ならともかく、春先の夜明けに起きているというのは、清少納言さん、なかなか早起きじゃないですか。いや、平安貴族は深夜に"遊ぶ"から、徹夜明けの空だったりするのかな?

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2003.07.27.

36

男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり

『土佐日記』

男もする(書く)と聞いている日記というものを女の私もして(書いて)みようと思ってするのである

 『土佐日記』の冒頭、有名な一文です。

 ここにあるように、男の書く日記というものは以前にも存在していました。そもそも、公的な記録(公の日記)がなければ史書をまとめることはできませんし、私的なものでも『宇多天皇御記』(現存最古)、『醍醐天皇御記』が知られています。有名な『小右記』(藤原実資)や『御堂関白記』(藤原道長)も、この系列に属します。
 これらは、漢文体(といってもかなり変体)で、内容は行事や儀式の記録が中心でした(個人的な秘密や妄想を書くものではありません(^^;)。

 それらに対して、この日記は、女による日記を書こうと宣言しているわけです。また、書かれている文章は、仮名文字による和文の、しかも個人的な旅行記の形態というわけです。
 が、よく知られているように、この日記の作者は紀貫之と推定されています。彼は実際に土佐国守として赴任しており、承平五年(935)に帰国しています。もちろん彼は男ですから、この作品は、自らを女性に仮託して書いたものということになります。
 こう書くと大変斬新な企画のようですが、実は当時すでに女性による仮名日記は存在していました(『太后御記』:醍醐皇后穏子など)。貫之としては、
新しいジャンルとしての女日記を創作したのではなく、まだ一般的ではないこのジャンルを借りて、仮名による旅日記を書いてみた、ということになるのだと思います。

 ところで、この文に出てくる「すなる」「なる」「するなり」「なり」(どちらも終止形「なり」)は、全く違う助動詞であると学校で習ったのを覚えておられる方も多いのではと思います。前者は終止形接続で伝聞推定の「なり」、後者は連体形接続で断定の「なり」、というヤツです。文が有名であること、たまたま同じ動詞(終止形「す」、連体形「する」)について並んでいることから、辞書の例文にも引かれていることもあります。
 でも、同じ発音なのに意味が違う、それも推定と断定では全く反対です。前から何となく違和感を感じていたので、今回ちょっと調べてみました

 断定の「なり」は、助詞「に」と動詞「あり」が融合したもので、もとのまま(融合せずに)使われている場合もかなり多いとのこと。
 一方の伝聞推定の「なり」ですが、こちらは、音や声の意味をもつ語根「ね」や「な」に「あり」がついたものと解釈されているようです。
 この二つについて、万葉仮名を比べてみると、(1)断定「なり」に用いられている「在」「有」が伝聞推定「なり」には使われていない、(2)伝聞推定「なり」に使われている「鳴」が断定「なり」には用いられていない、のだそうです。(小学館『日本国語大辞典』)

さ夜ふけて 堀江漕ぐなる(水手鳴) 松浦船 梶の音高し 水脈速みかも 7-1143
         
梶の音そ ほのかに
すなる(為鳴) 海人娘子 沖つ藻刈りに 舟出すらしも 7-1152

 後者の「為鳴」は、あえて断定の意味に取ろうとすると「するなり」となり、字余りになってしまうんですね..。

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2003.07.20.

35

いとせめて恋しき時は むばたまの夜の衣をかへしてぞきる

『古今和歌集』巻12−554

 小野小町の歌で最も知られているのは、百人一首におさめられている「花の色はうつりにけりな」だと思います。小町には、この歌のように掛詞を駆使した歌が多いのですが、私の趣味ではありません(^^;←ストレートな方が好きなヤツ

 もう一つ、小町が得意とした?のが"夢"を詠んだ歌です。『古今集』巻12冒頭には、次の3首が並んでいます。

552 思ひつつぬればや人の見えつらん 夢と知りせばさめざらましを
(あの人を思いながら寝るからあの人が見えたのだろうか 夢とわかっていれば醒めはしなかったでしょうに)

553 うたたねに恋しき人を見てしより ゆめてふ物はたのみそめてき
(うたた寝で恋しい人を見てからというもの 夢というものを頼みにし始めました)

554 いとせめて恋しき時は むばたまの夜の衣をかへしてぞきる
(とても身にさしせまって恋しい時には 夜の衣を裏返しにして着るのですよ)

 どれも分かりやすく、調べも美しい歌です。恋しい人に夢で会う、会いたいという想いが伝わってきます。

 ところで、最後の554番の歌の「夜の衣をかへしてぞきる」ですが、岩波文庫の脚注には、「衣を裏返しに来て寝れば思う人が夢に見られると信じられていた」とあります。
 私も、まあそういうものだったのかとあまり深く考えていなかったのですが、最近知った
片桐洋一氏の解釈(『古典ライブラリー1小野小町追跡』/笠間書院)がなかなか面白く、私としては腑に落ちたのでご紹介してみます。

 片桐氏はまず552〜3番の歌について、こう解釈されます。

自分が「思ひつつ」寝た時に見た夢なら、あの方を夢に見ても、のいわばあたりまえ。しかし(中略)恋に疲れてついうとうとしてしまった「うたたね」に「恋しき人」を見たのだ。きっとあの人が私を思っていてくださったのだ……と思うのも無理はない

 と解釈されます。その上で554番について、

夢で会うだけなら「思つつ寝」ればよかったはずである。(中略)ところがこの「いとせめて」の歌では、それらと違って、私があの方の夢の中に現れたい、夢路を通って自分の方から行きたいと言っているのだと思う

と解釈されるのです。
 またその根拠として、「夜の衣をかへす」は他に見つからないけれど、「袖をかへす」ならば『万葉集』にあるとして、次の歌を引用されます。

吾妹子に恋ひてすべなみ 白妙の袖かへししは夢に見えきや 11-2812
(恋しいあなたを思う気持ちは押さえようもないので 袖を返して寝ましたが 夢に私を見ましたか?)

吾が背子が袖かへす夜の夢ならば まことも君にあへりし如し 11-2813
(恋しいあなたが袖を返した夜の夢だったのでしょう ほんとうにあなたにお会いしたようでしたよ)

 確かに、これらの歌では、"夢に出ているのは袖を返した方”です。「袖を返す」と「衣を返す」とが同種の呪術とは断定できませんが、全く別の習慣とも思えませんし、氏の指摘は的を射ているように思えます。

 相手を夢に見るのも嬉しいですが、自分が相手の夢に現れることができたら、確かにもっと嬉しいでしょう。ただし、相思相愛の相手でないと嫌がられそうですが....(^^;

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2003.07.13.

34

草枕 旅の丸寝の 紐絶えば あが手と着けろ これの針持し

『万葉集』巻20

 今週の歌も、「防人歌」(妻から夫への)です。が、悲しさ・寂しさの中にもどこか微笑ましさの感じられる歌を選んでみました。

草枕 旅の丸寝の 紐絶えば あが手と着けろ これの針持し 20-4420
(旅の途中で服のまま寝る時 その服の紐が切れたら 私の手と思ってお着けなさい この針を持って)

 あなた(自分)の手を私(妻)の手と思って=自分で繕いなさい、という歌です。旅先ゆえに自ら繕ってあげることができないことを「悲しんでいる」というニュアンスはあるのかもしれないですが、「着けろ」という命令形の響きからか、ダンナに「しっかりするのよ!」と励ましているお母ちゃんという映像が目に浮かんでしまうのは私だけ?(^^;

 ところで、この「着けろ」ですが、この時代、命令形はふつう「着けよ」になります。「着けろ」ではまるで現代語のようですが、これはいわゆる東国方言です(他に14-3465など)。
 この"方言"はその語も伝えられます。鎌倉時代の記録にも「関東の人は『〜ろ』という言い方をする」という説明が残っていますし、江戸時代にはこれが広く普及していきます。現代の共通語の命令形は「着けろ」ですが、これは関東起原の言い方で、関西なら「着けぇ(着けぃ)」であり、その起原は「着けよ」と考えられています。

 このように、万葉集の巻14の「東歌」と巻20の「防人歌」には、多くの東国方言が見受けられます。例えば、

  • 「チ」が「シ」になる ex.アメツシ(天地)
  • イ列がウ列になる ex.ハル(針:今週の歌↑のです)
  • エ列がア列になる ex.イハ(家)
  • オ列とエ列の混同 ex.幸くあれて(←と)、こよて(←越えて)

といったものです(最後の例は前回の防人歌にも見えています)。

 また、東国といっても、関東東北地域と東海地域では方言に差があるようです。

 この「命令形の"ろ"」は典型ですが、現代の関東と関西の言葉の違いが奈良時代にまで遡るというのは、なかなかスゴイことですね。

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2003.07.06.

33

父母が 頭かき撫で 幸くあれて いひし言葉ぜ 忘れかねつる

『万葉集』巻20

 これは、いわゆる「防人歌」です。

 防人は、よく知られているように、東国の農民から徴発されて九州の警護を勤める労役です。任期は3年です。
 九州の防衛が必要なことは、まあ分かるとして、なぜ東国の兵士から徴発するのかは素朴な疑問です。
 白村江の敗戦の後、唐・新羅軍の来襲に備える必要があったが、西国からはすでに百済救援軍のために兵士を徴発していたので、余裕のあった東国の兵力をあてたことに始まるからだという説明を聞いたことはありますが、それもでもイマイチ釈然とはしません。
 東国は一段扱いが下がる「植民地」的な地位にあったからという説もあったように思います。

 いわゆる「防人歌」(巻20所収)には、防人本人の歌のほか、家族が彼らを案じて歌った歌もふくまれています。
 それらの歌を見ると、互いにもう生きては逢えない(かもしれない)と考えていたことが伝わってきます。

水鳥の発ちの急ぎに父母の物言ず来にて今ぞ悔しき  12-4337
天地のいづれの神を祈らばか愛し母にまた言問はむ  12-4392
韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来のや母なしにして  12-4401
防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思もせず  12-4425

 実際のところ、唐も新羅も攻めてきませんでした。もちろん戦さはいつ始まるか分かりませんが、それでも1世紀近く、3世代も4世代も実戦がなかったことは彼らも分かっているはずです。
 なのに、この悲壮感。

 律令(軍防令)によれば、防人が九州へ赴任するにあたって、摂津までの食料はなんと自己負担でした。さらに、規定の乾飯・塩・弓・弦・矢・太刀・飯袋・水桶等々の必要な物品はすべて自己負担で、しかも自分で運んでいかなければなりません。これは、経済的にも体力的にもきわめてハードです。
 まして、行きはまだ政府も多少のフォローはしてくれるでしょうが、任期終わっての帰路はおそらく「さっさと勝手に帰れ」状態でしょう。そう考えると、九州での戦闘より、その九州への往復が「死出の旅」だった可能性は十分あるでしょう。

 また、こういった負担を捻出する防人の家や集落の負担は甚大だったことでしょう。
 天長3年11月3日の太政官符に、「兵士の賎 奴僕と異なるなし。一人点ぜられば、一戸随って亡ぶ」とあります。兵士(防人ではなく、自分の国の軍団に所属する。その中から防人が選ばれることになり、防人の方が遙かに負担が多い)一人徴発されると、その負担で「一戸」(現在の家よりずっと大きい)が滅ぶという..。
 働き手を失った家がどいうなっていくか。父母は、子どもは、妻は…。不安は募り、家族を思う歌はどんどん悲壮になっていくのでしょう。

 なお、今回の歌の中には「父母が 頭かき撫で」とあります。が、彼は小さい子どもではありません。防人に赴くような成人です。その彼の頭を、両親が「幸くあれ」と願いを込めて「かき撫で」ている。背はきっと息子の方が高いでしょうから、彼は老夫婦の前で頭を低くして、父母のするにまかせていたのでしょうか。親子の間には、あるいは彼が幼かった頃の思い出が去来しているのかもしれません....。そんな絵が目に浮かぶような悲しい歌です。

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2003.06.30.

32

たらちねの母が飼ふ蚕の繭ごもり 馬声蜂音(いぶ)せくもあるか妹に逢はずして

『万葉集』巻12

 これまでご紹介してきた"ことの葉"は、主に言い回しや言葉の使い方、響きなどに着目して選んできたのですが、今回はちょっと趣向を変え、文字の使い方に注目してみました。

 ご存じのように、平安時代に入って「仮名」が発明されるまで、日本では表記にはすべて漢字を用いざるをえませんでした。
 そのさい、日本語を漢字で表記する方法は大きく2つありました。
 一つは、漢字の意味を無視して音を使って表す方法(A)、もう一つは逆に漢字の意味を生かして、いわば日本語を漢訳する方法(B)です。例えば、

(1)うつそみの 人なる我や (2)明日よりは 二上山を 弟と我が見む 2-165

 大津皇子の姉大伯皇女の有名な歌ですが、『万葉集』の表記では、

(1)宇都曽見乃  (2)従明日者

となっています。

 (1)は、いわゆる音読み・訓読みが混在していますが(A)に当たります。これが、いわゆる「万葉仮名」です。
 一方の(2) は簡単な漢文の形式になっており、典型的な(B)です。

 このタイプには、色々なものがあります。万葉からざっと拾っても、

不取(とらず)、春過而(はるすぎて)、月西渡(つきかたぶきぬ)、
衣応借(ころもかすべき)、不所見(みえず)   <いずれも巻1>

といった具合です。
 これらはまあ、素直に考えて何とか分かるのですが、中にはかなりひねってあって、すぐにはわけが分からないものもあります。
 例えば、九九を使ったもの。
「八十一」と書いて「くく」、「十六」と書いて「しし」、逆に「二二」と書いて「し」、「二五」と書いて「とお」とするようなものです。他にも色々なパターンがあり、これらを"戯書"といいます。

 今回の問題も、その"戯書"の一例です。
 実は
「いぶせくもあるか」(心がうとおしい)の「いぶ」の表記が、「馬声蜂音」です。これは"音による戯書"で、当時の人は馬の声を「イ」、ハチの音を「ブ」と聞いていたのだろうと考えられています。馬の声は、「ヒヒーン」じゃなくて「イー」なんですね(^^;
 類似の例に、
「追馬」で「そ」、「喚犬」で「ま」、「喚鶏」で「つつ」というのがあります。これは、馬を追ったり犬やニワトリを呼ぶときのかけ声であろうといわれています。

 歌そのものは特に気に入っているというほどでもないのですが(^^;、当時の人々の話していた言葉の「音」を、ほんの僅かではありますが知ることができる例として、ご紹介しました。

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2003.06.22.

31

石麿にわれ物申す夏痩せに良しといふ物そ鰻取り食(め)

『万葉集』巻16

 前回につづき、今回もコミカルな万葉の歌のご紹介です。

  痩せたる人を嗤咲(わら)へる歌二首
石麿にわれ物申す夏痩せに良しといふ物そ鰻取り食せ 16-3853
 (石麿に申し上げたい。夏やせに良いという物ですよ。鰻を取ってお食べなさいな)

 なんともストレートな歌(^^;
 「夏やせ」という言葉が万葉時代にそのままあったことも面白いですが、ウナギが良いというのもこの頃から言われていたというのが、さらに面白いです。

 実は、次の歌はこうなんです。

痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を取ると川に流るな 16-3854
 (痩せてはいても生きていればよいものを、かえって鰻を取ろうとして川に流されるな)

 それはまあ、そうですが(^^;

 この2つの歌の作者は大伴家持です。左注には次のようにあります。

    右は、吉田連老といへるあり。字を石麿と曰ふ。所謂仁敬の子なり。その老、
    人と為り身体甚く痩せたり。多く喫飲すれども、形飢饉に似たり。此に因りて
    大伴宿禰家持の、聊かにこの歌を作りて、戯れ咲ふことを為せり。

 よほどガリガリだったんですねー。いくら食べても太らないとは....ある意味うらやましいかも(^^;

 ところで、前回の「大神」「池田の朝臣」「穂積の朝臣」「平群の朝臣」、今回の「石麿」のように、万葉では歌の中に人名が読み込まれているものが時々見られます。
 これらのうち、相手(二人称)に対しては、「大神」のように氏(うじ)名を使うか、「石麿」のように字(あざな)という呼び名が使われていて、本名は使いません。
 歌がセリフに近いということを考えると、当時の社会で名前(個人の本名)を呼びかけることが失礼であったということが分かり、興味深いです。
(なお、明確に個人の本名が詠まれているのは、この"ことの葉"シリーズの最初にご紹介した山上憶良の「憶良らは今は罷らむ」の歌くらいしかありません。が、この「憶良」は自称です)。

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2003.06.15.

30

仏造る真朱(まそほ)足らずば水たまる池田の朝臣が鼻の上を掘れ

『万葉集』巻16

 今回の歌は万葉の巻16に収められていますが、その前の歌は次の通りです。

  池田朝臣の、大神朝臣奥守を嗤(わら)ふ歌一首池田朝臣は名忘失せり
寺寺の女餓鬼申さく大神
(おほみわ)の男餓鬼賜(たば)りてその子生まはむ 16-3840

 この歌は、大神朝臣奥守という人物が痩せていてのでこれを餓鬼(男餓鬼)に見立てて、「寺寺の女餓鬼が申すことには、大神の男餓鬼を夫に頂戴て、その子を産み散らかしましょうよ。」と詠んでからかっているわけです。
 そこでその大神朝臣奥守が、仕返しに詠んだのが今回の歌です。

  大神朝臣奥守の、報(こた)へ嗤(わら)ふ歌一首
仏造る真朱足らずば水たまる池田の朝臣
(あそ)が鼻の上(へ)を掘れ 16-3841

 「真朱」は赤土のことです。池田朝臣という人物は赤鼻だったのでしょうか(お酒のせいかも)、「仏像を造る赤土が足らなかったら、池田朝臣の鼻の上を掘りなさい」と詠み返されたというわけです。恐らく宴席でのやりとりなのでしょう。二人の笑い声が聞こえてきそうです。
 
 この「大神朝臣奥守」は『続日本紀』天平宝字8年正月7日条に従五位下叙位の記事があり確認できます。一方の「池田朝臣」は、『万葉集』がすでに名前を忘失していますが、奥守と同じ年(の十月)に従五位下に叙位されている--おそらく同世代--池田朝臣真枚(まひら)ではないかと言われています。

 なお、ほぼ同じパターンのものがもう一組、つづいてのっています。

  平群朝臣の嗤ふ歌一首
小児
(わらは)ども草はな刈りそ八穂蓼(やほたで)を穂積の朝臣が腋草を刈れ 16-3842 
  穂積朝臣の和ふる歌一首
何所
(いづく)にそ真朱掘る丘薦畳(こもたたみ)平群の朝臣が鼻の上を穿(ほ)れ 16-3843

 3843は前の3841とほぼ同じです。一方、3842の方は、「草刈りの子らよ。そこの草を刈るな。その代わり、あの穂積朝臣の腋草という草を刈り取りなさい」となります。よほど腋毛が濃かったのでしょうね(^^;

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2003.06.08.

29

この頃の我が恋力記し集め功に申さば五位の冠


『万葉集』巻16-3858

 今回の歌は、割と素直で分かりやすいかと思います。

近頃の私の"恋の力"を、もし記録し集めて功績として申告すれば、五位の冠ですよ!

 作者は分かりません。五位が遠い下級役人の歌かもしれないし、貴族の戯れの歌かもしれません。いずれにせよ、「五位」の高いステイタスを引き合いに出して、自分の「恋」をアピールしています。
 奈良時代には、例の「蓄銭叙位令」に見られるように、政府への献金などで位を得るということが結構行われていました。その辺の風潮もふまえているのでしょう。

 令制では、位階は少初位下から始まって正一位まで30階あります。
 選叙令によれば、初位の範囲は判授(天皇の裁可なく太政官が位階を決定)、八位〜六位は奏授(太政官の決定を天皇が裁可する)、五位以上は勅授(太政官の報告を受けて天皇が直接位階を決定する)という区別がされています。五位以上は、いわば格が違うわけです。
 『続日本紀』などの正史では、原則としてこの勅授による五位以上の叙位から記録されます。つまり、五位になれば文字どおり「歴史に名が残る」わけです。
 給与面でも(禄令)格差があります。六位以下にはない「位禄」「位田」が与えられますし、「位分資人」という部下が割り当てられます。
 恩恵は家族にも及びます。五位になると、子が成人と共に自動的に位階を受けられる「蔭位」の特権が得られますし、父子は課役が免除になります(本人は八位以上で免除)。

 もっとも、実は三位以上との間にはさらに大きな格差があります。三位からは「位禄」ではなく「位封」となり(サラリーマンから領主扱いへ)、蔭位は孫に及び、課役免除も祖父・孫・兄弟にまで適用されます。

 この三位以上が「公卿」いわゆる「貴族」で、これに対して五位以上は「通貴」(貴族に通じる地位)と呼ばれます。
 当時の日本の人口が約800万人、都の人口が約20万人と推計されています。律令の定める定員を数えると、役人全体が1万人、そのうち五位以上はわずか125人しかいません。役人全体の1%です。さらに三位以上となると、20人に届きません。

 こういった大仰な地位である"五位の冠"を引き合いに出しているわけです。誇張もここまでくると、微笑ましいというか可愛いというか....(^^;

 なお、万葉ではこの歌の次はこういう歌です。

  この頃のわが恋力給らずは京兆(みやこつかさ)に出でて訴へむ 16-3859

 はいはい。どーぞ訴えて下さい(^^;(^^;

 なお余談ですが、この「恋力」という言葉がまた面白いです。とても古代の造語とは思えない響きを持っています。
 実は、少し前に放映されていた某アニメでこの言葉が使われていました。さて、制作者はこの万葉の歌をご存じだったのでしょうか。聞けるものなら聞いてみたいです(^_^)

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2003.06.01.

28

布留部由良由良止布留部(ふるべゆらゆらとふるべ)

『令集解』巻2(職員令神祇官)

 今回の出典は『令集解(りょうのしゅうげ)』です。
 この『令集解』は、養老令(令)に関する当時の法律家の解釈(解)を集めた(集)注釈書です。似たようなものに『令義解(りょうのぎげ)』がありますが、こちらは養老令の公式解釈です。
 これらは、最初に養老令の本文をのせ、そこへ注を入れるという形式になっています。これから、逆にもとの養老令が復元されているわけです(また、『集解』の方には、大宝令の解釈と考えられているも参考として引用されているので、そこから大宝令も研究復元されています)。

 さて、その『令集解』の巻2は職員令。官職とその職掌について規定しています。その冒頭、神祇官についての説明の箇所。令本文は、

    神祇官 伯一人
    掌らむこと、神祇の祭祀、祝部・神戸の名籍、大嘗、鎮魂、御巫、卜に兆みむこと、官の事を惣べ判らむこと。(略)

 この中の「鎮魂」に対してついた『令義解』の注釈が29字もあり、『令集解』にいたっては国史大系本でほぼ1ページを費やしています。その中に、問題の"呪文"がのせられています。

饒速日命、天より降ります時、天神(この場合は天照大神)、瑞寶十種を授けらる。息津鏡一、部津鏡一、八握劔一、生玉一、足玉一、死反玉一、道反玉一、蛇比禮一、蜂比禮一、品之物比禮一なり。教え導かれむは、若し痛處あれば、茲(こ)の十寶を合わせて、一二三四五六七八九十と云ひて、布瑠部、由良由良止布瑠部 。此の如くこれを爲せば、死人も反生するなりと。

 いわゆる「ニニギノミコトの"天孫降臨"」に先立ち、アマテラスの孫ニギハヤヒが地上に降臨するのですが、そのアマテラスは「瑞宝十種」を授け、もし痛むところがあればこの10の宝を呪文を唱えながら揺らせば、死者ですら生き返ると言った、というわけです。
 実はほぼ同じ話が『先代旧事本紀』に出ており、『令集解』はこれを引用しているものと思われます。ただ、『先代旧事本紀』は神話をあつかう史書であるのに対して、『令集解』は法律書であり、そこでもこの神話と呪文が紹介されているとことが面白いところです。時代は平安期になっていますが、こういった呪術的なものは残り、尊重されていたのでしょうね。

 この呪文は、ドラマやマンガなどで時々使われているそうです。私が知っているのは、NHKのドラマ「聖徳太子」の中で、とにかく怪しい雰囲気が漂いまくっていました(^^;
 もっとも、死者蘇生のためには呪文だけでは足りず、「瑞宝十種」が必要です。ニギハヤヒは天孫ニニギの末の神武による東征に服従、「瑞宝十種」も献上します。現在は石上神宮に祭られているはずですが、さて..。

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2003.05.25.

27

歌枕見て参れ

『古事談』

 今回"ことの葉"は、これまでとは少し傾向が違います。というのは、このお話の舞台は古代(平安中期)のことなのですが、史料は『古事談』という中世(13世紀)のものだからです。
 これまでご紹介した『万葉集』や『続日本紀』などに比べると、はたして古代人のナマの言葉なのかどうかは確かでないのですが、面白いのでご紹介することにしました。

 時に一条朝といいますから『枕草子』の時代です。殿上の間で藤原実方藤原行成とが口論となり、実方は行成の冠をつかんで小庭に投げ捨ててその場を立ち去るという、当時としてはかなりの暴挙に及びます。
 行成はというと、静かに主殿司の役人を呼んで冠を取ってもらい、砂をはらってかぶり、
「左道ニイマスル公達哉」(ひどいことをなさるお方だな)と一言。
 これを見ていた帝は、行成を
「召仕ツベキ者也ケリ」として蔵人頭に抜擢し、一方の実方には「歌枕見テマイレ」として陸奥守に任じ、実方は任国で亡くなってしまった..という話です。

 「歌枕」とは、歌に(定番として)読み込まれる地名のことです。陸奥国ならば、安積山とか白河関・塩竈などが知られていますが、もちろん多くの平安貴族にとっては「有名だけど行ったことのない僻地」です。そこを「見てまいれ」というのですから、これは一種の懲罰人事ということになります。

 ただ、あまりに出来過ぎたこのお話は、どの程度信頼できるのか、ビミョーです。
 藤原実方は、かつての左大臣師尹の孫にあたり、母は左大臣源雅信の娘という名門で、左中将という要職にありました。その彼が陸奥国司となるというのですから、やはり大事です。
 彼が陸奥守になったのは史実で(長徳元年正月十三日任命)、3年後にそのまま亡くなったのも確かなようです。
 問題は任命の理由です。赴任にさいして花山院はじめ多くの人々から離別の歌が送られていること、従四位上だった官位が正四位下にあげられたことなどから、左遷ではないという説が有力なようで、その場合の任命理由としては、不遇と無常観、政情不安鎮静のための特命を受けての赴任、養父済時の入内している娘の後宮財源確保のため、などが考えられているそうです。

 しかしどうでしょう。帝の個人的な「お怒り」にふれての左遷であって謀反とか犯罪というわけではないのですから、花山院らが離別を惜しむことはあったでしょうし、官位の上昇も、任命が正月で叙位が九月ですから、左遷ではあるけれど多少後ろめたさを感じた帝が気休めに位だけでも上げてやった、程度のことなのではと思います。
 何より理由です。上にご紹介した「左遷以外の理由」には、いずれも根拠が薄いというか、こじつけっぽさを感じます。『古事談』の説話の方が「ありそうな」話です。
 確かに、国司の人事という当時最大の「政治」を、こんなことで決してもらっては困りますが、それがまた古代らしさでもあると思うのですが..。

 当事者である藤原行成は、自身の日記『権記』に、実方の赴任のことや正四位下への叙位があったことを記録しています(長徳元年九月二十七日)。あるいは行成は実方のことが気になっていたのでは..と、つい妄想してしまいます。

 なお、実方は清少納言と恋愛関係があったと推定されており、『枕草子』にもたびたび名前が出てきます。
 また、説話はさらに広がり、任地で道祖神を敬わなかった(下馬しなかった)ので落馬して死んだとか、死後は雀になって都に舞い戻り殿上の間の飯を食べたといった話もありますが、ここまでくると説得力は下がりますね(^^;

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2003.05.18.

26

政事は、常の祀小事は今の帝行ひ給へ。国家の大事賞罰の二つの柄は朕行はむ。

『続日本紀』天平宝字6年6月3日

 このセリフは、この日発せられた孝謙上皇の宣命の一部です。

 『続日本紀』には、この前月の条に「高野天皇(孝謙のこと)と帝と、隙有り」とあり、この二人の間が不和になったことを記しています。その原因は、明言されてはいませんが、僧道鏡との「関係」のことではないかと言われています。

 宣命で孝謙は、今の帝(=淳仁)は自分のおかげで天皇になったのに、

うやうやしく相従ふ事はなくして、とひとの仇の在る言(=田舎者が仇敵に言うこと)のごとく、言ふまじき辞もいひぬ、為ましじき行も為ぬ。凡そかくいはるべき朕にはあらず。

とご立腹です。
 
「言ふまじき辞もいひぬ、為ましじき行も為ぬ」とは、恐らく道鏡とのことでしょう。淳仁はどういう言い方をしたのでしょうね(^^;
 さて、孝謙の言い分は次第に混乱してきます。

此は朕が劣(をぢな)きに依りてし、かく言うらしと念(おもほ)し召せば、愧(はづか)しみいとほしみも念す

 先に「かくいはるべき朕にはあらず」と断言していながら、今度は「私が愚かなためにこのように言うのだろうかと思うと恥ずかしい」全く反対に弱気な言い方です。感情が相当高ぶっているのでしょうか?

また一つには朕が菩提心(=悟りを得たいと願う心)発すべき縁に在るらしとなも念す。
是を以て出家して仏の弟子と成りぬ。

 今度は、これは出家せよという仏のお告げだと言っています。もう訳が分かりません..。
 この混乱した「論理」を逆に読むと、淳仁に指摘されたことは「モロに図星」だったとしか考えられませんよ、孝謙さん(^_^)

 そしてこの直後に、「政事は…」という今回の"ことの葉"が続くのです。

 政を2つに分けるという「国家の大事」を、こんな論理で決定してしまっていいのかいと突っ込みたくなりますが、それがこの時代だったというしかありません。この宣命が、やがて恵美押勝の乱という内乱を呼び、絶対的な権力を握っていたと見えた押勝があっという間に滅亡してしまうわけですし....。

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2003.05.11.

25

茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖振る

『万葉集』巻1-20

 今週(額田王)と先週(大海人皇子)の歌の応答は、『万葉集』の中でも最も熱烈なファンが多いのではないでしょうか。
 額田は若い頃に大海人に嫁ぎ、一女(十市皇女)を生みましたが、やがて天智の妻となります。男女の情愛と権力抗争、そこにどんなドラマがあったのでしょう。まさに「古代のロマン」。この「三角関係」を、のちの壬申の乱の原因の一つとみなす考え方まであります。

野守は見ずや 君が袖振る
(野守が見るではないですか。ああ、あなたが袖を振る..)

 「君」が私(額田)に袖を振る。それは他人に見られてはいけないこと..。そのとまどいと内心の嬉しさを表現しているようです。
 これを受けて、前の夫であった大海人皇子が、

人妻ゆえに 我恋めやも

と応える。別れて(引き裂かれて?)なおも募る恋心、絶対権力であるり恋敵である天皇の前で堂々と歌いあう二人....。これがその通りなら、まさにドラマです。

 しかし、この「通説」には疑問の声があがっています。

 その根拠の一つは、この歌の万葉における分類(部立)が、相聞(恋愛歌)ではなく雑歌(御幸・覊旅・宴会歌など)であることです。実際、歌の交わされたのは、蒲生野で行われた「遊猟(左注に五月五日とあるので薬狩と思われます)」後の宴なのです。
 もう一つは、この時の二人の年齢です。この時天智七年(668)。額田王は40歳前後と考えられています。当時でいえば初老といっていい年齢です。天智は43歳、大海人も大差ないでしょう。
 これらから、この歌は宴の「余興」である、あるいは儀礼的な歌である、真剣な三角関係を反映したものではないという解釈が、最近ではむしろ通説化しています。

 最近、さらに思いきった説に出会いました。それは、そもそも額田王が天智の妻になったということそのものが虚構である、というものです(伊藤博氏『万葉の歌人と作品 上 』塙書房 s.50)。
 実を言うと、額田が天智の妻であったというのは、日本書紀にも万葉にも明言されてはいません。万葉の数々の歌(この蒲生野の歌とか、天智の三山歌など)から推測されているだけなのです。伊藤氏はこれらの歌を精細に分析され、額田が天智の妻になったという事実はなく、それは奈良時代に生まれた「仮託」「虚像」であると結論づけられています。

 おそらくこの説は、世の多くの万葉ファンの猛烈な反発を受ける(受けた)ことと思います。伊藤氏も論文の中で、講演を聞いたとある方から撤回を求められたというエピソードを紹介されています。

 でも、私はこの説は非常に腑に落ちました。むしろワクワクしています。
 それは、「通説」の額田王のイメージが、「熟田津に船乗りせむと」や「秋山そ我は」の歌に感じていた額田王のイメージとしっくりこないと思っていたからです(同様に「君待つと」の歌にもずっと違和感がありました)。また、妻を権力者に譲り渡しておきながら悶々と思い続けている大海人、弟の妻をほしがる駄々っ子な中大兄皇子という「男性像」も、どうも現代ドラマ的で好きになれなかったからです。

 「事実」は、タイムマシンでもない限り100%断言はできません。また、色々な解釈ができるのが古代史の魅力だというのも確かです。いずれにせよ、「通説」「定説」にさほどの根拠がないことは確かなようです。


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2003.05.04.

24

紫のにほへる妹をにくくあらば人妻ゆえに吾恋めやも

『万葉集』巻1

 この歌のファンの方は多いのではないでしょうか。大海人皇子と額田王との歌の「応答」は、あるいは最も有名な歌かもしれません。
 この
応答そのものについては次回に譲りまして(^^; 今回はこの歌、特に「人妻ゆえに」にこだわってみます(^^;(^^;

 紫色の照り映えるような貴方
 もしも好ましく思っていなかったとしたら
 人妻だからといって恋をするものか

 問題は最後の2句。

 一つは「人妻」です。
 この言葉は、万葉という時代に合わないというか、かなり現代的な気がします。でも、調べてみると「人妻」という語は万葉では15例もあり、結構ありふれています。用法も、ほぼ現代語と同じニュアンスでいいようです(ただ一例、明らかに夫を指す場合がありましたが(^^;)。ちょっと意外でした。

 もう一つは、「ゆえに」です。
 
「人妻ゆえに」は、一般には「人妻であるのに」と訳されています。「人妻なのに恋をするものか」となるわけです。
 「ゆえに」はふつうに考えれば「なので」と順接の意味になるはずですが、例外的に逆接「〜であるのに」という意味になる場合がある、とされているんです。そのように解釈すると意味がよく通る例が万葉に多数あるようです(岩波古典文学大系補注。なお、『日本国語大辞典』を調べてみると、逆接の「ゆえ」の用例はすべて万葉です。『角川古語大辞典』も同じです。あるいは、この「用法」は万葉だけなのかもしれません)。

 でも、正直言って「ゆえに」が逆接になるというのが解せないんです。上述の大系の補注を見ても、その方が意味がよく通るというだけで、論拠が弱いというか..。
 「ゆえに」を順接のままではダメなんでしょうか?
 例えばこの歌の場合、確かに、「人妻なのに(恋してはいけないのに)恋をしてしまう」という解釈は分かりやすいんですけど、でもつまらないというか理屈っぽいというか..。むしろ、「人妻だから(恋してはいけないからこそ)恋をしてしまう」という直訳?でいいのではないかと思うんです。

 調べてみると、『万葉集注釈』(澤潟久孝氏)が、この「逆接説」を明確に否定し、順接に読むべきだとしています。が、大勢ではないようです。うーん(^^;

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2003.04.27.

23

道長が家より帝、后立ちたまふべきものならば、この矢あたれ

『大鏡』巻5道長伝

 これは、『大鏡』が伝えるエピソードです。大鏡は道長クン贔屓で知られますので、多少は差し引いてください(^^;

 道長がまだ若く、甥の伊周よりも下位だった時のこと。
 ある日、伊周が父道隆邸で弓の競射を開催したところ、道長がこれに参加しました。試合の結果は道長が伊周に2本差で勝ったのですが、父道隆たちは2回の延長戦をさせようとします。なんと露骨な…(^^; 道長はカチンときて、
「さらば、のべさせ給へ(それなら延長にされたらよろしい!)」と言ったあと、矢を射る時に放った言葉が、今回の"ことの葉"です。

この道長の家から天皇や后がお立ちになる運命なら、この矢よ当たれ!

 これは一種の占い、というより「言挙げ」でしょうか。言葉の持っている呪術性がうかがえる逸話だと思います。
 これは古い時代からあるものです。例えば『古事記』にはこんな神話があります(上巻)。天若日子は、天上(高天原)から下界(葦原中国)平定のために派遣されたのですが、8年もたったのに何の音沙汰もないので、様子を調べに雉が遣わされます。ところが天若日子は、平定のために授かった矢でこの雉を射殺してしまい、その矢は天上まで届きます。矢を見た高天原の神である高木神は、

もし天若日子、命を誤たず、悪しき神を射つる矢の至りしならば、天若日子に中(あた)らざれ。もし邪なき心あらば、天若日子此の矢にまがれ。

と言って、その矢を下界へ射返します。もちろん、矢は彼に当たるわけです(^^;
 逆に時代は下りますが、かの屋島の合戦のさい、源氏方の那須与一は見事扇の的を射ぬくのですが、その際彼は、

南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現宇都宮、那須のゆぜん大明神(中略)是をゐそんずる物ならば、弓きりおり自害して、人に二たび面(おもて)をむかふべからず。いま一度本国へむかへんとおぼしめさば、この矢はずさせ給ふな

と一心に念じるのです。
 弓を射る行為に何らかの超越した力を見ようとする伝統、と言ってもいいかもしれませんね。

 さて、現場に戻ります(^^)
 道長の矢はやはりというか、ど真ん中に当たります。続いて伊周が射るのですが、迫力負けしたのか手も振るえ、
「的のあたりにだに近くよらず、無辺世界を射たまへる」つまり大ずれ、道隆お父ちゃん真っ青です。
 さらに道長は、
「摂政関白すべきものならば、この矢あたれ」とダメ押しを言挙げし、これまた「的のやぶるばかり、おなじところに射させたまひつ」。道隆はここにいたって、「もう射るな射るな」とシラケまくったということでした。

 なお、摂政関白になることより先に、帝(天皇)や后(皇后/中宮)を出すことが念じられるのは、その重要性を示しています。以前にこのコーナーで紹介した「この世をば」の歌も、彼が摂政や内覧になった時ではなく、孫が皇位や東宮位についた時でもなく、娘が后になった時(それも三人目)の歌だったことを思い出していただければ、と思います。

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2003.04.20.

22

(あるひと)の曰はく「虎に翼を着けて放てり」といふ。

『日本書紀』天武即位前紀

 天智は、死の床につくと、弟大海人皇子を呼び、後事=皇位を託します。しかし、そこに策略=ワナの臭いを感じた大海人は、これを固辞し、出家と称して吉野へ逃れます。このことを世人は、「虎に翼を着けて放ったようなものだ」と評した、というのが今回の言葉です。

 この「虎に翼」というのは、中国ではよく使われる言い方のようです。岩波『日本書紀』の注には、『韓非子』(難勢編)が引用する『周書』の逸文「虎の為に翼を傳(つ)くること毋(な)かれ、将に飛びて邑に入り、人を擇(と)りて之を食はむと」などが紹介されています。
 『大漢和辞典』を調べてみると、
「虎の為に翼を傳く」が熟語として項が立てられ、上の周書逸文が例文としてのっています。また、別に「虎翼」という項があり、「虎の猛き上に更に翼をつけると、其の凶暴の制し難くなること。転じて、勢力家に権威をまし与える喩」という意味と、後漢書などが例として引かれています。さらには「虎翼吏」という語もあるようで、「残忍な官吏をいふ。酷吏」と説明されています。
 このように、「虎に翼」というのはよく使われる比喩だったようですが、
ただしあまり良い意味ではありません。最初に紹介した韓非子は、周書逸文を引用した直後に、「夫れ不肖の人を勢に乘(の)するは、是れ虎の為に翼を傳くるなり(もし不賢の人を君主たるの勢位に乗せるなら、これは虎に翼を付けることである)」と述べ、さらにその実例として悪王として名高い桀・紂を引き合いに出しています。
 ここ(天武即位前紀)にいう「虎」は、もちろん大海人皇子のことです。天武は不肖?桀・紂王なみ?(^^; 書紀が天武を悪し様に書く理由はないと思いますから、大海人を恐れ忌み嫌う人々の間で、こういう言い方が流布したと考えていいんでしょう。

※なおこれは(たぶん)蛇足ですが、酒癖の悪い大酒のみのことを「トラ」というのは、笹(ササ=酒)の絵にはトラはつきもの(中国や日本の屏風絵などによくある組み合わせ)だから、というのが有力な説のようです。あ、決して持統チャンが酒癖の悪い大酒飲みだと言っているわけではないですよ。ホントーですよー(^^;


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2003.04.13.

21

君や来しわれや行きけむ おもほえず 夢かうつつか寝てかさめてか

『古今和歌集』巻13ー645

 今週の歌は、前回よりは意味は分かりやすいと思います。

 あなたが来たのか私が行ったのか?夢なのか現実なのか?眠っている間だったのか起きていたのか?それが分からない....。対句をくり返すことに「とまどい」が込められています。畳み込んでいくリズムも見事な歌です。

 では、この歌はどういうシチュエーションで詠まれたのでしょうか。『古今和歌集』を見てみると、この歌(巻13−645)の詞書には、

業平朝臣の伊勢国に罷りたりける時、斎宮なりける人にいとみそかにあひて、またの朝に、人やるすべもなくて、思ひをりけるあひだに、女のもとよりおこせたりける、

とあります。作者は「詠み人しらず」になっています。

 「斎宮なりける人」は、斎宮本人とも斎宮に仕える人ともとれます。「みそかに(密かに)あひて」というのがどのような「あひ」なのか、具体的には書かれていません。

 これが『伊勢物語』69段(この段--伊勢斎宮との逸話--が"伊勢"という物語の名前で呼ばれる理由とされています)になると、記述は桁違いに充実し詳細に述べられています。相手は斎宮で文徳天皇皇女であること、彼女の方から訪れてきたこと、子一つから丑三つ(午前0時から午前3時ころまで)まで寝所にいたが、「まだなにごとも語らはぬに帰」ったこと、その後の出来事等々です。

 斎宮との「関係」やその物語は事実としてあったのか。事実があったのを古今集が伏せたりボカしたりしているのか、それとも逆に事実がないのに伊勢が物語を創作したのか、あるいはその両方なのか。
 この「詮索」は、平安朝においてすでに広まっていました。大江匡房の『江家次第』などには、高階師尚は業平が斎宮と通じてできた子がであると明言されています。またこの噂(?)ゆえに、高階氏の血を引く敦康親王(一条天皇皇子/母は藤原定子)の立太子には問題があるという意見もあったといいます(『権記』)。

 事実はもちろん分かりません。
 ただ、歌を見て伊勢を読むと、「話が出来すぎている」という気が私はしますが..。

 この歌に込められた「とまどい」、その美しい「響き」は、物語や詞書という「解説」がなくても十分に味わえるし、それでいいのではないかと思います。
 なお一部?に、この歌は業平の作ではないかと疑う意見があります。なるほどという気もします。ただその場合、斎宮との物語がすべて虚構ということになるのか、歌だけが代作ということになるのか....。いよいよ混沌としてきますが、それもこの歌の魅力かも(^^;

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2003.04.06.