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小野小町の歌で最も知られているのは、百人一首におさめられている「花の色はうつりにけりな」だと思います。小町には、この歌のように掛詞を駆使した歌が多いのですが、私の趣味ではありません(^^;←ストレートな方が好きなヤツ
もう一つ、小町が得意とした?のが"夢"を詠んだ歌です。『古今集』巻12冒頭には、次の3首が並んでいます。
552 思ひつつぬればや人の見えつらん 夢と知りせばさめざらましを
(あの人を思いながら寝るからあの人が見えたのだろうか 夢とわかっていれば醒めはしなかったでしょうに)
553 うたたねに恋しき人を見てしより ゆめてふ物はたのみそめてき
(うたた寝で恋しい人を見てからというもの 夢というものを頼みにし始めました)
554 いとせめて恋しき時は むばたまの夜の衣をかへしてぞきる
(とても身にさしせまって恋しい時には 夜の衣を裏返しにして着るのですよ)
どれも分かりやすく、調べも美しい歌です。恋しい人に夢で会う、会いたいという想いが伝わってきます。
ところで、最後の554番の歌の「夜の衣をかへしてぞきる」ですが、岩波文庫の脚注には、「衣を裏返しに来て寝れば思う人が夢に見られると信じられていた」とあります。
私も、まあそういうものだったのかとあまり深く考えていなかったのですが、最近知った片桐洋一氏の解釈(『古典ライブラリー1小野小町追跡』/笠間書院)がなかなか面白く、私としては腑に落ちたのでご紹介してみます。
片桐氏はまず552〜3番の歌について、こう解釈されます。
自分が「思ひつつ」寝た時に見た夢なら、あの方を夢に見ても、のいわばあたりまえ。しかし(中略)恋に疲れてついうとうとしてしまった「うたたね」に「恋しき人」を見たのだ。きっとあの人が私を思っていてくださったのだ……と思うのも無理はない
と解釈されます。その上で554番について、
夢で会うだけなら「思つつ寝」ればよかったはずである。(中略)ところがこの「いとせめて」の歌では、それらと違って、私があの方の夢の中に現れたい、夢路を通って自分の方から行きたいと言っているのだと思う
と解釈されるのです。
またその根拠として、「夜の衣をかへす」は他に見つからないけれど、「袖をかへす」ならば『万葉集』にあるとして、次の歌を引用されます。
吾妹子に恋ひてすべなみ 白妙の袖かへししは夢に見えきや 11-2812
(恋しいあなたを思う気持ちは押さえようもないので 袖を返して寝ましたが 夢に私を見ましたか?)
吾が背子が袖かへす夜の夢ならば まことも君にあへりし如し 11-2813
(恋しいあなたが袖を返した夜の夢だったのでしょう ほんとうにあなたにお会いしたようでしたよ)
確かに、これらの歌では、"夢に出ているのは袖を返した方”です。「袖を返す」と「衣を返す」とが同種の呪術とは断定できませんが、全く別の習慣とも思えませんし、氏の指摘は的を射ているように思えます。
相手を夢に見るのも嬉しいですが、自分が相手の夢に現れることができたら、確かにもっと嬉しいでしょう。ただし、相思相愛の相手でないと嫌がられそうですが....(^^;
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