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今週の"ことの葉"
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No.1→20No.21→40/No.41→60 No.61→

No.41→60 もくじ
通番

ことの葉(冒頭部分など一部)

60
和するを以て貴しとせよ

59
凡そ大陽虧けば有司預かり奏せよ

58
恋は皆我が上に落ちぬ

57
公領は立錐の地も無きかな

56
らいしなや さいしやな

55
三十日三十夜は我がもとに

54
恋すてふわが名はまだき立ちにけり

53
仰ぎて天心を論らふに誰か能く敢へて測らむ

52
雀の子を犬君が逃がしつる

51
此の猪の頸を断るが如く

50
あづまはや

49
答へて曰く「日本国の使」と

48
我はもや安見児得たり

47
藤三娘

46
あしひきの山鳥の尾のしだり尾の

45
二上山を弟と我が見む

44
悪無くば善かりなまし

43
天と赤兄と知らむ

42
東風吹かばにほひをこせよ梅花

41
后の位も何にかはせむ

60

和するを以て貴しとせよ。

『日本書紀』推古12年4月2日条

 『日本書紀』推古天皇12年(604)4月3日条には、いわゆる「憲法十七条」が載せられています。

一に曰く、和(やわ)らぐを以て貴しとし、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党有り。また達(さと)る者少なし。是を以て、或いは君父に順はず。また隣里に違ふ。然れども、上和(やはら)ぎ下睦(むつ)びて、事を論(あげつら)ふに諧(かな)ふときは、事理自らに通ふ。何事か成さざらむ。

(岩波文庫『日本書紀(四)』)

 何と言っても第一条です。聖徳太子がかなり重要と考える原則だったと思って間違いないでしょう。特に冒頭部分は有名です。

 ところで、その冒頭部分(「以和為貴」)は普通、「和(ワ)を以て貴しとす(せよ)」と読まれています。それでも良いのですが、あとに述べるように「和」にはいくつか意味があること、下の「無忤為宗」と対句になっている関係で(これを「忤(ゴ)無きを宗とせよ」とは読めない)、やはり訓読すべきでしょう。

 では「和」をどう読むかです。上に引用した岩波文庫の「やわらぐ」をはじめ、何種類か目にしたことがありますが、いずれも似たような意味に読まれているようです。それは、平和の「和」や温和の「和」のイメージです。仏教の影響もよく指摘されます。
 NHKがかつて制作したドラマ「聖徳太子」(このお正月に再放送していましたね)では、この「和」がメインテーマに据えられ、好戦派の蘇我馬子に対して、平和主義を貫こうとする太子、というコンセプトだったように思います。
 昨今の時勢を鑑みると、こういうコンセプトのドラマは、どちらかと言えば好ましいと思いますが、実際のところどうなのでしょうか。

 私は、この「和」は「争わない」という意味ではないと思います。

 まず、対句になっているのが「忤(さか)ふること無き」であることが理由の一つです。「忤」という字には、『大漢和辞典』を調べてみましたが、あくまで「逆らう」という意味で、「争う」とか「戦う」という意味はありません
 となれば、「和」は「争わない」「戦わない」ではなく、「逆らわない」という意味の方が収まりが良いことになります。平和の「和」や温和の「和」ではなく、和合の「和」や調和の「和」です。人に合わせるとか、指示に従うとか、そっちのイメージです。
 条文の続きを見ても、「君父に順はず」「上和らぎ下睦み」というように、従順さや仲良さが求められています。

 また、この「以和為貴」は(聖徳太子のオリジナルではなく)『礼記』や『論語』といった儒教の書物に類例があります。それらを調べてみると、

「礼は和を以て貴しと為し(礼を用いて人々を和合させ)」(『礼記』儒行編)
「礼の用は和を貴しと為す(礼の運用というものは調和が大切である)」(『儒教』学而編)

というように、やはり「和」は和合・調和という意味に解釈されているようです(訳はいずれも明治書院『新釈漢文大系』)。

 「以和為貴」の思想とは、平和というより調和、秩序の重視ではなかったか、と思えてきます。仏教的ではなく儒教的。第三条の「詔を承りては必ず謹め」と同じ路線です。

 父用明天皇の没後の争乱を経て聖徳太子が痛感したのは、戦争の悲惨さよりも、天皇の権威など秩序の崩壊だった、私はそう考えるのですが..。

2004.01.19.

59

凡そ大陽虧(か)けば、有司預かり奏せよ。皇帝事を視(み)ず。

『養老令』

 凡そ大陽(か)けば、有司預(あらかじ)め奏せよ。皇帝事を視(みそなは)さず。百官各々本司を守れ。務(まつりごと)を理(おさ)めず、時を過して乃(いま)し罷れ。

(書き下しは岩波思想体系『律令』)

 これは養老令の儀式制度を定めた儀制令にあるもので、太陽が欠ける=日食の際の規定です。
 これによると、日食の日は有司(該当する役所=陰陽寮が事前にこれを報告しなさい、皇帝=天皇の出御はなく、各役所は業務をせずに本司を守り、日食が終わったら退勤せよ、ということになります。

 日食は太陽と月が(見かけ上)重なってしまい、太陽が隠れてしまう現象です(古代インドでは、羅ゴウ[目+侯]という見えない天体が太陽を隠すのだと考えられていたそうです。なるほど納得)。この天体現象は、生命の源の太陽が欠けるからでしょうか、凶兆とされてきました。そこで、上のような"死んだふり"状態となるわけです(^^;
 もっとも古い日食の記録は、『日本書紀』推古36年(628)3月2日(新暦で4月10日)です。実はこのあと間もなく女帝は病に倒れ、没しました。もしやこのことで、日食が凶兆であるという考えがさらに強まったのかも..。
 鎌倉初期の順徳天皇の著作『禁秘抄』によれば、天皇の御座所は御簾を下ろし、御殿はムシロでつつみ、殿上人は未明前に参入して天皇とともに籠もるとあるので、平安時代もほぼ同様だったのでしょう。

 そういうわけで、日食の予測をするのは大変重要になります。日食がないと思っていて欠けだしたら、パニックですから。
 日食の時は、当然ながら月は新月ということになります。つまり、旧暦では朔日である(はず)ということになります。ただし、新月の時にいつも日食になるわけでは勿論ありません。天球上における(つまり見かけ上の)太陽の軌道=黄道と月の軌道=白道は、南北方向に幾分ズレています。日食は、この黄道と白道の交差点の近くで月が新月になったときににしかし発生しません。このややこしい計算をし、日食を予想するのが陰陽寮の仕事というわけです。
 しかし、予測が外れることもあったでしょう。現に上の推古36年の日食は、暦法上の誤差によって朔日ではなく2日に起こっていますし....。そもそも、日食が起こる日は観測によって予測できても、どこで起こるかまでは....。
 例えば、『続日本紀』には、文武2年(698)から延暦10年(791)まで、合計72回の日食記事があります。ところがこれらのうち(朝廷の儀式に影響を与える)都=飛鳥や奈良で観測されたはずの日食は22回だけです。残り50回は、都からは日食が見えない"空振り"だったわけです(しかもそのうち2回は地球上のどこでも日食はなかったはず、とのことです。計算違い??)。
 まあ、技術的に"空振り"は仕方ないし、パニックをふせぐためにも"日食予報"は多めの方がいいのですが、外れた分は記録に残さなくても良いのに....と思ってしまいます。もっとも、その日が曇りや雨だったら、当たりはずれは不明だったでしょうけど....。

 なお、六国史には多数の日食記事がありますが、そのほとんどは「日有蝕之」とあるだけで、上に書いたような処理をした旨の記述はありません。『三代実録』貞観九年(867)年11月朔日の「平野春日祭、並びに停む。日蝕を以てなり」とある記述があるくらいです。あるいは奈良時代には、令の規定を守らなかった(気にしなかった)のかもしれません。

 また、同じ『三代実録』の元慶元年(877)4月朔日条には、「夜丑一刻。日有蝕之。虧初子三剋三分。復至寅二刻一分。皇帝不視事。百官不理務。不擧常祭。」とあり、日食により令の規定どおり"死んだふり"をしたことが分かります。ただ、その時刻は「子三剋三分」から「寅二刻一分」までですから、深夜も深夜であり、当然太陽は見えませんが、計算で算出していたようです。このため、「夜の(見えない)日食でも廃務するのか」が議論されたことが、記されています。

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2004.01.12.

58

恋は皆我が上に落ちぬたまかぎるはろかに見えて去にし子ゆゑに

『日本霊異記』

 この歌は、『日本霊異記』上巻「「狐を妻となし子を生ましむる縁(狐為妻令生子縁)、第二」という話の、ラストに出てくる歌です。

 昔(欽明天皇時代)美濃国で妻を求めていた男がある女と出会い、結婚して男の子も産まれる。が、実はこの女はキツネで、家で飼っていた子犬に吠られて正体を現し、垣の上に上る。
 夫は、「汝と我との中に子を相生めるが故に、吾は汝を忘れじ。つねに来りて相寝よ」と言い、キツネもそれに従って来て寝た。そこで名付けて「岐都禰(キツネ)」とした。
 ある時、妻は紅の裾染の裳を着て、美しくしなやかに裳裾を引いて去っていったなびかせてどこともなく去っていく。夫は、その妻を想って歌を詠む。

 ほぼ、こういう話です。
 キツネという言葉の起源説話なわけですが、もちろん鵜呑みにはできません。というか、多分"後付け"でしょう。
 『倭名抄』には、
「狐(略)音は胡、和名は木豆禰、獣名射干なり」とあり、この説話でも「野干」とも書かれています。「キツネ」以前は「ヤカン」と音読みしていたのでしょうか?

 もちろん、人間がキツネを妻とし子どもが生まれるというのは、科学的には(多分)あり得ないことなのでしょうが、説話の中ではよくあることです(獣どころか植物がお相手という話もありますから..(^^;)
 ただ、のちの『今昔物語集』ではキツネが化けて人間に悪さをするというイメージが強いのに比べると、このキツネはちょっと違います。夫からも愛されて、

 恋は皆 我が上に落ちぬ たまかぎる はろかに見えて 去にし子ゆゑに
 <古比波未奈加我宇弊邇於知奴多万可支流波呂可邇美江天伊爾師古由惠邇>
 (恋はすべて我が身にふりかかってきた。ほんのちょっと見えて行ってしまった彼女のために。)

という歌を詠われているわけですから。

 私が好きなのは、この「恋は皆我が上に落ちぬ」という表現です。恋愛感情が理屈を越えていること、時に不条理、唐突、不可解なものであること、そのくせ他の様々なものを押し流してしまうことを、私たちは経験的にしっています。それはほとんど天災のようなもの。この歌のこの表現は、それをよく表していると思います。

 この歌と似ているのが、『万葉集』にある次の歌です。

  朝影に我が身はなりぬ 玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに(11-2394)

 ご覧のように下3句は全く同じです。偶然ではなく、どちらかがどちらかを改良したものかもしれません。
 二つを見比べると、万葉の「朝影に我が身はなりぬ」の歌の方が、意味的にはしっくり来ます。霊異記の「恋は皆我が上に落ちぬ」は、下3句、特にラストの「ゆゑに」とうまく呼応していません。
 ただ、その分「朝影に我が身はなりぬ」の方が、ごく普通のというか、ありふれた展開のしかたで、「恋は皆我が上に落ちぬ」の持っているパンチ力には及ばない、というのが私の感想なのですが、いかがでしょう。

 霊異記の方に戻ると、この男の子は成長して後、大変な強力&鳥が飛ぶように俊足だったそうです。
 実は、『今昔物語集』巻23−17に
「尾張国の女、美濃狐を伏する語」という話には、「美濃狐」という名の"強力"の女性が登場します。彼女は「昔彼の国に狐を妻としたる人有りけり。其れが四継の孫なりけり」ということのようですが、上の霊異記の男の子の子孫なのかもしれませんね。

 なお霊異記によれば、この男の子は、狐直(あたえ)という姓の祖になったそうです。が、平安前期に作られた氏族分類書『新撰姓氏録』には、「狐直」は見えません。漏れたのでしょうか?それとも、話全部が(キツネの起源説話ですらない)誰かの手によるフィクションだったのでしょうか?

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2003.12.28.

57

天下の地、悉く一家の領となり、公領は立錐の地も無きかな。

『小右記』万寿二年七月十一日

 これは、一家(この場合は摂関家)により荘園の集積のヒドさをさす史料として有名でした。高校の日本史の史料集などにはよく収められていたものです。
 ただ、いま「でした」と書いたように、近年はそういう説明の仕方はしないようになりました。というのは、荘園制度の研究が進んだ結果、
鎌倉時代ですら荘園(私有地)全体と公領=国衙領(公有地)の比率はほぼ半々であること、荘園が急速に増えていくのは鳥羽院政期(12世紀=平安時代末期)以降であることなどが、通説化してきたからです。

 実は荘園が急増するのは、新しい開墾地が急増するのではなく(物理的にムリ)、公有地だった場所が(偽って)私有地=荘園であるとして寄進・公認されることによります。
 藤原摂関家にとって、自己の荘園=私有地の増加は喜ばしいには違いないのですが、彼らは同時に大臣等々の役職を持つ"公務員"でもあったので、荘園の増加による公有地の減少は手放しでは喜べません。

 その"バランス"が崩れたのが、国家から遊離して権力を振るった"院政"だった、というわけです。

 ですから、「摂関家の荘園が増えすぎて公領(国衙領)=公有地がほとんどない」というのは、著しい誇張表現なのです。
 では、藤原実資は日記『小右記』になぜここまで誇張して書いたのかですが、実はこの記述の直前に次のようにあるのです。

去る九日、丹生使蔵人検非違使棟仲、大納言能信卿の山城国の庄の雑人、小舎人の頭を打ち破らる。監行極り無し。仍て使の官人を差し遣はすと云々。

 要するに暴力事件なのですが、藤原能信(道長の五男)が山城国に持っている荘園の使用人が「小舎人の頭を打ち破」った(死んだのかなぁ。すごい....)のに対して、実資は「濫行極まり無し」といたくご立腹なわけです。
 「使の官人」=検非違使の役人が派遣されるわけで、事件の記事としては終わりなのですが、気のおさまらない実資は、話の矛先を摂関家の荘園支配へ向けるわけです。「こういう乱暴者が出るのは、摂関家が我が物顔で荘園を広げているからだ。実に嘆かわしい」。…まあ、言ってみれば八つ当たりですな(^^;

 ところで、この摂関家大嫌いの藤原実資とはどういう人なのでしょう。
 実資は摂政太政大臣藤原実頼の養子となり、円融朝から一条朝にかけて蔵人頭を務め、従一位右大臣にまで上ります。
 が、当時の政界の主流は実頼の弟師輔の流れにあり、特に時代の重なる(年齢は下)の道長には強い対抗意識を持っていました。たとえば道長を
「王道弱く臣威強し」とか「大不忠人」!と評したり、以前にもご紹介した「この世をば」の歌を記録したり(本人は言わなかったことにしたかった節がある)しています。この「錐の地も無き」も同じ類でしょう。

 彼はいろいろとエピソードが豊富です。特に怖じずに物を言うタイプだったようで、藤原伊周隆家兄弟の花山院乱闘事件、その隆家が大宰権帥として外敵(女真族)を撃退した時など、処置について自分の意見を強硬に主張しています。他方、囚人のために私費で井戸を掘らせて水不足を救ったり、娘を「かぐや姫」と呼ぶほど可愛がったりと、なかなか人間味を感じさせる話も伝わっています。
 この「立錐の地も無き歟」には、彼のカッカしやすい気性が出ているように思えます。そんなに摂関家の荘園がないのは知っているが、「摂関家許すまじ」という気分が高まって勢いで書いてしまった、といったところかと(^^;

 なお、今でもよく使われる「立錐の余地もない」という言葉は、この『小右記』の記事が起源かと思ったのですが、残念ながらどうもそうではないようです。『大漢和』によれば、たとえば「秦六国を滅ぼして後、立錐の地無からしむ」(『史記』)のように古くから見えますし、日本でも『本朝文粋』に「立錐の地」という用例はあります。もっとも、「立錐の余地もない」という言い回しを日本でしたのは、あるいは実資かもしれませんが..。

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2003.12.21.

56

らいしなや さいしやな

催馬楽「山城」

 催馬楽(さいばら)は、雅楽ふうに編曲された民謡のことです。分かりやすい類例を言うと、黒田節ですね(黒田節のメロディは雅楽「越天楽」です。ピッチは全然違うけど)。
 平安時代に貴族社会で広く愛唱されたようで、例えば前々回の"ことの葉"でご紹介した天徳四年(960)の内裏歌合でも、歌合が終わったあとの宴で、「安名尊」「桜人」「葦垣」「山城」が歌われたことが記録に残っています。
 このうちの「山城」は、こんな歌詞です
(岩波『日本古典文学大系・古代歌謡集』)

山城の 狛のわたりの 瓜つくり な なよや らいしなや さいしなや 瓜つくり 瓜つくり はれ
瓜つくり 我を欲しといふ いかにせむ な なよや らいしなや さいしなや いかにせむ いかにせむ はれ
いかにせむ なりやしなまし 瓜たつまでに や らいしなや さいしなや 瓜たつま 瓜たつまでに

 長いですが、これらの中で「な」「なよや」「らいしなや」「さいしなや」「はれ」は、いわゆる"囃し言葉"であって、特に意味はありません。今で言う「ぁそれ」とか「イエィ」みたいなもので(^^;
 他の曲から探してみると、
「あはれ」「はれ」「そこよしや」「さ」「さむ」「おけ」「さきむだちや」「てふかさ」「そよや」「おおしとど」などがあります。これらもある意味"ことの葉"ですね。

 さて、その囃し言葉を引き、くり返し部分をカットすると、

山城の 狛のわたりの 瓜つくり 我を欲しといふ いかにせむ なりやしなまし 瓜たつまでに
(山城国の狛の辺りの瓜作りが私をほしいと言うがどうしよう、話がまとまるかもしれない 瓜が熟するまでに)

という長歌に収まります。

 ところで、この歌をふまえた歌の贈答が、平安時代の『拾遺和歌集』に見られます。(岩波『新日本古典文学大系 拾遺和歌集』)

音に聞くこまの渡の瓜作りとなりかくなりなる心哉 9−557
(名高い狛の辺りの瓜作りは、その作る瓜がああ生りこう生るように、あれこれと心が定まらなくなるものだ)

定めなくなるなる瓜のつら見ても立ちや寄りこむこまのすき者 9−558
(あれこれとさまざまに生るという瓜の顔を見ても、立ち寄って来ることだろう、とにかく名高い狛の好色者なのだから)

 確かに、催馬楽「山城」を知らなければ意図が分からないような贈答ですが、瓜作りが心が定まらない軽薄者だとか、好き者だとかいうニュアンスは、もとの催馬楽にはありません。もっと普通の、男に口説かれて戸惑っている女の歌だと思うのですが....。平安の色好み男たちには、自分たちの先駆者というか、そういう風にしか聞こえないのでしょう(^^;

 なお、『倭名類従抄』には、催馬楽と雅楽との対応がいくつか書かれています。例えば、催馬楽「伊勢海」は雅楽「拾翠楽」、「桜人」は「地久楽」の破、「高山」は「放鷹楽」、といった具合です。これらについては、雅楽を調べればメロディが分かるのですが、残念ながら「山城」については不明です。歌ってみたい気もするのですがね。

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2003.12.14.

55

三十日三十夜は我がもとに

『蜻蛉日記』中巻

 『蜻蛉日記』の作者は、藤原倫寧(ともやす)の娘、後世「右大将道綱母」と呼ばれた女性です(例によって本名は分かりません)。歌の名手として知られ、また「本朝三美人」の一人に数えられるほどの美女でした(ちなみにあとの二人は、衣通姫と光明皇后らしいです(^^;)。
 夫は藤原兼家。その夫との結婚生活を中心に描いたのがこの日記です。
 一夫多妻制のもとで、彼女は夫を独占することができません。日記には、そのことをめぐっての彼女の想いが多く綴られています。

 さて、安和2年(969年)の年頭、その『蜻蛉日記』中巻の冒頭は次のように始まります。

年ごろあやしく、世の人のする言忌などもせぬところなればや、かうはあらむとて…「いづら、ここに、人々、今年だにいかで言忌などして、世の中こころみん」といふ

(今までずっと私の所では、普通の家と違って、世間の人のする言忌などもしないから。こんなに幸薄い身の上なのかしらと思い、…「さあ、ひとつ、みなさん、ことしだけでも、ぜひ言忌などして、運だめしをしてみましょう」)

(本文・訳は『小学館日本文学全集』より)

 「言忌」とは、不吉な言葉を口にしないようにすることです。受験生に「すべる」「こける」はダメ、の類ですね(^^;
 でも、その場の流れは「言忌み」ではなく「言寿ぎ」になります。その場にいた妹が、

「ものきこゆ。『天地を袋に縫ひて』」

と、寿ぎ歌「天地を袋に縫ひて幸ひを入れてもたれば思ふことなし」の冒頭を口ずさみます。これをうけて作者は、即興で替え歌を作ります。

「さらに、身には、『三十日三十夜はわがもとに』といはむ」

 「三十日三十夜はわがもとに入れてもたれば思ふことなし」ということなのでしょう(初句は不明ですが、「かの人を」なんてどうでしょうね)。年頭の寿ぎというか、願掛けですねこれは(^^;

 さて、この歌は出来がよいということで場が盛り上がり、夫兼家に贈ることになります。お使いは「小さき人」道綱(当時15歳…)。貴族にとって正月は行事続きで大忙しなのに、兼家は返事をしてきます。

年ごとにあまれば恋ふる君がためうるふ月をばおくにやあるらむ

(あなたの言うように「三十日三十夜」では、年ごとに日が余り、あなたの恋心も余ることになるので、ことしは閏年を置くのだろうかね。)

 当時の暦では、大の月は三十日ですが小の月は二十九日でした。それでは「三十日三十夜」が果たせない、一日一夜足りない。それが毎年積もっていくので、あなたの想いのために閏年(閏月)が置かれるのだね、という意味でしょう(実際、この年は閏五月がありました)。
 うまく受けたなと言えそうですが、
彼女が「30日30夜」というのは夫の訪れが少ないが故の願望です。その責任者からの返事としては、あまりにも他人事というか、逃げてるなという気がします

 まあ、兼家の立場になって考えてみると、この歌は決して快いものではないでしょう。そうでなくても忙しい(兼家はこの時蔵人頭左中将兼中納言東宮大夫)最中に、いい歌ができたと送ってきて、見たら結局は訪れが少ないことへの不満なのですから....。

 この返歌に対して、作者は「祝ひそしつ」(大変な祝詞になった)としています。大仰すぎることでしょうか。夫が重たく感じ、問題をそらしてわざと大仰にしてしてしまったことを感じ取ったのかもしれません。

 なお余談ですが、クイズでひっかけにつかった「源高明」のことです。
 この安和二年は、世に言う「安和の変」が起こった年です。左大臣だった源高明が謀反の疑いで大宰権帥へ左遷された事件で、黒幕は藤原兼家だったとされています。
 この事件は、実は『蜻蛉日記』にも記載されています。
「身の上をのみする日記には入るまじきことなれども」と断った上でのことなのですが…。作者は高明の正妻愛宮と親交があったらしく、事件のあとには彼女を痛む長歌を贈ったりしています。
 事件の黒幕が自分の夫であったことをもし知ったら、彼女はどんな反応をしたでしょうか?

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2003.12.07.

54

恋すてふ わが名はまだき立ちにけり 人しれずこそ思ひそめしか

『拾遺和歌集』11-621

 百人一首にも採られている有名な歌です。作者は壬生忠見。三十六歌仙に数えられている名手(父の壬生忠岑も有名)です。
 村上天皇の天徳四年(960)3月30日、後の世に語り継がれる一大イベントとなった内裏歌合が開かれます。彼はこの時、左方の"主力"として出詠を命じられ、四首を詠んでいます。この「恋すてふ」は、その中でも最高の出来だったのでしょうか。右方のトリの歌でした。

恋をしているという噂が早くも立ってしまった。誰にも知られないようにひそかに想い始めたのに。

 これに対し、右方のトリは平兼盛の歌でした。

忍ぶれど 色に出でにけり我が恋はものや思ふと人の問ふまで(『拾遺和歌集 』11-622)

 歌合ですから、どちらの歌が上かの決着をつけなければなりません。いえ、持ち(引き分け)という判定もあるのですが、ラストだけにそれは許されない雰囲気だったのでしょうか。
 記録によれば、判者の左大臣藤原実頼は左右とも優れていて勝敗を決められない(
「左右の歌伴に以て優なり。勝劣を定め申すこと能わず」)と天皇に奏上しましたが、天皇はあくまで判定せよと命じます。左大臣は大納言源高明に助けを求めますがやはりダメ。この間に、左右それぞれの陣営は、自陣の勝利を要求するするように、それぞれの歌の大合唱となっていました(「此の間、相互に詠揚、各我が方の勝ちを請ふに似たり」)。まさに大激戦です。そんな中、大納言は天皇が右方の歌(忍ぶれど)を小さく口ずさんでいるのに気づき、それを左大臣に伝え、右方の勝ちという判定が下ったのでした。

 実はこの話には続きとなる伝説があります。説話集『沙石集』は、忠見はショックで「胸塞がりて其より不食の病」つまり拒食症になってしまい、「遂に身まかりにけり」....憤死してしまった、としています。ここまでドラマッチックにしなくても、と思うのですが(^^;

 ところで、「恋すてふ」の「てふ」ですが、これは「といふ」の略で、読むときは「ちょう」となります。いわゆる"歴史的仮名遣い"というやつですね。
 「てふ」の「ふ」はまず「てう」と読む(それがさらに変化して「ちょう」になる)のですが、ではなぜ「てふ」と書くのか(あるいは書いたのか)というと、
かつては「てふ」と「てう」とは別の発音だったのが区別されなくなったが、表記だけが残されたと考えられています。
 なお、
この「といふ」が「てふ」になるのは、実は平安時代になってからのことです。奈良時代、万葉では、「といふ」の略は「ちふ」または「とふ」であったことが、万葉仮名から分かっています

由久智布比等波(行くちふ人は)5-800
必礼布理伎
等敷(領巾振りきとふ)5-883

 上の二例は、一字一音での「ちふ」「とふ」の表記としては最初のもので、どちらも他に多くの例があります。

 なぜ「といふ」が「ちふ」やら「とふ」やら「てふ」になるのか、さらになぜ「てう」が「ちょう」になるのか、非常に気になるところですが、それはまた別の機会に調べてみます。

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2003.11.30.

53

仰ぎて天心を論(かた)らふに、誰か能く敢へて測らむ。

『懐風藻』葛野王伝

 持統天皇の後継者を決める会議でどのような会話があったのか、というよりもそういう会議があったこと自体、『日本書紀』には全く記述がありません。その後の皇位継承を決定づけた大きな出来事なのですが..なぜでしょうね。
 このことは、日本最古の漢詩文集『懐風藻』の葛野王伝に記されています。史書ではありませんが、敢えてウソを書くとも思えませんし、大筋史実であったと考えていいでしょう。

高市皇子薨(みまか)りて後に、皇太后王公卿士を禁中に引きて、日嗣を立てむことを謀らす。時に群臣各私好を挟(さしはさ)みて、衆議紛紜(ふんうん)なり。

 問題は高市皇子の死によって表面化したようです。高市は母の身分こそ低いものの、先帝天武の"長男"であり、壬申の乱でも司令官として功績をあげ、持統朝では太政大臣を勤めてきました。その死が朝廷に与えた動揺は大きかったようです。
 彼を"実質的な皇太子"であったとする見方もありますが、であれば、高市の死は後継者が空席になったことになり、女帝が高齢であったことからしても後継者選びは急務であったでしょう(私は高市は"実質的な皇太子"ではなかったと思うのですが..)。

 持統は誰を後継者に指名するのか。それを諮る会議は紛糾したようです。その中で、大友皇子の遺児である葛野王が発したのか、この発言だったと『懐風藻』は伝えます。

「我が国家の法と為る、神代より以来、子孫相承けて天位を襲(つ)げり。若し兄弟相及ぼさば即ち乱此より興らむ。

 我が国の法は、神代より子から孫へと相続して皇位を継ぐことになっている、というわけです。
 親から子へ、さらに孫への直系継承。それがルールであるならば、持統の後継者は軽王でしかありえません。
 しかし、実際にはどうでしょう。「神代以来」、皇位は直系で継承してきたでしょうか。答えは否です。『古事記』や『日本書紀』を見ても、兄弟継承の例は枚挙にいとまがありません。というより、一部の時期をのぞいて、兄弟継承の方が常態であったと見る方がずっと自然です。
 何よりも、かく言う葛野王がそのことを体現しています。葛野の祖父は天智であり、父はその大友皇子です。直系継承がルールなら、天智の次は大友でなければならない(当然その次は彼自身)のに、実際は弟である天武が皇位を"簒奪"したのですから。
 その彼が、直系継承がルールだと言い出すのは不自然というか、矛盾しているように思います。その時に会議にいた人たちもそう思ったことでしょう(現に弓削皇子が反論しようとして、彼に叱責されています)。
 ところで、葛野王は、上の「直系継承がルール」発言のあとに、次のように言葉を繋いでいます。

仰ぎて天心を論(かた)らふに、誰か能く敢へて測らむ。然すがに人事を以て推(お)さば、聖嗣自然(おのずから)定まれり。此の外に誰か敢へて間然(かんぜん)せむや。」

 「天の心などを論じても、それは誰にも推測できない。」
 現代ならともかく、7世紀末という時期にこの言葉が出てくるとは..。正直おどろきました。彼は、天意など信じていない、しかもそれを広言して憚らないのです。そして、人事=人間関係から考えれば、後継者は決まっているではないか、というのが葛野の結論です。それは、女帝の意志はもう決まっている、皆知っているではないかという、まるでこの会議の異議そのものを否定するような発言です。
 この発言から、持統が孫に譲位したいというのは当時周知の事実だったことが窺えます。ならば、持統はなぜこの会議を招集したのでしょうか。

 持統から文武への譲位は、それまでの皇位継承の"慣例"からして大きな転換だったと考えられます。
 では当時の"慣例"とは何か。これは歴史学上の大問題で、とても断言はできませんが、「有力な王族の中から、年齢・世代・能力・血統などを鑑みて選ぶ」というようなものではなかったかと思われます。
 例えば聖徳太子こと厩戸皇子は、用明天皇を父に持ち、能力や人望でも劣った評価があったとは思えませんが、父の没後も崇峻の暗殺後も即位できませんでした。これは、父の没後には上の世代に崇峻が残っていたこと、崇峻没の時点でも年齢が若いと判断されたのではないかと考えられます(他にも要因はあったでしょうが)。
 それから考えれば、当時の文武は16才とあまりに若く、しかも父(草壁皇太子)は即位していないため「皇子」の身分すら持っていません。他に皇子がいないのならともかく、天智や天武の皇子がゾロゾロいましたから、その中で彼(文武=軽王)を皇位にというのは、かなりのアクロバットと言えるでしょう。
 軽王が他の皇子たちに比べて優位だったのは、現天皇(持統)と前天皇(天武)の直系であるという、血統上の点だけと言っていいです。

 ですから、葛野が「子孫相承けて」と言ったのは、ほぼ女帝の言いたいことを代弁しています。しかし、彼はそれを心から言っているのではないことが、後の「人事を以て推さば」に込められています。

「この国の皇位継承は直系継承が正しい道、ということらしいぜ。オレが言うのも何だか変だが、な。お偉い方が、そういうことにしたいらしいから、仕方ないじゃないか、なあみんな。」

 私は、葛野王の言葉にこんなニュアンスが込められているような気がして仕方ありません。
 ついでに言えば、「天の心などを論じても、それは誰にも推測できない。」という言葉には、
「自分の父が皇位を失い滅ぼされたのは、決して天意などではない。正義か悪かではないし、避けられぬ運命でもない。力が及ばなかっただけのことだ。恥じることではない。」「あなた(女帝)が年若い孫に皇位を無理矢理譲れるのも、それが正しいからではなく、あなたが権力者であるから従うだけだ。」という、プライドと皮肉が入り混ざったものが込められていると、私は感じます。いかがでしょう?

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2003.11.23.

52

雀の子を犬君(いぬき)が逃がしつる。

『源氏物語』若紫巻

 『源氏物語』の中で最も有名な場面の一つでしょう。
 若き日の光源氏は、祈祷に赴いた北山で、偶然に美しい少女を垣間見ます。源氏の"最愛"の女性となる、紫の上です。物語の中で長く重要な役割を占める彼女の、最初のセリフがこれです。

「雀の子を犬君が逃がしてしまったの。」

 最後の「つる」は「つ」の連体形ですが、係助詞はないので係り結びではなく、いわゆる連体形止めによる詠嘆の表現というやつですね。彼女の落胆具合が感じ取れます。
 彼女のセリフは、さらに
「伏籠のうちに籠めたりつるものを」と続きます。どのようにかして捕まえたスズメの子を、そうして逃げないようにしておいたのでしょう。たぶんエサもあげてなかったのでしょうから、そう考えると犬君チャンの方がやさしいのかも..(^^;

 この「犬君」という名ですが、いわゆる童名(わらはな)というものと思われます。 
 平安中期になると、貴族の童名が確認できる例が散見するようになります。戸籍の作成が放棄されたことが背景にあったのかもしれません(戸籍があれば誕生時から名前が残るわけで、童名が生まれにくいと考えられます)。
 有名なものでは、紀貫之の「阿古屎(あこくそ)」、菅原道真の娘の「阿満(あま)」、在原業平の孫娘の「おほつぶね」といったものがあります。「犬君」は他に見えませんが、少し似た「あてき(貴君)」というのは同じ『源氏物語』や『紫式部日記』に見えます。ここも、姫君(紫の上)の遊び相手の女童と思われます。

 ところで、このイタズラな女童の犬君チャンは、少し後でもう一度物語に登場します(紅葉賀)。正月元旦に(自分の館の)姫君の部屋を源氏がのぞくと、姫君は部屋いっぱいに道具を広げて人形遊び(「雛」)をしており、源氏に向かってこう話しかけます。

「儺やらふとて、犬君がこれをこぼちはべりにければ、つきろひはべるぞ」

 「儺やひ」はいわゆる追儺=おにやらひで、大晦日の夜に邪気を払うために行う儀式です。鬼を追う役の方相氏(ほうそうし)--盾と矛を持ち、黄金の4つ目の仮面をかぶります--役の人形にしたのでしょうか。それとも鬼に見立てたのでしょうか。前夜の大晦日のことなのでしょう、犬君は人形を壊してしまったようです(^^;

 うーん、優しいというより乱雑なコなのかな..(^^;

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2003.11.17.

51

何の時にか此の猪の頸を断るが如く朕が嫌しとおもふ所の人を断らむ。

『日本書紀』崇峻5年10月4日条

 『日本書紀』によれば、崇峻天皇5年10月4日、猪が献上されました。その時、天皇がその猪を指してこう言います。

「いつの日かこの猪の頸を斬るように、自分がにくいと思うところの人を斬りたいものだ」

これだけでは、天皇が頸を切りたいと思っている相手が誰かは分かりませんが、書紀は、この言葉を聞いた蘇我馬子は、自分が天皇に嫌われていると考え、警戒を強めて逆に天皇暗殺を決意した、と記しています。
 天皇としては迂闊なことを言ってしまったわけですが、このアブナイ発言が馬子側に漏れてしまった事情について、書紀は「或る本に曰く」として、事を漏らしたのは妃の大伴小手子で、天皇の寵愛が衰えたのを恨んでのこととしています。うーん、どこから身の破滅になるか分からないものですね〜(^^;

 ところで、崇峻天皇が蘇我馬子を殺したいほど憎む理由ですが、実はよく分かりません。書紀の崇峻に対する記事は少なく(在位期間も短いですが)、その中には馬子との確執を示す内容は見あたりません。
 天皇とは名ばかりで馬子に牛耳られていたのが不満だったというのが一般的な見方のようですが、例えば前年8月1日には詔を発して任那の再建を提案し、群臣も同意し、11月にはそのために諸将を筑紫に派遣しています(もっとも、このために中央が手薄になってしまったことが、天皇暗殺が成功した一因でもありますが)。
 書紀を見ていると、この猪云々の記事は突然に入ってくるのです。

 そもそも崇峻は、用明亡きあとの内乱において、蘇我氏を中心とする勢力に担がれて即位しています。従来の大連大臣の二頭体制から大連不在になったこともあり、蘇我馬子が朝政を牛耳るのはある程度は予想通りであったと思うのですが。
 蘇我氏としても、せかっく擁立した新天皇をこんなに早急に抹殺してしまうような理由があったのか、疑問が残ります。

 考えてみれば、崇峻が猪から馬子を連想したとは、書紀は一言も言っていません別の人物のことを言ったのを誤解された可能性は否定できません。「或本」が后の嫉妬が仲立ちしているのだと書いたのも、この辺りの不透明さを反映しているのかもしれません。

 そう考え始めると、色々と疑わしくなってきます。密告したという妃は大伴連糠手の娘です。大伴氏としては、昔年の栄光はないものの、蘇我氏の栄華を快く思っていなかったであろうことは想像に難くありません。また、直接の刺客となった東漢直駒が馬子の娘である河上娘をひそかに掠めたことも、何か腑に落ちない、違和感があります。

 いずれにせよ、教訓(^^;
 壁に耳あり障子に目あり。誤解を招く言い方は控えましょう…。

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2003.11.09.

50

あづまはや

『古事記』景行天皇段

 このセリフは、ヤマトタケルノミコトのものです(『古事記』では「倭建命」、『日本書紀』では「日本武尊」)。

 以前にもご紹介しましたが、ヤマトタケルは東征の際、走水の海(浦賀水道)で嵐に遭い、妃のオトタチバナが海神に身を捧げて事なきを得ました。のち、ヤマトタケルは足柄(書紀では「碓日」)の坂に上ったとき、(妃のことを思い起こして)三度「吾妻はや(わが妻よ)」と言ったので、これが東国を「あづま」というようになった語源であるとしています。

 記紀が伝えるヤマトタケル伝承には、このほかにも地名説話がいくつか見られます。例えば、火を用いての戦いの地に「焼津」、足がたぎたぎしく(トボトボに)なったので「当芸」、疲れて足が「三重」になった、といった具合です。もちろん、史実であると見るわけにはいきませが(^^; まずこうした伝承が各地にあって、それらが統合されて記紀にまとめられたのかもしれませんね。

 ヤマトタケルについては、さまざまな伝承が一人の人物に集約されたものであるのは確かですが、全く架空の人物だったのか、核となる人物が実在したのかといったところは、なかなかに難しい問題です。が、こういった地名伝承の存在や、系譜上で彼の子孫を称するものが多いことは、古代において彼が色濃く"実在"していたことを教えてくれます。

 もっとも、「あづま」という語がヤマトタケル以前に存在していた可能性は十分あると思います。ただ、語源について他の説がイマイチで、これというのがちょっと見つかりません。また、現在でも群馬県に「東(あずま)村」が3つもある(書紀に言う「碓日」から振り返ればそこは現在の群馬県です)ことも、この伝承がいまも強く支持されていることを示しているように思います。

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2003.11.03.

49

答へて曰く「日本国の使」と。

『続日本紀』慶雲元年七月朔日条

 初の本格的な律令が完成し、「大宝」という年号も制定された701年、ほぼ30年ぶりに遣唐使の派遣が決定し、翌702年(大宝2年)秋に出発しました。
 遣唐使の首席(執節使)は粟田真人。一行は中国楚州の海岸にたどり着き、そこへ現地の役人が確認にやってきます。役人が
「どの国の使者か?」と尋ねたのに対して、粟田真人らは「日本国の使者である」と回答した、と『続日本紀』にあります。

 おそらくこれが、「日本」という国名を対外的に使った最初だろうと考えられています。その意味で、記念すべき"ことの葉"と言えるでしょう。
 唐側の史書『旧唐書』には、この新しい国号「日本」と、これまで彼ら?が名乗ってきた「倭」との関係について、3つの解釈を併記しています。

  • 日本国は倭国の別種なり。その国、日辺にあるを以て、故に日本を以て名と為す。
  • 倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す。
  • 日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)す。

 粟田真人らがどのような説明をしたのか、それがきちんと伝わったのか、かなり疑わしい気がします。とはいえ、この国名変更が唐に強い印象(疑念?)を与えたこと、にもかかわらず新しい国名が一応認められたことは確かなようです。

 なお余談ですが、この時の中国は厳密には唐ではなく「周」でした。というのも、当時の皇帝はかの女帝武則天であり、彼女は唐帝の皇后でしたが氏は武氏であり(当然ですが)、唐王朝の李氏とは異なるので、王朝交代が成立したからです。粟田らは最初このことが飲み込めず、「ここはどこですか?」「大周です。」「え?唐じゃないのですか?」と、混乱した会話がなされたことも、『続日本紀』に記されています。

 もう一つ余談になりますが、この粟田真人というのはかなりの人物だったようです。さきの『旧唐書』日本伝には、「真人、好んで経(=経書)史(=史書)を読み、文を属(つづ)るを解し、容止温雅なり」と絶賛していたりします。

 さて、この遣唐使一行の中に、あの山上憶良もいました(地位は少録)。そしてその憶良が、帰国を前にした宴会で詠んだ歌と考えられれているのが、次の歌です。

いざ子ども 早く日本へ 大伴の御津の浜松 待ち恋ひぬらむ 1-63

 この「日本」(原表記のまま)をどう読むか。ふつうは「やまと」と読まれているのですが、吉田孝氏は『日本の誕生』(岩波新書)の中で、

憶良は宴席で「いざ子ども早くやまとへ…」と高らかに歌い、そのあとで、紙に書いたこの歌「去来子等 早日本辺…」を見せながら「いざ子ども早くニッポンへ…」と当時の長安の漢字音(「ニッポン」と「ジッポン」の中間に近い音か)で「日本」を強くうたい、拍手喝采を受けた−私はそう空想したい。

(前掲書9〜10頁)

と述べておられます。なるほど、と思うところです。

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2003.10.26.

48

我はもや安見児得たり 皆人の得かてにすといふ安児得たり

『万葉集』巻2

 この歌(巻2ー95)は天智朝のもので、詞書には、「内大臣藤原卿、采女の安見児を娶く時に作る歌一首」とあります。内大臣藤原卿=鎌足が、安見児という名の采女を娶った時の歌であることが分かります。

 ほとんど訳すまでもないようなストレートな歌ですが(^_^)、「得かてにすといふ」は「手に入れかねる」というくらいの意味(「かて」は、できるという意味の動詞「かつ」の未然形)だそうです。

 采女は天皇に奉仕する女官です。采女は天皇が妻とする場合もあり、臣下にとってはいわば"高嶺の花"でした。
 また、采女と通じることは禁忌でもありました。例えば、巻4ー535左注には、

右、安貴王、因幡の八上采女を娶る。係念(おもひ)極まりて甚だしく、愛情尤も盛りなり。時に、勅して不敬の罪に断(さだ)め、本郷に退去(まか)らしむ。

とあります。そうした"采女"を得た(天皇から賜ったのでしょう)鎌足は大いに喜んだ、というわけです。

 鎌足は天皇から妻を"賜り"、その妻が子どもを産んだために、鎌足の子とされているが実は天皇の子ではないかという噂が2件あります。一人は長男の定慧で、孝徳天皇の子という噂があり、もう一人は次男の不比等で、こちらは天智の子という噂があります。特に後者は有名で、『大鏡』ははっきり断言しており、平安時代には"通説"だったのかもしれません。
 この"安見児"が子どもを産んだのかどうかは、分かりません。また、この素直な歌いぶりからは、あまり政治的なものは読みとれません。むしろ、冷徹な政治家のイメージが強い鎌足の人物像を、別の面からかいま見るような気がします。

 歌の形としては、2句目の「安見児得たり」で句切れ、同じフレーズが最後の7句目で繰り返されています。その結果、「安見児得たり」が強調されるのはもちろん、とてもリズミカルになってより印象的です。
 ただ、2句目をそのまま7句目で繰り返す"技法"は、もちろんこの歌独自のものではありません。『万葉集』でも、

あさもよし 紀人ともしも 真土山 行き来と見らむ 紀人ともしも 1-55

豊国の 香春は我家 紐児に いつがり居れば 香春は我家 9-1767

のような例がみつかります。記紀歌謡にも見えます。

倭方に 往くは誰が夫 隠水の 下よ延へつつ 往くは誰が夫 (古事記仁徳)

枚方ゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹き上る (日本書紀継体二十四年十月条)

 どちらかというと古い技法なのかもしれません。
 私は、もともと古くさい五七調の歌が好きなので、この歌はお気に入りです(^_^)

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2003.10.19.

47

藤三娘

『楽毅論』写本巻末署名

 『楽毅論』は、中国の戦国時代の燕国の宰相だった楽毅という人物を論じ、その人徳を賞賛した文章です。名筆として名高い王羲之が書したものによって伝わったと考えられており、正倉院に残る光明皇后の『楽毅論』は、この王羲之の筆を模した本を手本に臨書したものだそうです(丸山裕美子『天平の光と影』NHK文化セミナーテキスト)。

 私もかつて正倉院展で本物を拝見したことがありますが(奈良平城宮跡資料館に写真があります)、素人目にいかにも豪放というか、細かいことを気にしないで書いている、という感じです。夫聖武天皇の書いた『雑集』も残されていますが、こちらは繊細というか線が細く、きっちりと書こうとしていることが伝わってきます。文字は人なりと言いますが、夫婦の性格の違いを反映していたのか、どうか。

 ところで、この「藤三娘」は皇后の自署です。「藤原氏の三女」という意味でしょう。光明皇后(安宿媛)の父は言わずと知れた藤原不比等であり、不比等には少なくとも3人の娘がいたことが分かっています。一人は文武天皇の夫人となって聖武を産んだ宮子、一人は長屋王に嫁いだ女性、そして安宿媛です。(もっとも、もう一人多比能という娘がいたという説もあり、彼女は橘諸兄の妻となっています)。

 古代中世も、女性は結婚しても姓を変えませんでした。橘三千代は藤原三千代ではなく、北条政子は源政子ではなく、日野富子は足利富子ではありません。これは父系重視の中国文化によるもので(近年日本で議論されている、女性の社会的地位にかかわっての「夫婦別姓」とはちょっと性格が異なります)、現在でも中国・韓国は「夫婦別姓」です。

 とはいえ、皇后として天皇家を支え、切り盛りしていたとはいうものの、やはり彼女は「藤原氏」を背負っていたように思います。彼女が死んだあと、栄華を誇った藤原仲麻呂は下り坂となっていく(逆に孝謙上皇が伸び伸びしていく)のが象徴的です。

 この「藤三娘」にも、そんな彼女の心意気が感じらるような気がします。

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2003.10.12.

46

あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を一人かも寝む

『万葉集』巻11

 とても有名な歌ですが、ちょっと調べてみると意外なことがあるんです。

 この歌は、『小倉百人一首』に柿本人麻呂の歌として取られています。「あしびきの」は「山」にかかる枕詞、「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の」が「長」にかかる序詞で、要は「長々し夜を独りかも寝む」、つまり「あなたがいない独り寝の長い夜でした」という歌です。「の」の繰り返しによる畳みかけるようなリズムが素晴らしいと言われています。

 ところでこの歌、『万葉集』で調べてみると、次のようになっています。

思えども思いもかねつ あしひきの山鳥の尾の 長きこの夜を
      或る本の歌に曰く「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を独りかも寝む」

(巻11−2802 物に寄せて思ひを陳ぶる 作者不明)

 つまり、この歌は「思えども」という歌の"異説"であって、万葉が正規と認めたものではないのです。そして作者も分かりません
 もっとも、これがことさら異常というわけではありません。前後の同じ部類(「物に寄せて思ひを陳ぶる」)には190首もあり、すべて作者は記されていません。また、「或る本の歌に曰く」「一書の歌に曰く」として異説を付している歌も、そのうち9首にのぼります。
 もっとも、異説がある場合でもたいていは部分的な差なのですが、この歌については、共通している部分はあるもののやはり別の歌ではないかと考えるのが通説のようです。
 ただ、別の歌ならば別に収録すればいいことです。万葉の編者がそうしなかったのは、この歌を別に収録するほどのものではないと考えたからでしょうし、またこの「あしひきの」の歌の方を「或る本に曰く」扱いにしたのは、彼らが「思へども」の方に軍配をあげたということなのでしょう。
 好みの問題でしょうが、「思へども」に比べると「あしひきの」はやや淡泊といか、単調な印象を受けます。"ことの葉"に選んでおいて言うにも何ですが(^^;

 にもかかわらず、「あしひきの」は名歌とされ、百人一首に採られます。百人一首は藤原定家の好み(=当時の歌人たちの嗜好)と言っていいと思うので、万葉とは評価が逆になったのでしょうか。

 それにしても、最初に書いたようにこの歌は人麻呂作ではありません。人麻呂作と明記された歌(『万葉集』中には90首ほど存在)でないのはもちろん、人麻呂の手によってまとめられた「柿本朝臣人麻呂歌集」(万葉の中に含まれ、選集や編集に人麻呂の考えや感性が反映しており、「人麻呂作」に準ずるものとされています)にも属しません。
 ところが、どういうわけか平安時代の『三十六歌仙集』『拾遺和歌集』『和漢朗詠集』で、この歌が人麻呂作と明記されており、特にこの歌は代表作と位置づけられ、藤原定家による百人一首へとつながっていったようです。

 誰が最初にこの歌を人麻呂作だと言い始めたのかは分かりません。が、万葉の詞書や史書によるものではありませんから、歌の姿というか、傾向というか、そういうところから人麻呂作に違いないと判断されたとしか考えられません。
 私にはこの辺の「感性」はちょっと分かりません。ただ、「人麻呂かくあるべし」という一種の信仰のようなものが千年の時を越えたのは、認めざるを得ません。

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2003.10.05.

45

うつそみの人なる我や 明日よりは二上山を弟(いろせ)と我が見む

『万葉集』2-165

 大伯皇女の父は天武、母は天智の娘太田皇女です。同母の弟に大津皇子がおり、この歌は処刑された大津皇子を思っての歌です。
 大伯が生まれたのは斉明7年正月8日です。この時、天武や太田を含めた朝廷の面々は、百済救援の派兵のために九州への遠征の途上にありました。『日本書紀』によれば、

御船、大伯海(現在の岡山県邑久郡)に到る。時に、大田姫皇女、女を産む。仍りて是の女を名けて、大伯皇女と曰ふ。

とあります。
 皇族の名前は、この頃は地名か氏族名がついています。これは、養育にあたった氏族や、ゆかりのある地名によると考えられています。ただ、その多くは関係は推測するしかなく、名前の由来が『日本書紀』にきちんと説明されているのは珍しいです。
 また、同じ年の3月に一行は
「娜大津」(現在の博多港)に到着していますから、弟大津の名もここからつけられたものと思われます。

 なぜここで二人の名前にこだわるかというと、名前のつけられ方して、この二人は幼少期一緒に育てられたのではないかと思えるからです。ともに九州遠征の途次の地名であり、養育氏族の名前ではないので、二人は(別々の養育氏族のもとではなく)母である大田皇女が直接育てていた可能性が考えられるからです。
 古くから、大伯と大津には、姉弟の関係を超えて恋愛感情が存在した、という説があり、ほとんど通説として(^^;流布しています。当時、異母兄弟姉妹の婚姻は普通に行われ、同母兄弟姉妹の婚姻は強いタブーでした。その背景には、子どもが母のもとで育つため、異母の兄弟姉妹は他人同然であったことが言われています。皇族の場合は、同母であっても別の氏族に養育される場合が多かったと思われますが、大伯と大津に限っては、これも当てはまらないと思うのです。
 もちろん、
一緒に育ったから恋愛感情が育たないと断言はできませんけど..

 朱鳥元年9月9日に天武が没し、大津は謀反を起こそうとして10月2日に発覚、3日には処刑されました。これにともなってか、伊勢斎宮であった大伯はその任を解かれ、11月に都へ戻ります。
 『万葉集』には、この事件に先だって大津が
「窃かに伊勢の神宮に下りて上りましし時」の大伯の歌二首、斎宮を解かれて上京する時の歌二首、「大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時、大来皇女の哀しび傷む御作歌二首」が残されています。

うつそみの人なる我や 明日よりは二上山を弟と我が見む

「うつそみ」(現世)に残る自分。「や」は、最愛の弟を失って自分が生きている実感を失っているのかもしれません。

 なお、その弟の「屍」(この表現がすでに謀反人としての扱い)が葬られている二上山ですが、現在、雄岳山頂にある大津皇子墓は江戸時代に定められたものです。謀反人の墓を山頂に作るとは考えがたく、最近(1983年)に発見された鳥谷口古墳が大津の墓ではないかとされています。
 橿原考古学研究所の河上邦彦氏は、「被葬者を推定するのはかなり慎重にならなければならない」とされつつ、この古墳が「
当時の墓制の最低の規模」でありながら「二上山麓の南斜面に築造された唯一の古墳」であり、石室の規模からも「骨を集めた二次葬以外は考えられない」「調査時すでに盗掘されていたとはいえ、木棺の残欠、骨の一部等も全く無かったことは、当古墳が単なる土葬でないことを示しているようだ。おそらく金属製の容器であり、盗掘によってそのまま持ち去られた可能性が強いのではないか」とされています。大伯の歌からも、二上山の墓が二次墓(移された墓)であると考えられるからです。

 もしこの推測が当たっているなら、盗品としての大津の遺骨はどこかにうち捨てられているのでしょうか....。

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2003.09.28.

44

(さが)無くば善かりなまし。

『江談抄』

 この落書を収録している『江談抄』は、平安後期(12世紀初頭成立)の説話集で、大江匡房の談話を藤原実兼が筆記したとされています。有職・故事をはじめ様々な話が雑多に並んでおり、なかなか興味深いものです。

 問題の場面は、第三の四二「嵯峨天皇の御時、落書多々なる事」という逸話です。
 嵯峨天皇の時代に
「無悪善」という落書があり、これを小野篁が「さがなくはよかりなまし」と見事読みます。この「さが」が「嵯峨」をかけており、「嵯峨天皇さえいなければ良いのに」という意味になります。
 嵯峨天皇の時代に、天皇のことを「さが」と呼んでいたというのは、ちょっと考えがたいと言うか、いかにも説話的です。ただ、「桓武」や「光仁」といった諡号(おくり名)は死後に贈られたものですが、「嵯峨」は諡号ではなく、彼が好んだ嵯峨院(現在の大覚寺)という離宮の名前によるので、生前に彼が「嵯峨の帝」と呼ばれていた可能性は0ではないと思いますが..。

 ところで嵯峨は、これを聞いて落書を書いたのが篁である(「篁が所為なり」)と思い、処罰しようとします。言いがかりもいいところですが、篁は「そんなことをすれば学問の道が絶えますよ(さらに候ふべからざる事なし。才学の道、しかれば今より以後絶ゆべし)」とこれに抗議します。それではと、嵯峨は別の謎めいた落書を持ち出して篁に出題します(「尤ももって道理なり。しからば、この文読むべし」)。

一伏三仰不来待書暗降雨慕漏寝

 篁はこれも読んで見せます。

つきよにはこぬひとまたるかきくもりあめもふらなんこひつつもねん

 この歌そのものは、『古今集』15-775にあります。「一伏三仰」を「つく」と読むのは、説明すると長くなるのですが万葉時代からの戯訓の変形です。篁はこれも見事に読み解いた、というのです。

 嵯峨天皇は、いわゆる薬子の乱による混乱を収拾し、蔵人頭や検非違使の新設したり、東北への出兵、『弘仁格式』の編纂などを行わせたあと、弟(淳和天皇)に譲位します。が、上皇として、その次の仁明天皇の時代も合わせて実に33年にわたって天皇家の家長として重きをなし、安定した時代を築きました。
 ただ、彼は政治が好きではなく、悠々自適の生活を送りたかったようです。譲位するにあたっても、右大臣藤原冬嗣は、当時続いてた不作からくる財政難を理由に反対したのですが、全く耳を傾けませんでした。「さがなくはよかりなまし」という説話が生まれる背景には、こうした嵯峨の「あり方」があったと言えるかもしれません。

 なお、この話の最後には、当時のさまざまな落書が列記されていて、いくつかは現在でも読み方が分かっていないようです。興味のある方はごらんになってみてください。

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2003.09.21.

43

天と赤兄と知らむ。吾全(もは)ら解(し)らず。

『日本書紀』

 有間皇子は、孝徳天皇を父に、左大臣阿倍倉梯麻呂の娘を母に持つ皇子です。ただし、「事件」の時には父も祖父も死んでいました。阿倍氏の後ろ盾はあったと思われますが、実質的な権力の中心にいた中大兄皇子とは不和だったようで、当時の朝廷においては大きな「火種」であったと思われます(有間は狂気をよそおって難を避けようとしたとされています)。

 斉明天皇4年(657)、紀伊国の牟婁(むろ)湯に天皇が行幸し、中大兄皇子らも同行して都を開けていた時に、「事件」は起こります。『日本書紀』斉明4年11月3日条によると、ことの発端は、

留守をまもる役目の蘇我赤兄が、有間皇子に語って、「天皇の治世に三つの失政があります。大きな蔵を立てて、人民の財を集め積むことがその一。長い用水路を掘って、人夫にたくさんの食糧を費やしたことがその二。舟に石を積んで運び、岡を築くというようなことをしたそがその三です」といった。有間皇子は、赤兄が自分に好意を持っていてくれることを知り、喜んで応答して、「わが生涯で始めて兵を用いるべき時がきたのだ」といった。

(訳は講談社学術文庫)

と記されています。これによれば、蘇我赤兄が有間をそそのかし、それに有間が乗ったということになりますが、実は『日本書紀』には「或本に曰く」として、こういう異説を併記しています。

有間皇子が、「まず大宮を焼いて、五百人で一日二夜、牟婁津(田辺市の港)に迎え討ち、急ぎ舟軍で、淡路国をさえぎり、牢屋に囲んだようにすれば、計画は成り易い」といった。ある人が諫めて、「よくないことです。計画はそれとしても徳がありません。皇子は今十九歳です。まだ成人もしていません。成人されてから徳をつけるべきです」といった。

 こちらによると、有間はかなり乱に積極的で、血気にはやって周囲に押さえられているといった印象を持ちます。
 どちらにせよ、彼はまったくの無実・冤罪ではなく、そそのかされたにせよ積極的だったにせよ、謀反を起こそうと決意したのは確かなようです。

 よく言われるように、『日本書紀』には編纂者による作為や潤色がなされている可能性があります。有間の謀反心にしても、(実はなかったのに)そういう記事を「作った」という考え方も一応は成り立ちます。でも、ならば「或本」の方を本文に採用した方がより印象的にできたはずです。それをしなかったことからも、有間の謀反心はやはり存在したのかな、というのが私の判断です。

 むしろ、この本文記事における蘇我赤兄の"悪役"が、私にはあまりに露骨に思えます。
 これが史実であるとすれば(天皇の治世を批判してるのですから)、彼もなんらかのお咎めを受けてしかるべきなのに、その形跡はないばかりか左大臣にまで上っています。赤兄がのち壬申の乱で流刑にされたことを考えると、この"悪役"の方が後世の作為なんじゃないか、まがりなりにも皇族である有間皇子が自分から乱を起こしたというのは体裁が悪いので、赤兄の策謀にひっかかったという形にした、そんな風に思えます。

 いずれにせよ、彼は捕縛され、紀伊に護送されて中大兄の尋問を受けます。そこで彼が発した言葉が、この「天と赤兄と知らむ」です。
 なかなか泣かせる名文句ですが、どうもこの「天」が中国的というか、浮いているというか、当時の人が発した言葉と言うよりも後世になって作文(潤色)したような"におい"がします。と同時に、上と共通するのですが、有間を"持ち上げよう"という意識を感じてしまうのですが、考えすぎでしょうかね(^_^;

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2003.09.14.

42

東風吹かば にほひをこせよ梅花 主なしとて春を忘るな

『拾遺和歌集』

 最後の「春を忘るな」は、「春な忘れそ」の方がちょっと有名かなと思います。そちらは、『大鏡』(時平伝)に伝えられている形です。どちらでも意味は同じなのですが(^^;ここでは、勅撰集の方を採用してみました。

 歌の詞書には、「流され侍りける時、家の梅の花を見侍て 贈太政大臣」とあります。「贈太政大臣」はもちろん、右大臣から大宰府の権帥(ごんのそち)に左遷された菅原道真のことです。彼の怨霊を恐れた朝廷は、993年に太政大臣を追贈しています。

 道真が梅を好んだのは有名です。京都の北野天満宮はいまも梅の名所として知られています。また、梅が道真を恋い慕って飛んでいったという、いわゆる「飛梅」伝説もここから生まれました。
 左遷されて都を追われた道真の悲哀が伝わる名歌、と言うべきなのでしょうが、どうも私は感情移入できなくて困ってしまいます。だって、梅の花が(主がいないからといって)春を忘れないのは当たり前であり、同じ言うなら「春は来ぬとも主忘るな」とでも歌った方がいいような気もします。そもそも、左遷されたからといって殺されるわけでもなく、地方官は任期がありますからいずれ都には帰れるでしょう。彼自身、国司として讃岐国への赴任経験もあります。何もここまで悲嘆しなくても、と梅も苦笑していたような気がすると言うと、意地悪すぎるでしょうか(^^;

 『万葉』なら、梅と言えば大伴旅人であり、大伴旅人と言えば大宰府ですしね。

 大臣の地位にまで昇ってしまった彼には、その地位を失うことは死刑宣告にも等しいほどつらいことだったのでしょうか。学者出身の彼にしてこのようであるとすれば、権力の座とはかくも甘美なものかと、庶民の身としては嘆息するのみ、です。
 ところで
「東風(こち)」ですが、『蜻蛉日記』では秋の風を「こち」と呼んでおり、当時はかならずしも春の風とは限らなかったようです。「こち」の語源については、『日本国語大辞典』を見ても諸説乱立しておりサッパリ分かりません(^^;; また、現在でも各地の方言に「こち」という風の名前はあるようですが、これも東西南北いろいろです(^^;;;

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2003.09.07.

41

后の位も何にかはせむ

『更級日記』

 『更級日記』の作者(菅原孝標女)は、地方から上京してきたおばからのプレゼントで、念願だった『源氏物語』五十余巻を手に入れます。これは、その時の感動を表現したものです。
 それ以前にも、断片的には読んでいたようで、この箇所の少し前に、

紫のゆかりを見て、つづきの見まほしくおぼゆれど、人かたらひなどもえせず。たれもいまだ都なれぬほどにて、え見つけず。(源氏物語の紫の上にまつわる巻を呼んで、その続きが見たくてたまらなかったが、人に頼むことなどもできなかった。家の者は皆まだ都に馴染みが浅くて、そんなものを捜すことなど、とてもできはしない)

〜原文・訳は『小学館日本古典文学全集』より引用〜

という記述もあります。やはり「若紫」だったのでしょうか(^^;

 念願かなった彼女は、

心も得ず心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人もまじらず、几帳のうちにうちふしてひき出しつつ見るここと、后の位も何かはせむ。(話の筋も納得がゆかず、じれったく思っていた源氏物語を一の巻から読み始めて、邪魔も入らずたった一人で几帳び内に伏せって、櫃から一冊ずつ取り出しては読む気持ち、この幸福感の前には后の位も何になろう。)

と書いているのです。
 平安朝の女性にとって、「后の位」はとてつもない夢だったはずです。それが、「何にかはせむ」と一蹴されてしまうのですから、いかに嬉しかったかのかが分かりますね。
 さらに、物語に没入していった彼女は、こんなことを言い出します。

われはこのごろわろきぞかし。さかりにならば、かたちもかぎりなくよく、髪もいみじく長くなりなむ。光の源氏の夕顔、宇治の大将の浮き舟の女君のやうにこそあらめと思ひける心、まついとはかなくあさまし。(私はいまのところ器量も良くなことだ。けれども年ごろになったら、顔だちもこのうえなく美しく、髪もずいぶんと長くなるに相違あるまい。そして、光源氏の寵愛を受けた夕顔、薫の大将の想い人浮舟の女君のようなになるのだろう、と思っていた私の心は、いま考えてみると、なんともまず、たわいのない、あきれはてたものだった。)

 自分であきれ果てるなら書くなよ(^^;とも思いますが、当時の女の子の"世界"がリアルに伝わってきて、嫌いじゃないです。

 なお、この「光の源氏の夕顔、宇治の大将の浮き舟の女君のやうにこそあらめ」という一文から、「夕顔」「浮舟」という登場人物名が、当時から使われていたことが分かります。というのは、源氏の登場人物名には、作者ではなく後世の読者が命名したものがかなり多いからです。くわしくは、当サイトの「スズメ♂の調べてきました」の「源氏物語の登場人物名について」をご覧ください。

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2003.08.31.