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『蜻蛉日記』の作者は、藤原倫寧(ともやす)の娘、後世「右大将道綱母」と呼ばれた女性です(例によって本名は分かりません)。歌の名手として知られ、また「本朝三美人」の一人に数えられるほどの美女でした(ちなみにあとの二人は、衣通姫と光明皇后らしいです(^^;)。
夫は藤原兼家。その夫との結婚生活を中心に描いたのがこの日記です。
一夫多妻制のもとで、彼女は夫を独占することができません。日記には、そのことをめぐっての彼女の想いが多く綴られています。
さて、安和2年(969年)の年頭、その『蜻蛉日記』中巻の冒頭は次のように始まります。
年ごろあやしく、世の人のする言忌などもせぬところなればや、かうはあらむとて…「いづら、ここに、人々、今年だにいかで言忌などして、世の中こころみん」といふ
(今までずっと私の所では、普通の家と違って、世間の人のする言忌などもしないから。こんなに幸薄い身の上なのかしらと思い、…「さあ、ひとつ、みなさん、ことしだけでも、ぜひ言忌などして、運だめしをしてみましょう」)
(本文・訳は『小学館日本文学全集』より)
「言忌」とは、不吉な言葉を口にしないようにすることです。受験生に「すべる」「こける」はダメ、の類ですね(^^;
でも、その場の流れは「言忌み」ではなく「言寿ぎ」になります。その場にいた妹が、
「ものきこゆ。『天地を袋に縫ひて』」
と、寿ぎ歌「天地を袋に縫ひて幸ひを入れてもたれば思ふことなし」の冒頭を口ずさみます。これをうけて作者は、即興で替え歌を作ります。
「さらに、身には、『三十日三十夜はわがもとに』といはむ」
「三十日三十夜はわがもとに入れてもたれば思ふことなし」ということなのでしょう(初句は不明ですが、「かの人を」なんてどうでしょうね)。年頭の寿ぎというか、願掛けですねこれは(^^;
さて、この歌は出来がよいということで場が盛り上がり、夫兼家に贈ることになります。お使いは「小さき人」道綱(当時15歳…)。貴族にとって正月は行事続きで大忙しなのに、兼家は返事をしてきます。
年ごとにあまれば恋ふる君がためうるふ月をばおくにやあるらむ
(あなたの言うように「三十日三十夜」では、年ごとに日が余り、あなたの恋心も余ることになるので、ことしは閏年を置くのだろうかね。)
当時の暦では、大の月は三十日ですが小の月は二十九日でした。それでは「三十日三十夜」が果たせない、一日一夜足りない。それが毎年積もっていくので、あなたの想いのために閏年(閏月)が置かれるのだね、という意味でしょう(実際、この年は閏五月がありました)。
うまく受けたなと言えそうですが、彼女が「30日30夜」というのは夫の訪れが少ないが故の願望です。その責任者からの返事としては、あまりにも他人事というか、逃げてるなという気がします。
まあ、兼家の立場になって考えてみると、この歌は決して快いものではないでしょう。そうでなくても忙しい(兼家はこの時蔵人頭左中将兼中納言東宮大夫)最中に、いい歌ができたと送ってきて、見たら結局は訪れが少ないことへの不満なのですから....。
この返歌に対して、作者は「祝ひそしつ」(大変な祝詞になった)としています。大仰すぎることでしょうか。夫が重たく感じ、問題をそらしてわざと大仰にしてしてしまったことを感じ取ったのかもしれません。
なお余談ですが、クイズでひっかけにつかった「源高明」のことです。
この安和二年は、世に言う「安和の変」が起こった年です。左大臣だった源高明が謀反の疑いで大宰権帥へ左遷された事件で、黒幕は藤原兼家だったとされています。
この事件は、実は『蜻蛉日記』にも記載されています。「身の上をのみする日記には入るまじきことなれども」と断った上でのことなのですが…。作者は高明の正妻愛宮と親交があったらしく、事件のあとには彼女を痛む長歌を贈ったりしています。
事件の黒幕が自分の夫であったことをもし知ったら、彼女はどんな反応をしたでしょうか?
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