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NHKスペシャル
大化改新 隠された真相 〜飛鳥発掘調査報告〜
NHK公式サイトより番組要旨 |
645年に起きた古代史最大の事件「大化改新」。『日本書紀』によれば、天皇を脅かす権勢を誇り、改革の障害となっていた蘇我入鹿に対する中大兄皇子や中臣鎌足のクーデターとされている。しかし、事件の舞台となった都・飛鳥(奈良県明日香村)で次々に発掘される遺跡は、史実とは異なる真相を物語りはじめた。 |
確かに、上記のような趣旨の番組でした。
入鹿をはじめ蘇我氏を逆賊扱いする考え方が『書紀』によって潤色されたものであり、近代の皇国史観にそった古い考え方であることに異論はありません。個人的にも、蘇我氏特に入鹿はなかなかの人物だったのではないかと思っています。でも、それも程度問題。この番組を見た私の感想は、「あれでは中大兄が可哀想だ」この一言に尽きるかと思います。
取り上げられていることの一つ一つは、間違ってないと思いますが(たぶん)、それらを、入鹿については可能な限り好意的に解釈し、中大兄については可能な限り悪意に解釈して作った、きわめて極端な解釈です。
入鹿…開明的で進歩的で国際情勢にも明るい。甘樫岡の邸宅も、強大な唐の侵入に備えて飛鳥の宮を守る砦だった。なのに保守派である中大兄一派によって抹殺された。
中大兄…保守的権威的で国際情勢を知らない。母斉明と共に作った亀形石造物などは天皇の権威を誇示するだけのもの。白村江の戦いで無謀に大敗し、あわてて防衛を固める。改新の名に値する改革は、その後にようやく始まる。ひどいですね、ホント。ここまで露骨な贔屓をされると、腹が立ちます。
この番組、発掘のニュースの翌日に放送されたので(ということにもイヤラシさを感じます)、見られた方も多いと思います。ついつい納得してしまう作りになっていますが、はっきり言ってかなり怪しいです。鵜呑みにしないでください。以下、ざっと問題点を指摘しておきます。
※番組タイトルが出る前に全体のダイジェストが数分流れましたが、本編とダブりますので省略して、タイトルの後の分から検討します。
今回の番組の契機は、甘樫丘東麓遺跡の発掘なのですが、この番組での着眼点は2つです。
- 発掘された土地は窪地で、そこにわざわざ盛土・石垣で大規模な造成工事をしてまで、あえてこの狭い窪地に屋敷を造っている。
- 発見されたのは10坪ばかりの小屋や倉庫ばかりで、『書紀』の記述から兵舎と兵器庫と考えられる。
ここで京都橘大学の猪熊兼勝氏が登場。入鹿・蝦夷の邸宅は、甘樫丘の地形を利用した要塞を作り、飛鳥の宮を外敵から守ろうとしたという説を展開されます。さらに、ほかにも飛鳥周辺には南に巨大な蘇我馬子邸(島庄遺跡)、北に堅固な飛鳥寺があり、(語り)「日本書紀では天皇家を脅かす存在だったとされる蘇我入鹿。ところが飛鳥の発掘成果からは、天皇家の脅威よいうよりはむしろ天皇を外敵から守ろうとした姿が窺えるのです」と断定する。
さらに、百済の都、扶余と比較。王宮の背後のプソ山上には土塁や兵器庫・兵舎があり、王宮を守る軍事拠点であった。チャンナム大学教授ハプ・シンパル氏は、飛鳥における甘樫丘は扶余のプソ山と同じ働きをしたと推定、飛鳥は扶余をモデルに作られた、と述べている。番組の最初から、私は首をかしげっぱなしでした。
- CGによる蘇我馬子邸・甘樫丘の入鹿父子の邸宅の復元が、あまりにも大胆。特に後者など、ほんの一部の建物しか確認されていないし、丘の上の蝦夷邸については何も出てきていないはずなのに…。とにかくとんでもない規模です。
- そもそも、甘樫丘に要塞を作ったのなら、なぜ武器庫が麓(谷)にあるのでしょう。敵が攻めてきたら武器を取り出して丘を駆け上がったと猪熊氏は言うのですが、不自然だし非効率です。扶余では山上にあるのに…。
- 何より、蘇我氏の邸宅や寺が飛鳥の宮(板蓋宮)の周囲に(しかも高地に)あるのは、ホントに宮を守るためなのでしょうか。逆に宮を包囲している、見下ろしているとも見れます。というより、その方が自然に思えますが。
- 馬子邸は南方向からの外敵の侵入に備えるためとのことですが、そっちは峠を越えて吉野方面です。内乱ならともかく外敵が吉野から攻めてくることが、それほど高い確率なのでしょうか。
- そもそも、飛鳥寺と馬子邸と甘樫丘の邸宅では、できた時期が違いすぎます。飛鳥寺を作った時の天皇は崇峻であり、宮は倉橋(桜井市)です。蘇我馬子が島庄遺跡の邸宅に住んでいた時の天皇は推古で、その宮は飛鳥寺より北の小墾田宮です。舒明天皇の時の田中宮も飛鳥寺より北。つまり、それぞれの邸宅などは、その時々の宮を守る位置になど作られていません。
では外敵とは何か。番組は唐の軍事力の脅威を強調します(後述)。
蘇我氏(入鹿)はこのことをよく理解していました。その根拠としてあげられているのは、
- 蘇我氏は百済ともっとも密接な関係を持っていた豪族であった。先祖には「高麗」「韓子」といった名が見え、古墳からは渡来系の品々が出土している(だからこそ百済の扶余をモデルにできた)。
- 唐の脅威に備えるために外交も展開した。父蝦夷は630年に遣唐使を開始し、入鹿はこれを受けついだ。
- 留学先の唐から帰国した僧は、入鹿を国際情勢に通じた開明的な人物であると評している。「吾が堂に入る者、宗我大郎に如くはなし」(『藤氏家伝』)。
- 入鹿が海の玄関口である難波に外交の拠点を移そうとしていたと読みとれる記述がある。
このような入鹿でしたが、中大兄・中臣鎌足らによって暗殺されて政権が交代。中大兄皇子は母斉明天皇と共に政権運営を始めます。その頃、唐・新羅により百済が滅亡。国際情勢は緊迫化しますが、中大兄らは
- 滅亡した百済の王子を匿い、百済再建を支援するなど、唐を敵に回す外交政策をとる。
- 唐の侵略の備えに力を入れる気配はなく、亀形石造物・運河・須弥山石などが作られ、天皇の権威を知らしめることに力が注がれた。
- 政治改革が進んでいる形跡もない。
京都府立大学名誉教授の門脇禎次氏は、このクーデターを「反動的な保守的なクーデターとさえ言えないことはない」とされます。
ここも、私にはさっぱり分かりません。
- 遣唐使の派遣が無前提に蘇我蝦夷の業績になっていますが、根拠不明です。(聖徳太子の業績とされる)遣隋使との連続性から考えても、正式な国交使節であることから考えても、天皇の役割を軽視はできません。まして「入鹿が受けついだ」とは…。入鹿が実権を持っていた皇極朝には遣唐使は派遣されていません。
- 実は、次に遣唐使が派遣されるのは、入鹿暗殺後の孝徳朝(2回)、続く斉明朝(1回)、天智朝(3回)です。遣唐使を重視したのは、入鹿や蝦夷ではなく中大兄です。こんな基本的なことを知らないのならお粗末、隠しているのなら悪質です。
- 『藤氏家伝』のエピソードですが、この僧(旻のこと)は確かに入鹿が優秀だと言っていますが、「国際情勢に通じた開明的な人物である」だとは言っていないはずです。どの箇所にそうあるのか教えていただきたい。また、この言葉のすぐ後に、鎌足に向かって「ただし公(あなた=鎌足)神識奇相、実は此人に勝れり」と高く評価していること、つまり鎌足は入鹿に匹敵すると旻が言っていることは、なぜカットしたのでしょう。
- ついでに、中大兄皇子も同じく唐帰りの僧である南淵請安に師事していますが…。
- 「入鹿が海の玄関口である難波に外交の拠点を移そうとしていたと読みとれる記述」とは、『書紀』のどこのことなのでしょうか。探しましたが見つかりません。また、難波を着目するのが開明的な証拠なら、入鹿暗殺後の新政権は難波に遷都していますよ。
- そもそも、この番組では孝徳朝が意図的に無視されています。政策だけではなく存在が、です。なぜでしょう?
- 蘇我氏は百済と関係が深いという理由で、入鹿は扶余を真似て飛鳥の防衛を固めたのだとしながら、たった1回の遣唐使を根拠に、今度は百済ではなく唐との関係を重視したのが入鹿であると主張する。あまりにご都合主義です。上述のように、新政権は遣唐使を頻繁に派遣し、情報を収集した上で百済救援の出兵をしています。判断を誤ったかもしれませんが、反動的だ百済一辺倒だなどと言うのは結果論にすぎません。
- 亀形石造物・運河・須弥山石などの目的が「天皇の権威を知らしめること」なのは確かでしょうが、軍事的な施設の建設以外はまともな政策ではないという論理は短絡的、現代的すぎるでしょう。天皇中心の中央集権体制を作るために天皇権威を高める必要があるのは当然です。
この番組では随所にCGによる復元があるのですが、中でも度肝を抜かれたのが、当時の唐の軍船です。
これは、北京大学図書館所蔵の(でなくてもあると思うけど)『武経総要』に描かれた「楼船」。そこには「船の広さは車や馬が走れるほど」とあり、来村多加史氏監修の復元では、なんと全長120m。高さ30mという巨大軍船。しかも、火矢を防ぐ防御壁、安全に弓を射かけるための女墻(ひめがき)、遠方の敵を攻撃する投石機、接近した敵を攻撃する拍竿(はっかん)などの重装備を備えています。
CGを見ると、一隻に投石機2機、拍竿は12機ほど搭載しています。超のつく巨大戦艦です。
一方、これに立ち向かう倭国の船は、一艘に漕ぎ手14人、乗り組む兵士は6人という小舟ばかり。それが、「我ら先を争わば(突撃すれば)、彼自づからに退くべし」として、真正面から唐の巨大軍船に立ち向かい、惨敗します。この軍船の迫力・威力は圧倒的で、立ち向かう倭国=中大兄は愚の骨頂というイメージを強烈に植え付ける映像ですが、これは本当のことなのでしょうか。
- 『書紀』によれば、このときの倭国の兵は2万7千人とあります(天智2年3月条)。一方、三国史記には「倭船千艘」とあるようなので(岩波文庫注)、両方の数を信じて単純に割れば、一隻平均27人となり、CGに近いです。あるいは、これで計算・復元したのかも。しかし、系統も編纂時期も違う2つの史料を単純に併用するのはいささか危険では?
- しかも、CGでは倭軍はすべて同じ大きさの小舟で描かれています。少なくとも豪族や将軍などが、あんな小舟(ほとんど埴輪船)にのって突撃したとは考えられませんし、遣唐使船のような大きな船を造る技術があるのですから、少なくとも司令船のようなものはあったはずです。また、「千艘」は実数にしては大雑把すぎます。実際には、倭軍ももっと大きな船だったのではないかと思われます。
- 『武経総要』ですが、調べてみたところ、なんと11世紀の書物です。ここにのせられている記述は、どのくらい信頼性があるのでしょうか。かなり眉唾な気がしますが、詳しくないので分かりません。
- 番組では、『武経総要』の挿絵も映りました。人間がデフォルメされて大きく描かれているにしても、CGとは比較にならないくらい小さな船です。一応3層ですが、投石機(拍竿?)が1つしか搭載されていません。なぜ全長120m、拍竿は12機になってしまうのでしょう。「船の広さは車や馬が走れるほど(其長者歩可以奔車馳馬)」だけが根拠でしょうか?教えていただきたいです。<補記1>
- もし、本当にこれだけの大きさの差があったなら、いくらなんでもこんな単純な突撃はしないでしょう。また、逆にこれほどの力があれば、高句麗討伐なぞ簡単でしょうし、あとで新羅に朝鮮半島から追い払われてしまうようなこともないのでは。
- なお、この戦いの『書紀』の記述は、次のようです。「賊將、州柔(ツヌ)に至りて、其の王城を繞(かく)む。大唐の軍の將、戰船一百七十艘を率て、白村江に陣烈(つらな)れり」「大唐、陣を堅めて守る」「大唐、便ち左右より船を夾(はさ)みて繞み戰ふ。」 170隻ですから、倭国の船よりは大きかったのでしょう。またCGの軍船より、俊敏に動き回り、敵を挟撃したりしたようです。
入鹿こそが政治改革を行おうとしていたのに、それを抹殺した反動政権が中大兄らであるとするこの番組は、白村江の敗戦によって中大兄もようやく目覚め、改革を実施することになったとしています。主な論拠は次の通り。
- 敗戦後、唐の侵攻に備えて防衛を固め始める。飛鳥の周囲を掘立柱の塀=城壁で囲ったと可能性のある遺構や狼煙を上げるための物見台の遺構が見つかっているほか、瀬戸内海から北九州にかけて次々と山城を築造した。これは入鹿が行っていた路線の復活である。
- 東洋大学教授の森公章氏は、こうした防衛施設を短期間に建設するために唐にならった中央集権体制が必要となったのであり、大化改新の改革はこの時期(天智朝)になって構想されたものであるとする。
- 納税に使用された木簡に「竹田五十戸」「諸岡五十戸」などとあるのは、中央政府が地方から50戸ごとに直接徴税していたことを示すが、こうした例は天智朝以降にしか見つかっていない。
- 『書紀』の編纂に深く関与したのは、天智の娘である持統天皇・元明天皇と、中臣鎌足の息子の藤原不比等である。彼らは、父たちが645年の入鹿暗殺から一貫して中央集権国家建設に邁進したと位置づけたかった、と森公章氏。
- 京都産業大学教授の森博達氏は、『書紀』を中国語の語法と音韻から研究し、巻24(皇極)・巻25(孝徳)は正しい漢字を使用しているので当時日本に渡来していた中国人が執筆しているが、それぞれに語法の誤りのある箇所が存在する。これは、編集の最終段階で日本人による潤色や加筆が行われたことを示しており、『書紀』にあるような大化改新が実際にあったとは、そのままでは言えないとする。
ここも、説得力が足りないというか、通説の方が無理がないです。
- 敗戦後になってようやく唐・新羅の来襲を警戒して防衛を固めたという話ですが、それ以前の百済が健在だった段階と、百済が滅亡していよいよ日本が標的になる可能性が高くなった段階とでは対応が違って当然です。入鹿の政策に戻ったとは言えません。まして入鹿の政策と言っても山城をつくったわけでもなく、単に邸宅や飛鳥寺にすぎず、これが外敵の侵入に備えたものであるというのも推測にすぎません。
- 敗戦で中央集権体制作りが始まったという説ですが、社会制度改革って、そんなに急に構想・建設できるものでしょうか。645年以来の蓄積と試行錯誤があり、そこに対外的な緊張が加わって、改革が急速に進んだと通常は解釈されているし、その方が妥当です。そもそも、白村江の戦いの兵力はどうやって徴発したのでしょう?
- 例証としている「五十戸」の木簡ですが、この「五十戸」は「さと」と読み、五十戸=一里制度の初期段階の表記法と考えられています。確かに、「五十戸」木簡は天智朝以降にしか発見例がありませんが、そもそもそれ以前の木簡が少ないのであり、また今後発見されないとも限りません。また、確認されている最古の「五十戸」木簡は実は665年のものです(石神遺跡出土)。白村江の敗戦から慌てて律令制度を取り入れ始めて、わずか2年で地方の直接把握という難事が実現できるものなのでしょうか。
- 『書紀』の編纂の最終段階で日本人が加筆修正していることをあまりに過大に評価しています。森氏の説によれば、巻24も25も全体としては正しい中国語で書かれているのですから、全体としては信用して良く、加筆されたところだけを疑えばいいことになるはずです。なのに、加筆があるから全体が疑わしいというのはほとんど言いがかりです。
- 加筆や修正がすべて事実の捏造のように扱っているのも納得いきません。例として示されている巻24の「豈に天孫を以て鞍作に代んや」ですが、これは暗殺現場での中大兄の言葉にすぎません。これを捏造することどんなに意味があるのでしょうか?因みに『藤氏家伝』にも「豈に帝子を以て鞍作に代んや」とあり類似しています。同じ典拠があったのかもしれません。編纂の過程で新しい史料が見つかったり、採用していなかったものを採用することに方針が変わったりすることは、別に不自然でも何でもないでしょう。
- 巻25の怪しい箇所は24カ所もあるようですが、どこなのか、どいう内容なのか、番組では明かされないので分かりません。孝徳朝の政策を悉く虚構として片づけられるような場所ばかりなのでしょうか。とてもそうは思えません。
そもそも、『書紀』の記述に後世の潤色や加筆があることは、今更言うまでもない通説です。『書紀』の編纂に不比等らによる潤色があることも、一般に言われていることです。問題は、どこがどのように潤色されているのか、実際はどうであったかです。例えば森博達氏の指摘した24カ所はどこで、そこから何が指摘できるかをもっと示してもらわないと、説得力を欠きます。
ついでにもう一つ、気になった箇所があります。
森博達氏は最後に、「日本書紀に書かれているような大化改新が実際にあったということは、これは言えないんですね。そのままでは。」と答えていますが、画面のテロップでは最後の「そのままでは」がカットされています。
これは意図的です。断定的にするためにカットしているのです。もしかすると、「そのままでは」の映像も切る予定だったのが切り忘れたのかもしれません。この一言がなければ、森氏は「大化改新はなかった」と言っていることになり、明らかにニュアンスが変わってしまいます。
こういうことが垣間見えると、これまでの他の研究者たちのコメントも、ご本人たちの意図とは違うように編集されているのかもしれない、と疑わしくなってきました。いかにもありそうですし…。
この番組は歴史ドキュメントです。ドキュメントであれば、事実を集め、厳密な考証を積み重ねて、説得力のある主張を組み立ててほしいところですが、実際には演出効果などが大幅に加えられています。この番組に限ったことではありませんし、視聴者を惹きつけるためにはある程度やむを得ませんが、あまり露骨になると、番組の主張に賛同できない(私のような)人には苦痛になってきます。例えば、この番組は、談山神社の『多武峰縁起絵巻』から始まっています。ここからすでに意図的です。中臣鎌足を祀る談山神社、そこに伝わる『多武峰縁起絵巻』には、当然ことながら蘇我入鹿が『書紀』以上に徹底的に悪役として描かれています。暗殺の場面も、入鹿の首が口をあけたまま斬り飛ばされ、斬られた首の切り口もあらわに、血が噴き出している胴体も描かれています。『書紀』には首を斬ったとは書いていませんから、それこそ後世の潤色です。それをあえて使う。そこには、入鹿が悪いヤツだと言われている、ということを強調する意図があります。
そして、この絵がオープニングのタイトルバックに使われ、より強調されます。番組は続いて、入鹿が開明的な人物であったこと、蘇我氏は邸宅や飛鳥寺で宮を守ろうとしていたこと(という解釈)を列挙していきます。その後、番組のほぼ半ばで、再び『多武峰縁起絵巻』に戻り、暗殺のシーンに移ります。殺害そのもののシーンは、実写再現映像(ドラマ「大化改新」の衣装とセットを使い、俳優だけは別の人を使ったもの)です。さすがに首は飛ばしませんが、襲われた入鹿が女帝にすがるように「臣、罪を知らず」というシーンを見せます。見ている人に、入鹿への同情が集まるような演出です。特に「臣」という言葉が、宮を守ろうとしていたという番組の主張とシンクロします。<補記2>
そして最後に、カメラは入鹿神社(橿原市)を映します。ご神体の映像、氏子さんたちの声、明治に入鹿を祀ることに軍部から強い圧力があったことなどが次々と紹介され、「蘇我入鹿」がいわれなき迫害を受けてきたのだ、という番組の主張が、見る人の心に染みるように演出されます。さらに追い打ちをかけるように、カメラは発掘現場に戻り、出土した焼けた木材や壁土を映して、蘇我氏の最期の壮絶さを訴えます。
バックには、荘厳な音楽が鳴り続けています。番組を見た人は、この全体の演出を受けて、入鹿の悲劇に涙するかもしれません。
しかし、これまで見てきたように、あげられてきた証拠や考察は、いずれも不確かなものです。
また、番組の主張からは不利な材料は、紹介も検討もされず、視聴者には明かされません。特に以下の2点は決定的な問題だと思います。<補記3>
第1に、すでに述べたように、難波に都を遷し、何度も遣唐使を派遣した孝徳天皇の時代が、これもまったく触れられていません。ナレーションは「入鹿の死後、実権を握った中大兄皇子は、母斉明天皇と共に政権運営を始めます」と言っており、わざと孝徳朝を黙殺しているのでなければ、製作者の歴史の基礎力が疑われます。
第2に、蘇我入鹿の"悪事"の代表、斑鳩の山背大兄王一族を攻撃して滅ぼしたことは、番組中まったく触れられていません。これを丸ごと『書紀』の捏造だと言いたいのでしょうか。それにしても、その旨を説明するべきでしょう。
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NHKは公共放送です。広告収入は不要です。
広告収入によって成り立っている民放は、視聴率が局の収入に直結します。ですから、民放が視聴率を上げることに必死であり、そのためによりセンセーショナルな番組作りをすることは、ある程度やむをえません。
広告収入と関係のないNHKは、視聴率と関係なく番組を作ることができます。それが、公共放送の長所です。
いたずらにセンセーショナルな番組を作るのではなく、丁寧でバランスの取れた、落ち着いた番組を作って頂きたいものです。そして私たちは、こうした番組を鵜呑みにしないように、気を付けたいものです。
<補記1>
原文を確認したいのですが、『武経総要』は一般の図書館ではお目にかかれません。そこで、楼船の説明文を画面から拾ってみました。
楼船者[舟工]上建楼三重列女墻戦格樹幡幟間弩■矛穴外施■革禦火置砲車[木雷]石鉄汁状如小塁其長者歩可以奔車馳馬若遇暴風即人力不能制不甚便於用然施之水軍不可以不設足張形勢也 (■は読みとれない。[ ]は1文字)
楼船は[舟工]上に楼を三重に建て、女墻を列して戦ふ。格樹幡幟間弩■矛穴外。■革を施して火を禦す。砲車を置き、[木雷]石鉄汁状、小塁の如し。其の長さは、歩以て車を奔らせ馬を馳すを可とす。若し暴風に遇はば、即ち人力制する能はず。甚は便ならず。於用然施之。水軍不可以不設足張形勢也
昔から漢文は苦手で(^^;こんな程度です。詳しい方のご教示をお願いします<(_ _)>
ところで、「拍竿」はどこに?<補記2>
実はこの場面の再現映像は、『書紀』の記述そのままです。
入鹿を悪者に描こうとする『書紀』が、なぜ入鹿の弁明の言葉をわざわざ書き残すのか(ほかにも、入鹿が大臣になってから治安が良くなったことも記されています)。単純な作為・潤色説では、こういった個別のことが説明できません。史書の編纂は、そんな単純なものではないのです。
また、『書紀』を実際に読めば分かりますが、この暗殺の場面、特にセリフの数々は、他の箇所とは明らかに調子が違い、浮いています。何か別の史料から引用されて、一括してここに挿入されたように感じられます。そして、この「臣、罪を知らず」のセリフのすぐ後に、例の「豈に天孫を以て鞍作に代んや」が出てきます。この番組が後世の加筆の疑いがあるとした、あれです(因みに、「臣、罪を知らず」も『藤氏家伝』にあります)。
上述したように、「豈に天孫を以て鞍作に代んや」が後世の加筆であるという森氏の指摘そのものには意義はありません。しかし、それが大化改新を捏造するため加筆であるなら、なぜ「臣、罪を知らず」も一緒に入れたのか、説明できません。
『書紀』編者がこれらを加筆したのは、おそらく、この場面を劇的に描こうとしたからだと、私は思います。だから、「豈に天孫を…」も「臣、…」もそのまま入れたのでしょう。<補記3>
もう一つ、抵抗があるのは、反発を感じるのは「蘇我入鹿は悪逆非道で、それを誅殺して政治を天皇家に取り戻したのが大化の改新である」というイメージが、もはや非常に古い歴史観だということです。
例えば、教科書を見てみましょう(私は本職が高校の社会科教諭です)。現在使用されている教科書で、最もポピュラーな『詳説日本史B』(山川出版社 2006年3月発行)では、このクーデターは次のように描写されています(32頁)。
倭では蘇我入鹿が厩戸王(聖徳太子)の子の山背大兄王を滅ぼして権力集中をはかったが、中大兄皇子は蘇我倉山田石川麻呂や中臣鎌足の協力を得て、王族中心の中央集権をめざし、645(大化元)年に蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした(乙巳の変)。<中略>646(大化2)年正月には、「改新の詔」で豪族の田荘・部曲を廃止して公地公民制への移行をめざす制作が示された。※
※脚注 『日本書紀』が伝える詔の文章には後の大宝令などによる潤色があり、この段階でどのような具体的改革がめざされたについては意見が分かれる。
このように、蘇我入鹿と中大兄皇子の争いは、互いに権力集中をはかろうとした両者の権力闘争であり、蘇我氏が専横を極めた云々の言い方は全くなされていません。また、日本書紀の記述に潤色があること、学説が分かれていることも脚注に記載されています。
このような傾向は、実はかなり以前からのものです。職場で見つけた約30年前の教科書から、該当する部分を引用してみます。朝廷では馬子のあと、蘇我蝦夷が大臣となり、皇極天皇のときには、蝦夷の子の入鹿がみずからの手に権力を集中しようとして、有力な皇位継承者のひとりであった山背大兄王をおそって自殺させる事件をおこした。このようななかで、唐から帰国した留学生によって東アジアの動きが伝えられると、豪族がそれぞれに私地私民を支配し、朝廷の職務を世襲するというそれまでの体制を改め、唐にならって官僚制的な中央集権国家の体制をうちたてようとする動きが急に高まった。中大兄皇子と中臣鎌足はともに計略をめぐらし、645年、蘇我蝦夷・入鹿父子をほろぼして政権をにぎり、国政の改革にのりだした。<中略>翌646年には、政府は4ヵ条からなる改新の詔を発した。<中略>「日本書紀」に記されているこの詔には、のちの令の文によって修飾されたと思われる部分もあるが、新しい中央集権政治への方向がはっきりとうちだされている。(山川出版社『詳説日本史(新版)』昭和52(1977)年3月発行。35〜36頁)
細かい相違はあるものの、上述したような評価は、基本的に変わっていないことがわかると思います。詔の潤色についてはむしろ脚注ではなく本文になっていて、当時は注目されていたことが分かります)。
このように、蘇我入鹿=悪者というイメージは、何十年も前かそれ以前のものなのです。番組を見ていた若い人には、ああいう扱いは違和感を与えたかもしれません。
もちろん、番組を見ていたのは若者だけではなく、年配の方は古い歴史観のままかもしれません。また、教科書が新しくなっても教え方を変えない教員もいたでしょう。学校の授業の記憶などない人も多いでしょう。
しかし、だからこそ、蘇我入鹿に対する評価は昔とは違ってきている、ということをちゃんと説明する必要があるはずです。それを説明すると番組のインパクトが弱くなるから触れないでおこうということでしょうか?