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当日は国分寺駅に集合して、まず駅ビルで昼食をご一緒しました。
そのあと、同じフロアに隣接してあった国分寺市立のホールの前に展示されている、武蔵国分寺についての展示でしばし予習しました。付近の地図、遺構の変遷、文字瓦、軒丸瓦、銅造観音菩薩立像(複製)など。
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(クリックで拡大地図) |
軒平瓦ですが、郡名の押印された文字瓦です。武蔵国分寺は、文字瓦は多く発見されるのが特徴の一つとのことです。 | |
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近くで発見された白鳳仏です。 | |
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いよいよ散策スタートです。
幹事のやんちゃさんのご尽力で、国分寺の発掘を長年されてきたAさんと、国分寺市のまちづくりに取り組んでおられるTさん(許可は取っていないので一応イニシャルで)に案内していただくことになりました。
この地域には「国分寺崖線」と呼ばれる地形(河岸段丘)が東西に伸びており、豊かな湧き水が随所に見られるそうです。写真はその湧き水に沿った「お鷹の道」。近世の史跡ですが、とてもきれいに整備されていたのでご紹介しておきます。(付近の案内図はこちら)
途中に何気なく落ちている布目瓦(右上)。いよいよ国分寺跡は近い?
この七重塔は、『続日本後紀』により、平安中期(承和2年=835年)に雷火で焼失、10年後に再建が開始されたことが知られていますが、発掘の結果、塔基壇等に修復のあとが見られ、文献と発掘が一致している珍しい例だそうです。(くわしい説明はこちら)
周濠から判断すると、当初はこの七重塔を中心とする伽藍が計画されていたようです(上図)。しかしその後、その濠は一部(A−B間)が埋められ、後から作られたらしい金堂などに中心が移ります。その結果、七重塔だけが大きく外れた配置になっているとのことでした。
この不思議な土台は、地元の方々がここに国分寺跡の碑を立てるつもりで作ったものなのですが、国指定史跡ということで自由に碑などを作ることが許されないことがあとで分かり、やむなく中断したもの。上にのせる石の七重塔もできているそうなのですが..。
一角に供養塔がありました。ここを「開発」しようとして災いが続いたためとか。うーん、祟っているなぁ..。
心礎。見やすいように円を描いていただきました。 なぜ立っている?
さてここでお勉強したのは、礎石の形のこと。
都城跡などでは、礎石はきれいに整形されていますが、ここの礎石は「そのまま」の石。なぜか立っていたもの(誰かが持ち去ろうとしてあきらめたのでは、というお話でした)も、その大きさや形から、最初は礎石と思えませんでした。
実は礎石は自然石の手頃なものをそのまま使う方が普通で、凸凹については柱の方を石に合わせて削るのだそうです。お恥ずかしい話、初めて知りました..(^^;現在の国分寺の礎石の
写真。礎石に合わせて
柱が削られています。五重塔跡をあとにして、国分尼寺跡へ向います。
その途中に立ち寄った「国分寺市文化財資料展示室」は、ちょっとユニークでした。
この中学校(市立第四中学校)の体育館の工事中に、多くの遺構が発見されたことから、体育館の一角が文化財資料提示室となっています。
それを示すかのように、体育館の屋根は寺院風になっていました。
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夏のような日差しの中、やってきた国分尼寺跡は、復元のための整備の最中でした。空想に浸るにはブルーシートやトラ模様の「工事中」が目障りですが(^^;、色々と裏話もうかがえました。
金堂から中門方向。柱が目立ちます。 道路で斜めに「切断」される中門跡 ひときわ目立つ四本の柱は、旗(幡)を立てるなど儀式に使われたと考えられているものです。
当初はここが中門と考えられていたのですが、あとになって別に(さらに南に)中門が見つかったため(しかも中心線に合っていない)、門ではないことが分かりました。
一方の中門の遺構は、道路で斜めに「切断」されていいます。というか、道路があるためにそれより先の発掘ができていないので斜めになってしまっているわけで、遺跡保存の難しさが目に残りました。
謎の柱は他にも。こちらなぜかは斜め。 金堂の基壇は、断面が見れるように
一部ガラス張りになっています。尼坊(これも道路が貫通しています)は、礎石がまったく取り去られていたため、礎石はみな復元です。しかも、復元であることを示す「マーク」がついています。
ではなぜ位置が分かるかというと、根固め石があるからです。根固め石は、礎石の下に小さめの石を並べて礎石を固定するものだそうです。うーん、またもや分かってなかったことに気づきました。
尼坊跡(金堂の北) ○が復元であることを示すマーク 国分尼寺跡のさらに北(後方:鎌倉街道の手前)にちょっとした窪地があります。
お聞きしたところでは、ここは例の国分寺崖線にあたり、大雨など水が溜まりやすい地域で、その解消のために窪地に排水口が作られています。こういったところにも、遺跡保存と地域への「貢献」との兼ね合いがあるのだそうです。
説明板を兼ねる板塀(尼坊の北) 写真にうまく映ってませんが..。 また、掘立柱建物跡をコンクリートで整備したらテニスの壁打ち場になってしまった、という「失敗談」もお聞きしました(現場も見ました)。なかなか、難しい問題ですね。
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さて、いよいよ目的地である「国分寺(僧寺)跡」の到着です。
連休中の好天ということもあり、あたりは地元のみなさんの憩いの場となっていました。ボール遊びをする子ども、お弁当を広げる家族連れ、アベック等々....。
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![]() ↑講堂址 |
| ←史跡「武蔵国分寺址」の立派な石碑 |
![]() この写真は金堂址ではないかもしれません..(^^; → |
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国分寺跡のすぐ北に、現在の国分寺があります。
古代の国分寺は、結局元弘3年(1333)年の新田義貞と鎌倉幕府との合戦により焼失し、2年後にその新田義貞の寄進によって薬師堂が建立され、再建されたと伝えられています。その境内には、「文化財保存館」(入場無料)があります。付近の航空写真や復元模型、土器などの出土品が展示されていました。時間がなくてゆっくり見ることはできませんでした。
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国分尼寺の模型。上述したように、この「中門」は誤りです。早い時期に作った模型なので当時の推測のままなのです。 |
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さて、これで長い散策が終わったわけですが、「オマケ」として、復元された東山道(武蔵路)を見ることになりました。
当初、武蔵国は東山道に属していました。東海道は、現在の神奈川→東京→千葉ではなく、神奈川から千葉へ、三浦半島から房総半島へ海路(浦賀水道)を取っていたからです。
とはいえ、東山道も、信濃(長野)→上野(群馬)→下野(栃木)→陸奥と進むのが本道で、武蔵国は本来通りません。そこで、東山道から武蔵へ支路が伸びていました。この道は現在「東山道武蔵路」と呼ばれていますが、それが発掘され、「復元」「保存」されているのです。
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しかし、やはりこれは不便だったようです。宝亀2年(771)、武蔵国から東海道への「移動」の願い出があり、認められました。これにともない、東海道のメインルートも(従来の南回りから)武蔵を通るルートに変更されたようです。
黄色いのが側溝です |
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「保存」東山道武蔵路は、幅12mがそのまま歩道として開放されています。発掘で確認された側溝が、歩道の両端に黄色い塗装で表されています(すでに上表部分は削られていたため、溝の深い部分だけが確認されました。そのため、黄色の部分は太さが一定せず時々途切れています)。 古代の官道が、こういうふうに具体的にイメージできる形で保存されているのは、奈良朱雀門前の朱雀大路(一部)以外では初めてで、喜んでしまいました。
今回は、本当に盛りだくさんな散策でした。現場で活躍されている方のお話は面白く、また情報が具体的で分かりやすいものでした。
充実した半日でした。みなさんに少しでも伝われば、と思います。