天武の出自について
〜海月(スズメ♂)なりの考察〜

 『暁の回廊』コミックス第2巻、なかなか出ませんねー(^^;

 最近、CRESCENT本館の掲示板で、この話題(天武の出自の謎)について三嶋柄さんと議論させていただきました。字数制限もあり、なかなか言い尽くせない面もあったので、この場を借りて私見をのべさせていただきたいと思います。

【1】天武天智異父兄弟説についての概略

 この問題についての長岡先生の解釈は、私にはとても興味深いものでした。ご存知かと思いますが、先生は天武は天智の異父兄である、という設定で進めておられます。

 大隅「先帝(斉明女帝)が帝の父君(舒明帝)に嫁がれる前にお生みになった異父兄君
    本来なら皇位に即く資格を持たない方だ
    あの方の器量を見込んで帝と鎌足殿と私の謀ったこと」

(『葦の原幻想』76頁)
 持統「私は知っていた 王者としての淡海の帝に対する生まれの引けめからそうしているのだ
    ということを あさましいこと! あの方のただひとつの瑕
    生まれの低さなど補ってあまりある才幹と器量を持ちながら…!」
(『夜の虹』95頁)
 もちろん、書紀には天武は天智の同父母の兄弟と記されており、これを疑う説は多数派ではありません。が、先生と同じような説はいくつかあり、その根拠の一つとなっているのは、天武天皇の没年齢です。
 長岡先生も、次のようにその可能性をほのめかしておられます。

  しかし その享年が五十六歳或いは六十五歳または七十三歳と伝えられるなど 謎の多い天皇である

(『眉月の誓』2巻123頁)
 書紀は、新しい時代の天皇の没年齢を記載していません。ただ天智は、舒明没時(641)に16歳で誄を行ったという記事があるので、生没年が計算できます。推古以後の他の天皇の年齢は、書紀からは分かりません。
 ところが後世の史書などには、根拠は不明ながら、これらの天皇の年齢が記されている場合があります。有名な例を挙げると、

  『一代要記』(鎌倉時代) 天武65歳没 天智53歳没
  『神皇正統記』(南北朝) 天武73歳没 天智58歳没

などです。そして、この65歳や73歳が天武の没年齢だとすると、天武没は686年ですから、上記の書紀の記事から計算した天智の生年と比べると、天武の方が年上になってしまうのです。
 そこで、実は天武は天智の兄であり、書紀はそれをいつわって弟と記載したのだ、という説が出てきます。
 ではなぜ、兄である天武より先に天智が即位したのか、また兄弟順を書紀がなぜ改竄したのか。その理由を、天武が実は舒明の子ではなかったから、と推定しています。

 天武の父親については諸説あるようですが、書紀の斉明即位前紀に、

  天豊財重日足姫天皇(斉明)は、初めに橘豊日天皇(用明)の孫高向王に適して、
  漢皇子を生しませり

(岩波文庫『日本書紀(四)』330頁)
とあることを照らし合わせ、この漢皇子が実は天武である、天武は天智の異父兄であるという説があり、長岡先生の解釈もこれに近いものです。

 ただ、これら従来の説と先生の説とには大きな違いがあります
 従来は、この事実(大海人が舒明の子ではないということ)は書紀の編者が隠蔽・改竄したとされてきました。逆に言えば、当時は周知の事実だったということです。
 ところが長岡先生は、このことは極秘中の極秘で、天智・鎌足・大隅・持統あたりしか知らないという設定です。ですから、書紀の編者が改竄したのではないことになります。

 この違いをどうとらえるか、そもそもこの説は成り立つのか。このことについ
て、私の意見を次に書きたいと思います。

【2】天武天智異父兄弟説はどくらい妥当か

 さて、まずこの説の成否についての私見です。
 結論からいうと、小説的設定としては面白いし可能ですが、史実であると声高に主張するには説得力が不足していると思います。

 確かに書紀は、編者の意図がかなり濃厚な史書であり、古い時代のことや字句などについて、潤色や改竄が指摘されています。
 しかし、天武の即位は書紀完成のわずか50年前のことであり、しかも天武の出自という大きな、おそらくは広く知られた事実について、そう簡単に改竄ができたとは思えません。
 また、天武が天智の同父母の弟であることは、その後の史書の記述も一致しており、これを覆すにはかなりの根拠が必要だと思います。

 まず、天武の年齢が書紀に記載されていないことをもって、隠蔽工作だという説があります。が、天武だけ記載がないのならばそういう想定も可能でしょうが、舒明以降は(天智をのぞいて)すべて記載がないのです。しかも、もし隠蔽する気があったのなら、まず天智の年齢を抹消するはずです。

 次に年齢の逆転についてですが、実はここにも無理があります。『一代要記』や『神皇正統記』には天智の年齢も書かれており、そこで比較すると、兄弟順は変わらないのです。年齢が逆転するには、天智については書紀の年齢を採用し、天武については『一代要記』や『神皇正統記』を採用するというアクロバットをする必要があるのです。
 このアクロバットをどう解釈するか。諸説は、天武の没年齢については何か確かな資料があり、かつ兄弟順を崩さないという前提があって、そこから天智の没年齢を算出した、という流れのようです。
 どうでしょう。確かに成り立たなくはないですが、弱いなーというのが私の感想です。ここまで仮説に仮説を重ねるなら、素直に書紀の記述を信じる方が無難ではないでしょうか。

 ところで長岡先生の設定では、天武の出自の秘密は当時からほとんど知られていないことになっています。これならば、書紀による隠蔽や改竄ではないことになりますから、最初に述べた問題は生じません。また、後世の史書がそろって兄弟順を書紀の通りにしているのも当然のことになります。
 もちろん、上に書いたように、この説であってもそれを強硬に主張し、書紀を否定することはできないと思います。ただ、小説やマンガの設定としては十分成り立つし、なかなか面白いです。

 それでは先生の設定には問題はないのでしょうか。

 最大の問題は、いつどのように天武が人前に登場したかです。
 先に見た大隅のセリフからして、「大海人皇子」は入鹿暗殺後に初めて群臣の前に登場したようです。当時、天智は20歳。天武が実際には何歳上の兄かは不明ですが、あまり年上だと、弟(つまり10代)として登場するのに無理が生じます。仮に65歳没説なら、645年当時24歳。ちょっとキツイです。
 そこで、できるだけ年齢差を詰めたいところです。

 二人の年齢差を詰めたい理由がもう一つあります。645年に急遽登場するのですから、それまでは人知れず暮らしていたことになります。天智の同父母の弟ということは、天皇(舒明)と皇后(皇極=斉明)の子どもです。それが極秘に生まれていた、というのはあり得ません。せめて、舒明の即位前の(比較的マイナーだった)時の子、という年齢を名乗る必要があります。天智は舒明即位時に5歳ですから、この時に1歳(数え)が最低条件になります。

 それにしても、天皇と皇后の間に生まれた次男が20年近くも表に出なかったという設定にはやはり無理があります。何かよほどの事情を作らないといけないでしょう。それは何か?
 「暁の回廊」の今後に期待したいです。

【3】海月の考えた筋書き


 最後に、長岡先生の設定にそった形で、私の解釈というか予想をしてみました。

 まず、大海人=漢皇子とはされないのではないかと思います。
 というのは、『暁の回廊』第1巻への感想にも書いたように、皇子女の名前に氏族名がつく場合、その氏族が皇子女の養育に当たったものと考えられているからです。
 漢皇子の「漢」も大海人皇子の「大海」も氏族名です。特に大海氏が皇子の養育にあたったことは、天武の死後の殯の際の記事に

  天豊第一に大海宿禰荒蒲、壬生の事を誄る。

(岩波文庫『日本書紀(五)』228頁)
とあることからほぼ確実です(壬生とは皇子の養育役)。
 一人の人物に対して二種類の、氏族名による名前がついている例を、私は知りません。複数の名前が伝えられている場合でも、氏族名によるものは一つです(例えば推古なら額田部と炊屋姫)。
 一人の皇子の養育に二つの氏族が当たるというのは、ありえなくはないですが、かなり不自然です。
 長岡先生が、この名前と養育氏族の関係をかなり意識しておられるのは、葛城皇子(中大兄)の「乳母」として葛城稲持を創作されていることからもよく分かります。ですから、漢=大海人という設定にはされないのではないでしょうか。
 また、【2】で見たように、葛城と大海人の年齢差はかなり近くなければなりません。皇極が舒明と再婚した時、大海人は生まれてすぐのはずです。

 ここからは私の想像なのですが…。

 (1)大海人は漢ではなく、その弟だった。
 (2)皇極は、まだ存命だった高向王と離縁し、舒明(田村)と再婚した。

 従来、前夫の高向王はあまり問題にされていませんでした。
 大海人がまだ幼児ということは、少なくとも最近まで高向王は生きていたこと
になります。皇極の野心を明瞭に描くには、死別でない方がいいでしょうし。

 (3)すでに漢王は早逝していた。
 (4)大海人は当然、高向王の下で育った。
 (5)その後、大海人は舒明の次男で、高向王家の後継ぎとして養子に出され
   ていたと説明され、クーデター後、中大兄の弟として政界に登場した。

 こう考えてみたんですが、いかがでしょう。
 高向王が存命だっとすると、早逝した漢の他に子どもがいなかった場合(しかも高齢で次の子どもが望めなければ)、妻の再婚先の子どもを養子として譲り受けるという可能性は否定できないと思います(実際は自分の子どもですが)。
 皇極の再婚そのものがかなり特異な事例です。妻の新しい男の子どもを養子にしたというのも聞こえが悪く、しかも即位前の出生とはいえ現天皇の皇子ということで、ずっと秘密にしていたのだ、と。
 これなら、群臣も納得してくる…かな?

 あとは、高向王がいつ死没したかです。

 (6)高向王は上宮王家滅亡の際に死亡し、大海人は皇極母子のもとに引き取
   られ、そこで田辺大隅らに器量を認められた。

 書紀によれば、高向王は用明の孫とあります。厩戸の子とは限りませんが、山背に非常に近い血縁関係です。入鹿によって滅ぼされた中に含まれていたか、あるいは殉死した可能性もあります。
 その場合、残された大海人が頼るところは母天皇のところしかありません。
 また、それまでずっと陰の存在だった人物が、いかに優秀であっても、突然政界に登場するのは無理です。とりあえずは中大兄の異父兄として中央に出現し、クーデター後、「実は…」と。
 

 以上、勝手なことばかり書きました<(_ _)>ペコ

ご感想など、お聞かせいただければ幸いです。



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