「あのように平静を装っていられるが腹の中はさぞ煮えくりかえっておられることでしょうな
お年も官位も大納言様より上でありながら中納言からいきなり散位に転落なされたのですから」(『天離る月星』文庫版ー以下同ーp.283)ラスト近く。大納言様とは藤原不比等、同情されているのは大伴安麻呂です。
『天離る月星』の"エピソード"の一つが、不比等の大伴氏への恨みです。
「大伴は一人も許さん」(p.214)
壬申の乱の時に大伴吹負の軍に山科の田辺邸を包囲・占領され(p.192)、さらにそこから逃れようとした史は集団でなぶりものにされ(p.205)、助けようとした石布は斬殺されました(p.208)。そこから、恨みが彼の心に染みついていくことになります(まあ、逃げようとした史も悪いわけで、少々逆恨みのような気もしますが…。もっとも、壬申の乱そのものが大伴氏が大海人皇子に与したことによって形勢が大きく傾いたわけで、近江側であり乱の結果人生を大きく狂わされた史にとっては、その意味でも大伴は許せないのでしょうが…)。
この「大伴は一人も許さん」と、安麻呂の転落とが繋がっている(不比等は満足そうな顔をしています)わけですが、そのあたり、史実はどうなっているのか、少々追求してみました。
◆大伴安麻呂への冷遇(1)位階の停滞と散位
まず上の場面ですが『続日本紀』によれば、大宝元年(701)3月21日、新令=大宝令の施行にともなって官制が改められるとともに、叙位と任官が行われます。それによると、当時の重要人物と思われる6人は次のように変わりました。
左大臣正広弐(従二位) 多治比 嶋→正二位(左大臣のまま。7月没)
大納言正広参(正三位) 阿倍御主人→従二位右大臣
中納言直大壱(正四位上)石上 麻呂→正三位大納言
中納言直大壱(正四位上)大伴安麻呂→従三位(中納言のまま→廃止により散位)
中納言直広壱(正四位下)藤原不比等→正三位大納言
中納言直広弐(従四位下)紀 麻呂 →従三位大納言まず官職を見ると、左大臣多治比嶋の留任は仕方ないとして(上位の太政大臣は原則欠官)、大納言阿倍御主人が右大臣、中納言のうち大伴安麻呂をのぞく3人がいずれも順当に大納言に昇格している中で、安麻呂一人が昇格できていません。明らかに冷遇です。しかも、大宝令の規定では大納言の定員は4人であるにもかかわらず、です。
さらに、大宝令には中納言の官職がありません。よって、新令の施行により中納言は廃止され、安麻呂は一人、位はあるのに職がない散位になってしまいます。位はありますから俸禄はもらえるので失業ではありませんが、仕事はなく、いわば干された状態です。
大臣・大納言のメンバーが政府首脳であると考えてよく(この段階では参議はまだ設置されていない)、大伴氏は最高機関から排除された状態になってしまったことになります。なぜこんな措置が取られたのか、理由はよく分かりません。まさか「不比等の大伴イジメ」だけではないでしょうし。ただ、一つ考えられるのは、兄大伴御行との関係です。
大伴御行は、『日本書紀』によれば持統10年(696)にはすでに(多治比嶋と並んで)大納言の地位にあるなど政府首脳の一員でしたが、大宝元年の1月15日に亡くなっています。大宝令施行直前です。
このころの慣例として、政府首脳には一氏族から一人ずつというバランス措置が取られていたらしいことが知られています(例えば少し後のことになりますが、阿倍御主人が大宝3年に没すると、2年後の慶雲2年に阿部宿奈麻呂が首脳に加わっています)。したがって、大伴安麻呂は御行の生前は政府首脳には加わっておらず、中納言になったのは御行が没した1月15日以降であるはずです。とすると、上の3月21日にはまだ2か月程度しか経験しておらず、それを理由に大納言への昇進に待ったがかかったのかもしれません。それにしても、中納言が廃止されるのが分かっていながら、しかも定員におさまるにもかかわらず、大納言にしないというのには、やはり一種の悪意を感じます。
また位階ですが、新令施行のご祝儀でか、みな昇格しています。上位の2人が1階級ずつなのはともかく、同じ中納言の石上麻呂が2階級、藤原不比等が3階級、紀麻呂は4階級も昇格しているのに、安麻呂は1階級だけです。これも冷遇と言ってよいでしょう。特に、1つ下だった不比等に追い抜かれたのはショックだったことでしょう。
『続日本紀』によれば、翌大宝2年の1月17日に式部卿に任じられ、散位からは脱却しました。しかし、政府首脳に加わったわけではありませんし、官位相当でみても式部卿は正四位上相当であって、役不足です。
◆大伴安麻呂への冷遇(2)参議・中納言の設置
そんな安麻呂にも、政府首脳への道が開けたのが大宝2年(702)5月21日の「参議」の設置です。大伴安麻呂、粟田真人、高向麻呂、下毛野古麻呂、小野毛野の五人を「朝政に参議せしむ」という勅が出されたのです。
参議は、平安朝以降は独立した官職のように扱われますが、最初は官職というより職務の追加という感覚でした。それでも、とにもかくにも朝政への参加が実現し、安麻呂も安堵したことでしょう。ただ、ここでも不比等の作戦かと思われる要素が見えます。参議することになったメンバーのうち、粟田真人・下毛野古麻呂は不比等と共に律令編纂にあたっており(『続日本紀』文武4年(700)6月17日条)、いわば盟友です。もちろん、大宝令施行直後であることから、彼らの知識と経験が必要になったというのが主な理由でしょうが、安麻呂の参議を認めた影響を弱めるような意図があった可能性もあります。
また、参議といっても位階は従三位のままですし、兼任の参議職と専任大納言の3人との差は歴然です(しかも安麻呂は6月24日に兵部卿を兼務することになります)。安麻呂が、定員に欠員が1人ある大納言への任官を切望したことは想像に難くないところです。ところが、そんな安麻呂のプライトをさらに傷つける人事が待っていました。
大宝3年(703)閏4月1日、右大臣の阿部御主人が没します。さあ、席が一つ空きました。
すでに左大臣多治比嶋は死没しており、このままでは大臣が不在になってしまいます。翌慶雲元年(704)1月7日には、石上麻呂(正三位大納言)が従二位右大臣に任ぜられます(同日、不比等も従二位に)。これで大納言は藤原不比等と紀麻呂の二人になってしまいました。欠員2です。
しかし、待てど暮らせど安麻呂に大納言の声はかかりません。左大臣 欠員
知太政官事 刑部親王
右大臣 従二位 石上麻呂
大納言 従二位 藤原不比等
大納言 従三位 紀麻呂
参議 従三位 大伴安麻呂
参議 正四位下 粟田真人(大宝2年6月〜慶雲元年7月は遣唐使)
参議 従四位上 高向麻呂
参議 従四位下 下毛野古麻呂
参議 従四位下 小野毛野慶雲2年(705)4月17日、勅により官制が改革されます。それは、大納言の定員を4人から2人に減じ、それを補うために中納言を新設する、というものです。21日、以下のような人事異動が行われました。
左大臣 欠員のまま
知太政官事 刑部親王(5月に没→9月に穂積親王が任じられる)
右大臣 従二位 石上麻呂
大納言 従二位 藤原不比等
大納言 従三位 紀麻呂
中納言?従三位 大伴安麻呂
中納言 正四位下 粟田真人
中納言 従四位上 高向麻呂
中納言 従四位上 阿倍宿奈麻呂
参議 従四位下 下毛野古麻呂(→兵部卿)
参議 従四位下 小野毛野?をつけているのははっきりしないからです。『続日本紀』によれば、このとき中納言に任命されたのは、粟田真人・高向麻呂・阿倍宿奈麻呂の3人だけで、大伴安麻呂の名はありません。しかし、一方で同じ日の記事で下毛野古麻呂が兵部卿に任じられており、当然安麻呂は兵部卿を解かれたわけで、これで中納言に任じられていなければ参議だけになってしまうからです。しかし、安麻呂ほどの大物の就任を『続日本紀』が欠落するとも思えませんし…。『公卿補任』では安麻呂も中納言になっていますが、『続日本紀』ほどの信頼は置けませんし、中納言は定員3人であることを考えると…迷うところです。
それにしても強烈だったのは、17日に出された勅です。
「官員令に依るに、大納言四人、職掌は既に大臣に比(なら)び、官位また諸卿に越えたり。朕顧念ふに、任重く事密(しげ)くして、充員満(み)て難し。宜しく二員を廃め省きて両人と為し定め、更に中納言三人を置き、以って大納言の不足を補ふべし。」
つまり、大納言は非常に重要な官職なので、定員を満たすことが難しい、だから定員は2人にする、というのです。これは、安麻呂は(不比等とは違って)大納言に値しない人間だ、と断定したに等しいです。しかも天皇の勅。屈辱にふるえる安麻呂の表情が目に浮かぶようです…。
◆悲願の大納言、その後の謎
この年7月19日、大納言紀麻呂が没します。これで大納言は不比等一人になってしまいました。ここに至り8月11日、とうとう安麻呂に大納言の地位が回ってきました。まさに「悲願達成」です。
なお11月28日、安麻呂は大宰帥を兼任しています(『続日本紀』)。さすがに大納言ですから、大宰府には赴任していないと思うのですが…(後述)。その後、大きな変動もないまま文武天皇が崩御し、元明天皇が即位します。和銅元年(708)、1月に叙位、3月に任官が行われ、次のようになりました。
左大臣 正二位 石上麻呂
知太政官事 穂積親王
右大臣 正二位 藤原不比等
大納言 正三位 大伴安麻呂
中納言?従三位 粟田真人(3月大宰帥)
中納言?従三位 高向麻呂(1月摂津大夫、8月没)
中納言 正四位上 阿倍宿奈麻呂
中納言 正四位上 小野毛野
中納言 正四位下 中臣朝臣意美麻呂
参議? 正四位下 下毛野古麻呂(→式部卿)?がついている二人は、それぞれ大宰帥や摂津大夫に任じられた際に中納言を辞したのではないかという説があります(岩波『新日本古典文学大系・続日本紀』1補注)。確かにそうでないと中納言が多すぎます。とすると、下毛野古麻呂も式部卿になった時に参議を辞したのかもしれません。その場合、ここで参議は一度消えることになりますし、そうでなくとも彼の死によって参議は一度途絶えます。
ところで、私が疑っているのは、安麻呂が実際に大宰府に赴任していたのではないか、ということです。
調べてみたのですが、旅人のように確実に赴任したという史料はありません。大納言が都を離れるというのは常識はずれですが、 もし赴任していたとすると大宰帥への任官は実質左遷ということになります。
実は、上記の任官(和銅元年3月)の記事で、安麻呂はとっくに大納言になっているのに、改めて「大納言と為す」と記されています。また上述のように、同時に粟田真人が大宰帥になっていて、安麻呂はこの時に大宰帥を解かれたことがわかります。この年から大納言専任になったことが「大納言と為す」なのかもしれませんし、もし赴任していたのなら、この年から都へ戻って大納言の実務に着いたのが「大納言と為す」なのかもしれません。
しかも、この時に不比等が右大臣になっています。もし安麻呂が大宰府にいたのなら、これまで大納言は実質不比等一人だったことになり、不比等の右大臣昇進によって大納言が不在となってしまうので、安麻呂が都へ呼び戻された、という筋書きも考えられなくはありません。考えすぎかもしれませんが…(^^;
大伴安麻呂が没したのはこの6年後、和銅(714)7年5月、正三位大納言のままでした。死後、追贈されたのは従二位。死してなお、不比等の位階を越えることはできませんでした…。
◆おわりに
それにしても、こんなややこしいことをするくらいなら初めから中納言を廃止しなければ良かったのではないか、と思ってしまいます。参議とは何だったのか、大伴安麻呂の大納言入りを遅らせるために作った役職ではないかと、思わず疑ってしまいます。
養老元年(717)、復活した参議に任じられたのは、不比等の次男、藤原房前です。最初に述べた、一氏族一人という慣習が初めて破られ、ここから藤原氏の繁栄が始まります。
…これも偶然でしょうか?