みなさんは、息長氏という氏族をご存じでしょうか。
古代国家形成期、天皇(大王)家の系譜上に現れ、あるいは人名にその名をとどめていますが、くわしいことはあまり分かっていませんが、ヤマトタケルや神功皇后伝承、継体朝や舒明系との関係などが推測されています。通常、その拠点は近江国とされています。「息長」という地名があり、「息長河」という川名は『日本書紀』にも登場するからですが、実は意外?にも、私の実家からほど近い、大阪市内(平野区)に伝承が残っているのです。
この「伝承」については、色々と考察をすることが可能で(「伝承」だけにどこまで確定できるか分からない代物でもあるのですが)、学生時代から私の頭の奥底に沈んでいるテーマでもあります。
また最近になって、郷土史家の方のご尽力で、新たな資料が発見されたり、歴史講演会が開催されるなどの「進展」もありました。
そこで、未解決部分だらけではありますが、少し整理しておきたいと思います。
※このページは、以前には史跡館の「ちょっと意外な古代史スポット」の1コーナーでしたが、今回独立して「意見館」に移動させました。
| 関係史跡その1 普賢山西池善法寺の息長沙禰王霊碑 |
地下鉄谷町線喜連瓜破駅を降りて大通りを少し西へ進むと、西池善法寺という小さなお寺があります。
名前の通り、この寺はここに昔あった「西池」という池にかかわる寺なのですが、その池の伝承の中に、「息長沙禰王」という、きわめてマイナーな人物が登場します。そこにある下の大きな碑は、沙禰王の慰霊碑です。
赤○をクリックすると、
拡大写真と説明に飛びます。
碑の正面
「息長沙禰王」の名が読みとれます。碑の後面
沙禰王の系譜と、この地にゆかりの万葉の和歌が刻まれています。
| 関係史跡その2 式内楯原神社の忍坂大中女命墓碑 |
駅とは反対側で少し離れていますが、楯原神社があります。
この神社は式内社ですが、付近の数社が合祀されています。「日本国最初・神宝十種之宮」など興味深いものもいくつかあるのですが、息長氏関係としては、その「神宝十種之宮」のすぐ横にひっそりと立つ、「忍坂大中女」の碑が重要です。
高さ数十センチ。大人ならしゃがまなかれば文字は確認しにくいです。
右は、見やすいようになぞってみたものです。
伝承によれば、この付近にはかつて古墳が数多くあり、それらは息長氏関係のものと伝えられていました。この碑は、それらの一つから「発見」されたもので、その古墳が、先の碑にもあった応神天皇妃の息長真若中女命(※)のものであることを示している、とのことです。
※三津井さんよりご指摘を受けて訂正しました。失礼しました。2005.11.21.
見たところ、いつごろのものか速断しかねる感じです。日本の古墳で墓碑銘が見つかるのは極めて稀なことで、古墳時代前期や中期ではたぶん一例も確実なものはないはずです。これは果たしてどうなのでしょう。
************************************************************とまあ、このようなものが現代に伝えられ、残されています。
伝承をそのまま史実と受け取ることはもちろん危険です。ただ、例えば聖徳太子や行基・空海といった「超有名人」ならば、あまり根拠がなくても(あっても)伝承は生まれやすいと思いますが、「息長氏」という古代史愛好者の中でもマイナーな氏族の伝承があるというのは、逆に「何か根拠があるのではないか」と思いたくなります。
そこで、息長が河内にあったことを「補足」する史料を、並べておきたいと思います。
| 関連史料その1 『万葉集』の息長川 |
この地域と「息長」を直接つなぐ古代の史料が一つだけあります。『万葉集』巻20です。
天平勝宝八歳丙申の二月、朔乙酉の二十四日戊申に 太上天皇・天皇・大后、河内離宮に幸行して、信を経て壬子を以て難波宮に伝幸したまふ。三月七日、河内国伎人郷の馬国人の家にして宴したまふ歌三首
住吉の 浜松が根の 下延へて 我が見る小野の 草な刈りそね 4457
右の一首、兵部少輔大伴宿祢家持
にほ鳥の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ 言尽きめやも 古新未だ詳らかならず 4458
右の一首、主人散位寮散位馬史国人
葦刈に 堀江漕ぐなる 梶の音は 大宮人の 皆聞くまでに 4459
右の一首、式部少丞大伴宿禰池主読む。即ち云はく、兵部大丞大原真人今城、先つ日に他しにて読みあげし歌なりといふ
(塙書房『万葉集訳文編』による。以下同。)
読んでの通り、天平勝宝8(756)年、聖武・孝謙・光明の一行が難波・河内に行幸した際、河内国伎人郷(現在の大阪市平野区喜連)の馬史国人なる人物の家で宴が催され、歌が三首作られたというのが状況です。そのうちの一首に、「息長川」が詠いこまれているわけです。
状況からしても、また前後の歌が「住吉」「堀江」という難波の地名を読みこんでいることから考えても、また4458歌を詠んでいるのが他ならぬホスト役の馬史国人であることからしても、この「息長川」はここ河内国伎人郷からほど近い川であると考えるべきでしょう。
ところが、通説ではこの「息長川」は近江国坂田郡(現近江町)を流れる息長川(天野川)であるとされています。理由は、こちらの方が有名だからです。『日本書紀』(巻28)に、壬申の乱の戦場の一つとして「息長の横河」が登場すること、この地が古代の豪族息長氏の根拠地とされているからです。
さらに、「古新未だ詳らかならず」という原注があることから、この4458は国人のオリジナルではなく、以前にあった古歌を詠んだのであろう、とされているのです。私には納得できません。
他に有名な地名があるからといって、息長川という川が他に(ここに)なかったという証明にはなりません。また、なぜ馬国人が近江の地名の古歌を歌う必要があるのか、動機が分かりません。
万葉の編者は、書紀にもある近江の息長川のことは当然知っていたでしょう。その上で、自分たちは河内の息長川という川を知らないが、かといって古歌をここで詠むのも不自然だと考えた結果、判断を留保して「古歌かも知れない」と原注を付けたわけです。それこそ冷静な判断というべきで、それを越えて古歌だと判断するなら、逆にそれなりの証拠が必要でしょう。そうでない限り、ここに息長川があったと考えるのが自然ではないでしょうか。
| 関連史料その2 『万葉集』の淡海県 |
もう一つ、気になる歌があります。『万葉集』巻7に収める、次の旋頭歌です。
青みづら依網の原に 人も逢はぬかも 石走る 近江県の 物語りせむ 7-1287 この歌も謎です。「依網の原」が近江国にないからです。
ところが、三河国には「碧海郡依網郷」があることから、この近江(原文は「淡海」)を遠江(=遠つ淡海)と見る説があり、さらに「碧海」が「あおみ」と読めることから「青みづら」は「碧海面」である、というような説もあります。
もっとも、この説はさほど有力ではなく、「青みずら」はふつうに「よさ」にかかる枕詞であり、「依網」は不詳だが摂津と河内にまたがって存在していた依網池をさすのではないか、というのが通説のようです。
そして、「近江」はやはり近江国を指すと考えられているのですが、「国」と言わずにあえて「県(あがた)」と詠んだ理由については明確な説がありません。言葉の意味からすれば、「県」は県主の「県」であり、国よりも小さい、郡レベル以下の広さの地域と考える方が通常です。
また、(依網が摂津河内なら)なぜ「近江」なのかについても同様で、わずかに『万葉集私注』が、「或は淀川を交通路として、両地の間に近い交渉があったのであろうか」と書いているくらいです。思うのですが、もしこの依網池の近くに「近江県」という地名があったとしたら、この歌は何のムリもなく解釈できます。
依網海のあった辺りは、「河内国丹比郡依羅与左美郷」と「摂津国住吉郡大羅於保与左美郷」であり、「今、大阪市住吉区我孫子町杉本町のあたりは依羅村と呼んでゐるところ」(『万葉集注釈』)です。
いま問題にしている「息長」の地から、さほど遠くありません。
また、「息長」の地名はもちろん近江国にもあります。息長氏が、近江国を主たる勢力基盤にしていたことは揺るぎません。この二つを組み合わせて大胆に考えるとき、息長氏がこの両方の土地に勢力を持ち、そこに「淡海」という地名を残したのではないか、という「説」が頭に浮かぶのです(あるいは、依網池そのものを「淡海」と呼んだのかもしれません)。
もちろん、学問的には証拠のほとんどない「妄想」です。しかし、全くあり得ないことでもないと思います。
| 関連史料その3 河内の「息長」に関する近世の史料 |
古代の史料で、私が見つけたのは残念ながらこれらだけです。
そこで最後に、近世の資料をあげておきます。
まず、「北村某の家記」という謎の史料があります。
『大阪府全志』は、この地に残る様々な息長氏関係の史跡と伝承を紹介した後、これらが「此家記より出しにはあらざるかと思はしむ」とし、「其の記事の真なるかは無論疑なき能はざれども」と断った上で、この「北村某の家記」を紹介しています。
確かに、これを丸ごと史実と考えるのは無謀に過ぎますが、かといって全くの作り話とするには、作者の想像力が素晴らしすぎます。何か、断片的にせよ、それまでに伝わった伝承がなければ、ここまでのものは作れないと思います。※この「北村某の家記」ですが、現在『大阪府全志』はなかなか見ることができませんが、田中嗣人氏の『聖徳太子信仰の成立』(吉川弘文館)に、主要な部分が引用されていますので、興味のある方はこちらをご参照いただければと思います。またこの本には、上でご紹介した善法寺の息長沙禰王霊碑のことも詳しく書かれていました。
次に、最近明らかになった絵図面があります。これは、地元の郷土史家の三津井康純氏が"発見"された森幸安作の「摂津国難波古地図」(1753)で、ここに「息長川」とはっきり記入されており、少なくともこの時期に「息長」の地名が存在したことは間違いないようです。
※三津井氏は、雑誌『大阪の歴史と文化財』第10号(2002.10.)に「聖武天皇も見られた息長川」という論考を発表されており、この古地図のことは勿論、この問題についての初期の論争(今井啓一氏「息長氏異聞」および八木毅氏「萬葉集の「息長」」(ともに『日本上古史研究』3-1 1959)も紹介しておられます。またこのことは、朝日新聞(2002年11月14日夕刊)でも紹介されました。
※三津井氏には、上記の資料をはじめ、直接にさまざまなご教示をいただきました。ありがとうございます。
| 補記 「今川の歴史講演会〜息長氏とは?息長川は今川か?〜」 |
最後に、先日(2005年6月12日)に開催された、「今川の歴史講演会〜息長氏とは?息長川は今川か?〜」 について、簡単にご報告したいと思います。
講演会は、大阪市東住吉区民ホールで行われました。ホールには、東住吉区内のさまざまな史跡の写真が展示されており、
坪井清足氏 「300年前の大和川付替えでできた今川」
特に考古学の分野では「重鎮中の重鎮」と言ってよい方です。が、息長氏は専門外かと思っていたのですが、この会に尽力された三津井さんと の同窓生で、その縁でこの会に関わられたようです。
題名にもある江戸時代の大和川付け替えですが、大阪の方はよくご存知のように、現在の大和川は付け替えによって作られた人工河川であり、それまでは大阪平野を北上していました。息長川かと考えられている今川は旧大和川系の川であるため、この付け替えによって水源を失い、現在では水路かと思うような小規模なものになっています。
ところが、この事実(付け替え)のことを知らず、近代の今川を見て、万葉に歌われている「息長川」とはイメージされる規模が違いすぎる、としてこの説を否定する論者がいる、とんでもないことである、というお話でした。興味深かったのは、関連する話題として紹介された、平安初期の運河開削計画のこと。和気清麻呂が、天王寺丘陵の西側の低湿地の排水のために運河を造ろうと計画していた、その名残の地名が、近鉄南大阪線の駅名にある「河堀口」とのことでした。
この話は初耳だったので、驚きました。上で述べた「近江県」の歌とつながるような気がします。
塚口義信氏「古代の天皇家を支えた息長氏とは」
塚口氏と息長氏研究といえば、何と言っても『神功皇后伝承の研究』でしょう。学生時代には入手して読みましたが、残念ながら河内息長氏のことは(当然ながら)触れておられず、がっかりした記憶があります。
全く余談ですが、かつて私の職場で氏にお会いしたことがあります。氏が勤めておられる短大の「生徒募集のご挨拶」に私の職場(高校)に来校され、たまたま応対したのが私だったのです。名刺を拝見して、「え!あの塚口先生ですか」と、本題と違うところで勝手に盛り上がってしまい、申し訳ありませんでした(^^;塚口氏は、神功皇后伝承に見える地名や人名がいずれも南山城地域に関連することから、神功皇后(「息長帯比売」)の「息長」は、従来言われてきたような近江国の息長ではなく、山城の息長氏というべき勢力があって、それが神功皇后伝承に関係していると考えるべきである、という説を解説されました。
これは、河内息長氏や息長川の存在を直接には示しませんが、息長=近江という通説や先入観には十分に検討の余地があることを論じられ、河内息長の可能性を示唆するものでした。
田中嗣人氏「なぜ万葉集の息長川が今川なのか」3人の中でもっとも多くの時間を担当されたのが田中氏でした。氏の著書『聖徳太子信仰の成立』には、上述のように、善法寺の息長沙禰王霊碑や「北村某の家記」がくわしく紹介されており、今回のテーマからは「最も近い」研究をされている方と言えると思います。当日のレジュメでも、『聖徳太子信仰の成立』の該当部分がほぼノーカットで引用されていました。
もっとも、なぜ「聖徳太子信仰の研究」が息長氏につながるのか、ちょっと分かりにくいところではあります。
田中氏は、聖徳太子関連の史料(「上宮聖徳法王帝説」や「聖徳太子伝暦」など)の系統関係を研究される中で、古い時代の史料の存在を想定しておられます。「北村某の家記」に見えるような、記紀が伝えない系譜や伝承が、こうした古史料と何らかの関連があるのではないかと想定しておられるわけです。
例えば、継体天皇の出自の問題があります。記紀は継体天皇を応神天皇の(忘れられていた)五世孫とするのですが、この記述の信憑性を疑う(後世の作為であるとする)のが通説です。しかし、田中氏はこの出自が史実であると考えておられるので、継体へつながる系譜と伝承を伝える「北村某の家記」に注目しておられるわけです。
講演会は、プロの女性アナウンサー(益子なお美氏)が進行をつとめられ、450人もの参加者でにぎわいました。参加者の大半は、地元の歴史愛好家かと思われる、年配の方々でした。
予想以上の盛況でしたが、若い世代が少ない(私も若くはない)のが、少し残念でした。