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源氏物語の登場人物名について

初出:FBUNGAKU-12-#03472、#03483、#03495

 これは源氏部屋で、源氏物語の登場人物の名前(紫の上とか夕霧とか)の「成立」時期が話題になっていた時に、私が調べた範囲でコメントさせていただいた内容からの抜粋です(1998年6月)。


 今日、図書館を物色していて、池田亀鑑編『合本・源氏物語事典』(東京堂出版)というヘビィな(^^;資料を見つけました。
 この中の「作中人物解説」には、主な人物がどのように表記されているかが抜き出してある上、世間で慣用的に使われている呼称が何によっているかも説明されていて、大変参考になりました。

 まず(不勉強で)知らなくて驚いたのは、すでに『源氏』そのものの中で、使われている呼称もけっこうあるということです。たとえば"夕顔"という呼称は、「末摘花」「玉鬘」の巻で使われています。"朝顔"も"花散里"も"空蝉"も"真木柱"も、同様です。私はてっきり、こういった歌や巻名からきている呼称は、後の読者や研究者たちが名付けたものだと思っていましたが、実は作者みずからが付けていたんですね。
 また、"藤壷"や"六条御息所"といった居所による呼称は、当時実際に使われていたノーマルな呼び方ですから、こちらは予想通り、作中でも使われていました。

 ただ、これは別の本で読んだのですが、"桐壷更衣"という呼称は当時の命名法からすればノーマルではない、更衣の呼称は居所ではなくて父親の官名からつけるので、彼女(光源氏の母)は"按察更衣"と(本当なら)呼ばれたはず、とのことです(角田文衛『日本の女性名(上)』教育社歴史新書)。

 一方で"葵上"や"朧月夜"は、本文にはなく、「九条家本古系図」「為氏本古系図」に見えるそうです。遅くともその段階には使われていた、ということなのでしょう。
 "雲居雁"や"玉鬘"は、この『合本・源氏物語事典』では、いつから使われている呼称なのかは分かりません。本文にはもちろんありません("軒端荻"は、"荻の葉"なら「末摘花」に出てくるようですが…)。
 この事情は男性も同じで、"髭黒"はもちろん"夕霧"も"柏木"も、本文には一度も出てきませんが、"薫"はけっこうあったりします。


 前回書いた「九条家本古系図」「為氏本古系図」が気になって、図書館で文献を探していたら、池田亀鑑編著『源氏物語大成』13資料篇(中央公論社)に古系図があり、また12研究篇に詳しい解説がありました。さらに後者の中に、源氏物語の名前について論じている箇所(207〜208頁)を見つけました。
 これらを見て、自分でも(ほんの)少し考えたことを書きます。

 まず、作者の命名による呼称の例として、

明石、朝顔、空蝉、桐壷更衣、末摘花、匂宮、花散里、帚木、夕顔、真木柱、近江君、紫の上、薫、桃園の宮、有明の宮

があげられています。他方、

落葉宮、朧月夜、雲井雁、軒端荻、浮舟、柏木、夕顔尚侍、玉鬘、夕霧、秋好中宮、髭黒、葵上

などは、本文中には出てこないもので、後世の読者による命名です。

 さて、そこで後者がいつごろ付けられたかを知りたいのですが、それを推測させてくれるのが古系図です。『源氏物語大成』によれば、「九条家本古系図」は鎌倉初期を下らず、字体などから平安末と見られるそうです。
 これを見ると、朧月夜・柏木・夕顔尚侍・夕霧・秋好中宮・髭黒・葵上の呼称はすでに採用されています。玉鬘も夕顔尚侍の別名扱いで書かれています。ですから、これらは遅くとも平安末には使われていたことになります。一方、例えば雲井雁は"夕霧大将北の方"、軒端荻は"蔵人少将婦"でした。

 さらに絞ろうと、『栄花物語』を探しました。松村博司『栄花物語全注釈』8索引編(角川書店)で調べたのですが、"光源氏"や"薫大将"はありますが、雲井雁は"内の大い殿の姫君"、夕霧は"右大将""大将"としか呼ばれていません。
 『栄花物語』は1030年頃の成立とされています。すると、この頃にはまだ"夕霧"も"雲井雁"も定着していなかった、平安末には"夕霧"は定着したが"雲井雁"はまだだった、というふうに推測できます。

 ただ、一般にあるものが「なかった」ことを証明するのは至難であると言われています。『栄花物語』や「九条家本古系図」にないからといって、その時代にその呼称が使われていなかったとは断定できません。
 でもまあ、だいたいはいいんじゃないか、と。

 今度は、「為氏本古系図」以後の古系図も調べてみます。また、『更級日記』などの文学作品にも当たってみるつもりです。


 長々と続けてしまいました。今回で最後です <(_ _)>ペコ

 「九条家本古系図」では採用されていなかった名前3つ(雲井雁・玉鬘・浮舟)について、平安末成立と推定される「九条家本系図」と、書写が鎌倉中期を下らない「伝二条為氏筆本」とを比べてみると、次のようになります。

雲井雁 (九)"夕霧大将北方"
  (為)"三条上"  ※ともに、「雲井のかり」と口ずさんだことを引用する
玉鬘 (九)"夕顔尚侍"とし、"たまかつらのないし"と添え書き
  (為)"玉鬘尚侍"とし、"ゆふかほの尚侍のかみとも"と説明
浮舟 (九)"手習三君"とし、"あつまやともうきふねとも"と説明
  (為)上とほぼ同じ

 また『更級日記』ですが、作者の少女時代の有名な箇所(治安元1020年3月)にはっきりと、

光源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女ぎみのやうにこそあらめ

と出て参ります。

 これらから分析?すると、

"雲井雁"
鎌倉中期になっても(玉鬘ほどは)定着しなかったが、彼女の名セリフとしてはずっと意識されていた。
"玉鬘"
平安末から"夕顔尚侍"と並んで使われていた。はじめは後者の方が一般的だったが、鎌倉中期には逆転した。
"浮舟"
"手習三宮"・"東屋"と並んで使われていた。"浮舟"は1020年には使われていた可能性があるが、"手習"の方が一般的だった。

てな具合になります。推測ですよ、あくまでも(^_^;

 ここまで整理した後、玉山琢彌「源氏物語作中人物呼び名の論」(『源氏物語研究』源氏物語評釈別巻1)なる論文を見つけてしまいました (^^;
 私がここまで長々と書いてきたことは、みーんなこの中に書いてありました。もっと詳しい考証や、他の例などもたくさんあります(;_;)ので、この
問題に関心のある方はご一読をオススメします。昭和35年の文章ださうです (;_;)
ワタシノウマレルマエジャナイカ..
 でもまあ、おかげさまでいい勉強をしました。



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