福島県南会津町

*参考資料 『図説中世城郭事典』 『戦国の堅城U』 『ふくしまの城』

*参考サイト  北の城塞

久川城(南会津町伊南青柳)

*鳥瞰図の作成に際しては『戦国の堅城U』の図を参考にした。

 以前、新潟に行った時に、ふと久川城に寄ってみたくなり、帰りに磐越自動車道の西会津ICで降りて一路城址に向ったことがあった。しかし、久川城は予想以上に遠くて、城に着いた時にはすっかり暗闇になってしまっていた。そのため山麓を少し歩くことしかできなかった。

 08年11月23日(日)、そのリベンジを果たそうと思って、前回と逆のルートを通り、那須塩原経由でここまでやってきた。しかし、塩原を過ぎる頃から雪が目に付き始め、南会津町に入る頃には辺り一面、すっかり雪国の風情となってしまっていた。まだ11月だというのに、町も城もすっかり雪景色に覆われてしまっている。まるで別世界に来てしまった感じである。そんなわけで、前回は漆黒の中での訪問、今回は白銀の世界での訪問となってしまった。
 当然、城に登る人など誰もいない。城内には新雪が積もっており、誰の足跡もついていなかった。そのなかをひたすら足跡を残しながら歩いて回ったのであった。

 城は伊南川をはさんで、伊南の集落のすぐ西側にある。山麓には「久川城跡」というばかでかい看板が立てられているので、遠目にもどこが城であるのか一目瞭然である。
 山麓には久川城資料館もある。しかし、これは私の訪問時には閉まっていたため、見学することもできなかった。

 城のある台地は北側に突き出した地形をしており、三方が急斜面である。台地基部にあたる南側には、堀切を入れていたようだが、現在、その辺りに道路が造成されていることもあって、遺構の一部が破壊されてしまっている。

 久川城の構造上の最大の特徴は、北西側にある土塁の規模の大きさであろう。おそらく、もともと山上は西側が高い傾斜地形であったのだろう。そこを削りだして削平地を形成したのである。その削平は半端なものではなく、削り残された土塁の高さは郭内からでも20m近くある。郭内から20mもの高さのある土塁が想像できるであろうか。他の城ではちょっと見られない光景である。土塁の西側は急傾斜地形となっていて、こちら側からの攻撃はまず不可能であろう。
 この台地上に堀切を入れることによって連郭式に複数の郭を配置している。上記の通り、この城の土塁は非常に高いので、堀切というのも土塁の斜面辺りではまるっきり竪堀である。その竪堀が平場に降りて堀切となるという実に豪快なものである。これが郭曲輪の間に構築されている。
 連郭式に配置されているのは本丸、二之丸、三之丸、南之丸の4曲輪であるが、さらに本丸の先には北之丸がある。北の丸の周囲にも緩やかに窪んだ地形が見られるのだが、本来、ここにも堀が存在していたのであろうか。

 久川城のもう1つの特徴は、馬出しや枡形といった虎口構造を多用していることにある。
 山下には大手と搦め手それぞれに馬出しが形成されている。いずれも方20mほどの規模のものであった。搦め手の方はすでに消滅してしまっているが、大手馬出は健在である。だいぶ浅くなっているが、周囲には堀の跡もしっかり見られる。
 大手馬出しから七曲りの道を登っていくと、城塁下の腰曲輪に到着する。ここも出枡形のような意味のあった郭であると思われる。塁上からまともに攻撃される場所であり、想定戦闘空間であったろう。
 そこからAの少枡形を抜けて内部を進んでいくと、今度はBの枡形を通過することとなる。Bは土塁の規模も小さなものであるが、かつては枡形門が置かれていたのであろう。その先にもさらにCの枡形もあり、主要部に接近するためにはいくつもの枡形を経由しなければならないといった導入路を設定している。しかも敵が通路や枡形内部を通過している間、その上の郭からの攻撃にまともにさらされることとなる。
 また、北西側土塁や、そこに構築された帯曲輪からの攻撃も可能である。こうして考えてみると、北西側の大土塁の存在意義は、単に北西方向防御のためのもの、というよりは、ここに雛壇的に兵員を配置して、下の通路内の敵を射撃する、といった目途にもあったように思われる。まさに「戦うための城」といった構造である。
 搦め手の七曲りを登った先にも大規模な枡形Dがある。Dの枡形が城内では最大のものであり、近世城郭にも通じるものがある。

 さて、現在見られる久川城を築いたのを誰と見るべきであろうか。一般的には、小田原の役以降にこの城に入城した蒲生氏によるもの、と言われているが、それ以前にこの城を籠城用に大改修したのは当地の豪族であった河原田盛次である。彼は天正17年の摺上原の戦の後、蘆名家臣で唯一、伊達氏に降伏せずに城に籠もって抵抗し、伊達氏の攻撃を跳ね返している。その際に籠城していたのがこの久川城であった。
 河原田氏が会津四家と呼ばれる大勢力の1つであり、伊達氏の大軍を迎え撃つための要塞として久川城を築いたのだということを考えると、この時すでに、久川城は堅固な城として成立していたのではないだろうか。したがって、現在見られる遺構の多くは、河原田氏によるものと見てもよいのではないかと思うのである。
 その後蒲生氏がこの城に入城するが、当初蒲生氏は、各地の一揆に手を焼いており、各地域に兵力を分散して大規模な築城を行うほどの余力がなかった可能性もある。その点からも、河原田氏改修の可能性が高いと考えられる。
 確かにこの城には枡形や馬出しなどの技巧的な構造物が多く見られるが、伊達氏との最前線で戦ってきた盛次は、各地の城でそうした構造物を実際に体感しており、自分の城にそれを取り入れたとしても不思議はない。
 城内の枡形の多くは小規模なものであり、大手や搦め手の馬出しにしても、それほど大軍勢が籠城する城のものとしてはこじんまりとしていること、全体にこの城が少ない人数でも籠城できるように工夫されていること、などといった構造的な側面からしても、地元豪族であった久川氏の城としてふさわしい感じがする。
 もっともそれを証明するものは特にない。また、伊達氏来襲に備えて、短期間でこれだけの城を築き上げられるのかどうかといった問題もあるので、結局の所、どこまでが河原田氏の手によるものであるのかは明確ではない、というほかない。
 
 久川城はその保存状態が非常によい。また藪も少なく、本丸周囲の土塁や堀など、往時のままではないかと思うほどきれいな状態で見ることができる。もっとも私の訪問時にはすべて雪に埋まってしまっていたのだが、それでもその規模や構造はよく分かった。交通不便な所にあるが、一度は訪れてみてもよい城である。

 ところで、大手口近くに立派なトイレが設置されているのだが、入口が封鎖されており使用できなくなっていた。「無断キャンプ禁止」という立て札も立っていたが、この辺で無断でキャンプする人が多いのだろうか。それを防ぐためにトイレを封鎖してしまったのかもしれないが、せっかく造ったトイレを封鎖してしまうのもどうかなあと思ったしだいであった。

以前に来た時の写真。苦労して到着した時には真っ暗になっていた。久川城の入口にはこのような分かりやすい看板がある。夜でもよく分かる。しかし、夜じゃ、遺構はよく分からん。 今回の訪問では真っ白だ・・・・。東側の伊南川越しに見た久川城。山麓に大きく目立つ看板が立っている。下からの比高は40mほどである。
搦め手方向から七曲の道を登っていくと搦め手の大きな枡形Dに出る。こんな時にこの城に来る人は誰もいない。新雪に足跡をつけながら進んでいく。 北の丸の周囲には緩やかな窪みが見られる。かつての堀の名残なのであろうか。深い所はくるぶしまで雪に埋まってしまう。けっこう積もったものだ。
本丸周囲の堀。深さ4mほど。雪が積もっていて形状が分かりにくいが、非常にきれいな状態で保存されている堀である。右の角は櫓台。 本丸北側の堀。西側の削り残し土塁から最初は竪堀となり、本丸の周囲に降りてきている。
本丸北東部の櫓台と堀。 本丸の虎口。城内各所に枡形虎口が形成されているのに、肝心の本丸が単純な平虎口なのが不思議である。櫓門でもあったのだろうか。
本丸と二ノ丸との間の堀と竪堀。 二之丸から三之丸方向を見たところ。正面に竪土塁と竪堀が見えている。
城内から見る伊南の集落。正面右側辺りの山が駒寄城であろうか。 二之丸と三之丸との間の竪堀。
二之丸の下にはこのように石垣も見られる。 二之丸脇の竪土塁に付けられた階段を登って土塁の上を目指す。
土塁から下の郭内を見たところ。土塁といっても高さは20m近くあり、途中には帯曲輪状の平場が形成されている。 西側土塁から滝倉川のある沢を見降ろしたところ。こちら側は絶壁で登攀は不可能に近い。
土塁の途中にある堀切。 三之丸と南之丸との間の竪堀を土塁上から見たところ。
ふと後ろを振り向いてみると、土塁上には私の足跡だけが点々と続いていた。これを見た瞬間、なんだか孤独感に襲われてしまった。なにやってんだろうなあ、オレ。 南之丸西側の竪堀が通路状になっており、そこから降りていく。右側の土塁の下には横堀がある。その先にも堀切があったようだが、道路の建設で破壊されてしまったようだ。
三之丸の下にあるBの枡形内部。もっとも土塁の高さは1.5mほどで、それほど堅固なものではない。 大手馬出しを内部から見たところ。といっても雪の写真でしかない・・・・。
 久川城は、この地の豪族であり、会津四家の一家であった河原田盛次によって築かれたと言われている。天正17年(1589)、河原田氏は、蘆名氏に従い、伊達氏の戦いに参加し檜原口を守っていた。しかし、摺上原の戦で蘆名軍が敗走したという知らせを聞くと、陣を払ってこの地に戻ってきた。
 黒川城に入城した伊達政宗は、すでに帰順していた鴫山城主長沼盛秀を通して河原田盛次に降伏を呼びかける。しかし、盛次は「武士として二弓はひかず」と返答し、それに従わなかった。よほど豪快な人物だったのであろう。しかしこれでいつ伊達軍に攻め込まれるか分からない状況となってしまった。敵の来襲を確信した盛次は、川向の青柳の台地に新たに籠城用の要害を築いた。これが久川城である。もっともここには以前から要害が存在していたというから、築城ではなく、大改修というべきであるかもしれない。
 天正17年8月28日、伊達軍の柴田但馬、草野備中、長沼盛秀らを大将とする伊達軍数千が久川城を攻撃してきた。しかし河原田盛次は、城に拠って抵抗した。盛次は、反伊達勢力である上杉・佐竹氏らと連絡を取り合いながら籠城を続けた。久川城の防御は堅固であり、城は落ちず、伊達勢は、とうとう城を落とすことができなかった。
 翌天正18年、小田原の役が起こると、伊達政宗は小田原へ参陣し、秀吉に帰順した。秀吉は会津領の返却を命じ、伊達政宗はそれに従うしかなかった。こうして伊達氏の脅威は会津地方から去ったのである。ようやく危機を脱出した河原田氏であったが、不幸はその直後に訪れることとなる。小田原に参陣しなかったことにより、所領を没収されてしまうのであった。一年近くもの籠城戦に耐えてきたというのに、なんとも皮肉な話である。その後の河原田盛次は、上杉景勝を頼って越後に赴き、翌年病死したという。
 代わって会津に入部してきたのは蒲生氏郷であった。彼は奥会津支配のために、久川城をさらに改修し、蒲生郷可、長尾数馬、藤田吉左衛門、蒲生五郎右衛門、蒲生忠右衛門らと城主が交代した。
 蒲生氏の後は、上杉景勝の支配下に置かれたが、関が原役で上杉氏が没落した後、城は廃城となった。




西館(南会津町伊南)

 鎌倉時代にこの地に地頭として入部してきた河原田氏が最初に居館を置いたのが、ここ、西館であるという。館跡は60m四方ほどの規模で、現在は、伊南保育園の敷地となっている。周囲の土塁の大半が崩され、堀も埋められてしまったようだが、南側の保育園入口脇には、大土塁が残存しており、その脇には城址碑も建てられている。土塁の位置から考えて、この虎口は食い違い構造になっていたようである。また、北東の角には鬼門除けと思われる窪みが見られる。


 隣接する南側の町役場支所は、東館の跡であるという。戦国期の河原田氏は、この東館に居住し、南側の山稜にある駒寄城を詰めの城としていた。
 役場支所の脇辺りに確かに土塁のようなものが見えていたのだが、雪も多く、先を急いでいたので、結局確認していない。













保育園脇の土塁。高さ3mほどもある大規模なものである。堀は埋められてしまったらしい。 南側の虎口と城址碑。こうしてみると、土塁が食い違いになっているのがよく分かる。














大竹屋旅館