靴音が階段に響いた。リーナンだった。ひとりきりで階下にいて不安になり、ラルザハルを追いかけて階段をあがってきたのだろう。 「旦那さま! レパルさん……お、奥様まで……なんてひどい」 少女は死体に気づくと立ちすくみ、ひっ、と小さな悲鳴をあげる。 「逃げろ、リーナン。ここは危険だ。すぐにここを出て、まっすぐ街まで逃げるんだ。ひとりで行けるな」 「でも、ラルザハルさまは?」 「俺はメイアをさがす」 姿の見えない妹のことが心配でならない。メイアのことを考えると胸が潰れそうになる。どうか無事でいて欲しい、と願わずにいられなかった。 「正面の扉から出るんじゃないぞ。さっきまで隠れていた小部屋に行って、そこの小窓から外に出るんだ。あそこなら厩舎に近いし、それほど目立たないからな。俺の……いや、メイアの深雪を使うといい」 深雪とは、その名のとおり美しい毛並みをした純白の駿馬である。足が速いだけでなく、性格も穏やかで扱いやすかった。 「外には俺の雷光がうろついているかもしれんが、あいつは深雪とちがって気性が荒い。見かけても絶対に近づくなよ」 「は、はい」 いま二人が立っている広間からはまだ遠いが、この場所も安全とは言いがたい。こうしているあいだにも炎は確実に燃え広がっているだろう。 誰かがくる。 ほどなくして閉じたままの広間の反対側、頑丈な扉の向こうで大声が聞こえ、次いで扉を叩く騒音があたりを響かせた。扉の内側からかかっている閂のおかげで少しの間なら時間を稼げるが、そう長くは持ちそうにない。 ラルザハルはもと来た扉に引き返し、立ちすくんだままのリーナンを叱咤した。 「何をぐずぐずしている! 行くんだ!」 はじかれたようにリーナンが駆け出す。 階下まで降り切った少女が無事に小部屋に逃げ込むのを確認し、ラルザハルは同じ階にある妹の部屋に向かって走り出した。
たどりついた部屋は、進入者によってすでに荒らされていた。 二間続きの居室だけでなく、寝室に続く扉までが開け放してある。寝台を覆う薄布が引き裂かれて取り払われ、くしゃくしゃになって床に投げ出されている。ドレスを吊るした衣装棚のみならず、宝石箱や化粧箱、鍵の掛かった下着を収めてある衣装箱すらが暴かれていることに、大切な妹を汚されたような気がして、ふつふつと怒りがこみあげた。 見当違いな怒りだとわかっている。いまは、そんなことに気をとられているときではない。 けれど両親は殺害され、妹の身の安全までが脅かされている。その事実がラルザハルの思考を千々に乱し正常な判断を狂わせていた。 メイアの姿はどこにもない。騒ぎを聞き付けて身を隠したのか、捕えられて連れ去られた後なのか、それすら判らないありさまだった。それとも、もう……。 「ちくしょう!」 荒く乱れる感情とともに、こぶしを振り下ろす。寝台の脇にある飾り棚に置かれた陶器の平たい皿が割れ、色とりどりの砂糖菓子が砕けた破片と一緒に足元に降りそそいだ。 手の甲から流れ落ちる血の赤に、笑いの衝動がこみあげる。母の胸に突き立てられていた短剣と、父の鮮血でじっとりと床を濡らし、甘ったるい血臭を漂わせていた絨毯の禍々しいまだら模様。そしてレパル……。 そのとき、ラルザハルはファーニティアの最後の言葉を思い出した。 「そうか……書斎だ!」 自身の迂闊さに舌を打ちながら、いっぽうで、希望の光が灯るのを感じた。まだ間に合う。書斎には父、ラーバルドが秘密裏に設計させた古い隠し部屋があった。 造るときにはとりたてて重要な存在理由もなかった。部屋は十年以上前に完成していらい完全に忘れ去られ無用の長物となりはてていたもので、当時は大金をたはいて造る意味が本当にあるのかと首をひねったものだ。だが、いまは父とロサ神に感謝の祈りを捧げたい気持ちだった。 ラルザハルはメイアの部屋を飛び出すと、父の書斎に向かって、まっすぐ奥へ伸びる廊下を駆け抜ける。幸い進入者たちは見当違いの方向を捜索しているらしい。書斎に到着したときラルザハルはメイアの無事を確信した。すべりこむようにして中に入り、音をたてないように扉を閉め室内を見まわす。よかった。ここはまだ荒らされていない。 「俺だ、メイア。そこにいるんだろう? 遅くなってすまなかったな。でも、もうだいじょうぶだからな。心配しなくてもいい」 重い書架の裏の灰色をした壁の奥に隠された部屋は、内部が厚い煉瓦造りになっていた。多少の物音くらいでは外にいる者たちに気づかれる心配はないが、扉が閉まると完全に明りが遮断され中は真の闇に包まれる。 たったひとりで恐怖に耐えている妹を、一刻も早く暗闇から助け出して安心させてやりたい一心でラルザハルは失念していた。隠し部屋の扉は特殊な構造になっていて、内側からでは完全に閉ざすことはできないのだ。 書架をどかそうとして、動かした形跡のないことにようやく思い至る。 「メイア?」 応えはなかった。 ラルザハルは気づくのが遅すぎたのだ。 この瞬間を、後に、青年は幾度も夢に見ることになる。 ふいにあがったメイアの恐怖に満ちた悲鳴を追うように、自分自身の絶叫が薄暗い回廊にこだました。
やめろ、と青年は声の限りに叫んだ。 声のした方向は、書斎からそう離れていない。廊下をさらに奥に進んだところ、屋敷の南側に面したバルコニーだった。 廊下に飛び出したところで、兵士のひとりと出くわした。 神聖なる純白の鎧の胸当てを飾るのは、燃えさかる太陽。光の象徴にして天地すべての恩恵をつかさどる創造神、ロサの紋章である。 「神聖騎士……」 相手がアカルジャの正規軍ではなく、ロサ神殿所有の兵士である事実にラルザハルは戸惑いを覚えた。だがそれも一瞬のこと。なににもまして優先するのは、妹、メイアの安否以外にはなかった。 「生命が惜しくば退け!」 吠えるようにいって、突進する。 軽装でいたことがうまい具合にさようした。重い鎧を着込んでいるため対処の遅れた兵士の腹部に、ラルザハルは長剣を叩き付け、その横をすりぬけりと、バルコニーへ走った。
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