そのままの自分でいいんだよ僕が小学生の頃、校庭で縄跳び遊びをしたことがありました。
一人でする縄跳びではなく、縄の端と端を二人が持ってグルグル回し、そこへ一人ずつタイミングを
合わせて輪の中に飛び込んでいき、縄跳びをして誰かが引っかかったところで終わる
「お嬢さんお入いんなさい・・・」というやつです。
そのタイミングがつかめず、輪の中に飛び込もうとして進んでは戻り、進んでは戻りを繰り返し・・・
やっと輪の中に入れても、縄を足に引っかけ縄跳びを終わらせるのが、大抵僕の役でした。
等々スポーツが何をやっても上手くいかず、どんくさい学生時代を歩んでいました。
スポーツがだめでも、勉強なら出来る人もいるのでしょうが、残念ながら
そっち方面もそうでもなかったのです。
何でこんなどんくさく生まれたのだろうと、コンプレックスを持ったのは言うまでもありませんでした。
さて、皆さんの中で少しでもコンプレックスの無い人っているのでしょうか?
無いと言える方がいらっしゃるなら、それもいいことです。
しかし大体は何らかのコンプレックスを持っておられるように思うのです。
誰もが出来ることなら、本当ならもう少し裕福な良い両親から生まれ、スポーツも万能で勉強が出来て、
いい相手と結婚をし、いい会社に勤め、ずっと健康で、子供を賢く育てて、もう少し鼻が高かったら・・・
と願っておられることでしょう。
また、親の期待にこたえねば、とか、自分が変わりたい、変わらなければ。
もっと何かが出来るはず、もっと人に喜ばれることができるはず。
でも、思うようにならない、何でこんなことになっているかと、悩むこともしばしばありますよね。

自分の願いや理想がかなうために努力も力も才能も必要でしょうが、やっぱり限界があります。
または親には期待や要求をされるけれども、したくても出来ない、という現実があります。
このように、自分の身の回りにいる、他の人と比較して、あの人には出来るのに、私には出来ないと、
嘆き悩むものなのですが、もともと違うものとして、違う目的で造られていると知れば、心が穏やかに
なると思いませんか。
聖書の言葉には、私たちが神様から造られたと書いてあります。
「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
神は私たちが良い行いに歩むように、よい行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」
茶碗造りを例に挙げてみます。ベルトコンベアに載せられて流れ作業でまったく同じものが、
作られるのが「製品」ですが陶器士によって一つ一つが作者の目的と愛情を持って造られたものが「作品」で、
一見同じに見えても、人の顔や性格が違うようにまったく同じものは一つも無いものなです。
神様が、このように私たちを違うのもとしてあらかじめ造られたのだから、出来ないことをまたは、
そうなっていないことを、無理をしてしたり悩んだりする必要がないのです。
今の自分のままで、自分の出来る事をすればよいのです。
そこに、良いことをするチャンスもたくさんあるのです。
たとえ他の人とは劣っているように見えるところがあっても、
このままの自分で、すでに神様からは、たっぷりと愛を受けているのです。
ホームページ管理人より