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0章:前史時代


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 ペルシア侵攻を待つギリシア諸都市の危機感の中、ギリシア哲学は、
科学と神秘主義、知愛と奴隷制度の狭間を揺れ動きながら瞬時の花を
開く。後を受けたローマの科学技術は実用主義で、目立ったブレイク
スルーはなかった。そして西ローマ滅亡後、永き中世の暗黒が訪れる。
 一方、インドで発達した算数はアラビアでおぼろげに発展していくが、
最大の発明のアラビア数字は、梵字が変化しただけのものであった。
 ルネッサンスと、その後の100年により瓦解した中世神学権威は、
社会変化が達成されたイギリスに現れたニュートンにより、「初期条件
としての神」という考えにまで後退させられる。
 数学と化学の周辺進歩の中、物理学は不気味なほどその歩みゆるめて
天体力学に終始し,偉大なる19世紀を待つ。
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BC3000紀後半 シュメール
      楔形文字による数字:60進法
      セム系は、10進法へ

BC2500年 以前 中国
      天然磁石の知識[74]

BC2000紀前半 バビロニア
      位取り記法と空位の意味での「0」の利用

BC2000年以前 古代エジプト
      分数の起源。土地の分割法より

BC1830頃 アーメス(エジプト)
      最古の数学文書「アーメス・パピルス」[53]

BC17世紀頃 古代エジプト
      「リンド・パピルス」で1次方程式の演習問題[53]

BC1000頃 中国
      羅針盤の知識[74]

BC600年頃 タレス(タレース Thales ギリシア植民都市ミレトス)
      万物は神の力ではなく,自然自ら生じるとした。[無神論とは異なる]
       ギリシア七賢人、ギリシア哲学の祖、「数学者のはじまり」「幾何学の祖」と呼ばれるが、直接の書物は現存しない。
      目的論的議論を排し、ギリシア自然哲学を基礎付ける。
      「三角形合同定理」、「BC585年の日食予言」などがタレスの手によると言われている[80][82]

BC6世紀 ピタゴラス(Phythagoras サモス島の富豪の家に生まれ、南伊の植民都市クロトンに移住)
      数学的自然観の創始[29]「万物は数である」、原子、点などの概念
      無理数の否定:三角形の辺は「原子」で出来ているのだから、その比は整数比:有理数で表されるはず、という考え[52]
       有理数という日本語の語源は、比になるという意味の「ratioanal」を「有理」と誤訳したことによる
       AD5世紀 ローマのカッシオドリウス「有理数」「無理数」という用語を初めて使う[53]
      偶数奇数の区別、図形数の研究、三平方の定理
      視覚は物体から出た粒子が目に入るために起きる:光の粒子説
      BC530頃 ピタゴラス、イタリア南部でピタゴラス教団設立[34]
【用語解説】========================================================================
●ギリシア数学の欠点[73]
近代数学から見て、ギリシア数学の問題点は以下のごとし
 1)具体的な数値計算の軽視←産業との結びつきの薄さ。
 2)幾何学の最重視→代数的発展性、記号化の欠乏
 3)無限への嫌悪
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BC500年頃 インド最古の数学書「シェルヴァイスートラ」(53)

BC450年頃 ゼノン(ツェノン Zenon エレア学派、政治家のゼノンと区別する時には「エレアのゼノン」と呼ぶ[82])
       ゼノンのパラドクス[29][52]
       アキレスと亀:アキレスは亀に追いついた時、亀は更に先に行っているので、追い越すことは出来ない。
       飛ぶ矢のパラドクス:飛ぶ矢は、ある分割できない瞬間では移動できない。つまり静止している。
       ←有限の時間に無限の個数の点を移動することは出来ないという考え
       →無限小、無限和の考え方の成熟まで説明は困難であったが、無限を扱う数学の構築には常に有意義なパラドクスだった。[52]       →1980年代の量子ゼノン効果の認識へ

BC5世紀 レウキッポス(Leukippos)、デモクリトス(Demokritos)
      原子論
      哲学的な不可分の究極粒子を「原子(アトム)」と呼び、運動を実現するものを「空虚(ケノン)という[26][45]
      デモクリトスは、実験・観察重視の姿勢を持っていたという。
      ギリシャ語でatomは、α(否定)τεμειμ(切断)による。

BC5世紀 プラトン(Platon)
      イデア論。抽象的還元主義としての理論物理学の哲学
      「ものは同族のものに向かい、動いていくものは重いもの、動いていく先は下と呼ばれる」[37]
      宇宙の調和としての「正多面体論」[82]
      プラトンの束縛:定規とコンパスのみを用いる、という幾何の作図問題の条件[54]
       ギリシアの三大作図不能問題
        ・Delos problem:2倍の体積の立方体
        ・角の三等分問題
        ・円積問題

BC444 エムペドクレス(Empedokles:プラトン学派)
      光の粒子説による視力の理論[58]

BC5世紀末 アンティポン(Antiphon ギリシア)
       求積法のはじまり。円の面積を多角形求積の極限として求める[53]

BC4世紀 エウドクソス(ユードクソス、Eudoxos、クニドス)
      演繹主義的解析学:ゼノンのパラドクスへの回答
      「とりつくし法」による求積法の開発:極限無限小を仮定しないで「級数」として求める、
       アルキメデス、ユークリッドらにより広く利用された。[52]
      同心天球説
      比例論(実数論)

BC4世紀 アリストテレス(Aristoteles)
      ・経験論、目的論的自然哲学の構築[29]
       (議論尊重、技術・実験軽視のギリシア哲学の特徴の発現)
      ・論理学の構築
      ・天動説;天上物は「エーテル元素」よりなる
      ・真空を否定し、媒質の抵抗と継続的な力の関係で速度が決まるとした(真空があると、抵抗がなくなり無限に早くなってしまう)
      ・落下運動は「重さ」によって地球中心に落ちる現象。火には「軽さ」がある。天体は円運動するものとされた
      (・光は実体ではなく、視覚は視線が物体に反射されるために起きる)
      ・ゼノンのパラドクスを否定し、ユードクソスを擁護した[37][82]
       プラトンのアカデメイアに20年学び、その後、小アジアのアッソスに移り、アレキサンダー大王の教師として、権威化
       プラトンのイデアを批判、また、数学的自然観と原子論を否定し、中世スコラ哲学全盛へと結びつく。
       プラトンから分派したのは、プラトンの「数学主義的形骸化」に反発したためとも言われている[82]

BC400頃 アルキタス[53]
       滑車の原理の発見、比例の理論、立方倍積問題の研究

BC350頃 メナイクモス
       円錐曲線の研究[52]
        円錐の頂角の鋭・直・鈍により、楕円、放物線、双曲線が得られること。
        放物線による方程式の解法の考え
        円錐曲線を描く機器を考案[53]

BC300頃 ストラトン
       真空の考察。水中の空気の観察から、空気は全くの空虚でもなく、全くの連続でもないこと[45]
       プトレマイオスI世の下で研究

BC3世紀 ユークリッド(エウクレイデス、エウクリデス、Eukleides アテネ→アレクサンドリア)
      ユークリッド幾何学「原論」と、幾何光学の創始(反射・屈折法則)[29]
      ・「原論」で5つの公理(数学)、5つの公準(幾何学)を設定。[52]
        第5公準:内部の角の和が2直角より小さければ交わる。→非ユークリッド幾何学
        第5公準の別表現:1点を通る平行線は1本:「プレーフェアの公理」
       ユークリッド幾何学は測量から進化した経験論的幾何学であった。[8]
       2次方程式の幾何学的解法[52]
        プトレマイオス1世の「『原論』を征服をする以外に幾何学を克服する手段はないのか?」
       の問いに、ユークリッドは「幾何学に王道なし」と答えたという[34]
        「原論」全13巻を読むのには、1巻1年かかったという。この膨大な学問が、
       ギリシャ数学を次第に訓古の学にしてしまったことを考えると、プトレマイオスの願望は正しかったのかもしれない[80]
       「幾何学geimetry」はギリシア語の「ge:地球」「metron:測る」に由来する[59]
       また「次元dimension」はラテン語の「di:別々に」「metiori:測定する」に由来し。
       角度angleはラテン語の「カドangulusu」に由来する[59]
      ・原論の中には、余弦定理がすでに存在する。
      ・弟子筋のアポロニウスは天動説を補強する「周天円説」を提案、円錐曲線論展開[29]
      ・「光学」「反射の光学」などを著す。平面・曲面における反射の法則。「optics」の語源は彼の視覚論「Optica」に由来するともいう[58]

BC3世紀 アリスタルコス(Aristarchos ストラトンの弟子、サモス出)
      地動説[45]
      惑星の明るさの変化、月の視直径の変化(金環食と皆既日食の差)より唱えたという。

BC3世紀 エラトステネス(アレクサンドリア)
      夏至の太陽南中高度の2地点差より、地球の円周を38000km程度(後の尺度)と求[45]
      素数を求める手法「エラトステネスのふるい」を考案[53]

BC3世紀 アルキメデス(Arkhimedes シュラクサイ(シラクサ):シチリア島のギリシア植民地→アレクサンドリアで学ぶ)
      反射鏡の幾何学(敵の船を反射鏡で燃やそうとしたとの逸話が有名)
      重心の概念
      てこの原理「足場が与えられれば、地球をも動かそう」、浮力の原理
      方物線、球と円柱など各種体積公式:最初の積分概念(とりつくし法と無限小の両方の側面をもつ)[80]
      円周率の最も古い計算の例(内接・外接多角形の面積より)
      指数規則 a^m・a^n=a^(m+n)
      らせん揚水器

BC200頃 アポロニウス(アポロニュウス、アポロニオス Appollonios ペルガモン王国)
      「円錐曲線論」の研究[52]
      「円錐曲線論」を著す。この著書は解析幾何の要素があり、後にフェルマへ影響を与えた[82]
      円錐母線に平行な曲線を二乗に「一致する(parabole)」、閉じる側を「不足する(ellipsis)」、開く側を「超過する(hyperbole)」
      と名付け、放物線、楕円、双曲線の語源となった。
      円が神聖視されていた時期に、楕円幾何学が生まれたこと。→ケプラーの法則への影響[82]

BC2世紀 ヒプシクス(ヒップシクレス)
      黄道を360度(部分)に分ける[53]

BC150頃 ヒッパルコス(ロドス島)
      球面三角法の創出
      歳差現象を発見。球面三角法により太陽年と恒星年の差が365.25日より1/300程度短いことを示す[45][52]

BC2−1世紀 中国において
      「九章算術」が著され[52]
       負数の扱い、連立1次方程式の解法のアルゴリズムが取り扱われる。(概念はこれ以前に確立されていた)
       AD 263 劉徽が「九章算術注」著す[53]
       AD 5世紀 祖沖之が「九章算術」の注を著す[53]

BC1世紀  ヘロン(Heron、アレキサンドリア)
     反射の法則(光線の最短経路、入射角=反射角)
      ([53]年表によるとBC130頃とある、[58]によると前130〜前75とある)
      BC100頃 ヘロン
         ヘロンの公式、また、2次方程式の解が、虚根で解けない場合在に気づいていた[53]

BC1世紀 ルクレティウス(Titus Lucretius Carus)
      光の反射について、著書「物の本質について」で述べる[58]

50   クレオメデス(ギリシア)
     屈折現象の研究[58]

1世紀終 メネラオス(アレキサンドリア)
     球面論[52]
     「球面三角法」「円における弦について」を著す。[53]
     三角法、球面三角法(メネラオスの定理)。

140年頃 クラウディオ・プトレマイオス(Ptolemaios トレミーとも呼ばれる。アレクサンドリア)
     ・実用天文学(天動説):周転円と離心円の考え。天球は80個の円よりなる複雑なものとなった[47]
     ・光の屈折の実験(水の屈折)、大気中の光の屈折について
     ・著作「アラウマゲスト(アルマゲスト 天文学体系)」で、「トレミーの定理」、
     ・三角関数の公式(60進法の採用、加法、2乗和=1)、球面三角関数の公式[52]、三角関数表[53]

250年頃 ディオパントス(Diophantos アレキサンドリア)
      数学の記号化。「最初の代数学者」[82]

6世紀  西欧型修道院の成立。文化の中心として機能

6世紀  フィロポノス(Johannes Philoponos)
     アリストテレスの力学を批判、空気は抵抗のみであるとした。

7世紀  インドにて0(ゼロ)の発見
      「位取り記号」と、「正と負の中間の認識」という、両方のに至る[52]
      628年 ブラマーグプタ「ブルマーグプタシッタンタ」を著し、零の記号の扱い、2次方程式の解の公式を研究[53]
      これ以前(5世紀)に、すでに空位記法は使われていた・

773  アラビアにインド数学伝わる([69]によると、775年)
     0の記号、位どり、正弦表[53]
     0は「sifr:あいている」と呼ばれた。

8世紀  カール大帝の下、カロリング・ルネッサンス


【用語解説】========================================================================
●アラビア数学の歴史的意義[82]
 東洋・インド・エジプト数学と、ギリシア数学との融合・伝承
 イスラム商業文化の興隆を背景とした、現実的「数概念」の成熟。負数、無理数・・・
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830  アル・ファリズミ(フワリズミ、アル−クワリズミー、al−Khwarizmi、ペルシア/アラビア チグリス・ユーフラテス周辺?)
     アラビア最大の数学者、代数学算法の世界最初の本「アルジェブル・ヴ・アルムカバラ
     (al-jabr wal-muqabala〜足したり引いたりすること[立川])」を著す。[52][53][54]
     著書の名前の一部「アル・ジャブル」から「アルジェブラ」という単語が出来た[45]
     また「クワリズミ」から「アルゴリズム」の言葉ができた。[54]
     代数方程式の解法、二次方程式、幾何学、三角法

9世紀  タービット・ベン・クッラ(Tabit ben Qurra al Harrani アラビアのハラン)
      サビ教徒〜ピタゴラス学徒の流れ[54]
      春分・秋分点の移動、幾何学的手法による代数、友愛数(amicable number)の規則:デカルト、オイラーが後に研究

9世紀  アルバッタ(アラビア)
     「星の運行」で初めて、余弦、正接の概念を用いる[53]
     10世紀 アブール・ワファ(アラビア) 正割、余割の概念を導入[53]

10世紀 インドにて0(ゼロ)の単位性の認識
     a+0=a,a×0=0,0÷a=0 等の認識[52]

10世紀 アルハゼン(アルハーゼン、Alhazen アラビア)
     光学(レンズの結像、虹が空気中の水滴の屈折であること)、視覚光学(光線が目に入る)の研究。
     球面鏡、放物面鏡の原理。太陽光の大気による屈折を論ずる。
     「光学法典」を著し、後にラテン語に訳され、ベーコンらに読まれた。[58]ほか

11世紀 ウマル・ハイヤム(オマル・ハイヤーム、Omar Khayyam、アラビア)
     3次方程式の解法:アラビア数学の頂上。3次方程式を円錐曲線を用い図形的に論じる。[54]
     比の理論、互除法の問題。
     11世紀以降、アラビア文化は衰退していく。

1054 かに星雲の超新星爆発

12世紀 アラビア数字の普及
     アラビア数学本のラテン語訳が進む。[52]

12世紀 バスカラ2世(インド)
     負数の乗算・除算の、初の記述。負の数に平方根はないこと。[52]
     1150年 「ジッダンタ・シロマニ」を著し2次方程式の負の解、無理数の解、解法公式を求む[53]

12世紀 ロバート(チェスター)[52]
      sinの語源、定着は17世紀
     インド語では正弦を「弦」を意味する「jiva(ジバア)」と呼んでいたが、アラビアに伝わり弓型を意味する
     「jayb(ジャイブ)」と呼ばれるようになり、それをラテン語訳するとき「sinus」と訳した。
      1583年 フィンケ(デンマーク)が tangentを用いる[53]
      1620年頃、グンデル(英)が「補足の正弦」という言葉を略して「co−sinus」と呼んだ
      1626年 ギラルド(蘭)、sin、tan、secを用いる。
      1634年 エリゴンヌ(Herigone、仏)著書の中で用いる[53]
       「cos」という書き方が定着したのは、オイラーの頃

12世紀 マリクール(Pierre de Maricourt)
     磁石の「極」の発見と命名[73]
     磁石に働く力の方向が2点で交わることを見いだす。

1202 ピサのレオナルド(Leonardo de Pisa フィボナッチ(Fibonacci)ともいう、伊)
     「算盤の本(算盤書 Liber Abbaci)」を著す。(著者の算術修行の成果の紹介。算盤とは、算数という意味で、盤とは関係ない)[52]
      背景に、ヨーロッパにおける商業・貿易の発達による算数のニーズがあった[54]
     ・アラビア数学のヨーロッパへの紹介。アラビア数字の最初の導入、数字書体の安定は15世紀までかかる。[53]
     連立1次方程式の根の中で、欧州ではじめて、負の数を扱う。
     ・「0」の欧州での呼び方の変化
      1228年 レオナルド zephirum
      1273年 ヨルダヌス・ネモラリウス(独)cifra →cipher(英)
      1491年 フィリッピ・カランドリ zero←zephiro(伊語)
     ・ひまわりの花の種の並び方の数列、うさぎのつがいの増え方の数列に注目
     →「フィボナッチ数列」の問題。(後の a0=0,a1=1,a2=1,a3=2の時、a(n)=a(n−1)+a(n−2)の形の数列)
     1220年 「二次の書」で2次の不等式を扱う[53]
           最初に根号を使ったと言われる、√はラテン語の「根」による[53]
     1225年 「幾何の書」を著す[53]

1265 ロジャー・ベーコン(Roger Bacon 英)
     レンズの研究、球面収差の発見
     ほかに、老眼鏡の作成、望遠鏡の予感
     エドワード・ローゼンによると、眼鏡の発明は1280〜85年頃であり、発明者は不明であるという[105]

1269 ペトルス・ペレグリヌス(仏[57]、伊[90])
     磁石の極の記述[57]
     科学的思考で、天然磁石の研究。磁気浮上、磁化、「極」という用語を用いる
     「歴史上初の実験科学者(ロジャー・ベーコン)

13世紀 バーソロミュー(英)
     百科辞典に磁石の(迷信深い)記述[90]

13世紀 ヨーロッパでアリストテレス自然学の研究が盛んになる[37]

13世紀 トマス・アクィナス
     スコラ哲学の結実

13世紀 朱世傑(南宋)
     「四元玉鑑」で方程式論[82]

13世紀 ナシル・アル・ディン(フラグ汗国)
     「完全四辺形論」で三角法を完成[82]

13世紀 アルマト(S.Armato)
     眼鏡の製作。光学実験中に眼を傷め、その結果ガラス細工師の道を選んだと。当時は凸レンズのみだった。[58]

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中世末期の13、14世紀に、すでにルネッサンスに結びつく問題
意識は発生していた。しかしそれが方法論や精神、世界観までに結
びつくまでには、いましばらく待たねばならない。
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13世紀 ヨルダヌス学派
     力は大きさだけでなく、方向も重要である認識に至る[39]

14世紀 パリ派哲学者
     信仰に代わる問題の扱いとして経験を重視[73]
     ●オッカム(Occam スコラ学者) 経験の重視
     「オッカムの剃刀」:任意性を最小限にした、単純な理論が正しいという物理法則の審美眼的見識[104]
     ●ジャン・ブリダン(ビュリタン、Jean Buridan パリ大学)
     インペトス(Impetus いきおい)の理論。運動が継続するのは、最初の勢い:密度×体積×速度、が保持されるため[運動量の仮説]
     落下は重力によりインペトスが増大するので加速していくとした
     「ビュリタンのロバ」:2つの干し草の全く中央におかれたロバは、どちらへも行けず餓死してしまう:対称性の問題
      インペトス論者として Oresme、Albert von Sachsen、Nicolas Cusanus、らと
     J.B.Benedetti、初期のガリレオなどがあげられる[73]
     中世的インペトス論を近代物理学へと飛躍させるのは、天文学である。[73]

1302 ジオイア(Fevio Gioja 伊)
     磁針を糸で吊るした携帯用コンパスの発明[74]

1344 師匠ダルディ(Maestro Dardi 伊ピサ)
     高次方程式の分類と解法、3次、4次の解の公式[54]

14世紀 オースレム(オスレム、オレム、オレーム、Nicole Osreme 仏 ビュリタンの流れをくむ。シャルル5世の師)
     初歩的なグラフ表示法の研究[36]
     速さをグラフ表示。高貴なものは静止しているとして地球自転説をとる[73]
     1350頃 「比例についての論文」で分数ベキ法則(a^(m/n)=(a^n)^(1/m)等)を記号定式化

14世紀 W.ハイテスベリー(ヘンティスベルス、ティスベリウス。オックスフォード・メルトン分校)
     物体の速度が時間に比例して変化した場合、移動距離は、時間の二乗に比例することを考察[70]

1400年頃 アル・カシ(Jemshid Al−Kashi ペルシア)
      小数利用の先駆。代数方程式の数値解。位どり記法に東洋(元朝)の影響もみられる。[52]

1463頃 レギオモンタヌス(独)
      「すべての種類の三角形についての5巻本」を著す(出版は1533年)[52]
      イスラム諸国での三角法の成果に、自分の証明を含め体系化(平面三角法、球面三角法、数表、補完法)しヨーロッパに紹介

1489 ウィドマン(独)
     「全商業のための算術書」で「+」「−」記号を超過、不足の意味ではじめて用いる[53]
      1514 フッケ(蘭)、「代数」で[+]「−」を演算記号として用いる[53]
      1591 ヴィエタ(Francois Viete、仏)、「解析法の入門」で「+」「−」を加法減法に用いる[53]

1494 パチオーリ
     「算術、幾何、比および比例大全」[69]

15世紀 ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci 伊)
     ルネッサンス期での活躍
     ・力のモーメントの考え、透視法
     ・空気中の落体の運動の考察、正確には加速度の概念には到達できなかった[70]
     ・光学(コンタクトレンズのアイデア、反射望遠鏡?、眼球の解剖)
     ・数学

1525 ルドルフ(独)
     根号記号√を用いる、最初に使用したのは、1220年のフィボナッチともいわれている。[53]
     「未知数」を著す[69]

【用語解説】========================================================================
●16世紀数学の流れ
 イタリアでの実用数学の流れ、特にカルダーノを中心とした、方程式の解法がすすむ中
虚数の概念と小数の要求が段々と熟成されていき、ステヴィン、ヴェスタの代数学へと進む。[立川]
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16世紀 鉱業の発達、ルネッサンス期の産業を支える。
     新元素の発見、冶金技術の進展、化学知識の普及。

1543 コペルニクス(Nicolaus Copernicus ポーランド)
     地動説を唱える「天球の回転について」を刊行 ← ルネッサンスの影響
     刊行は死の淵でのことであった。
     誤差はプトレマイオス天文学と大差なく、自転・公転の証拠もなく、決定的な勝利には結びつかないものであった。
     コペルニクスは、ある種崇高な対象として、太陽を中心に置きたかったが、説は一人歩きしていく[73]

1543 タルタリア(タルタグリア、タータグリア、Niccolo Tartaglia 伊)
     翻訳書の発行[29]
      タルタリアとは「どもり」という意味なのであだ名で本名はNiccolo Fontana(フォンタナ)だったらしい[54]
      吃音になったのは、子供の頃の戦争で舌を傷つけたからだという[80] 
      アルキメデスの著書のラテン語訳
      ユークリッド「幾何学原本」のイタリア語訳
     1535 3次方程式の解法の発見「53]
     1541 3次方程式の一般解の発見[53]

1544 スティーフェル(スティフィル、スティッフェル、シュティフェル、シュティーフェル、Stiefel 独)
    「完全算術(算術全書)」を著す。[52]
     分数の割り算は,逆分数の掛け算であることを定式化、この経験的事実は,古代中国,インドから知られてはいた。
     2次方程式の一般解の定式化、負数の取り扱い。
     分数べきと負数べきの概念を導入
    「Arthmetica integra(整数演算、整数論)」で「指数」という用語を用いる。対数の先駆[53]

1545 カルダーノ(カルダノ、Gerolamo Cardano 伊ミラノ公国)
     虚数の導入[52]
     「アルス・マグナ(Ars Magna de Rebus Algebraicis:偉大な学術すなわち代数学の法則について)」([69]の訳によると「大いなる術」、[82]によると「大学術」)を著し、
     象徴的記号として√−1を用いる。3次方程式の解法に形式的に必要であった。4次方程式の解法にも触れた。
     実利はなかった→ボンベリーの3次方程式の解法[53]
      ガルダーノはタルタリアの方程式の解を複素数にまで拡張したが懸念を持っていた[54]
     負数の平方根の問題は、2次方程式の問題と同時に発生したが、虚数にまで行き着いたのはカルダーノが最初だった。
     賭博師、医師、哲学者、魔術師で、最後は市長になった万能の人であった。自叙伝「わが生涯」はカエサル、アウグスチヌスと並んで世界三大自叙伝と言われている[82]
     1539年 「実用算術」を著す
     (年代不明)「さいころ遊びについて」を著し、2個のサイコロを投げた時、和が「7」である場合に賭けるのが良いと解説
     1572年 ベンベリ(伊)、「代数学」で虚数を導入[53]
      3次の発見者は、同時代のタルタリア(伊)、4次の発見者は弟子のフェラリ(Lodovico Ferrari)であった[52]
      これらを一般的に表記したのは、フランスのヴィエート(ヴェスタ)による。
      3次方程式の解法は、タルタリアから盗んだと言われている[53]
      なお[54]によると1526年死去のボローニャ大教授シピオネ・デル・フェルロ(Scipione Dell Ferro)が
      すでに3次方程式の解法に到達しており、ガルダーノはそれを調査して3次方程式の解法を公開したという。

1550頃 イタリア
      アイスクリームの原形、ソルベットの製作に氷+食塩の寒剤が用いられる[76]

1557 レコード(英)
     「機知の砥石(才知の砥石)」で等号「=」を用いる[53][109]

1572 ボンベリ(ボンベッリ、ボンベリーノ、Rafael Bombelli、ガルダーノの弟子、[54]には弟子という表記はない)
     「代数学(l'Algebra)」を著し、3次方程式の「ガルダーノの公式」を改良、虚数演算規則(±i)・(±i)=−1、逆号は+1、を導入
     3次方程式における虚数の利用、虚数応用の先駆に[52][54]
     実用数学の学的体系化により、デカルト代数幾何学など、17世紀数学への橋渡しとなる[82]

1576〜97 ティコ・ブラーエ(Tyco Brahe)
     高い精度(誤差〜2分)の天体観測,データはケプラーに引き継がれる
     デンマーク、フヴェン(フヴェーン)島に観測所を設置[29]
     ティコは天動説派であった。(←年周視差が観測されないことを理由に[73])

1581 ノーマン(Robert Norman、ロンドンで測量機器屋を営む)
     伏角の発見[73]。磁針の偏角が、機械精度に由来するものではないこと
    [74]によると1576年、また発見は更にさかのぼるとあり。
     1608 ハドソン(Henry Hudson 英 冒険家) 北緯75度に磁極を発見[74]
     1768 ヴェルケ(独) 世界の伏角分布図を製作[74]

1585 ステヴィン(スティヴィン、Simon Stevin 蘭 ライデン大)
     「十進法(De Thiende(仏語訳 La disme)(もしくは「小数」」)で小数を用いる[53]
      ・西ヨーロッパで最初に小数記法を用いたのは、ステヴィンであるというのが定説になっているが、疑問も出されている[52]
      ・小数を普及させたのはステヴィンの著作の効果が大きい[54]
      ・小数と極限の概念を正確につかみ、方程式を解くための本質的武器であると正確に認識したはじめての人(ブルバキ)
     1593年 クラヴィウス(Christopher Clavius)
           今日使われる小数表記「46.5」が著作に現れる。(ステヴィンは位どりを○かこみの数字で表した)[54]
     1492年 [69]によると、ベロスが小数点を使用したとあり。

1586 ステヴィン(スティヴィン、Simon Stevin 蘭 ライデン大)
     「釣り合いについて」、「水の重さの原理(年号不明)」を著し、アルキメデスの理論を発展させる。[29]
       この2冊はオランダ語を学術用語に高めた。
      ・ステヴィンの鎖[37]
      :直角三角錐に斜面を囲うように閉じた鎖をかけても動き出さない:力のベクトル的釣り合いの概念と永久運動の不可能性の認識

1590 ヤンセン(父子)(J.Jansen、Zacharias Jansen 蘭)
     顕微鏡の発明[29]
     ほかに、望遠鏡の製作[58]

1591 ヴィエタ(ヴィエト、ビエタ Francois Viete 仏)
     「解析学序説(解析的方法入門、解析法の入門(イサゴーゲ)In artem analyticam Isagoge )」を著す[43][54]
      代数方程式における負数の扱い、「+」「−」を加法減法に用いる。
      解と係数の関係。既知数を子音文字、未知数を母音文字で表す[53]
      :既知数を記号化した最初、公式への抽象化の開始[73]
     「文字形式」は、不完全で混乱も招いたが、16世紀〜17世紀への跳躍台を用意した意義が大きい[82]
     1579 「数学一覧表」著す[69]
     1593 著作で、正弦、余弦についての2倍角、3倍角の公式を導く。
          代数学の幾何学的解法[54]

1600 ギルバート(William Gilbert 英)
     「磁石について(磁石論、De magnete)」を著す
     ・磁石の研究。磁気力の遠隔作用[29]:電磁気学のはじまり
       地動説を強力・合理的に主張する”磁気哲学”[90]
       天然磁石の盲信を除去した研究。
       温度上昇により、磁性が失われる事。
     ・電気力と磁気力の区別(静電気と磁力は別物であること)。
     ・地球回転磁石説。
      極の研究より、地球磁石説を唱える。伏角の説明[73][74]
     ギルバートは、エリザベス1世の侍医にまでなった人物である。
     1616年 ウイリアム・バーロウ
          「磁気告知」を著す。[90]
     1629年 ニッコロ・カベオ(イエズス会)
          「磁気哲学」を著し、ギルバートに反論。天動説擁護[90]

1600 ブルーノ(Giordano Bruno)
     地動説により教会より焚殺[73]
     太陽系は無限の宇宙の一つにすぎないとまで主張していた。
     「判決をうける私よりも、判決を下す諸公の方がおびえているのではないか!?」

1603 ローマにリンチェイ・アカデミー創立
     ガリレオらが加わる[43]
     [73]によると1601年

1608 ハンス・リッペルスハイ(リッペルシェイ、リパシャイ、H.Lippershey 蘭)
     ・望遠鏡の製作(発明?)。2つのレンズを偶然離して置いたとき発見したと伝えられている[29][58]
     ・顕微鏡の製作
     実のところ、望遠鏡、顕微鏡の発明者というのは不祥ということにしておいたほうがよいようである[立川][73]

1609 ケプラー(Johannes Kepler 独)
     ケプラーの三法則[29]1)、2)は1609年、3)は1619年
     1)惑星は太陽を焦点とする楕円軌道を描く(「焦点」という用語はケプラー自身による[53])
     2)惑星の太陽のまわありの面積速度は一定(面積速度一定の法則)
     3)惑星の公転周期の2乗は軌道の半長径の3乗に比例する
     →惑星の体系が数学的に認識しうることを確信させた意義[37]
      力学運動をアリストテレス的「場所」から「力」という認識に移行させたことの意義[73]
     ・楕円の扇型の面積の計算(積分法)[34]
     ・まず離心円で解析し第2法則に至ったあと、そのくいちがいより第1法則に至った[73]
     ・Tyco Braheの膨大な観測データによる達成
     ティコの弟子となり、ティコの死後、家族よりデータを譲り受け、16年かけてまとめあげる。
     彼は熱狂的なコペルニクス信者であった。[29]
     ・火星の円軌道からのズレ(8分)に注目した結果の第一法則の発見。
     運動の原因は、太陽の発散する「運動霊(アニマ・モトリックス)」であるとした
     ←ケプラーの本には、多分に神秘主義的傾向が見られた。ケプラーはなによりも「占星術師」であった。
     ・後に、animaを捨て、磁気力のようなvis(力)が働いているとした[73]
     [他の業績]
     回転体の求積、屈折光学、結像理論。望遠鏡の理論、網膜上の像は倒立であること[47]
     1595年 「宇宙の神秘」を著しガリレイ、ティコに送付。神秘主義的性格が出現[80]
     1604年 「ヴィテロへの追加」を著す。[73]
            ・光の強さは光源からの距離の2乗に逆比例する
            ・両眼により遠近感が得られる
            Vitelloは13世紀ポーランドのスコラ哲学者で光について論じた。
     1609年 「新天文学 あるいは天体の自然学(Astronomia nova ,seu physica coelestis)」著す
            楕円の無限小解析
     1611年 「屈折光学(Dioptrice)」著す:多くの物質の屈折角度を測定、臨界角について触れる。
            ・微小屈折角のときには入射角と比例すること
            ・はじめて、レンズによる像の形成という考えに至る
            ・水晶体のレンズ作用、近視、遠視の説明
            ・ケプラー式望遠鏡の考案
     1615年 「酒樽の幾何」を著し、回転体の求積を無限小解析として扱う[80]
     1619年 「世界の調和(Harmonices mundi)」全5巻を著す。第三法則を示す。
     1627年 天文表(「ルドルフ表」)で、ティコの観測をまとめる。正確さが地動説の正しさを印象づけた[29]
     1630年 独30年戦争中の貧困な旅上の木賃宿にて、文無で死す[80]

1609 ガリレオ(Galileo Galilei 伊)
     発明されたばかりの望遠鏡を自ら製作し、月、木星の衛星を観測/コペルニクスの仮説を確信
     倍率は32倍[58]
     他に、太陽の黒点(太陽の自転)、金星の満ち欠け、恒星の無数さ。
     *************
     ガリレオ年譜
     *************
     1581年 ピサ大数学教授に[73]
     1583年 ピサの学生時代、ピザの寺院のランプが揺れるのを見て、振り子の等時性を発見したという。[52]
     1591年 ピサ大教授を退く、この時までに「運動について」を手稿で著す[73]
     1592年 フラスコを逆にし、着色した水の水面位置より温度変化を測定[76]
     1597年頃 ケプラーへの手紙より、このころすでに地動説をとっていることが知られている[73]
     1590年頃 落体の実験 〜振り子の法則とともに重力加速度の認識へ[70]
            ピサの斜塔や、斜面での鉄球のころがりの実験は、史実ではないというのが定説である[73]
     1600年頃 コペルニクスの学説を学ぶ[43]
     1610年  「星界の報告」出版
     1613年 「太陽の黒点についての手紙」
     1615年 「科学の問題における清書の引用についての手紙」
     1616年 コペルニクスの著書が禁書になり、ローマ教皇庁に呼び出される[29]
           〜第1次の宗教裁判
     1630年 井戸水が10m以上だと汲み上げられない理由として「自然の真空への抵抗力」が有限であるとした[73]
     1632年 「天文対話(プトレマイオスとコペルニクスとの二つの最も主要な世界体系についての対話)」の発刊[29]
            地動説、落体の法則、慣性の法則、放物線運動
            ・運動における加速度の重要性が認識:ニュートンに対する先駆性[37]
            ・等速運動系における「ガリレオの相対性原理」
            ・運動の合成の概念も主張し、アリストテレス流を否定した。[73]
            ・門下生らによって、落下の原因は重力という外力によるという認識が形成されていった。
             ガリレオの門下生:ベネット・カステリ、カヴァリエリ、ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ、エヴァンジェリスタ・トリチェリ
     1933年 ローマに召喚され、有罪(法王ウルバヌス8世はかなりガリレオよりだったが、神学者をおさえられなかった)[43]
            ・「それでも動いている(Eppur si mouve)」は伝説と言われているが、
            ガリレオ私蔵の「天文対話」の見返しには書いてあるという[43]
            ・審問の席を退席し、友人に囲まれた時、空を見上げて言ったという[47]
     1638年 「新科学対話」著す
     1638年10月 デカルトは「新科学対話」を読んで、敬意を表しつうも
            「1つの問題を十分吟味せず、第一原因を考察していない」ときびしく批評した[73]

1614 ジョン・ネーピア男爵(ネピア、ナピアー、Napier)(スコットランド、マーキンストン領主)
    「驚くべき対数法則の記述」で図形的に対数を導入。対数関数までは到達しなかった[52]
     ギリシア語のloges(ロゴス:比)とarithmos(アリスモス:数)を合わせてlogarithm(対数)と呼ぶ。
     ラプラス曰く「骨折りを少なくして、天文学者の生命を2倍にした」[53]
     1616年 ヘンリー・ブリッグス(ロンドン グレシャム大幾何学教授) 常用対数の開発、ネーピアを訪ね、1月逗留、彼の対数を改造し現在の形にする[105]
     1618年 オートレット(英)自然対数を使用。後に計算尺を発明[53]
     1620年 ビユルギ(ビュルギ、BURGI、スイス)「算術及び幾何級数表」、1.001を底とする対数表の作成:ケプラーのすすめで[52]
     1622年 スペイデル(英)、1〜1000までの自然対数表
     1624年 ブリッグス「対数的数論( Arithmetica Logarithmica)」で常用対数表を発表[53]

1615 スネル(Willebrord Snell von Rpoken 蘭 ライデン大教授)
     スネルの法則[29]。[73]によると1620年
     ・スネルは、水中の物体の浮かび上がりを観察し、空気中の長さと水中の長さの比が
     見る方向に関係なく一定ということを見出した。
     ・現在の「正弦の比が一定」という形式に表現したのはデカルト

1620 F.ベーコン(Francis Bacon 英)
     「新オルガノン(Novum Organum)」刊行[45]
     ベーコン主義:知の体系化、人類のために役立つ学問。有効性、技術、実験の重視。
      自然科学の研究が技術革新をもたらし、生活を向上させる、→自然科学の重要性を唱える[29]
     ただし、実験手法に関しては浅く、ガリレオらの業績も評価できなかった[73]
     「オルガノン」とはアリストテレス派の著作の総称をいう[73]
     スコラ学の不毛を論理偏重とした。
      エリザベスI世の文化興隆期の反映。
      1624年 「ニューアトランティス(New Atlantis)」刊行。[73]によると1627年
            1626年死去のため、これが遺著となる。
            「ソロモンの家」構想:現在の研究所・学会の考え方を提唱→王立協会へ[29]

1624 ガッサンディ(Pierre Gassendi 仏 ディーニュの司教)
     原子論の復活[29]
      古代ギリシアの原子論は15世紀にLucretiusの著書の再発見により認識されていたが
     無神論的要素のため非難されつづけていた。
     このため、ガッサンディは、原子運動も神のしわざとした。この運動のため真空も認めた[73]
     →デカルトの真空否定、ボイルの粒子哲学
     熱も原子と考えた→熱素説:cf 光の粒子説
     1649 ガッサンディ
     古典原子論を認める[45]

1626 カペオ
     磁石の周りの鉄粉が描く曲線を観察、「力線」という用語を使用[79]

1629 フェルマー(Pierre de Fermat 仏)[53]
     ◎フェルマーの定理。「極大・極小研究のための方法」を著す。
      また、フェルマーは微積分に非常に肉薄していた。
       ・x^kの求積(x=0〜aの定積分)がa^(k+1)/(k+1)ことを積分に近い概念で証明
       ・接線の問題を微小変量としてもとめる〜微分
       微積分との違いは、関数的な扱いでないこと、近似の意識が強い事(操作自体の重要性に気づいていなかった)。
     ◎1637年頃 フェルマーの問題(定理)を余白に書き込む[52]
             フェルマーはn=4の時を証明→素数の場合を追求すれば良いことになる
             1770 オイラー n=3の証明
             1825 ディリクレとルジャンドルが独立に n=5の証明
             1839 ラメ n=7の証明
     ◎1643年 「平面および立体軌跡入門」(死後1679年出版)[54]
            ・アポロニウスの円錐曲線論を復活、解析幾何学の方法を用いる
            ・方程式と図形(座標の軌跡)の関係を明確化もした。[52]
              放物線の接線の方程式
              解析幾何学の創始、デカルトと並んで解析幾何学の発見者とされる
     ◎1661年 ・フェルマーの原理、による光の直進、反射、屈折の説明。光線逆進の原理の説明 →最小作用の法則。
              積分表示の中で、屈折率ではなく速度表示であった。

1629 ジラール(Albert Girard 蘭)[53]
     「代数学の新発明(Invention nouvelle en l'algebre)」を著す。
     虚数の実用性を認める。
     幾何学問題に負の数を認める

1631 オートレット(オートレッド、英)[53]
     「数学の鍵」を著し、「×」(積記号)、「−」(差記号)用いる。

1631 ハリオット
     「解析術演習」を著す[69]

1635 カヴァリエリ(Bonaventura Cavalieri、伊)
      「不可分量の連続幾何学」著す。
      「カヴァリエリの原理」:共通の接線から等距離の線分(不可分量)の比が常に同じなら、その比は面積比になっている
      無限小幾何学の先駆的研究であった[52]
       断面積の積分が体積であるという考え+無限、極限の萌芽[81]

1636 デザルク(仏 建築家)
    「透視法」を著す。透視作図法を研究。射影と切断の概念を用い、幾何学に無限遠点の考えを導入する[52]

1637 デカルト(Rene Descartes 仏)
     「方法序説」ほかの発刊[29]〜機械論的自然観と合理主義哲学の構築、演繹主義(ニュートン理論の帰納的性格〜ベーコン主義、と対をなす)[45]
     「方法序説」の一部として「幾何学(La Geometric)」[36]刊行:解析幾何学の創始、フェルマーと並んで解析幾何学の発見者とされる
      スコラ哲学の欠点を、論理のあいまいさとして非難。
     「自然法則」というものがあり、それを求めることの重要性の認識に到達[73]
     「アプリオリ」な原理を決め、それから演繹されるもので現象を説明しようとした自然学であるため、物理面では無理が生じ
     やがて、ニュートン物理学に駆逐されていく[立川]
     「デカルトの幾何は・・・幾何と癒着していた代数を自立させ、それを幾何と結合させた」[80]
     ◎解析幾何学
      ・デカルトの解析幾何学の考え方は、当時の水準を遥かに越えていたため、理解が困難だったが
       スホーテン(蘭)のラテン語の訳・註釈により普及し、これが、ニュートンやライプニッツに読まれて影響を与えた。[52]
      ・解析幾何学の創始:代数と幾何のリンク、図形を長さ、面積から切り離し、座標(数値)を研究対象とした。放物線の接線、法線の式、方程式の幾何学的解法
      ・Hankel曰く「現代数学は,デカルトが方程式の純代数的取り扱いを乗り越えて進んだ時から始まった」[36]
      ・線分の長さに対して、a+b、ab等の四則と平方根√a、√aa+bbなどの今日的表記を与えた[54]
      ・「幾何学」の中で虚数(nombre imaginaire)という名称を用いる。
      ・直交座標は「デカルト」をラテン語化した「カルテシアン座標系(Cartesian coordinates)と呼ぶ
     ◎物理学
      ・ガリレオの慣性の法則の定式化→近接作用論 ←→ニュートンの重力理論との論争[37]
        ガリレオとニュートンの橋渡しというポジション[52]
      ・重力は落下の原因であると同時に、重さは微細物質の渦巻の結果だとされ、力の概念が混沌としていた
       →ニュートンの質量と重さの区別
      ・宇宙の渦構造による形成説→カント、ラプラスの星雲説
      ・自然の本性は「延長」と「運動」であり、宇宙の等方性、物質のある宇宙という考え方を定式化した。
      ・真空は存在せず、空間は「エーテル」により満たされていると。(アリストテレス的)
     1618年 ベークマン(Isaac Beeckman 蘭)と知りあい、共同で、落体の研究
      :重力法則+慣性の法則の認識を広める(慣性の法則、運動量保存の法則)(1618年)[29]
       物理部分をベークマン、数学部分をデカルトが担当したと推定される[73]
     1641年 「省察」を著す
     1644年 「哲学原理」を著す。
       ・運動量保存を基本原理とする運動論、ホイヘンス、ニュートンへと続く[73]
       ・運動量が保存されることを証明。ただし、スカラー量と認識していた[46]
     [その他の業績][29]
      ・複数の粒子を基礎とする機械論(ある種の原子論)
      ・「光学」を著し光の渦運動説(発光体の渦動による圧力がエーテルにより伝わる)、屈折のスネルの法則の追確認[58]

1639 デザルグ
     「錐体と平面との出合い」著す[69]

1640 ベルティ(Gasparo Berti ローマ)
     真空実験
     10mの管を立てた時,上端が下がる事を確認。1648年まで関係者以外には伏せていた[73]

1643 トリチェリ=ヴィヴィアーニ(Evangelista Torrichelli、Vincenzo Viviani 伊)
     真空実験により真空の存在を示唆:スコラ哲学の教義の1つ(自然は真空を嫌う)を否定。(トリチェリはガリレオの弟子)
     [73]によると1644年(∵トリチェリのM.Ricciへの報告の手紙が1644年6月11日づけ)
      ガラス管に水銀を満たすと76cm以上に空間:トリチェリの真空ができること[45]
     更に、水銀の上に水を満たし、管の口を水の所まで引き上げると、水が流れ込み隙間が消失した事[73]
     「われわれは空気の大洋の底に沈んで生きているのだ」(トリチェリ)
     トリチェリの定理:水が液面からh下の穴から飛び出す初速はv=(2gh)^0.5になる
     1638 ガリレオ「力学対話」で水は10m以上揚げることはできないことを述べる[47]
     トリチェリは、顕微鏡、望遠鏡の改良に業績をあげた[58]ほか、放物線等具体的な曲線では、距離を微分すると速度に、
     速度を積分すると距離になることに、すでに気づいていた。[53]

1647 Roberval
     空気に弾性があることを示唆
     ・トリチェリの真空内に、鯉の浮き袋をいれると膨らむことなどの観察より[73]

1648 パスカル(Blaise Pascal 仏)
     大気圧の存在を示す。→真空嫌悪への一撃、科学的実験による実証法の開拓:デカルトへの反証
     ・病身のパスカルは、義兄ペリエ(Florin Perier)を9月19日、クレルモン近くの山(1000m程度)に上らせ、
      水銀柱の高さが8.5cm低くなることを示した。また自身、パリの塔に登りも確認した。
     ・また、2重の水銀柱をつくり、内部の水銀の高さも外側と同じ高さまで下がることより大気圧を示唆した[73]
     これらの実験には、デカルトやG.P.de Rovervalらとの先取論争があり、デカルトの示唆をうけて
     パスカルが実験をし、真空説、大気圧説を実証したと見られる[73]
     1953頃「流体の平衡および空気の塊の重さについて」を著す。(死後1663年出版)
      パスカルの原理:密閉した液体にかけた圧力はすべての方向に同じ圧力が伝わる。

1648 マルキ(J.M.Marci)
     プリズムで光の分散を発見[58]

1650 メンゴリ(伊)[53]
     無限級数を論じる

1651 ペケ(J.Pecuet)
     「Experimenta nova anatomica」を著し、フランスで行われた真空実験を紹介。[73]
     1653年に英訳され、真空の認知が進む。
     空気の弾性をギリシア語の「推進するもの(elater)」と呼び、elasticityの語源となった。

1654頃〜 ゲーリゲ(Otto von Guericke 独 マグデブルク市長)
     初めて真空ポンプを作り、2つの半球を合わせて真空にし、馬16頭でひっぱってもはがせないデモを行う[43]
     真空中では、音は伝わらず、鳥は死に、炎が消えることも示す。
     この実験を知ったボイルは、気体実験を開始する。
     1660 硫黄球を回転させ、数千Vの電気発生をデモ、火花放電[74]

1654 パスカル
     勝負師ジュパリエ・ド・メレの問いに対し答え、確率論を創始[52]:場合の数の考え方
      ド・メレの問 1)二個のサイコロを投げて1回でも、二個とも6になることが、1/2になるための試行回数は?
      2)同等の力の者どうしの試合で、先にN回勝った場合に掛け金がもらえるはずだったのに、途中で中止になった場合の掛け金の分配法。
     1639頃 16才で「円錐曲線試論」を著し、「円錐曲線に内接する6角形の相対する辺の延長の交点は一直線上にある」ことを証明
            円錐曲線を、円の射影として見、円で成立する場合、円錐曲線でも成立することを証明した:射影幾何学の考え方。
     1642頃 「パスカル計算機」初の歯車式計算機。
     1665 論文「数三角形について(算術作家形論)」で、2項係数(パスカルの三角形)を取り上げる。組み合わせ公式も説明
     1658頃 「幾何学的精神」を著し、証明理論、公理の重要性が述べられる。[52]
        未発表であったので、アルノー&ニコルの「ポール・ロワイヤルの論理学」(1662)で引用されて有名になる。
     (年号不祥) 後期の著作「アモス・デトンヴィル氏からド・カルカヴィ氏への手紙」で無限小の総和の考え方
       →ライプニッツが精読し、微積分構築のきっかけになる[52]
      「微積分の原型については、フェルマやデカルトをはじめ、17世紀のすべての数学者が部分的に担っているのだが、
      パスカルはとくに積分概念で著しいし、実際にライプニッツがこれを基礎にしている」[80]

1656 ウォリス(John Wallis 英)
     「無限の数論」を著す[52]、ε−δ論法の創始[53]
      代数的無限級数を応用して図形の面積を用いる。円周率のウォリスの公式
     ウォリスの級数論は直接的にニュートンの微積分構築に影響を与える[80]
     1673年 「代数学(Algebra)」を著す[53]
           負数と同様に、虚数が存在してもよい、という考えを展開

1657 ニール
     放物線の求長[69]

1659 ラーン(スイス)[53]
     「÷」を除法記号として用いる。

1660 英国 王立協会(ロイヤル・ソサエティ)創設
     創設メンバーは12人(ボイル、J.Wilkins、John Wallisら)
     王立とは言っても、会費制の自治団体であった[73]
     正式には:The Royal Society if London  for  Promoting Natural Knowledge
     1662年、チャールズ2世の勅許状を得る[43][47]

1661 ボイル(Robert Boyle 英)
     空気の圧縮実験より、ボイルの法則を導く→近接作用の考え方/アリストテレス的真空嫌悪の否定
     弟子のフックとともに「粒子哲学」を発展[29]
     ボイルは科学哲学的な指向であり、フックは優秀な実験家タイプであった[73]
     1658 ゲーリゲの実験を知り、気体実験を開始する[73]
     1661 「懐疑的化学者(The Sceptical Chymist)」著す。
           広い科学展望の提示
           複雑な物質の諸性質を著すのには、アリストテレス流の数元素では不可能なことを説く
           錬金術批判,基本的元素の考え方[46]
     1662 干渉現象の発見[58]
     1666 「形相と質の起源(Origins of Forms And Qualities According to the Corpuscular Philosophy)著す
           粒子哲学の詳細をのべ、近接作用を主張した[73]
     1679 マリオット(Abbe Edme Mariotte 仏)によってボイルの法則再発見
           これにより、仏では「マリオットの法則」と呼ぶ。[43]
     1692 「大気論」(General History of the Air)著す
           19世紀、分子運動論に類似の考え方[46]

1663 メルセンヌ(Marin Mesenne 仏 修道僧)
     音速の測定、倍音の発見[29]

1665 グリマルディ(グリマルジ Francesco Maria Grimldi 伊 イエズス会神父)
     「光に関する物理・数学」を著す
     光の回折現象の発見(光が物体の影に回り込む事)、干渉現象の観察。光の波動性の示唆。

1665 フック(Robert Hooke 英)
     ・フックの法則
     ・「顕微鏡下の世界」を著す。
      複合レンズタイプの顕微鏡の開発。
      顕微鏡の原形の完成は、17世紀のレーウェンフック(Leewenhock)によるとされる[58]
     ・光の波動説。
       フックも回折について提案い、波動説をとった。[58]
       光は物質の熱振動がエーテルを伝わると考えた
       雲母の干渉色を、薄膜が光を変調すると考えた
       ニュートンの光の粒子説に激しく反発した(1677年)。
     1666 膜の干渉色の発見
     1667 「ミクログラフィア(Micrographia)」を著し、
         「物体の微粒子は、固体であても振動している。熱が無い物体が発見されないのが証明」と[46]
          ※(この著書と、「顕微鏡下の世界」と同じである可能性がある。調査必要)

1666 パリ(王立)科学アカデミー創設[43]
     英国と異なり、王より給料をもらった。

1664〜66 ニュートン(Isaac Newton)
     ニュートンの諸成果の繚乱時期
     ・ただし、ほとんど発表していないため、「プリンキピア」発刊に向かって徐々に
     計算されていったものもある。たとえば、惑星の楕円軌道など[43]、微積分の完成は69年頃[53]71年頃[73]
     ・研究結果を全く公表していないことにより、いくつかの発見に関してその先取権論争をまきおこしてしまうことになる[43]
     ・ニュートンの研究は、その著名さとはうらはらに、20世紀後半になってから盛んになり、主著以外の研究が行われた[73]
     ●この時期のニュートン力学の構築[73]
     ・力学の3法則はすでにこの時期のノートに表われている。しかし、この後10数年バタリと止まる。
     ・力学は、ガリレオとデカルトの影響の下、構築され、まず運動量の定義をおこなっている。
     ただし、運動量に方向の概念を付加し、力の定義も導入した。
     ・初期は、異種量の割算を禁止するという古典観念から、速度を距離/時間とせず、2体の移動距離の比とした。
     ・衝突は、非弾性衝突や、広がりをもつ物体についても対象とした。
     ・円運動における遠心力の幾何学的追求と、その月軌道への応用。測定値が不確かで満足はえられなかった。
     =================================
     主なこのころの研究内容(三大発見)
     =================================
     ●微積分法→無限小の概念の確立
      究極の比(ultima ratio)→流率(fluent 導関数)と流量(その積分:元の関数、fluxion)の関数性、逆演算性の認識
      →求積、接線、極値問題、微分方程式・・・の統一的理解の実現
      微積分が逆の関係であることは,ニュートンの師I.Barrowにより示唆されていた。[73]
      1671年「級数および流率の方法」を著す:印刷は死後
     ・ほかに二項定理の発見もこの時期[53]
     ●万有引力と惑星の運行の研究
      1670年 フランスのピカールが子午線の長さを測り直し,ほぼ現在の地球半径が求められた。
      →地上の重力加速度は,月の落下加速度より3600倍大きいことと,月までの距離が地球半径の60倍
       であることより,重力∝R^(−2)に自信を深めた。[70]
      [リンゴの木の話の話]
       リンゴのエピソードはロバート・グリーンの1727年の記載が元であり、それをヴォルテール
      が、1733年「イギリス人への手紙」の中で紹介したことにより広まった。[45]
       ニュートンの主治医ストックレー博士の「ニュートン伝」によると1726年のニュートンとの対話で
      「瞑想しているときに、リンゴが落ち、なぜリンゴは地球の中心に向かうのか?と自問した」と[47]
      1684 ニュートン、論文「運動について(De Motu)」を発表
           ハレーの要請により、惑星の楕円運動を説明。
           更なるハレーの要請により「プリンピキア」の執筆へ。
        「この頃には、ケプラーの第3法則から、逆二乗則のえれれることは、王立協会員の中では共通理解になっていたらしい」[80]
         →「プリンキピア」発表時のフックとの「逆二乗則」の先取権論争に。
     ●分光学の創始・光学の研究
      1664 かなり初期から反射・屈折の法則の知識があり反射望遠鏡の開発に着手[73]
      1666 非球面レンズの製作に挑戦→この経験からプリズムを製作
      1666〜7 プリズムによる分散現象(1672年「色と光についての新理論」で公表)
           2重プリズムの実験→白色光(太陽光)が色の集まりであること
           色が光の固有の性質であること、物理学と視覚の生理学の関連の明確化。
           光が「実体性」〜粒子であると主張。
      1668年 反射望遠鏡を開発[57]←色収差、球面収差の除去法
      1672年「色と光についての新理論」著す:
           光の粒子説→ホイヘンス、フックと4年越の論争に[47]
           :フックの薄膜の干渉色による反論:「エーテル」の振動説。
            ニュートンはエーテルと粒子との相互作用という折衷案を提示した[73]
           光の粒子説→18世紀の支配的な学説に
      1675年 ニュートンリングの干渉色[57]
           光の粒子が「周期性」を持つと考えた
           ←当時のパルス的波動説からすると、周期性=波動説ではなかった[29]
           ←「光学」の中で、光の透過性、反射性の「発作(fits)」により進行距離に依存した部分反射・透過がおきるとした[73]
           エーテルは、電気、磁気、重力と関係するという予想を述べた。
           複屈折を光の粒子が微小磁石のような性質から説明しようとし、「polarization」という言葉を用いた。
           また、「スペクトル」という用語も「光学」の中で名づけられた。

1667 カウフマン(メルカトール)
     1/(x+1)の積分のべき級数展開として自然対数を計算する手法を開発[52]

1670 エレスムス・バルトリン(バールトリン、Erasmus Bartholin デンマーク)
     複屈折(方解石/アイスランド石の)を発見、偏光理論の始まり
     [29][58]によると名前はバルトリヌス(Erasumus Bartholinusu)とあり
     [73]によると Bartholinusとあり

1672〜76 ライプニッツ(Gottfried Wilhelm F. von Leibnitz 独)
     ニュートンと独立に、微積分法を発見
      ニュートンの「流率」は物理的動機による関数概念の利用であったが,
     ライプニッツの動機は,曲線/接線の研究からであった。[36]
      「逆接線の法則」:微分の逆関数をもとめる:単純な微分方程式としての積分[53]
      先取権争いは30年後、非常に険悪な状態を2人の間だけでなく、国家間に起こす。
      ドイツは当時、数学については英仏に比べて後進であった[35]
      歴史的には、二人の独立な発見ということになっている。
      以後,ヤコブ/ヨハン・ベルヌーイ兄弟との連携で,初等微積分を完成させる[73]
     ****************************
     ライプニッツの数学の系譜
     ****************************
     若い時代、魔術と練金術の秘密結社「薔薇十字会」に入り上昇していく[80]
     ホイヘンス(パリ滞在中交際)、パスカルを学ぶ。級数論は英国訪問時に学んだ 
     当初はニュートンとは大変友好的だった
     1672年 Σ(k^3)=(Σk)^2を見出す[53]
     1672年 乗除法ができる歯車式計算機「リッチェン・マシン」製作
     1673年 「変換定理」:積分計算における図形的手法[52]
     1674年 π/4=1-1/3+1/5-1/7+・・・を発見[53]
     1675年までに、微積分法の記号を作成
      dはdifferentia:「差」より用いた
      積分記号は、ラテン語のsummaのsを変形したもの[34]
      積分記号は、よく言われるsを変形したというのは誤りで、通常用いられていたsそのものである[52]
      ライプニッツは「積分」とは言わずに「和」と言っていた(「積分」という用語はヨハン・ベルヌーイによる)。
      また、三角関数等に「超越的」という用語を最初に用いた
     1676年頃 関数の級数展開法(テーラー展開に相当)
     1684年 第一論文を発表:微分法、対数関数の微分方程式[52]
     1686年 第二論文を発表:積分法
     1686年 「形而上学序説」を著す
     1692年 座標を明確に定義[53]
     1692年 「関数(Funktion)」という言葉を論文に用いる。手稿では1673年に用いているとも[36]
            [53]によると1694年。
            ただし、「関数に対する直感」の端緒は,古代バビロニアまで遡れるという説もある(E.T.Bell)[36]
     1693年 行列式を発見[53]
     1693年 求積が定積分であることを示す
     1694年 微分方程式の考え方
     1701年 分数式の積分
     1713年 「単子論」著す


(モナド論について、一言触れるべきだろう)


1674 フック
     天体の運動における引力説[73]
     1666 Borelli(伊)重力による楕円軌道の定性的議論
     1679 ロイヤル・ソサエティの書記となり、ニュートンとの議論再開
          この議論の中で、ニュートンはケプラーの法則の重要性に気付く[73]

1676 オーレ・レーマー(レメール Olaf Rφmer)(デンマーク)([29]では1675年)
     木星の衛星イオの食周期の変動を地球の公転位置の差と見て光速を測定(最も古い光速度測定:2.2E8m/s)
     レーマーはなんと、農夫であり、パリ天文台長にたまたま連れてこられたのだった。
     計算にはホイヘンスの協力があったらしい(未確認:立川)

1676 ピカール(Jean Picard 仏 パリ測候所)
     水銀気圧計の真空表面に青白い閃光を見る[74]→後の真空放電現象へと続く長い道のりの最初
     1700 ヨハン・ベルヌーイ 水銀の不純物の析出ではないか?という推論を唱える
     1705 ホークスビー 水銀以外の真空でも生じることを発見

1678 ホイヘンス(ホイゲンス、Christian Huygens 蘭)
     ホイヘンスの原理。光の波動説、エーテルの存在[26]
      ・部分波の伝播は述べられていたが、周期性、干渉性などには及んでいなかった。
      したがって、ニュートンの説明した色の成因を説明することができず、1世紀の間、ニュートン説が優勢となる
      ・ニュートンとの論争は波動説vs粒子説などという高尚なものではなかった[43]
      ・波動説の根拠は[73]
       光の速度が有限であること(レーマーの計算)
       交差した光が何の影響もおよぼさないこと。
      ・エーテルは
       「衝突振り子」が瞬時に振動を伝達するように硬く、
       「調和振動」をして振幅に周期が依存しないような弾性体であるとした[73]
       →ホイヘンスの原理、素元波の考え方を示す。
      ・複屈折の起因を粒子が楕円であるためとした。
       ←このころの光の波動説は縦波説であることに注意[58]
       片方の光が、通常の屈折法則に従うこと。もう一つの石に入射したとき、2つの光の振る舞いが異なること[73]
      ・物質の屈折率も求めた。
     ホイヘンスは,父の友人のデカルトの教育を受けて育った[29]
     ホイヘンスの父コンスタンチンは、ガリレオの友人で、資産家、国会議員であり、恵まれた環境で教育を受けた[43]
     ホイヘンスは「光論」の前書きで、仮説と演繹の重要性を明確に強調した[73]
     1650 「流体静力学」
     1651 「数学的曲線の求積法」
     1655 製作した望遠鏡で、土星の輪と衛星タイタンの発見
     1656 「物体の運動について」
     1657 振り子時計を発明、特許を得る。ゼンマイの使用と、当時性の維持(フィードバックの考え方)。爆発的普及
     1673 「振り子時計」を著す。遠心力の公式、複振り子、重力加速度等を論じる。
           サイクロイド上を重力下で振動する場合の等時性についての証明。
     1690 方解石を重ねた偏光実験
     1690「光論(Traite de la lumiere)」出版。最初書かれたのは1678年で以後追記されて刊行された[73]
     1703 「衝突による物体の運動について(De motu corporum ex percussione)」が死後出版
          ・慣性の法則、・相対性、・弾性衝突を公理として衝突の理論を展開
           この公理より、現在の運動エネルギー、運動量保存の概念に相当するものに到達していた。
          書かれたのは1669年、原形は更に1656年以前[73]

1686 ライプニッツ
     活力(mv^2)を運動の目安とする、との説
     :エネルギー保存説、デカルトーニュートンの運動量保存説と対抗した。(デカルトはすでに死亡していたが)
     「力」を測る量として基本量を「運動量(momentum)」をとるか「活力(vis viva)」か?
      ダランベールによる解決までしばらくかかった。
     1669 論文「デカルトの驚くべき錯誤の啓蒙」で異なる質量のものでも、同じ速度で落下するので、mvを
          等しくするためには、質量の比の1/2乗分高い場所におかねばならないが、mv^2ならそのまま
          等しくなる。
     17世紀後半 ライプニッツvsニュートン論争
           ライプニッツはニュートンの空間重視の考え方と異なり、
          空間は独立に存在するものではなく、物理的対象の1つと考えた。
     1716 書簡の中で、活力が世界で増えたり減ったりしないことを述べる
     1731 ヴォルフ(ライプニッツ派)が「宇宙論」の中で、「活力は全宇宙において保存される」と[46]

1687 ニュートン
     「プリンピキア(Principia)」刊行
     執筆開始は、1685年、18ヶ月間、睡眠もろくにとらずに執筆したと。
      1686年 4月28日 第1部の原稿提出
      1686年 秋 第2部、1687年4月に第3部提出後印刷へ。
     秘密主義のニュートンが成果の公表に踏み切ったのは、ハリーの説得によるところがある。ハリーは出版のため自腹を切った。[43]
     ●運動の三法則
     1)慣性の法則:運動量の保存、「力」概念の創出
             inartiaは「inert:動く力が無い」に由来する[59]
     2)運動方程式(運動量の変化は与えられた力に比例すること)、質量の定義式でもある。
     3)作用反作用の法則
     ・これに加えた定義・系として 質量の概念、運動量の定義、絶対時間・空間の考え方を述べる。
     ・力=運動の量の時間変化率,運動量の変化率=質量×速度の変化量、運動の量としてp=mvで定義
     ・法則は,それぞれ先人(ガリレオ等)により現象的には述べられていたが,法則化という手続きを踏んだのはニュートンである。
     ・慣性は「内在力」(vis insita)であるとされた[46]
     ●万有引力の法則
     ・ケプラーの3法則を「距離の逆自乗に比例する引力」により説明
     ・万有引力の原因に関しては「私は仮説をつくらない(Hypotheses non fingo)/第二版巻末注釈」とした。
     →重力の遠隔作用的考えへ。しかしニュートン自体は遠隔作用は馬鹿げていると考えていた[73]
     ・引力の逆二乗の法則は、フックと先取権論争となったが、フックは惑星軌道まで論じてはいない。
     ●影響
     ・今日までの力学理論の原点となる。法則と数学から演繹するという物理学の姿を確立。
     ・単一の論文としては歴史上最大の影響を持ったものとなった[70]
     ・決定論的力学の構築、「運動の全てを支配する神」を、「最初の原因を創った神」と配置がえした。
     ・証明は、解析学よりもむしろ当時の人間になじみ深い幾何学によるところが多かった。
     ・大陸で特に浸透し、ライプニッツの手法を合わせて、大陸の数学の進展がはじまった。
     ・フランスでは、すぐに受け入れられたわけではなく、デカルト流自然学を擁護するフォントネル(B.de Fontenelle)
     が科学アカデミー幹事である間(〜1740頃まで)攻撃目標となったが、
     [以後の出版活動]
      1704年 「光学」刊行[35]、1675年に書かれたものに加筆して出版されたもの[71]
            「曲線の求積について」刊行[35]:y=x^nの微分の証明
            「3次曲線詳論」[53]:3次曲線の分類
      1711年 「無限個の項の方程式による解析」刊行(1669年には原稿がバローに渡されていた)
            (面積計算、楕円積分、項別積分、三角関数・指数関数の級数展開)
      1713年 「プリンキピア」第二版
             デカルト宇宙論への反論。フックとの論争をふまえる[80]
                        第二版の最後で「ユニテリアン(三身一体の否定)」の立場を見せる。
             また、「われ仮説を作らず」という標語もここにある。
      1726年 「プリンキピア」第三版
      1736年 「流率法」出版(流率とは導関数のこと、すなわち微分法)

1687 ヤコブ・ベルヌーイ(JacobまたはJacques Bernouli スイス)
     バーゼル大の数学主任に。
     以後105年間、ベルヌーイ家の誰かがこの職にき、250年間、だれかが同大の教授職につく[35]
     (従って,単に「ベルヌーイ」という固有名詞だけを使うことは出来るだけ避けたほうがよい)
     同年、等時曲線問題を解き、その論文の中で「積分」という言葉をはじめて使用する。
     ヤコブの功績により積分は求積法から、関数の研究へと進展していく。
     以後、懸垂曲線(カテナリー)の研究(ライプニッツと)、楕円積分、レムニスケート等の個別問題のほか、
       無限級数理論、確率論の「大数」の考え方、流れの問題、ベルヌーイ数、ベルヌーイ試行の研究をした。
     1687 ライプニッツの「新しい数学」をヨハンと学ぶ。[80]
     1689 調和関数が発散することを証明[53]
     1713 「予測の技術(Ars Conjectandi)」死後刊行、で大数の法則を発見(→チェビシェフ、ポアソン、ヒンチンによる一般化)

1690 ヨハン・ベルヌーイ(ヤコブの弟 JohannまたはJean )
     数学者でもあったG.ロピタル(l’Hopital)侯爵の援助で研究を開始。
     性格が悪く、兄と論争が絶えなかったが、論争自体は数学発展に寄与した。[35]
     懸垂曲線等の個別問題、「ベルヌーイ型の微分方程式」、指数・対数関数の微積分の導入等
     ベルヌーイの関数の説明:「変量と定数からどんな方法であろうと,組み立てられた量を変量の関数と呼ぶ」[36]
     1697頃 微分方程式の求積法の確立[80]
     1717 静力学に「仮想変位(当時は仮想速度)」の概念を持ち込む[73]
          仮想仕事を表すことばとして、はじめて「エネルギー」を用いる。
     1727 質点の列としての弦の振動の差分方程式[36]
     1730 デカルト流の自然学で惑星の軌道と遠日点を導く研究←当時のフランスにおけるデカルト擁護の現われ[73]
     1734 「新天体物理学試論」をあらわし、デカルト自然学とニュートン物理学の折衷を試みる[73]
     1735 論文中で、活力の保存を力学の基本原理として扱う[46]
         「非弾性衝突の時、活力が失われるように見えるが、これは巨視的な物体が失ったのと
         同じだけの活力が、微小な物質部分に増大している」
          「力」の吸収は衝突粒子の圧縮のために必要→潜在的な「力」、のちのポテンシャル・エネルギー的

1690 ペティ(英)
     「政治算術」を著す。古典統計学の先駆け[53]

1690 ホイヘンス
     論文「重さの原因について(Discours sur la cause de la pesancur)」
     重力の成因を微小粒子による渦運動の反作用であるとした[73]

1693 ハリー(ハレー、Edmund Halley 英)
     レンズの公式[58]

1696 ニュートン
     質点の最速降下線(ブラッキストクローン)の問題を解く→変分法の創始
      出題者のヨハン・ベルヌーイは解答者の名前を見せられずに回答を見たが
      「爪痕をみればあのライオンの仕業とわかる」と言ったという[43]
      なお、最初に解いたのはライプニッツであり、ヨハン/ヤコブ・ベルヌーイ、ロピタルも解いていた[35]

1696 ロピタル候(Marquis de G.F.A.L’Hospital)
     「無限小解析」著す。最初の微積分の教科書。[52]
      これは、ヨハン・ベルヌーイの講義をまとめたもので、世界最初の微積分の教科書[80]
      ロピタルの定理

17世紀末 シュタール(Georg Ernst Stahl 独 ウイルヘルム1世の侍医)
     燃焼のフロギストン説:フロギストンは質量を持たず、燃焼の時、物体から遊離していく。
     硫黄を「燃えるもの」という意味のフロギストン(フロジストン Phlogiston)と命名
      空気はフロギストンを運搬すると考える。18世紀の支配的な考えとなった。[46]
     [76]によると1703年発表とある。
      金属が燃焼により重くなるのは、フロギストンが「軽さ」を持っているからとされていた
      ベッヒャー(独)も同時期に唱える[57]

1700 ベルリン科学アカデミー(プロイセン科学アカデミー)創設
     ライプニッツの企画による[43]
     初代総長にライプニッツ[35]

1705 ニューコメン(英)
     大気圧機関[57]

1712 ライプニッツvsヨハン・ベルヌーイ
     負の対数の、虚数(ライプニッツ)か実数(ベルヌーイ)かの論争[52]
     1748 オイラー、対数の多価性:主値+2λπi
     1831 ガウス、概念の明確化

1715 テイラー(Brook Taylor 当時 王立協会の書記)
     「増分法」を著し、テイラー展開のx=0の場合〜マクローリン展開について述べる。
     波動方程式の定常解 u(t,x)=sin(nx)sin(nct) を得る[52]
      テイラー級数の先発見者問題で、ヨハン・ベルヌーイと国際的紛争[80]

1716 ルイ15世
     世界初の技術者集団「橋梁堤防部隊」を設置[73]

1718 ド・モアブル(Abraham de Moivre 英)
     「Doctrine of Chance」を著し、二項分布の漸近性より中心極限定理の発見[52]
     1720年 「解析雑論」を著し、ド・モアブルの定理を示す[53]

1718 ジョフロワ(パリの薬剤師)
     諸物質間の親和力の順序を「親和力表」として発表[72]

1720 ファーレンハイト(Gabriel Daniel Fahrenheit)
     水銀温度計の開発。(華氏温度目盛り)
     氷+食塩の温度と体温の間を96等分(12進法)した。
     ガリレオ流の気体温度計に代わり、正確な結果が得られるようになる[46]
     [76]によると、水銀温度計は、フィレンツェの科学実験アカデミーの開発とある。

1722 コーツ(Roger Cotes ニュートンの弟子)
     「調和計量(Harmonia mensurarum)」を死後出版[53]
      この中で三角関数の周期性にふれる(初期の古い例)
      複素数のオイラー表記やド・モアブルの公式の内容が、すでに述べられている。

1725 ロシア
     ピョートル大帝 ペテルスブルク帝室科学アカデミー設立[73]

1727 オイラー(オイレル、Leonard Euler スイス)
     ダニエル&ニコラス・ベルヌーイ兄弟との親交によりペテルブルク科学アカデミーで教職につく[35]
     (ニコラスは当時オイラー家に3人いたので、誰の事か?不明[立川])
     多くの超人的な研究量をこなしていき、以後150年間の積分法の基礎づけをおこなった。
     「18世紀最大の数学者」と呼ばれる[81]
     ***************
     オイラーの業績
    ***************
     [数学業績]
      関数の概念の明確化。
      超越関数の級数展開、無限級数の大胆な利用、その解析接続→初等関数の複素平面への拡大:複素解析学の提供。
      複素数根,負数の対数,指数/三角関数のオイラーの式,三角関数の倍角公式・無限積公式、
      円周率に記号πを使用、虚数単位にiを採用、自然対数の底にeを用いる。
      無理関数のオイラーの置換積分と有理化条件。微分方程式。高階の積分。特殊な定積分計算。
      二重積分の基礎。偏微分方程式の積分。積分の近似計算。Β関数、Γ関数の発見。複素数による積分の研究・・・
     [物理業績]
      解析力学
      光の媒体としてのエーテルの提唱。色収差の研究[58]光はエーテルの振動であり、エーテルは希薄で物質中にもあるとした。
      1729 ゴールドバッハへの手紙の中で、無限乗積の形で、階乗を一般化→ガンマ関数(命名はルジャンドル)
      1736 「力学」を著す。オイラーの解析学の開花期[80] 
      1738 右目を失明
      1740 ベルリンに移る
      1743 ヨハン・ベルヌーイへの手紙の中で、y=2cosxとy=exp(ix)+exp(-ix)が、同じ微分方程式の解になることより
          cosx=(exp(ix)+exp(-ix))/2、sin=・・・を導く。
      1744 最小作用の法則[57]
      1748 「無限小解析入門(Introduction in analysin Infinitorum)」発行[36]
           同書でのオイラーの関数の説明:「変量の関数は,この変量といくつかの定数量からある合成された解析的表現である」
           18世紀の解析の「標準的」教科書
           対数の多価性にたいする説明。虚数のオイラー式 exp(ix)=cosx+isinx。
           「オイラー角」 
      1752 デカルト−オイラーの多面体定理:切取られた図形と、頂点の数、辺の数、面の総数の関係。
      1755 「微分学教程」(Institutiones calculi differentialis)出版
           同書での関数の説明:「ある量が他の量に依存しているなら、前者は後者の関数である」
           「オイラー−ダランベール条件」「オイラー指標」
      1755 「微分法」で変分法の一般的な方法について論じる[52]
            この中で、「テイラー展開」という命名を行った。
      1755 流体力学の方程式[57]
           流体中の平行6面体を議論し、一般的な流体の方程式、オイラーの運動方程式をもとめる。[73]
          (ただし、偏微分記号が一般に用いられるようになるのは、19世紀末になってからである)
      1757頃オイラー積によりゼータ関数ζ(s)を定義→素数論
      1759〜60 「積分学原理」を著す。「オイラー曲率」[80]
      1760 剛体の運動方程式[57]
      1761 論文「累乗の除法によって残る剰余に関する定理」について剰余類を考える[54]      1766 失明する。失明以後も多くの論文を残した。
      1768 「積分学教程(研究)」著す[50]
          このころ白内障が進み、手術に失敗、失明する。
      1774 「極大極小曲線」を著す。「オイラー方程式」[80]     

1728 ブラッドレー(ブラッドリー、ブラドリー、James Bradley 英 ニュートンの友人)
     恒星観測により光行差を発見→光速の有限性が広く認識された。
     竜座γ星の年周視差を大きい方向(6月−12月)で測ったら1秒以下だったが
     少ない方向(3月−9月)で40秒もあった。
     公転速度v=30km/s、半角θ=1E−4(20.47")、c=v/θ=2.98E8m/s
     ”地球の公転運動が、エーテル系に対する運動であり、地球の運動にエーテルが影響を受けていない”という考えに結びつく
      (後に、恒星の視差が最初に測定されたのは、1838年[52])
     [98]によると1725年

1729 グレイ(グレー Stephen Gray 英 ニュートンの弟子)
     電気伝導における、導体と絶縁体の区別。
     絹糸でつるした紐では静電気が伝わるのに、針金でつるすと伝わらない事[43]
     この結果の報告を得たデザギュリエ(J.T.Desaguliers)はグレイの死後も実験を行い
     「導体(conductors)」と名付けた。
     →電気が「状態」ではなく、なんらかの「実体」であるという認識[73]

1729 ブゲー(仏)
     光量測定の基礎[57]

1730 スターリング(J.Stirling)
     n!の近似式:スターリング公式[52]

1732 モーペルテュイ(P.Maupertuis 仏)
     「天体形状論」を著わす。
     フランスではじめてのニュートン力学による著作。デカルト自然学を激しく攻撃[73]
     ニュートン力学によると、地球は偏平であること。デカルト流であると、逆に縦長になることを述べる。
     当時、フランス国内の測量によると、縦長説であった→ペルーでの遠征測量へと。
     ボルテールの応援をうける。

1733 デュフェ(デュフェー、デュフェイ、デュ・フェー、Charles Dufay/Du Fay 仏)
     「電気に関する六つの覚え書」著す[74]
     静電気の帯電を観察し、電気に2種類あり、2種類に限る事を見出す:二流体説
     「ガラス電気(硝石酸電気)」と「樹脂電気」は同種が反発しあい、異種は引き合う事。

1734 ボーガー(仏)
     等号と不等号をいっしょにした「≦」「≧」を用いる[53]

1735〜36 フランス政府
     子午線の計測による、地球の偏平の「パンケーキ型」変形を実証[45][73]
     ペルーとラプランド(ラップランド)へ調査隊を派遣して測量する。ズレの測定値は1/179(現在は、1/298)[52]
     ニュートンの説を実証し、デカルト説(ハマキ型)を否定した、これによりフランス国内でもニュートン力学が定着していく。
     ラップランド遠征隊の隊長は、測定理論を確立した、モーペルテュイ自身であった。
     1743 観測隊員のClairautが「流体静止力学の諸原理による地球形状論」を著わし、偏平説が確定。

1738 ダニエル・ベルヌーイ(Daniel ヨハンの息子 スイス)
     名著「流体力学、あるいは、流体の力と運動についての覚え書き」を著す。
     流体力学(hydrodynamica)ということばは、ここに始まる[73]
     ・圧力の起因を議論〜分子の運動量の変化が圧力を及ぼす:気体分子運動論の端緒:ボイルの法則の近代的解釈 →1世紀後やっと理解される。
      pV=(1/3)Nm<v^2> (N:分子の数、<v^2>平均二乗速度)、を導く。
     ・ベルヌーイの定理:速度、圧力、ポテンシャルエネルギーで表す流体の方程式〜流体におけるエネルギー保存則[47]
     ・揚力の説明
     ・「潜力」(後のポテンシャル・エネルギー)の説明で、「1立方ftの石炭から潜力をとりだせば、8〜10人の1日の
     労働よりはるかに有効だろう」[46]
     [業績]
     確率論
     1753 波動方程式の解として、テイラーの定常解の合成として、u(x,t)= Σ(n=1~∞)(an・sin(nx)sin(nct+αn))[52]
          ベルヌーイの解と、ダランベールの解は論争を巻き起こし、フーリエの解への進んでいく。
          弦の振動は,3角関数の和の形をしている[36]

1741 モーペルチュイ(P.L.Maupertuis 仏)
     「最小作用の法則」を著す。
     最小作用の法則に、「作用量」:質量×速度×径路を導入。[52]
     光の粒子説を採っていたので、光にも粒子にも成立するとした。
     非弾性衝突、スネルの法則を説明
     以後の研究
      オイラー、ラグランジュ、ハミルトンへと続く解析力学。
      ルジャンドルの「第2変分」による十分条件の研究。
      ワイエルストラスの「解の存在」の問題などに続く。

1742 マクローリン(Maclaurin 英)
     「流率法(流動率論、Treates on Fluxions)」を著す[36]
      この中で、テイラーの論文により、マクローリン展開について述べる[52]

1743 セルシウス(Anders Celsius スウェーデン)
     摂氏温度目盛りの導入。沸点は気圧まで指定した。
     (1742年表記の文献あり[73])

1743 ダランベール(Jean Le Rond d’Alember 仏)
    ・ダランベールの原理:慣性力をつりあいの式として表記することにより動力学から静力学へ移行する。
    ・活力−運動量論争に決着
    ←1743に発行された「力学要論(Traite de dynamique)」の中で述べる[37]
     質点系の運動量を静力学成分と動力学成分とに区別する考え方→ダランベールの原理:ラグランジュの解析力学へ[73]
      ダランベールの原理は、実際にはラグランジュが創始したと考えられる[73]
     1726 D.ベルヌーイ、
      距離の側面から見るか、時間の側面から見るかの違いであることを指摘。

1743 クレロー(Clairaut)
    「地球形状論」を著わす[73]
    流体のつりあいとして論じ、後のポテンシャル論の先駆的形式を用いた。

1745 ロモノーソフ(ロモノソフ、M.V.Lomonosov ペテルスブルク・アカデミーでD.ベルヌーイ、オイラーと同僚)
     論文「冷熱の原因に関する考察」
     熱の物質内部運動説[46][73]
     運動説より、温度に下限があることを推定[76]
     「ロシア自然学の父」と呼ばれる[76]

1746 ミュッセンブルク(ムスケンブルック、Peter Van Muschenbroek 蘭)
     ライデン瓶の発明(ミュッセンブルクがライデン(レイデン)大にいたのに由来する)
     1745 独立にクライストも(Ewald Georg von Kleist 独)発明[74]

1747 フランス
     世界初の専門技術教育機関「橋梁堤防校(Ecole des Ponts et Chaussees)」を設置[73]

1748 フランス
     メジェールに「工兵学校(Ecole du Genie de Mezieres)」設置

1748 ダランベール(D’Alembert 仏)
     「積分法研究(Recherches sur le Calculi integral)」を著す[36]
     [業績]
     複素数の表現の一意性,複素数の微分。それらについてのオイラーとの議論
      代数方程式が複素数の範囲で解を持つこと:「ガウスの定理」の概略証明
      「コーシー−リーマン方程式」の関係の発見[80]
     偏微分形式の波動方程式を得,初期条件,制約条件について議論
     静力学と動力学の統一的見解[45]
     1744 「流体の釣り合いと運動」を著わす[73]
     1747 波動方程式の「ダランベールの解」u(t,x)=f(x-ct)+g(x+ct)を見つける。[52]
          □≡∂2/∂t2 - v^2Δ をちなんで、ダランベルシアンと呼ぶ
     1752 「流体抵抗の新理論試論」を著わす[73]
           ダニエルベルヌーイに対抗して、運動量保存を基に流体抵抗を議論、ダランベールのパラドクス。

1749 ノレ(Jean Antone Nollet 仏)
     電極を封入した真空管に手を触れると放電模様が千変万化することを示す[74]

1750 フランクリン(Benjamin Franklin 米)
     電気の正負の提案/電気量保存の法則の提案
     「電気流体説」による電気現象の説明[73]
     :一流体説:ガラスの摩擦電気を正、樹脂の摩擦電気を負とし、帯電しないものは両者が中和されているためとした。
     [74]によると1747年
     1749年 避雷針の着想、53年ころから普及[74]
     1752年 6月 雷の電気説の確認:タコと雷の実験:麻糸を伝わった電荷をライデン瓶に蓄積。→避雷針の普及

1750 クラーマー(スイス)
     「代数曲線解析入門」を著し、行列式を確立[53]

1750 ズルツァー
     味覚の研究,異種金属をつけて舐めると,不快な味がすること[79]
     →金属の結合による微粒子振動で神経興奮が起きるとした。
     →ボルタがガルバーニの動物電気を否定する時の発想に影響した。

1751 ワトソン(William Watson 英)
     真空管の電気伝導度は真空度により変化することを発見[74]

1751〜52 ディドロ、ダランベールら
     「百科全書」の刊行

1753 カントン(John Canton 英)
     静電誘導(静電感応)の発見
     帯電した物体に金属を近づけると、近い方に異種電荷が、遠い方に同種電荷が生じること

1753 C.M.(氏名不詳、英)
     アルファベットの文字数だけ静電気装置を設け、相互通信するアイデア[74]
     最も古い、電気的相互通信のアイデア

1755 カント(Immanuel Kant)
     太陽系進化論
     「一般的自然史と天体の理論(Allgemeine Naturgeschichte unt Theorie des Himmels)を表す。
     星雲説:星雲の回転運動が進化して太陽と惑星が出来る、とする説
     宇宙永遠不変の考え方の否定。ラプラスによる補強
     1756 「物理的単子論」を著す
          ライプニッツの影響の下、ボスコビッチに類する原子論を展開[46]
     1786 「自然科学の形而上学的基礎」を著す
          原子の無限小性と、物質の無限分割性の矛盾を、連続性の原理とモナド論で議論[46]

1756 エピヌス(Franz Maria Ulich Theodor Aepinus 独)
     焦電現象の研究(ピロ電気現象と命名)[74]

1757 ドロンド(John Dollond 英)
     色消しレンズの考案[57]、反射望遠鏡等を製作[58]

1758 ハレー彗星 回帰
     ニュートン力学の正確さの一般的認知に。

1758 ボスコヴィッチ(R.J.Boscovich ユーゴスラビア)[46]
     「自然哲学の理論」を著し、点状の均一な原子論を展開
     原子を特異点的存在と見、その近傍で、斤力と引力が交代に現れるとした。
     すべての現象を力の交錯の結果としてみる。
      考えは早すぎたが、デモクリトスやボイル原子論と並んで、後世の原子論者に影響

1759 ウィルソン(Benjamin Wilson 英)
     真空放電で、樹脂電気、ガラス電気による放電の差を観察[74]

1760 ラグランジュ(Joseph Louis Lagrange 伊トリノ→ベルリン→仏)
     ダランベール、オイラーらとの波動方程式の議論[36]
     偏微分方程式である波動方程式を変数変換により常微分方程式とする手法
      δを第1変分
     [以後の業績]
     1760〜61 変分法の確立:オイラー−ラグランジュ方程式(オイラー方程式)
     1771 「方程式の代数的解法についての省察」を発表:3次、4次方程式の解法→アーベル、ガロア群論へと続く[54]
     1772 微分方程式の代数学的な基礎付け、の端緒、「解析関数論」を著す。
     1772 重力に対して「ポテンシャル」の概念を導入
     1788 「解析力学(Mecanique analytique ,Analytical Mechanics)」著す。ニュートン力学の形式的完成。
          ラグランジュ方程式[73]
          「これ(著作「解析力学」)は科学の詩である」(ハミルトン)[81]
           Σ(F−ma)=0のダランベールの原理を用い、動力学を静力学に帰着
           一般化座標の導入により、方程式の解法の見通しがよいこと。
           ダランベールとは、生涯の友人だった。
           活力の定理:運動方程式より、力学的エネルギーの保存式が得られる。
           最小作用の原理と運動方程式の同等性が形式的に導かれること→更に厳密にはハミルトンによる
     1797 大学教育向に「解析関数論」著す
      ・その中での関数の定義(抜粋):量が、他の量と混じったり混じり合わなかったりして入っている、計算のあらゆる表現
      ・ニュートン流微積分の考えを厳密化することを求め、級数展開を研究、関数の次数展開。導関数の存在問題
      ・ラグランジュの平均値の定理[53]
      ・剰余定理:fx=f+xf'+(x^2/2)f''+(x^3/2・3)f'''u(fは0における関数値、uは0とxの間に含まれる任意の値)
       テイラー展開の余剰項の公式を元に論じる。
     1801 「解析講義」著す[80]
     1810 ロンスキー(Hoene Weonski)による、ラグランジュ理論の関数の展開可能性の曖昧さの攻撃
     1813 「解析関数論」第2版著

1761 ランベルト(John Heinrich Lambert 独)
     円周率πが無理数であることを、連分数を用いて証明[52]
     [他の業績]
      光の強さと距離の関係、光度計の発明、レンズ収差の研究[58]
      1779 棒の片方を熱すると、ある時間後、定常温度に達する事を述べる[73]

1762 ブラック(Joseph Black 英 スコットランド、グラスゴー大教授)
     熱の研究〜「熱と温度の区別」
     熱容量、潜熱の概念(アルコールの蒸留時の温度上昇特性より、潜在する熱があること:温度と熱が別物であること)
     物質に依存しない温度→熱平衡が存在すること:熱力学の第0法則
     ブラックは熱物質説の立場。「熱の平衡」の命名もブラックによる。
     グラスゴー大の出入りの技術者であったJ.ワットの友人であり、ワットの蒸気機関の開発に影響を与える
     1732 Boerhaave 同量の水と水銀を混合しても、平均の温度にならない事を指摘[73]
     1756 炭酸ガスの発見:物を燃やさない空気。([73]によると1754年)
        水酸化炭酸マグネシウムを加熱して酸化マグネシウムにすると、重量の7/12を失い
        これは、水と「固定空気(:CO2)」の散逸による、とした〜質量保存の考え方。
     1760 潜熱の測定[46]
     ブラックは化学研究に最初に天秤を使用した人間といわれている[72]

1765 コンドルセ(M.A.Condorcet)
     「積分論」刊行[36]
      未刊だが印刷して広く読まれた第2版(1780頃)で関数概念を述べ
      関数を1)陽関数 2)陰関数 3)微分方程式などにより与えられる関数、に分類

1766 キャベンディシュ(Henry Cavendish 英)
     水素の「発見」
     新しい元素として認識したわけではなく、可燃性の気体を得て、性質を計測した。
     1781年 水素と酸素中の放電により水が発生することを示す[74]

1766頃 英バーミンガムで「月光協会(Lunar Society)活動開始。1800年ころまで活動。
     フランクリンの講演を聞いたバーミンガムの技術者が、研究会を月1回開催[73]
     メンバーは,ワット,エラスムス・ダーウィン、Priestleyら。
     産業革命時のイギリス科学は、大学よりも、このような協会により発展させられていった。

1769 ワット(James Watt 英)
     蒸気機関の完成,ピストンの両側に交互に蒸気を働かせる機構の開発
     仕事の概念:蒸気機関の使用料金の明示のため1馬力を定義する、仕事率(power)=力×距離/時間。
      1馬力=33000ポンド×1フィート/1分
      powerはラテン語の「し得る posse」に由来する[59]
     1687年 ホイヘンスの弟子パパン(D.Papin)が蒸気圧装置を試作[73]
     1705年 ニューコメン(T.Newcomen 英)蒸気圧と冷却で直動するシリンダ機構の特許取得[73]
     1765年 ワット,シリンダーと蒸気凝縮部を分離し効率化
     1781年 ワット,特許を取得,工場に展開。
     1807年 フルトン、蒸気船がハドソン湾を航行
     1814年 スティーヴンソン、彼の最初の機関車を走らせる。
     1824年 実用的機関車がマンチェスター−リバプール間を走行

1772 ラグランジュ
     3体問題の一般的研究。正三角形解、直線解の存在を示す[73]

1772 キャベンディッシュ
     中空の球体では、外側表面のみ帯電することの、理論・実験的証明[74]
     実験は1755年にB.フランクリンが行っている。

1773 キャベンディッシュ
     電極間に絶縁体を挟むと静電容量に差が生じることを発見[74]

1774 ヘンリー(William Henry 英 気体のヘンリーとは同姓同名なだけのようです[立川])
     真空管中の電気粒子は、互いに反発するために広がる、という説を唱える。[74]
     1772年 金属板の回転角から静電電位を測定する、象限電位計を開発

1774 プリーストリ(Joseph Priestley)
     酸素ガスの発見[44]([45]では1775年)
     酸化第二水銀に太陽光を集光すると、水銀とガスに分離した。
     ハツカネズミをこの中にいれると、通常の2倍の時間、窒息せずに生きた。:「脱フロジストン空気」と呼んだ
     ラヴワジエにこの結果を話すと、ラヴワジエは独立の元素と同定し酸素と命名(1777)→ラヴワジエの燃焼理論へ
     植物が酸素を発生することもほぼ同時に発見した。
     スウェーデンのシェーレ(C.W.Scheele)は1772年に発見していたが
     出版の遅れ等により、発見の栄誉を得ることができなかった。

1775 ベリマン(スウェーデン)
     親和力理論、著書「選択的引力の研究」[72]
     2種類の物質が化合する場合、両者は一定量で飽和しあうこと
     〜親和力が一定で、定比例の法則が成り立つ立場をとっていること
     ベリマンに限らず、プルースト以前から定比例の法則は、化学者の間で広まっていたと考えられる。[72]

1777 ネーアン(Edward Nairne 英)
     真空球内に針状電極を設置し、ぶどう酒や水分を入れて放電発光を観察[74]

1777 ラヴワジエ(ラヴォワジエ、ラボアジエ、ラヴォアジエ Antonie−Laurent Lavoiser 仏)
     燃焼理論:フロギストン説を払拭
      燃焼により質量が増加することもある:フロギストン説に反する→空気の燃焼支援成分を酸素と同定
      すみやかに、酸素燃焼説(酸化説)は受け入れられた。
     1780年 比熱の測定、ラプラスと共同。「比熱」の命名もラヴワジエ[46]
           測定に氷の融解量を用いて計測[73]
           ラヴアジエは熱素説に傾いていたが、振動説でも議論が成立することは認識していた。
     1787年 「化学命名法」を著す。物質を構成元素で呼ぶルールの確立
     1789年 「化学要論(Traite elementaire de chimie)」を著す、33種類の新元素を説明、熱素も含まれていた。
            ラヴワジエは、熱素説と運動説の間を揺れ動いた
     1789年 質量保存の法則、「操作の前後で等しい量の物質が存在することは公理とみなせる」
     ラヴワジエは、徴税請け負い人であったため、フランス革命で断頭台の露と消えた。
     ラプラスが、ナポレオン、王制復古時代を権力構造の中で生き抜いたのと対照的ではある[立川]

1781 キャベンディッシュ
     ライデンびんの放電により、水が水素と酸素に分解することを得た[73]

1782 ラプラス(Pierre−Simon Laplace 仏)
     ラプラス方程式:真空中のポテンシャルに対する方程式の確立
     ラプラス演算子∇の導入、ラプラス方程式を満たす関数として「調和関数」
     1777 論文で、任意の離散的な分布の質点の「力関数」(後のポテンシャル関数)を計算[46]
      「ポテンシャル関数」という言い方は、19世紀前半に生じる

1783 ラザール・カルノー(カルノーの父。Lazare Carnot 仏)
     「一般機械考」を著す[46]
     仕事量への注目、エネルギーに関して「活力は、mv^2またはFdの形で必ず取り出せるもの」と述べる

1783 カバロ(Tiberrius Cavallo 伊)
     1Torrまで達する真空ポンプを製作し、真空管放電の色変化を観察した[74]

1784 ラプラス
     30年来の土星と木星間相互作用の摂動論争を決着。相互作用により930年周期の摂動が生じていることを示す[73]
     ニュートン力学の有用性を改めて実証。

1785 インヘンホウス(J.Ingenhouz)
     物質の熱伝導の速さの測定[73]

1785 モーガン(William Morgan 英)
     高真空装置の開発[74]

1785 クーロン(Charles Augustin de Coulomb 仏)
     クーロンの法則(論文発表は1788年と[43])
     クーロンは仏海軍の技術将校で、備品の強度を測定するためのねじれはかりにより、法則を検証した。
     このねじればかりは1750年にケンブリッジのジョン・ミッチェルが製作した方式の再発見であった[47]
     キャベンディッシュ(Henry Cavendish 英)は未発表だったがかなり以前に逆二乗に到達している。[43]
     クーロンの発見は、反面「電気と磁気は別物」という観念を世に与え、1820年ごろの、エルステッド、アンペールの登場を待たねばならなかった[90]
の法則
      論文は未発表であったため、ゲイ・リュサックの公知は総合実験による[46][73]
     1703 アモントン(G.Amontons) 空気の圧力と温度の関係
     1779 ランバート、湿度の影響の吟味

1787 ラプラス
     月の公転周期の減少が、惑星による地球の離心率の低下により、太陽の摂動効果が減少したことによることを示す[73]
     19世紀に、さらに不一致が指摘され、20世紀に地球の自転周期の変化によることが示された。

    クラドニの振動板の図[57]

1788 ダーウィン(Erasmus Darwin 英:生物学のダーウィンの祖父)
     気体の断熱膨張による冷却の発見

1789 ラヴワジエ
     質量保存の法則:「操作の前後で等しい量の物質が存在することは公理とみなせる」
     著書「化学要論(Traite Elementaire de Chimie )」の中で述べる。
     ;化学反応の前と後で質量の和は変化しないことより。
     この著書の中で、最初の化学反応式と言われる式
      ぶどうのしぼり汁=炭酸(現在の2酸化炭素)+アルコール
     が現れる。[72]
     1774 密閉したレトルトの中のスズを加熱、酸化し、重さが変化しない事を発表。
       同年、プリーストリの酸素発見に刺激され、燃焼はこの物質との化合であるとの認識に至る。[72]
     [立川注記]
      どうも教科書レベルの歴史観では、質量保存の法則と、燃焼の酸化説を同一視してしまう傾向があるように思う。
      現在の我々は、質量−エネルギーの等価性、保存性を信じ、素粒子論を信じている以上、質量保存を当たり前のことと
      しているが、フロギストン説の時代では、当たり前ではなかったという、「当たり前」の事実をよく反復したい。
      が、それでも質量概念の獲得の、物理分野と化学分野での差は、なかなかよくわからないのが、現在の心境です。

1790 ロール(ロル、仏)
     平均値に関する「ロールの定理」を発表[53]

1790 ピクテ(M.A.Pictet)
     放射熱が伝導熱より直線的に大きな速さで伝わることを主張[73]

1791 アルボガスト(L.F.Arbogast)
     関数の連続、不連続の研究[36]

1791 ガルバーニ(ガルヴァーニLuigi Galvani 伊 ボローニャ大解剖学教授)
     「筋肉の運動における電気力に関する論考」発表:カエルの脚の収縮の実験
     当時漠然と分かっていた生態と電気の関係を系統的に調べた。
     電気生理学と電池に関する研究を同時に創始したと言える[43]
     異種金属の接合したものを神経と筋肉に触れると最も激しく痙攣すること[79]
     筋肉に蓄積した「動物電気(ガルバーニ電気)」が金属により流れると考えた。
     当時は,電磁気よりも,死んだカエルが動くという生物学的衝撃が話題を呼んだ。
     動物電気は通常の電気と信じたまま死去した。
     1778年 カエルの脚が金属にふれると痙攣するのを発見[74]
         [90]によると1776年
     1780年 火花放電時,神経に金属が触れているとカエルの脚が痙攣するのを発見[79]
          その後,雷等でも痙攣することを見出した。
           知人のアルディーニという人物は、人の死体でも同じ効果があることを実験した。[90]

1791 ボルタ
     空気の等圧膨張係数が1/273(摂氏)であることを発見[43]
     1802 ゲイ・リュサック(Joseph Louis Gay−Lussac)
          等圧膨張係数が、すべての気体で同じことを発見

1794頃 フランス革命の影響
     「科学アカデミー」は「山師的」として解散させられ、各種の独立的協会が誕生した。
       exラプラスの「学術振興会(Societe philomatique)」
      高等教育も改組され、大学(エコール)、博物館等が新設された。
       エコール・ポリテクニーク(Ecole Polytechnique)
       自然史博物館(Musee d'Histoire naturelle)
       工芸院(Conservatoire des Arts et Metiers)
      数学者たちも大学での教育活動を求められ、出版も増加、フランスの数学水準は向上した[36]
      激しい選抜競争と、優秀な教授陣(ラグランジュ、アンペール、フーリエ・・・)により19世紀前半のフランス科学力を裏打ち[73]

1795 モンジュ(Gaspard Monge 仏)
     「画法幾何」「解析の幾何への応用」を著す。[80]
      微分幾何、偏微分方程式の先駆的仕事

1796 ラプラス
      「宇宙体系概説(L'exposition de la systeme du monde)」著す(一般人向けの解説書)
      カントの星雲説を改めて、ガス塊の冷却凝集と角速度の保存を太陽系の起源とする。
      摂動法を用い、三体問題を扱う。
      1799〜1825 「天体力学」全5巻を著す[46]
       摂動法により(ラグランジュらと)、ニュートン力学の実質的完成
      「天体力学」をナポレオンに献上したとき、ナポレオンに「この本には神のことは書かれていないのか?」
      と聞かれたラプラスは、「陛下、わたくしはそのような仮説を必要としなかったのであります」と胸をはって答えたという[73]
      [その他の業績]
        潮汐問題の観測との対応、合成と分解のエネルギーの等価、空気中の音速の原理[46]

1796 ガウス(Carl Friedrich Gauss)
     正17角形の作図問題:円分方程式(円周等分多項式)、17が素数であり、2^(2×2)+1の形であることによる。
      =============================================================
      ================ ガウスの業績年賦 =========================
      =============================================================
      1795 ガウスの相互法則の証明。最小二乗法を発見。
      1799 代数学の基本定理:複素係数の多項式は1次因数の積であること
            :n次の代数方程式が解けること→ガロア、アーベルの理論へ
           (これは、ヘルムシュテット大学の学位論文であった。ガウスはこの定理の証明を生涯に4つの証明法を生んでいる)
      1801 「数論の研究(整数論研究 Disquisitiones arithmeticae)」を著す:現代整数論の創始[53]
            21才のころには、ほぼ概略ができあがっていた[80]
              b≡c(mod a)のような今日と同じ表記を用いる。
             ガウス整数:a+biの導入
            円分方程式:素数nにおいてx^n-1=0がべき根で解ける可能性の証明:n−1が2のべき
            小惑星ケレス(セレス)の軌道を計算し、欧州に名をなす(最小二乗法を用いたガウスの方法)
      1807 ゲッティンゲン天文台の台長に(以後40年間同職を通す。教授職は嫌いであったらしい[69])
      1809 「運動の理論(天体運行論 Theoria motus)」を著す。
           観測データの処理のため、ガウス分布を発見。最小二乗法の原理についても言及。
            (ガウスに先行して、アドレイン(米)もガウス分布を発見していた。)[52]
      1811 複素積分の基本定理、コーシーに先立って発見していた(ベッセルへの手紙)[52]
            積分値が積分路によらない事
      1812 「無限級数に関する一般論」、級数の収束に関して体系化[53]
      1820頃 資料より、ガウスがこのころ非ユークリッド幾何学を考えていた事があきらか。
           若い頃から、ユークリッドの平行線公準の証明を志していたガウスは、ついに、不可能であり
           ユークリッド幾何学以外の幾何学が可能であることを確信したが、発表しなかった。[69]
      1827 微分幾何学の創始。
           曲面上の幾何学(曲率、ガウスの全曲率は第一基本量とその偏導関数で表せる事、等長変換、測地線)
           ガウスの定理→ガウスの法則 
      1831 整数論を発表。双2次余剰の理論の中で、複素数を基礎付け、幾何学的解釈。
           「複素数(komplex Zahl:複合的な数)」という名称がこの時できる
           「もし、+1、−1、√−1を、<正の単位><負の単位><不可能の単位>などと呼ばずに<まっすぐに伸びた><逆方向に伸びた>
           <横に伸びた>という表現に代えたならば、神秘主義的な暗黒の世界から解放されるだろう」
      1832 4次余剰の相互法則研究のため、有理数体にiを添加した代数体R(i)の導入:代数体の整数論のはじまり[52]
      1840 論文「屈折光学の諸研究(Dioprische Untersuchungen)」
      [業績]
       ガウスの成果には、未発表で、後にガウスの先見性が明らかになったケースが多い。これはニュートンに似ている。
      また、他人の仕事に誠意を尽くさないところも似ており、特にコーシーの仕事に対しての言及が全くない。
      このような背景で、19世紀における数学の厳密化は、ガウスよりもコーシーの指針によるところが大きい。[69]
       物理への貢献では、天文学、測地学、結晶学、地磁気、ガウス光学、
       ガウスの代数学への寄与は意外に少なく、ほぼ博士論文だけであった[54]

1797〜1800 ラクロア(S.F.Lacroix)
     「微分積分論」(Traite du calcul differeential et du calcul integral)著す
      標準的な教科書に[36]

1798 ラムフォード伯爵(ランフォード、ルンフォード、Benjamin Thompson → Count Rumford 米ー英−独)
     熱の運動説
     論文:Phil. Trans.,88,80-102(1798)
     大砲の空打ちの方が、実射より砲身が熱くなること、大砲加工中に、いくらでも熱が発生すること、より。
     実験として、断熱した環境で、馬に水中のドリルを回転させ、水が沸騰することを示した。[76]
     賛成者は少なかった(ヤング、デイヴィーら)。
      アメリカで生まれ、独立戦争時、英国側につき英国へ移動、英国籍取得後、ドイツの選帝侯の顧問・司令官となるが、[34]
     英王室とは対立する。その後渡仏し、ラヴワジエ未亡人と結婚、破滅する。
     発明家などとしても有名で、主な業績として
      大英帝国王立研究所の設立
      ドリップ式コーヒーメーカーの発明
      標準ろうそくによる照度の定義
      T.ヤング、ハンフリー・デイヴィーらの援助:間接的なファラデーへの貢献と言える[立川]

1798 キャベンディシュ(英)
     万有引力定数の測定[57]

1798〜1813 ルフィニ(Paolo Ruffini ラグランジュの学生)
     5次方程式の一般解法の不可能性証明の試み
     厳密ではなかったが、アーベルの仕事の先駆的であった[54]

1799年ラムフォード
     大英帝国王立研究所(Royal Institution)を設立
     当初は旧態の大学に対抗する教育機関として設置
     寄付により維持、委託研究を行うことにより、後に研究所化[73]。
      英国科学普及会もラムフォードの設立。[90]

1799 J.L.プルースト(仏)
     定比例の法則の提唱。論文「プルシアン・ブルーの研究」
     鉄の酸化物には、酸素との比が一定である2種類しかないこと。その後実例を充実。
     (現在の化学史の定説では、これ以前に定比例の法則は化学者の間で認識されており、プルーストが最初ではないとされている)[72]
      ベルトレとの論争[72]
      当時エコルの教授として実力者であった、ベルトレは「不定化合比」説をとり、プルーストと(紳士的に)論争した。
      ベレトレは主に、硫化物や溶解物など多様な構成をみせるものを例示し、定比例説を攻撃した。
      この論争はベレトレの死により収束に向かう。ベレトレ門下には、ゲイ・リュサック、テナール、ビオ、デュロンなどそうそうたるメンバーがいた。

1799 ルジャンドル
     「整数論試論」で素数定理の予測。
      xを越えない素数の数をπ(x)とし、その大きさを予想、ガウスも私信の中に予想
      π(x)〜∫[2~x](1/log(t))dt → 素数定理:lim[x→∞](π(x)log(x)/x)=1 [52]

1799 デイヴィー(Hummphry Davy 英)
     真空中で氷点の氷を、時計じかけでこすりあわせて溶かす実験:熱の運動論を述べる[46]
      この熱の研究により、ラムフォードに王立研究所へ招かれた。
      しかし、後に、熱の運動説に関して結論を留保した[73]

1799 フランス度量衡委員会
     メートル法の制定
     1790年に設立され、ラグランジュの下、完成した[36]
          メンバーは、ラプラス、Borda、モンジュ(G.Monge)、後にクーロン
     1791年 振り子の長さを基準とする案は、時間と重力の2つを基礎量とするため却下された[73]
     1798年 政変の影響で2年の中断の後、作業が終了、原器作成へ。
     メートル:metreはラテン語の「寸法:metrum」に由来する[59]

1799 ベッセル(ウェッセル、ヴェッセル、Casper Wessel、デンマーク)
     複素数の平面グラフ表示法、後のガウス平面(なぜそう呼ぶようになったか?は明確でない)
     論文「方向の解析的表示について」:デンマークアカデミー会報に発表されただけで、この論文が出版されるのは100年後
     平面上の点の表記に、複素数を利用、ベクトル演算として扱う。[53]
     z=r(cosψ+√−1sinψ)の関係を用いる[52]
     複素数が平面の点に対応すること、複素数の実在性の認識、複素数の視覚化の意義[69]
     同様な事は、スイスの「アルガン」とフランス「ビウエ」が用い(1806)、手法が知られていく。


量子力学の歴史全体の再表示

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