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1章:19世紀前半 〜光学・電磁気学の勃興


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●19世紀のはじめ、庶民の生活は、紀元前と本質的には差がなかった。
しかし、20世紀のはじめには、今あるものはかなり出そろっていた。
この偉大な世紀に、何を学ぶか?はいまだ明確ではない!
●イギリス物理学の数学重視重視向
:ニュートン、ハミルトン、マックスウェル・・・
●複素関数論の完成
:ガウス、コーシー、アーベル、ワイエルシュトラス、リーマン、ポアンカレ、クライン
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1800 ボルタ(Alessandro Volta 伊パビア大物理学教授、貴族出身)
     ボルタの電池の発明(最初の電池)←電堆(パイル)のアイデア[43]。製作は1799年[74]
      ガルバーニの論文で2種類金属とカエルの筋肉のけいれんの実験を知る
     →なぜ、生物起因だというのに2種類の金属がいるのか?→食塩による持続電流を発見
     静電起電力に比べ格段に大きい電流供給手段の確立→電磁気学の進展
     ・溶液をしみこませた厚紙の円板を銀と亜鉛で挟んだもの
     ・継続的な火花放電も実現した。
     ・並列接続法の発見(感電のショックの増加が、「電圧」でなく「電気量」の増加によること)
     1782 コンデンサトーレ(平行平板コンデンサー)の発明→電位の概念[29]
          コンデンサー極板間の距離とライデン瓶の開きの関係より電位の概念。
          開きと電位の関係は、指を触れた時のショックから求めた。
     1791 ガルバーニの「神経電気」説を聞き、否定的に考察、追実験[90]
          生きたカエルを使い、溶液と2種類の金属の問題である認識へとつながる。
     1794 動物電気を否定し,金属電気説をとる。
     1797 接合時,亜鉛がガラス電気。銅が樹脂電気をとることを発見(二流体説の立場)[79]
          「分離」の概念:ガラス電気,樹脂電気を移動させる力〜電圧(起電力と命名)概念を提示。
          全体の「分離」は,個々の金属ペアの分離の差の総和に等しい事
     1801 ニコラ・ゴートゥロー(仏)
          ヴォルタの電池の両極の電線は引き合うことを見るが、それ以上探求せず。[90]

1800 カーライル、ニコルソン(A.Carlisle、W.Nicolson 英)
     水の電気分解。
     (発表前の)ボルタの報告を読み、ボルタの電堆を製作して、水素と酸素を得る。
     デイヴィーが水素:酸素=2:1であることを明らかに
     放電による水の電気分解は、溯って、1781年、キャベンディッシュが行っている。[73]

1800 ハーシェル(Frederick William Hershel 英)
     太陽スペクトル赤外側の熱作用の発見(赤外線の発見)[20]
     ガラスの光透過率と熱の透過度が比例関係にないことがヒントになる[73]
     1871 自作の望遠鏡で天王星を発見
     1845 蛍光の研究

1801 リッター(Johann Wilhelm Ritter 独)
     硝酸銀の光黒化がスペクトル紫外側で早いことを発見(紫外線の発見)[20]
     1777 シェーレ(K.W.Scheele)、塩化銀の黒化が、紫色が一番強いことを見出す[73]
     1800 カーライルらと同様に、水の電気分解、硫酸銅の電気分解実験[74]
     1803 電池使用時の電気分解効果による分極作用の発見[74]

1801 ウォラストン(ウラストン William Hyde Wollaston 英)
     静電気と電池の同等性の考え。
     どちらも水を電気分解することより、 摩擦電気とボルタの電気が同等であると考え、
     その差は、電気の「強さ」と「量」であるとした[73]

1802 ウォラストン
     太陽スペクトルの観察[73]
     スリットを通した太陽スペクトル中に暗線を発見。
     しかし、それ以上追求せず、フラウンフォーファーの発見を待つことになる。

1802 トーマス・ヤング(Thomas Young 英)
     ・ヤングの干渉の実験;光の波動説の復活と確認。(ヤングは当初、縦波と考えていた)[20]
      →波動論として、回折や薄膜の色を定性的に説明
     ・根強いニュートン崇拝と、数理的手法の欠如から、当初ひどく批判され受け入れられなかった[73]
      →フレネルの実績を待つことに
     ・求めた波長はニュートンリングより求めた値と一致した。
      光の色により、干渉の径路の差が異なる事
      →波長=色であるという認識、赤=0.7μ、青=0.4μと求む
     ・後に、偏光どうしが干渉しないことより、光は横波であるとした[43]
     ・三原色という概念も、ヤングによる[43]←→17世紀のドミニスによるとも[58]
      →ヤングは解剖学的に乱視と色覚を研究し、色の3繊維を発見した[58]
     1801 論文「Outlines of Experiments and Inquiries Respecting Sound and Light. Phil. Trans. 90,106-150(1800)」
          音と光のアナロジーを議論,波動性を示唆
          光と熱の同質性についてものべ、Rumfordの熱の運動説を支持した[73]
     1802 論文「On the Theory of Light and Colours. Phil. Trans.,92,12-48(1802)」
          エーテル媒体説,色は波長によることを仮定。干渉、回折についてのべ,回折をエーテルの密度差より説明
     1802 論文「An Account of Some Cases  of the  Production of Colours. Phil. Trans.,92,387-397(1802)」
          回折による波長測定と薄膜よりの波長推定値が一意すること
     1804 論文「Experiments and Calculations Relating to Physical Optics. Phil. Trans.,94,1-16(1802)」
          干渉の原理を明確にのべる
     1807 「自然哲学講義(A Course of Lectures on Natural Philosophy and Mechanical Arts)」刊行
          いわゆる「ヤングのWスリットの実験」は、ここではじめて述べられる。
          この本は、王立研究所で行った講義を編集したものである。
     1814 ビオらの粒子説による複屈折の説明を批判、しかし論破できなかった[73]

1803 ヘンリー(William Henry 英 ドルトンの友人)
     ヘンリーの法則:混合気体が水に溶ける時の溶解度は、各気体の分圧に比例する。[29]

1803 ジョン・ドルトン(ドールトン、ダルトン、John Dalton 英)
     原子論:当時の化学(ボイルらの原子説。気体法則)を大成し,物質が原子という不可分よりなると唱える[20]
         原子量の概念の導入とその決定
         化学的原子の相対的重量の考え方。原子の並列的配置による複合粒子の構築
         原子論は、気体運動論と並ぶ19世紀物理・化学の潮流となる[46]
         ただし、受け入れられるまでは、紆余曲折と長い時間がかかった事。[72]
         原子の伝統的「延長」のイメージからの離脱。アプリオリな原子論への到達[72]
        (ドルトンの原子論に関する化学史上の数々の誤解は[72]に詳しいので、ご一読をお願いする[立川])
      論文「水およびその他の液体による気体の吸収について」
       Phil. Mag. 24,15(1805)
      「原子論三原則」〜法則というより「原子論」という「仮定」とみなすべき存在[72]
      1)物質は無限に割はできない
      2)同一の元素は、あらゆる性質を一にしている
      3)異なった元素間の化学結合があり、一定の数ずつ結合した複合体をつくる
      ・気象観測を続けていたドルトンは、ある時気球に乗り上空の空気の組成を分析したが
       高度により組成が変化しないことを不思議に思った:比重の軽いものが上にいかない事:拡散現象→粒子論を連想
      ・質量保存の法則、定比例の法則、分圧の法則(ドルトン自身の発見)、ヘンリーの法則を総合して
       原子が実在であることを確信した。ただし、ドルトンは熱素説であった。[29]
      ・熱素説による断熱冷却のドルトンによる説明:
        断熱膨張時、全熱素量は不変だが、束縛された熱素の量が増え、自由な熱素が減るため、温度が下がる。
        等温膨張時は、熱素の供給を必要とするので、比熱はその分増加する、とした[46]
      ・この説が公けにされたのは、英王立研究所での講演による。[34]
      ・化合物は原子1つずつか結合しているとして、分解時の質量より原子量を決定[45]
       また、原子それぞれに、「絵記号」をつくった。[47]
      国教会でなく、クウェーカー教徒であったドルトンはオックスフォードやケンブリッジには入れなかった[47]
     1794 色盲に関する研究。ドルトンは色盲であり、英では色盲の状態に「ドルトニズム」と呼んだこともある[46]
     1801 分圧の法則の「発見」:全圧は(同温・同体積の)各成分気体の分圧の和に等しい[29]
          分圧の法則の実証は困難であり、この時点では「仮説を唱えた」が正しい[72]
     1804 倍数比例の法則の「発見」:2種類の元素が化合物をつくる時、2つの量の比は簡単な整数比となる[47]
          実は、ドルトンの実験の中に例があるだけで、法則を認識したのは、1814年のウォラストンによる[72]
     1808〜10年「化学の新体系(A New System of Chemical Philosophy)」第1巻[45] 村上ら「ドールトン」(朝日出版 1978)に収録
     1827 「化学の新体系」第2巻[47]

1803 ベルセーリウス(ベルゼリウス Jo:ns Jakob Berzelius スウェーデン)
     電気分解の研究より、電気化学的二元論を提唱
      陽性の原子と陰性の原子が結合して、中性の分子になるとした[74]
      ベルセーリウスは「化学におけるニュートン」と呼ばれるともある

1806 アルガン(Jean Robert Argan、スイス)
     ベッセルの複素数の幾何学的表記の手法に、オイラーの極座標表記(r(cosθ+isinθ))を持ち込み、和・積を説明
     コーシーやハミルトンに直接的に影響
     コーシー曰く「アルガンは虚量の幾何学的表示の創始者」

1806 ブリアンション(Charles Julien Brianchon 仏)
     ブリアンションの定理:円錐に外接する任意の六角形において、3本の対角線は1点で交わる。:近代幾何学の再興のはじまり[69]
     ←円錐曲線の射影的研究における基本定理であり、また、幾何学における双対定理の明快な事例となった
      (双対:「頂点」と「辺」を入れ替えても定理が成り立つ)

1807 ゲイ・リュサック(ゲ・リュサク、Joseph Louis Gay−Lussac 仏)
     気体の自由膨張(真空中:仕事しない)により、熱容量が変化しないこと(cf:断熱膨張、等圧膨張)
    :ドルトンらの熱素説への反証、マイヤーはこの実験の思索を通してエネルギー保存を考えた。[46]
     1802年 気体の張の方程式:ボイル−シャルルの法則の包括的再発見[46][73]
           等圧膨張係数が、すべての気体で同じことを発見
           0〜100度Cで1/267、この値は以後30年間使用された[76]
     1808年 気体反応の法則:「気体どうしの反応時、反応気体と生成気体の間には簡単な整数比がある」(気体反応体積の法則)[47]
           水素+酸素→水、の反応時の体積が2:1:2であることを発見。他の気体反応でも確認
          →ドルトンの原子説への疑問:水素の燃焼が、2H+O→2HO/酸素原子は割れるのか? →アボガドロの仮説へ結びつく
          [29]だと1809年、[47]だと1805年

1807 ヤング
     「自然哲学講義」著す[46]
     ・「あらゆる運動を作り出すのに費やした労働は運動量でなく、エネルギーに比例している」[46]
     ・語学の天才だったヤングは、ギリシア語の「活動:エネルゲイア」から、仕事とmv^2(1/2は付けなかった)
     を示す概念を「エネルギー」と呼ぶことを提唱、「運動エネルギー」という用語も出来た
     その後、グラスゴー大のウィリアム・ランキンが普及させた、という[47]
     ・しかし、19世紀中盤に、エネルギー保存則が確立するまで、エネルギー自体を「力」と呼ぶ例も多く、成立は遅かった。
      「Kraft(力」という用語は、運動量にも、活力にも用いられていた。
      リービッヒのような有機化学の研究者の仕事(生理化学等)も、エネルギー転換の考え方を促進していった。
     ・「energeia」はアリストテレス哲学で「現実性」「現実活動」を表す言葉であった[46]
     ・1717 ヨハン・ベルヌーイが私信の中に「エネルギー」という言葉を用いている[46]
     ・マッハのエネルギー概念の発展に関するコメント[46]
      「エネルギー論の遅れは、ガリレオの自由落下の法則で、速度と時間の関係が先に明確化されてしまったため
      運動量と力という関係が優先権を得て、エネルギーが二次的な量となってしまったためである」

※(つづけて、エネルギー概念の発展について触れる)


1807 J.B.J.フーリエ(仏)
     フーリエの定理の発見[20]、19世紀・20世紀数学・物理学の源流として進んでいく。
     フーリエの熱伝導の法則:熱の流れは温度勾配に比例し、その比例定数が熱伝導率(→拡散方程式への進展)
      これより、熱伝導の偏微分方程式を設定、解法研究に移り、フーリエ級数を導入して成功する。
     熱伝導の偏微分方程式の三角級数展開による解法
     フーリエ自身は、熱素説であり、非運動論的だった[43][46]
     フーリエは熱の本性とは独立に方程式が成り立つ事を強調した[73]
     1801 ナポレオンとエジプト遠征[50]置き去りにされたエピソード[52]
     1815 ナポレオンの失脚、脱出、追放の度に裏切り、ルイ18世に追放される
     1822 「熱の解析的理論」:熱伝導の偏微分方程式と、フーリエ級数。「熱過程は運動、平衡からの説明は不可能である」[46]
     [フーリエ解析の影響]
      フーリエ解析の影響は、19世紀解析学全般に及ぶ[52]:
       ・フーリエ解析における関数の意味、正則性の吟味 →ディリクレの関数概念の拡張
       ・フーリエ級数の収束しない点の研究→カントールの集合論、点集合から位相空間へ
       ・積分論;リーマンからルベークへと続く(測度と積分)
       ・群論 :たたみこみ積分の性質を、リー群に拡張して統合的に理解
       ・確率過程、ウィーナーやコルモゴロフ以後はフーリエ変換と本質的に結合←熱が確率過程であったことを反映
       ・物理学:諸問題の数学による解決の可能性の示唆。

1807 デイヴィー
     カリウム、ナトリウムを(カセイカリ、カセイソーダから)電気分解により単離して発見[29]
     巨大な経費により、2000個のボルタの電池を製作。
     →電気化学、電気精錬法の開闢
     電気分解は、電極からの引力、斥力によるとした→ファラデーは近接作用の考えをとった。[73]
     1808年 電気分解により、金属カルシウム、ストロンチウム、バリウム、マグネシウムを遊離[74]
     1820年 王立協会会長に
     (年号不明)電気量と磁気の関係。電線中で電気量(電流)が一定であること[79]
     (年号不明)金属の電気伝導と発熱の関係、オームの法則の先駆的研究。[79]

1807 デイヴィー
     電気2元説[73]
     デイヴィーは元々、電池の起電力は、電極と溶液の化学作用によると考えていたが、
     ボルタの「異種の導体の接触による」という説を取り入れ、化学親和力は本質的に
     電気的なものに起因するとした。→1812 ベルツェリウス

1808 マリュス(Etienne Louis Malus 仏)
     偏光の反射依存と、複屈折が一般的現象であることの発見。
     氷州石の複屈折を観察し,光線が分極していると考えた(「偏光(polarisation)」という名称を使用)[20]
     マリュスは方解石ごしにリュクサンブール宮殿の窓をながめ、反射により2重に見えないことがあることを発見
     偏光が複屈折のみでなく、反射にも存在する現象であることを認識した。
     E.T.Malus:Sur une propriete de la lumiere reflechie. Mem. de la Societe s'Arcueil,2,143-158(1809)
     ・マリュス自身は粒子説であった[43]
     ・光は横波であると唱えた[58]
     ・「Malusの定理」:最初に直交表面をもっていた光線群は、何回かの反射・屈折ののちにも直交表面を持つ[73]
     ・偏光の数値化はブリュースターによる

1809 ポアソン(Simeon−Denis Poisson 仏)
     解析力学にポアソンの括弧を導入[18]
     Jurnal de l'Ecile polytechnique 8 266 (1809)
     1811、1833 「力学(Traite de mecanique)」全2巻を著す[69]
     1837 「判断の確率に関する研究(Recherche sur la probabilite des jugements)」でポアソン分布について
     [業績]
     天体力学、楕円体の引力、ポテンシャルのポアソン積分、ポアソンの括弧、ポアソン比、電磁気のポアソン定数
     確率論のポアソン分布

1810 ジュルゴンヌ(Joseph−Diaz Gergonne 仏)
     「純粋および応用数学年誌(Annales de Mathematiques Pures et Appliquees)」創刊[69]

1810 独
     ベルリン大学創設
     総合大学としての理念と、学問の自治、自由を是認[73]

1811 アヴォガドロ(クァレーニャ伯 Amedeo Avigadro 伊 トリノ)
     アヴォガドロの仮説(以後50年無視される→有機化学の進展により、分子構造が問題になり見直される)[20][47]
      1)同温、同圧、同体積の気体には、同数の粒子(分子)を含む。
      2)同種の粒子が2ケ以上結合した分子が存在する(酸素分子等) →不可分の原子という考えからはずれていて受け入れられず
     (年号不祥) ベルツェリウス(ベルセーリウス、Jo:ns Jakob Berzelius スウェーデン)
           同温、同圧の気体には、同数の「アトム」が含まれていると仮定し、原子の相対重量を測定
           水は水素2と酸素1の結合による複合的アトムであると結論
           また、現行の元素記号の多くを決定した。[46]
           「電気的2元説」で化学結合を説明[73]
     1814 アンペールも独立に発見[43]
     1860 カニッツアーロ(S.Canizzaro 伊)が仮説に出会い,カールスルーエ国際会議で紹介,その劇的効果が注目される[20]
     1865 ロシュミット(オーストリア),マクスウェルの気体運動論より,アボガドロ数を6E23と計算[20]
     1908 ペラン 水中の微粒子のブラウン運動の研究等より、アボガドロ数の計算[47]

1812 ベルツェリウス(ベルセーリウス、J.Jakob Berzelius スウェーデン)
     「電気的2元説」で化学結合を説明[73]

1812 ラプラス(仏)
     「ラプラスの悪魔」,機械論的宇宙観。量子論出現までの100年間に影響[20]
      確率論において、2項分布の極限としてガウス分布の重要性を指摘、中心極限定理として扱う。フランスでは、ガウス分布をガウス−ラプラス分布と呼ぶ事もある[52]
     1812「確率の解析的理論」著し、その序論を1814年「確率についての哲学的試論」として独立出版。
          この序文で宇宙の粒子の状態を全て知る超人的英知を想定[46][73]
     1872 デュボア・レーモン(独)
          ラプラスの「超人的英知」を「ラプラスの悪魔」と命名[103]
          ドイツ自然科学者・医学者大会で「自然認識の限界」という講演

1813 ポアソン
     ポアソン方程式:電荷がある場合にラプラス方程式を拡張

1813 ドラローシュ(F.Delaroche)、ベラール(J.E.Berard)
     気体の比熱測定:水中においた管の中の気体と水の温度測定より求める[46]
      実験誤差は大きく追実験の精度も問題で、理論は昏迷したが[73]、1840年代にかけて改善されていく。
     →1816年 ラプラスはこの実験結果に、気圧を一定にした場合cと、体積を一定にした場合Cに、系統誤差があることを発見
            し、ニュートンの求めた音速(√(圧力/密度)〜283m/s)が、測定値(337m/s)の(C/c)^0.5倍(〜√(3/2))であることを示す。
     →この測定値を用い、マイヤーは熱の仕事当量を求めた。

1814 フラウンフォーファー(フラウンホーファー Joseph von Fraunhofer 独)
     製作した高精度プリズムで太陽光を分光,多数の暗線を発見(フラウンフォーファーのA〜K線の発見)[20]
     色消しレンズ開発のための屈折率測定に太陽光を利用していての発見[73]
     後に、D線とろうそくの輝線とが一致することを認める。
     暗線の正体解明には、ブンゼンの実験まで40年を要した。[58]
     フラウンフォーファーはガラス屋の11番目の息子で、靴磨きの徒弟から光学研究者となる。光学部品作りの名人であった→回折格子の開発。
     吸収線の一部は、すでにウォラストン(William Hyde Wollaston)により1802年に発見されていた。
     フラウンフォーファーの科学的態度と、高精度な光学部品を結び付けた仕事のやりかたは、ドイツ光学界の以後の発展に大きく寄与した。
     論文:Denkschr. Munch. Akad. Wiss.,5,193-226(1817)

1814 ウォラストン(ウラストン William Hyde Wollaston 英)
     原子論に反対し、原子量の代替的化学量として「当量」の概念を提案[72]
     また気体反応の「倍数比例の法則」は実質的にここで発見された(ドルトンは1例を観察しただけ)[72]
     Phil.Trans.,14,1(1814)

1814 オーギュスト・ルイ・コーシー(Augustin Louis Cauchy 仏)
     積分の存在、の議論の開始、2重積分のパラドクス。[35]
     ・以後、関数の連続性の定義を与え、収束級数の理論を構築。(関数、級数の定義の明確化)
     ・極限としての定積分を定義、積分の主値を導入し、定積分を体系化した
     ・エコールの教科書として書かれた著作の中で、従来のラグランジュのテーラー展開を用いた説明法を廃し、
     幾何学や無限小、速度等を用いることなく、ダランベールの極限概念をより精確にして用い
     初等解析学の今日的正確を創った。積分は微分の逆演算ではなく、和の極限であるとした。[69]
     フランスでは「解析学の創始者」としての評価が高い[81]
     ・生来のカトリックであり、反動主義者で、七月革命ではシャルルX世と行動をともにした。[69]
     1811 デカルト−オイラーの多面体公式(稜線+2=頂点+面)の一般化。[69]
          正多面体が20面体までしか存在しないことを証明
         (これはおかしいと思う,ユークリッドが原論の中で証明しているので・・・何か群論的なことか?[立川])
     1812 「行列式」ということばを現在の用語で用いる〜行列式研究のはじまり[69]
           ただし、ラプラスやヴァンデルモンド(C.A.Vandermonde)が先駆的な仕事をしている
           コーシーは行列式の対称的な計算方式を決めたあとで、配列の形式についてしめした。
     1813 置換論の論文(群論の出発点の一つ)[80]
     1814 「定積分に関する論文」:複素数積分、特異積分(留数)[50]
         〜複素関数論の創始。[69]
          1変数の実数の微積分から2変数である複素関数への移行は視覚化の手助けがないので数学の概念の正確化が求められた。
          「コーシー積分定理」「発散積分のコーシー主値」
     1815 光の伝播に関する論文「波動論(Memoire sur la theorie des indes)」[69]、
           弾性の数学の理論の創始(この論文がそうか?は未確認)
     1820頃 級数の収束性。その発表を聞いたラプラスは真っ青になり、面会謝絶で自分の本の級数を調べ直したという[50]
     1821 「解析学講義(解析学教程)」著す
           ・無限級数の収束を問題とする
            関数の連続性を、変数の無限小増加に対する関数の無限小増加、て定義
            コーシー−アダマールの公式:微分可能でない点がある場合のテイラー展開の収束半径、
             1891年にアダマールにより再発見される[52]。
           ・複素平面と三角関数の関係(アルガンの手法)の紹介。
           ・複素数をa+b√−1と定義して、四則を定義したが、定義自体に四則がある循環論法であった
            →ハミルトンの順序対の定義
     1823 「微分積分学要論」(エコール・ポリテクニクでの講義の要項)
           無限小、+−無限、連続の今日的な定義の設定。
           級数の収束性を部分和の収束性としてとらえる:コーシーの収束条件。
     1825 「虚数を両端とする定積分に関する論文」複素関数の基本定理、コーシー−リーマン関係式(方程式)
           内部が正則な周回積分の値は0、留数定理、微分の定積分表現、べき級数展開可能性・・・
           関数論の創始[53]
           コーシー自身は、この時点では、発見の大きさを理解していなかったようである[52]
     1829 「微分学講義」を著す[69]
     1840年代 「微分方程式のコーシーの問題」「コーシー−アダマールの定理」[80]
     1851 コーシーの基本定理:正則の概念
       →リーマンは微分可能性から出発して、ワイエルシュトラスはべき級数展開の可能性から出発して複素関数論を構築
     19世紀末 ベール(R.L.Baire)各点収束する連続関数の極限関数の稠密性→ポーランド学派の関数解析学[81]

1815 ビオ(Jean−Baptiste Biot 仏)
     有機化合物による偏光の回転の発見[20]
     1812 常光線と異常光線の研究
     1815 電気石の2色性を発見

1815 ブリュースター(ブルースター David Brewster 英)
     偏光角の法則
     偏向角α、屈折率nのとき、tanα=n
     1818 光学的に2軸性な結晶を発見[73]

1815 プラウト(William Prout 英)
     プラウトの仮説。すべての原子は水素よりなり,水素の個数の違いにより区別される。(無視されたが後の原子核論へ)[20]
      元になる水素を「原質」という意味でprotyle←「protos:最初の」+「hyle:物質」と呼ぶことを提案した。
      これにちなんで、陽子を発見したラザフォードはprotosを用い、陽子をprotonと名づけた。[59]

1817 ボルツアーノ(チェコ →パリ大→独立思想で野に下る)
     論文「2つの反対の結果を生ずる2つの値の間には少なくとも方程式の1つの実根が存在するという定理の純解析的証明」
     関数の連続性に、現在のε−δ論法を用いる[52]
     級数の収束性から、関数の連続性を厳密に扱う。
     上(下)に有界であれば、集合には上(下)限が存在すること:「ボルツアーノ−ワイエルシュトラスの定理」
      これらの、手法、定理は当時としては、異常なもので、コーシーの本にもみられないようなものだった。
      野に下った後(1820〜)の論文は、死(1848)の後明らかになる。
      その中には、無限級数の収束判定、実数が非可付加番な無限であること、いたるところで微分不可能な関数など、
     当時のガウス、コーシーより現代的な思想が含まれていた[69]

1818 オーギュスト・フレネル(Augustin Jean Fresnel 仏)
     近代光の波動論の確立:回折と偏光の理論
     光の回折に関する研究:ヤングの実験の理論的正当化[18]
     横波としての光の数学的理解。偏光・複屈折の説明(アラゴーと共同)[20]
     ・アラゴーは一貫してフレネルをサポートした。
     ・フレネルの静止エーテル理論
       地球がエーテルに対して動いていなければ、光行差は生じない。恒星は静止している。
     ・可干渉性と楕円偏光という概念も含まれた[43]
     ・「フレネルの半波長帯」、光路差がλ/2ごとに異なる同心円状の帯を考え、回折を説明
      1810 アラゴー(Dominique F.J.Arago 仏)
           恒星に向かう時と離れる時で波長が違い屈折率が違うか?→検出されない
      1815 王統派であったフレネルは、100日天下の時、投獄された牢屋の中に差し込む光で回折理論を考えたという。
          論文:Sur la diffraction de la lumiere,Ann de chim.et de phys.,1,239(1816)
          回折を波のあつまりとしてとらえる。半波長帯のアイデア
          フレネルはヤングを敬愛していた。この時点ではヤングの理論を知らなかった[73]
      1816 アンペールがフレネルに光が進行方向と直角に振動していることを示唆[73]
      1816〜18 アラゴーと共同で、偏光の実験[73]
           常光線と異常光線が干渉しないこと。
           更に一般的に、偏光の異なる光は干渉しないこと
           →横波説を考えたが,力学的に説明できないため,当面放置した。
           ・アラゴーは横波だと、エーテルが剛性を持たなくてはならないため観測事実に反すると反対した[43]
           ・ヤングに相談、ヤングは弦の直交する振動は干渉しないとアドバイスした。[29]
      1818 フレネル
           ラプラスやビオを中心とするアカデミーは粒子説で回折を説明するため、回折理論の論文
          を公募した。フレネルは乗り気ではなかったが、アラゴーとアンペールがすすめるので応募。
          論文:Memoire sur la diffraction de la lumiere,Mem.de l'Acad.,5,339(1821-2)
          ホイヘンスの原理に従い、光の直進性、回折を素元波のある時刻の重ねあわせとして説明
          審査員のポアソンは、フレネルの積分が円形開口の中心では厳密に実行できることを示唆
          フレネルは追実験を行い、軸上の光量の、開口からの距離に対する依存は、まさしくその通りであった。
          屈折率がかわらないのは、透明なレンズはエーテルの一部を引きずるから:「フレネルの随伴説」
      1821 フレネル
           更に偏光について実験を行い、全反射や金属反射による消偏(depolarisation)などが
          横波でなければ説明つかないことに自信を持った。
          論文:Deuxileme note sur ka colaoration des lames cristallisee,Ann. de chem. et de phys.,17,167(1821)
      1821〜22 フレネル
           1軸性、2軸性の結晶における偏光の振る舞いを弾性楕円体モデルにより説明、フレネル方程式
          論文:Deuxileme Memoire sur la double refraction. Mem. de l'Acad.,7,45(1827)
      1823 フレネル
           フレネル反射の式
           ・横波、・振動は偏光面に垂直、・エネルギー保存、・連続性、・屈折率はエーテルの密度の平方根に比例、の5つを仮定
      横波でなければ2つの偏光がないだろう事→その媒質としてエーテル概念の復活を提案[26]
      フレネルは終生、橋梁堤防部隊に勤務した[73]

1818 英国工学会設立(Royal institution of civil engineering)

1819 デュロン、プティ(仏)
     デュロン・プティの法則:固体の比熱は、原子量あたり6cal/Kである。[29]
      自由度3の系では内部エネルギーU=3N×(1/2)kT:エネルギー等分配
            変化率である比熱はC=(3/2)Nk:気体の定積比熱
     固体はそれに打ち勝つ位置エネルギーが必要なため2倍になり、C=3Nk=3R
     (絶対零度近くでは3Rよりはずれる現象は量子論の出現を待たねばならなかった)

1819 ホーナー(英)
     数字係数方程式の近似解法を発表[53]

1820春 エルステッド(エールテズ、Hans Christian Oersted デンマーク)
     電流の磁気作用の発見[20][43]→ビオ、サヴァールによる定量化、電磁作用研究の爆発的普及。
     論文「磁針におよぼす電流作用の実験」[74]
     Experimenta circa effectum conflictus electrici in acummagneticam,Copenhagen,1820
     エルステッドはリッターと親交があり、ドイツ自然哲学(カント:自然の根底に調和・一般性が潜んでいる)の考え方を受入、電池と磁気の関連を追った[73][90]
     他の人間は電池と磁石のアナロジーから、電池と磁石間の作用に目を奪われ、電流と磁場の関係に及ばずにいた。
     雷雨の時に磁針が振れるのを見て、電池電流が磁気効果を持つのでは?との考察に至った。
     1820 晩冬 彼は、導線中で「分離」「中和」が繰り返し、その放射が光や熱の作用としてあらわれると考え、距離を隔てた磁針に作用があるのではないか?という実験に向かった。
      当初、電流の周方向に及ぼされる力という予期せぬ結果に、実験を放棄したが、
     1820 7月 再び実験に向かった。「科学史上、もっとも重要な実験」(ジョージ・サートン)[90]
          羅針盤が振れるのは、電流のせいであり、それは、電線に平行ではない運動を生む事。そして物質でこの力が遮蔽されない事を示し、論文化。
     この結果は速やかにブームを呼び、アンペール、ビオ=サバール、ファラデーらの実験に結びつく。
      また同年、シュヴァインガー(J.S.C.Schweinger)とJ.C.Poggendorffは
     独立に、導線のリング中央に磁針を置いた検流計を早くも利用した。
     (エルステッドは童話作家のアンデルセンの友人でもあったという[79])

1820 9月 アンペール(Andre−Marie Ampere 仏、当時エコール・ポリテクニークの数学教授)
     アンペールの法則、右ネジの法則[20]
     「電気力学の創始」、「磁気が電気の移動によるものであること」[90]
     ・アンペールは、エルステッドの実験をデモしたアラゴーの講演(9月4日)に刺激されて研究を開始した。その講演を聞き終わるや否や、常識論を議論する他の聴衆らを後にし、飛んで帰って実験を開始したと。[90]
     ・エルステッドの発表のわずか1週間後,同心円状の磁場を確認し、電流に対する磁場の方向の法則「泳者の法則」発表[79][90]
      泳者の法則:電流の方向に泳ぐ小人がいたとして,磁針に顔を向けた時,N極は左手の方向を指す:後の右ネジの法則
     ・「電流」「ガルバノメータ」の用語を創始
       二流体説をとり、ガラス電気と樹脂電気が結合、分離を繰り返すという電流イメージを採った。
     ・磁石、または電磁石から電流を発生する実験(電磁誘導)には成功しなかった。[73]
     ・9月25日には電線の引力・斥力を発見し、螺旋コイルの磁性:電磁石についても報告[90]
     1822年 電流間の引力・斥力の発見、万有引力に習い、ΔF=I1・I2(ds1・ds2)/r^2 とした。
           磁石の分子環状電流起因説(分子電流説):電流一元論:磁気はすべて電流に還元できるという考え。
           友人だったフレネルが分子環状電流説を提起している。[90]
           実験中、電磁誘導の効果を見るが、理解できず、見逃している[90] 
     1823年 実験、理論を改善し、論文「電気力学」を発表。[74](Mem.de l'Acad.,6,175(1823)[73])
     ・電気力学の創始的立場〜中心力を元に、ニュートン流遠隔作用力学を尊重し、近接作用の考えを否定した。
     ・近接作用を否定したというのは誤りで、中性の電気流体とエーテルの相互作用により電線間を伝わると考え、
      (現象論として)二乗則を採った[79]

1820 10月 ビオ=サバール(Jean Baptiste Biot,Felix Savart 仏)
     ビオ=サバールの法則[57]
     ・磁針の振動は振り子と同じと考え、周期の二乗が力に反比例するとして計測[73]
     ・屈曲した導線と直線の導線を等距離に配置し、屈曲半角iの時、力はtan(i/2)/r^2に比例
      →線要素は距離をR、電流との角度をωとして、sinω/R^2に比例する力を及ぼすとした。
     ・一流体説[79]

1820秋 アラゴー(アラゴ、Dominique Francois Jean Arago 仏。当時コペンハーゲン在住の天文学者)
     電流の磁化作用:電磁石の考案[57]、デイヴィーも独立に発見[73]
     1811 水晶板による旋光性の発見
     1812 板層偏光子を発明
     1820 電流のまわりの鉄粉が同心円を描くことを発見[79]
          (ゼーベックも1821年に同様な事実を発見)
     1824 アラゴーの回転銅板の実験[20]。
          回転する銅板の上方にある磁針は振れる事。説明はできなかった。
          その後、フーコーらにより、渦電流が発見され説明される。

1820 フラウンフォーファー(独)
     回折格子の発明[20]、[58]だと1817年
      最初針金を等間隔にならべる。後にガラス上の金薄膜に平行線をけがく。
     波動論より回折と波長の関係式を求める[73]
      →光の波長測定へ。主な太陽暗線の波長を測定。
     論文:Denkschr. K. Akad.Munchen,81-76(1821-22)
      ほかに、収差補正レンズ製作の研究

1820 シュワイゲル(独)
     電流計の開発[57]

1821 ゼーベック(Thomas Johann Seebeck 独)
     熱電対の発見:異種金属接点の熱電気現象(ゼーベック効果)[74]
     論文「温度差による金属および鉱石の磁化」(1822)で銅−ビスマスの熱電気現象発見[79]

1821 クリスマス頃 マイケル・ファラデー(英)
     電磁回転(古典的なモーターの原理実験)
     論文「新たな電磁気運動と磁気理論について」
     電池につながれた対称的配置の電線と磁石が、それぞれ回転すること。
     「電気が力学系であること」の明示と、円環的(直線的でない)力線の考え。[90]
      (アンペールとの交り・議論については、更に調査が必要)
     「ファラデーは自然力相互の統一と変換可能性、あるいは光および磁力の振動についてある考えを抱いていた
     このことが、ファラデーを研究へと駆り立てたのだった」(ジョン・チンダル)[90]
      =============================================================
      ============== ファラデーの業績年賦 =======================
      =============================================================
      1791 9月22日 ロンドン郊外のニューイントン・パッツ(スラム街)で生まれる。宗教はサンデマン派教会:聖職者など関係なく、神と個人の関係において真理を見いだす[90]
           12才で学校を卒業、製本の仕事に従事し、本を読むようになる。
           雇い主が理解があり、ボルタの電池の実験などを独力で行ったりした。
      1812 デイヴィーの講演を聞き感動、講義録を自費で製作、デイヴィーに送る
      1813 デイヴィーにより、たまたま空いた王立研究所助手に採用される。
          秋〜15年、デイヴィーの欧州旅行に同行、各所で実験知識や知己を得、仏・伊語を学ぶ。
          しかし、デイヴィーの裏のある性格も同時に知る。
      1815 給与100ポンドに。1953年まで同額だった。
      1819頃分析化学のエキスパートに。
      1820 結婚。子供には恵まれなかったが、兄弟姪などと平穏に暮らした
      1820 気体と蒸気の同一性の認識[76]
       デイヴィーとの関係悪化に伴って、化学分析→電気分解→電磁気研究へと興味が移行していく[立川]
      1821 晩春〜初夏
           「哲学年報」の編集者で友人のリチャード・フィリップスに
           「君の仕事は、電磁気学という新たな科学の世界で、これまでなされてきた研究を総括するもの」
           と言われ、この言葉で、以後40年の人生が決まる[90]
      1821 電磁回転(古典的なモーターの原理実験):アイデア問題でデイヴィーとこじれ、10年間針のムシロ状態に。
      1822 エルステッドと親交
      1823〜気体の液化の研究(亜硫酸ガス、硫化水素、二酸化炭素、シアン、アンモニア、塩化水素)
           1823年の、塩素ガスの液化は最初の常温ガスの液化であった[46]
      1825 ベンゼンの発見(鯨の脂より)
      1825〜望遠鏡用光学ガラスの製法の改良の試みの責任者に。あまり成果は上がらなかった。ヤング、ハーシェル(息子)と親交
      1826 有名な「金曜講演」を開始
      1829 デイヴィー死去
      1831 電磁誘導の発見。発見日の8月29日は「電気工業の誕生日」と呼ばれる
           トランスによる誘導、開閉による誘導、磁石移動・銅円盤回転・地球磁場による誘導の確認実験
      1832 交流発電機の試作[74]
      1833 電気分解の法則の発見:遊離した元素の量は、電気量に比例し、グラム当量あたりの電気量は元素の種類によらない。
      1833 液体は凝固すると電流が通らない事を発見→伝導は、粒子の状態の条件による事[79]
      1833 静電気とボルタの電池の電気が同等のものであることをヨウ素の電着量で証明
      1835 減圧気体中の放電/発光の研究、放電形状を観察し陰極の「ファラデーの暗黒部(1838年)」に注目した
      1836 静電気の蓄積・放電実験「ファラデー・ゲージ」の開発→コンデンサーの物理に目がいく
      1837 近接作用の考え方
      1837 誘電率の発見
      1840頃 過労によりスランプになりスイスで静養。
           めまいと記憶障害。一説には「水銀中毒」とも[90]
      1844 論文「電気伝導についての考え方と物質の本性」(ボスコヴィッチ的な原子論、近接作用論)[46]
      1845 トムソンがファラデーへの手紙で、偏光と磁気の関係をサジェスチョン[90]
      1845 自身で作ったほう酸鉛ガラス(リードガラス)で、ファラデー効果を発見:光と磁気の相互関係を認識:磁気光学の創始
            磁気が直接光に作用するのではなく、媒介物質の作用を通じて起きることを認識。
      1845 ガラス、ビスマスの反磁性の発見。
      1845 渦電流の発見(仏では「フーコー電流」と呼ぶ)
      1846 光の電気・磁気起因説/「光線の振動に関する研究」
      1848頃結晶における磁気異方性の発見
      1849 重力と電気の関係の研究:否定的結論
      1857 金コロイドほかの光散乱の研究:後の「チンダル効果」の実験
      1857 論文「力の保存について」で疑問:二つの重力を及ぼし合っている二つの粒子間の距離だけを変化させた場合
            「力(エネルギー)」の生成、消滅のどちらがおきているか?[46]
      1862 最後の実験:ナトリウムスペクトルに対する磁場の影響
           :もし、分光器が発達していれば「ゼーマン効果」が発見されたはずであった。
           以後はヴィクトリア女王から贈られた家に引き篭って過ごす。
      1867 8月25日 逝去
       マックスウエルへの手紙
       「(数学者の結論は、ふつうの言葉では)はっきりといいあらわせないのかもしれません。だとすれば、小生のような役回りにもそれなりの意味があるのではないでしょうか?」[90]

1821 ナビエ(C.L.M.H.Navier 仏)
     弾性体理論の基礎方程式[57]
      バネモデルでの分子に働く弾性力の成分の微分方程式[73]
     論文:Memoire sur les lois de l'equilibre et du mouvement des corps solides elastiques, Mem. de l'Acad.,7,375-393(1827)

1821 J.Herapath
     衝突する粒子が飛び回るという気体モデル。J.ベルヌーイの論を知らずに独立に分子運動論[73]
     圧力の原因、断熱変化の温度変化、溶解、蒸発、拡散の説明
     Davyらが、思弁的すぎるとして、論文掲載に反対、他の雑誌で発表
      Annals of Philosophy[2],1,273,340,401(1821)

1822 コーシー
     等方的弾性体の釣り合いと振動の式[73]
     :今日の弾性体理論の創始
     1828年 コーシー
     非等方的弾性体の振動論。→結晶光学に展開、振動が偏光方向に平行な場合
     1830 コーシー
     中心力をもつ点よりなる媒質の運動方程式の波長依存性の検討:分散理論の初期の検討
     1836年 コーシー
     非等方的弾性体の振動論。偏光方向に垂直な場合。どちらもフレネル理論とは正確には一致しなかった。

1822 ポンスレ(ポンスレー、Jean Victor Poncelet 仏)
     「射影幾何学(図形の射影的性質)」を著し近代幾何学(射影幾何学)を創始[20]
      モンジュの下で学んだ後、ナポレオン軍の工兵士官だったポンスレはロシア遠征で捕虜となり獄中で、射影と切断の操作を研究[52]
     1813〜14 「解析学と幾何学の応用(Application d'analyse et de geometrie)」を著わす。
          22年の著作が、総合幾何学的であったのに対し、これは解析的側面が強かった
          総合的になって以後、解析幾何学的なジェルゴンヌらと論争が続いた。[69]
     1821 ブリアンションと「九点円定理」を証明[69]
          フォイエルバッハ、ヤコブ・シュタイナーも独立に発見し、フォイエルバッハの定理として有名になった。
     1822 ユークリッド幾何学の平面図形の作図は円と中心が与えられれば定規だけで可能と主張
          →1833年シュタイナーが証明、「ポンスレ−シュナイターの定理」
     1829 「工業力学序説」を著す。
       エネルギーに関して「活力と仕事の相互変換は、質量の慣性による」と。単位として、kg・mを用いる[46]

1822 オーケン(L.Oken)
     ドイツ自然科学者大会(Deutscher Naturforscher Versammlung)を始める
     以下の記述と同義か?
     1822 独
          ドイツ科学者=医学者協会(GDNA) 設立[98]

1822 ド・ラ・トゥール(Charles Cagniard de la Tour 仏)
     気体の臨界温度の発見:気体の凝縮は、ある温度以上では起きない事[43]
     →気体の液化には、圧力だけでなく冷却も必要であることが認識された
     →相、状態方程式の研究へ

1823 ポアソン
     断熱変化にたいする状態方程式[46]
     pv^(C/c)=const[73]
     これは熱素説に基づいて求められた。

1824 カルノー(NIcolas Leonard Sadi Carnot 仏)
     唯一の著作「火の動力およびこの動力を発生させるために適した機関についての考察」を著す。(書き上げたのは、この5年前だったとも言われている[76])
     カルノーの定理:熱機関の仕事効率は加熱温と冷却温により決まり、作業物質によらない。
      →熱力学の第二法則、エントロピーの存在の示唆、カルノー効率(ΔT/T)
      →クラウジウスの第二法則の定式化、W.トムソンの絶対零度の考えへ
     可逆な熱機関の効率が最大であること。低温から高温へは熱が流れない不可逆性の示唆。
     可逆変化の一方の方向の動きが他方より効率が高いと、永久機関が可能となってしまう。
     カルノーは熱素説だったので、熱は保存するとし、仕事の量だけ減るという認識はなかった。
     この中で永久機関の不可能性が強調されている他、エネルギー保存の考え方も提示されている
      (このあたりは、知られるのが遅れた分、後世への影響はなかった)
     1834年、クラペイロン(Emile Clapeyron)「熱の動力について」で、カルノーの仕事を紹介、トムソンもこれで知った[43][46]
           カルノーの論文を数式とpーvグラフ表示せ説明。
     1843年、クライペロンの論文が独語訳され論文誌に掲載される。
     1849年、トムソン(ケルビン卿)が古本屋を廻り、カルノー著作を見つけ世に紹介される。
     1878年、カルノーのノートが弟により公開。1824年の著作が印刷されている頃のものと推定される[73]
           熱の運動論への移行、エネルギー保存則(マイヤーと同等の計算)などが、すでに述べられていた。
     カルノーの家は名家で、父も科学者、ナポレオンの陸軍大臣、政治家等として著名であった
     (:ラザール・カルノー(Lazare):無限小解析等を研究、一時期スイスへ亡命[36])。

1825 リービヒ(J.von Liebig 独)
     ギーセン大に化学実験室を設置。初めての大学における実験室[73]

1825 ノビリ(Leopol do Nobili 伊)
     磁針型電流計を発明[74]
     1830年 熱電対を製作して磁針電流計と結び付け、温度計測[74]

1826 ロバチェフスキー(ロシア カザン大教授)
     非ユークリッド幾何学の創始。
     1点を通る平行線が無数にある場合:内角の和が2直角より小さい。
     1829 「幾何学原理」:非ユークリッド幾何学の最初の活字化
     1835 「仮想幾何学」ドイツ語版出版、ガウスらが熱中[80]    
     J.ボヤイ(ボリアイ、Janos Bolyai、ハンガリー)も1923年に同じ考えに到達していた[20]
      このころ、ボヤイの父W.ボヤイは、ガウスの友人であり、平行線公理の証明を考え、ガウスとしばしば、非ユークリッド幾何について議論しており
      その感化の中で、ボヤイもこの考えに到達したらしい。ただし論文発表は1832年、父の本の付録としてだった。[52]

1826 クレレ(August Leopold Crelle 独)
     「純粋および応用数学ジャーナル(Jurnal fur die reine und angewandte Mathematik)」創刊[69]

1826 オーム(Georg Simon Ohm 独 エルランゲン)
     オームの法則:ガルバーニ回路において、一様な温度にある導線には電位差に比例した電流が流れる。
     Die Galvanische Kette mathematisch bearbeitet,1827
      フーリエの熱伝導理論のアナロジーにより定式化,温度差と起電力(E)、温度伝導率を電気伝導率(γ)、熱流量を電流の強さ(S)と対応させ、S=γEとした。
      電圧降下の考え方(一定の電流に対し、部分抵抗により、部分間の「張力」が決まるという考え)、
      当初、ドイツ学会は無視したが、後年イギリスで認められ、1840年頃から利用され、ドイツでも栄誉を得た。
     1825年 論文「金属における接触電気の伝導に関する試論」
           電源は最初,ボルタ電池を用いたが,変動が大きかった。電流測定はガルバノメータ(磁針のねじれ量)による[73]
           つねに短絡状態と比較しながら、ガルバノメータのねじり力減少力vと導体の長さxの間に
           v=log(1+x)を見出す
     1826年 電源を,銅−ビスマスの熱電対にした。
           ガルバノメータのねじれ角Xと、温度差による「検電器力」a、導体の長さx、他の抵抗要素により決まる定数をbとして
           X=a/(b+x)[79]

1827 ブラウン(Robert Brown 英スコットランド)
     花粉内の微粒子を観測中に,ブラウン運動を発見。生物学的でないことも確認した[20]
     特徴は 1)不規則独立的・永久持続。2)温度が高いほど活発。3)粒子が小さいほど活発[47]
     R.Brown,Philos.Mag.,Ann.of Philos.,4,161(1928)
     1858 Regnault ブラウン運動は照射光が不均一に熱するためとした[73]
     1888 グイ(L.G.Gouy)照射光、電磁場が影響ないこと。粘性が関係することより液体の熱運動に起因するとした[73]

1827 メビウス(A.F.Mobius)
     「重心の計算(Barycentrische Calcul)を著わす。[69]
      斉次座標系の考案。
      この中でメビウスの帯が紹介されている。

1828 グリーン(George Green)
     ポテンシャル論
     「数学的解析の応用」を著し、その中で「ポテンシャル関数」という用語をはじめて用いた[46]
      An Essay on the Application of the Mathmatical Analysis to the Theories of Electricity and Magnetism
      彼は製粉業者の子で、当時は独学勉強しており、生前この本は全く注目されなかった[73]
      後、ケンブリッジ大に入り、光の弾性波動論を研究。
      1840 ガウスが独立に「ポテンシャル関数」を採用する。
           (ウェーバーと創始した電磁気学に起源がある)[80]
      ニュートン以来、1世紀半を経て、ガウス−グリーンの定理は微積分学を2次元へ直接拡張した[81]

1928 プリュッカー(Julius Plucker)
     「解析幾何学の展開(Analytischgeometrische Entwicklungen)」を著わす。第2巻は1831年[69]
     ・ラメやジェルゴンヌの幾何学の略記法を原則の地位に高める。
     ・斉次座標系の再発見(フォイエルバッハ、ボビリエ、メビウスらも発見)
      x=Xt、y=Ytによる座標の記述法。t=0により無限遠が示される
     1829年 斉次座標における平面式 ax+by+ct=0の(a,b,c)が点を表すと考えてもよいことより
          点と直線との双対性が正当化できることを示す。

1828 ポアソン
     弾性体に縦波と横波の2波が起きる事を示す[73]
     →光の弾性波理論の障害のさきぶれ。

1829 ニコル(スコットランド William Nicol)
     氷州石の複屈折と全反射を用いて偏光プリズムをつくり,偏光度測定[20]
     1852 ニコルプリズムの発明

1829 アーベル(Niels Henrik Abel ノルウェー)
     不遇のうちに肺結核で死去、ベルリン大からの教授招請の手紙が着いたのは死の2日後だった。
     コーシー解析学の不備を補強し、現代解析学をスタート、コーシーが軽視した条件収束しかしない級数を考察の中心にすえた[81]
     1823 積分方程式を開祖。アーベル積分方程式(重力下での軌道の関数関係)[52]
     1824 「一般の五次方程式の解法の不可能であることを証明した代数方程式に関する論文」ガウスに一蹴される
         先に1799年ルフィーニ(Paolo Ruffini)により不完全に証明されており
         「アーベル−ルフィーニの定理」と呼ばれる。[69]
     1824頃 コーシーの収束級数の和の連続性、の概念の不足を発見、ストルツの「一様収束」の概念へ続く。
     1825 9月〜27年5月 海外留学(ベルリン、パリ)
     1826  「楕円関数の研究」を著す。超楕円関数の研究の創始、楕円関数の2重周期性
           「非常に拡張さらた超越関数の一般性質に関する論文(パリの論文)」
            コーシーやルジャンドルに忘れられる不運 → クレルレ(August Leopold Crelle)の努力により埋もれずに済む
           5次方程式が解けた場合の矛盾より5次方程式の解法の不可能性を証明、根の有理式の非存在。
           発表は1841年
     1828 「楕円関数論概説」
     1829 「代数的に解ける方程式のある特別な類について」
            解を表す有理関数が、交換関係を満たす事:アーベル方程式(クロネッカーの命名)、アーベル群[54]

1829 ヤコビ(ヤコービ、C.G.J.Jacobi, Karl Gustav Jacob Jacobi)
     「楕円関数論新論(Fundamenta nova theoriae functionum ellipticarum)」を著し、ルジャンドルの賞賛を得る。
      「楕円関数の誕生」と呼ばれ、ガウスは「私の計画の著述の1/3が不要になった」と言ったとか[52]
      楕円積分のルジャンドル−ヤコビの第1種の標準形の逆関数sn(z,k):正弦振幅関数、を考え、テータ関数を考案
      テータ関数は擬二重周期整関数の族を形成し、任意の楕円関数はテータ関数の商としてあらわされる。
      一般的な代数関数の積分を考え、ライバルの名前にちなみ「アーベル積分」と名づける。
      (正弦振幅関数の発見は、アーベル、ガロア、ヤコビの3人による[69])
      ワイエルシュトラスもリーマンも、この論文から始まる[80]
     1829 ヤコビアン行列を用いる。ただし最初に偏導関数を行列式の形にして用いたのは1815年、コーシーであった[69]
     1841 論文「行列式の生成と性質」行列式の最初の確実な定式化[80] 
          論文「関数行列式について(De deteminatidus functionalibus)
          多変数の偏微分におけるヤコビアン行列の有用性を示す。
     1842〜43 ケーニヒスベルク大学で力学を講義,ポアソンの括弧/定理の解析力学における重要性を紹介[18]
             この時の講義録が1866年の著書になる[73]

1830 ガロア(Evariste Galois 仏)
     5次方程式の一般的解法の不能証明(群論の創始)[20]
     論文「方程式が根号だけで解けるための条件」
     アーベルとは目的は同じであったが、手法は大きく異なった。
     5次方程式の解のつくる置換群(ガロア群)が、べき根でとける場合の条件の関係の群(可解群)のクラスにないこと。
     これにより、群論が創始されるととともに、数学における「代数的構造」を議論するという考え方がはじまった。
     1832年 決闘で享年20歳で死す。
     1846年 リウヴィル(Joseph Liouville)が、ガロアの仕事をまとめて紹介。[52]
     1854年 ケイリー、群の一般的な定義[52]
     1857年 デデキントにより整理、紹介され、認知される[52]

1831 ハリオット(英)
     方程式の解と係数の関係について述べる[53]

1831 ブリュースターら
     英国科学者振興協会(British Association for the Advancement of Science)設立[73]

1831 ファラデー(Michael Faraday 英)
     電磁誘導の発見。ヘンリー(Joseph Henry 米)も数ヶ月後に発見し,モーター発明へ[20]
     論文「磁電気誘導による電流の発生を支配する法則」
      鉄の輪に銅線コイルを2つまきつけ、片方の電流が変化したときのみ過渡的に電流が誘導されることを発見。
      誘導電流〜電磁気の世界でも保存則が成り立つという認識へ[47]
      磁気線(magnetic curve)の発想
      電流は針金の伝導度に比例し、伝導力(〜電圧)は針金と磁気線の交わりのみによる。[79]

1831 ピクシー(Negro Hippolyte Pixii 仏)
     直流発電機の試作[74]コイルを固定し,馬蹄形磁石が回転するもの

1831 シリング(Baron von Constadt Paul Ludovich Schilling 露)
     初の実用的電信機の開発、5線式(5本の信号の組み合わせでアルファベットを送る)[74]
     1840年 クック(WILLIAMFothergill Cooke)、ホイートストーン
      2線式電信の考案。5線式が壊れて、2線しか使えない時にあみ出された。[74]
      1852年にクックとホイートストーンはエレクトリック・テレグラム社を設立した

1832 ヘンリー(米)
     自己誘導の発見。[57]
     1827 論文「電磁石の改良」
     1830 吸引力730ポンドの電磁石製作[74]
     1842 電気放電の振動性に気づく。またライデン瓶や雷の放電が非常に遠距離まで届く事を知る[74]

1832 グレアム(英)
     気体拡散の法則[57]

1832 モールス(Samuel Finley Breese Morse 米)
     モールス信号の考案(フランスからの帰途航海中)
     画家だったモールスは航海中、人に電磁石を見せられ、インスピレーションで通信への利用を
    思いつき、その航海の間に、メカニズムや文字使用の統計を考え、モールス符号を設定した。
     試作から実用化まで10年近くを費やし、ワシントン−ボルチモア間に実験線が開通したのは
    1844年5月24日であった。最初の通信文は「What hath God Wrought!」[74]

1833 クリスチー(Samuel Hunter Cristie 英)
     回路測定用のブリッジ回路:ホイートストーンブリッジ、の考案[74]
     ホイートストーン(Sir Charles Wheatstone)はこの回路を紹介しただけ

1833 ファラデー
     電気分解の法則を発見、ファラデー自身の法則の表現は[34]
      第一法則:化学的な分解力は、流れた電気の量に比例する
      第二法則:電気化学当量は化学当量と一致し、同じものである
          →電気の単位構造と、原子単位の反応の認識:J.J.トムソンの電子の発見へ
          →メッキ技術、電鋳技術の工業化にも大きく影響した
      「イオン(ion)」「カソード(cathode)」「アノード(anode)」などの命名もファラデーによる
      ionはギリシア語の「行くこと」を意味し、電極に移動することに由来する[59]
      ただしファラデーのイオンは、析出する物質自体のことをいっていた。[73]
     「電気化学当量」「電極(electrode)」「電解質(electrolyte)という用語を用いた[73]
     電気現象が、物質内部状態の変化であることを確信した[45]
     電気分解については、電極による近接作用説をとった[73]

1833〜41 ガウス、ウェーバー(独)
     地磁気の絶対値測定[57]
       ドイツ文化形成を期待した、フンボルトがウェーバーをガウスに紹介、電磁気学へ進む[80]

1833頃 ハミルトン(Sir William Rowan Hamilton アイルランド)
     解析力学と,光学を統一的に最小作用の原理の形で扱う事を提案:ハミルトンの原理。[18]
      波数ベクトルは運動量,振動数はエネルギーに対応と。
      以後20世紀まで忘れ去られる。
     ●ハミルトンの位置づけ[18]
      光学波動論に、力学の美しさを与えようとした。
      しかし、光の本性にせまらない結果が、むしろ、力学の形式化に成果があるように見られ、100年間軽視される。
     ●主要論文[73]
     1824 論文「光線系の理論(Theory of sysytems of Rays,Trans. Roy. Irish Acad.,15,69-178(1828))」
          特性関数による、反射光線群の数学的性質の表記
          極値の原理を「最小作用の原理」と呼び、力学との類似性に注意を促した。
          変分原理を基礎とするアイコナール光学[80]
     1830 論文「Supplement to an Essay on the Theory of Systems of Rays,Trans. Roy. Irish Acad.,16,1-61(1830)」
          第一論文を屈折の場合まで拡張
          変分原理による、特性関数方程式の導入
          角アイコナールの考え方
     1830 論文「Second Supplement to an Essay on the Theory of Systems of Rays,Trans. Roy. Irish Acad.,16,93-125(1830)」
          混合アイコナール関数の導入
     1833 論文「Third Supplement to an Essay on the Theory of Systems of Rays,Trans. Roy. Irish Acad.,17,1-144(1833)」
          2軸性結晶の円錐屈折現象の予言 → 同年 ロイド(H.Lloyd)により発見。
     1834 論文「On a General Method in Dynamics, Phil. Trans.,1834,Part II,247-308」
          光学からの類推から、力学系に対する特性関数を設定。
          ハミルトンの主関数を導入
     1835 論文「Second Essay on a General Method in Dynamics, Phil. Trans.,1835,Part I,95-144」
          主関数の議論、直交座標系以外の議論より、正準方程式を導く。

1834 ペルチェ(Jean Charles Athanase Peltier 仏、時計師)
     ペルチェ効果の発見[57]

1834 ブリュースター
     バンドスペクトルの発見
     発煙硝酸を通した太陽スペクトル中に暗線とバンドを見出し、化学分析応用を模索[73]

1834 レンツ(Heinrich Friedrich Emil Lentz 独)
     レンツの法則[57]〜誘導電流の向きは、電流、磁場の増加を妨げる方向に起きる事。
     論文「電気力学的誘導によって誘起される電流の方向の決定」[74]

1834 ガウス、ウェーバー(Wilhelm Eduard Weber 独)
     共同で、最初の実用的電磁式電信機を開発([74]によると1833年)
      ゲッチンゲン大の物理研究所と天文台の間1kmに設置された磁針式4ユニット方式[74]
     1845年 ガウス、ウェーバーへの手紙の中で、電磁作用の伝播機構の理論化を志して
          いることを述べるが実現はしなかった[73]

1835 コリオリ(仏)
     コリオリの力[57]

1836 ダニエル(英)
     ダニエル電池の開発[57]

1837 ファラデー
     近接作用の考え方を明確に打ち出す。
     ・遮蔽により誘導が起きない事[73]
     ・溶液は凍ると不導体なのに溶けると導電体であることより,絶縁と伝導は表裏一体な関係にあるとの認識[73]
     ・(電気)力線の考えを明確に打ち出す→磁力線は1845年の反磁性発見以降[73]
     ファラデーの立場・考えの特徴[79]
      大陸派電磁力学に対して、現在の電磁気学を創始
      誘導による電気、磁気現象の理解
      場の考え方
       非接触でありながら、時間変化し、(近接)作用を及ぼす媒体の存在を見る[90]。
      「磁気がなにから生まれるにせよ、磁石の周囲には実際に、磁力があらわれるという事実。ちなみにこれこそが磁場であり、磁気が放つエネルギーは、磁石ではなく、磁場内部に存在する」(ファラデー[90])
      力線、力管の考え方
      光や重力まで「力線」だと考えた
      「場」の概念には、「場」が何に起因するかは、不明でもよかった事。
      電流磁場の円環性←遠隔作用論的なら、放射状を通常考えてしまう。

1837 ファラデー
     絶縁体を挟んだコンデンサーの方が電荷が多い事を発見:「誘電率」の発見(彼は「比誘導容量」と呼んだ)
      誘電率を分子起因と考えたが、当時の実験技術では、検証できなかった。
     [1773年のキャベンディッシュの成果とどう違うか?調査必要]

1837 ディリクレ(Petr Gustav Lejeune Dirichlet 独)
     関数概念の拡大[52]
      ディリクレは青年時代留学したパリの学会でフーリエに可愛がられた[80][81]
     論文「全く任意な関数の正弦および余弦の級数による表現について」
     曲線の各部分に共通の法則を指定することなく、横座標に1点が対応することだけを指定。
      [53]によると、1829年「関数概念の明確化」とある。

1837 グリーン
     光の弾性波動論[73]
     弾性波動論に解析力学の手法を導入。

1839 ビネ(J.Binet)
     Γ関数の関係式の研究[52]

1839 MacCullagh
     光の弾性エーテル理論[73]
     弾性エーテルよるエネルギーを変分原理に用いることで、光の波動論が導けること

1841 ワイアストラス(ワイエルシュトラス、ワイエルストラス、ヴァイエルシュトラース Karl Weierstrass 独ミュンスター)
     複素関数論の研究:「コーシーの積分定理」の別証明、冪級数理論、代数的微分方程式による解析関数の定義:解析接続[50]
     1840代 高校教師として暮らす。数学、物理、国語、地理、体育教師だった 
     1853年 アーベル関数論
     (年代不祥)コーシー−ワイアストラスの定理:初期値問題には、ただ一つの解が存在すること
     1856年 「解析的階乗の理論について」:Γ関数の研究。高校教師時代の仕事を出版[52]
     (年代不祥)講義録中の「楕円関数論」で、楕円関数論はほぼ完成した[52]
     1875年 いたるところで接線が引けない連続曲線の例:f(x)=Σ(n=0~∞)(a^n)cos((b^n)πx)、01+(3π/2)

1842 マイヤー(Julius Robert von Mayer 独)
     エネルギー保存則の明確な提唱、力学エネルギーの熱当量の計算
     論文「無生物界の力についての所見 Bemerkung uber die Krafte der unbelebten Natur 」(化学年報(リービッヒ・アナーレン)収録)
     まず、マイヤーは哲学的に熱、光を含むエネルギー保存則を唱えたが、受け入れられなかった。
     マイヤーの考え方が、ドイツ哲学のロマン主義自然観に根ざすため、哲学が嫌いだった学会から論文掲載を拒否されてしまった。
     さらに、熱のエネルギー当量を測定して、エネルギー保存則を示唆したが、医者であったマイヤーには正確な実験はできなかった。
      マイヤーは以下のように熱当量を求めた[43][73][立川]
       (当時の計算値は1cal=0.365kg・m)
       定圧比熱>定積比熱の差は気体の膨張による仕事に等しいはずで、その測定値は
        Cp−Cv=PΔV=1.99cal/mol・deg
       一方、1度あたりの気体の力学的変化は
        PΔV=αPV=(1/273)(10330kg/m^2)(0.0224m^3)=0.848kgm
       ∴1cal=0.426kgm(→4.17J)
         なお、Δ(PV)=Δ(RT)より、等圧1度当たりの場合、PΔV=Rなので、マイヤーはガス定数を計算したことになる
     翌年、ジュールがより精密に測定したが、エネルギー保存則は無視された。
     (ウイリアム・ロバート・グローブの熱力学の第一法則への貢献については、まだ未検討[34])
     1840年、船医としてジャカルタに帰港した時、治療のためみた静脈血が通常より赤いのを見て、暑いと燃焼量が少なくてすむという発想を得る
     1845年、「物質代謝との関連における有機化学的過程」で熱の仕事当量の計算の詳細を述べる[46]
     1849年,ヘルムホルツが実験結果を整理し,エネルギー保存則(熱力学の第一法則)の結論に到達,認知される。
     1852年、ヘルムホルツがマイヤーの論文を読み高く評価[43]

1842 クリスチャン・ヨハン・ドップラー(オーストリア)
     ドップラー効果の原理を考案
      2年後、機関車にトランペッターを乗せ、速度を変化させて、地上の音楽隊に音階を測定させた[20]

1842 ルニョー(ルニヨー、Henri Victor Regnault)
     気体比熱の高精度測定。
     圧力と体積の関係の、ボイルの法則(ドルトン、ゲイ・リュサックらの結果)からのズレの明確化[46][73]
     1838 リュードベリ(F.Rudberg) ドルトンらの結果に疑問を提示[73]

1842 ドレイパー(J.W.Draper)
     スペクトルの写真撮影[73]

1842頃 シルヴェスター(英、当初ド・モルガンに師事、曲折後、法学院でケイリーと同僚に)
      行列の創始(の一人)、階数の概念、ケイリーの同僚として行列論を中心に親交[80]
       世界最初の固有値問題、二次曲線束の分類で単因子論を展開。2次形式の慣性則
      
1843 ハミルトン(アイルランド)
     四元数を発見し、それによる代数体系の構築可能を証明[20]
     交換法則の放棄。後、ケイリーにより8元数(ケイリー数)が発見され、結合法則も放棄される。
     実数、複素数、四元数、8元数という、1、2、4、8という系列は独自性が、フルビッツにより証明された[52]
     線型環についての英米学派の出発点[80]
     スピノル表現への黙示、グリーン、マクスウエルらへの数理物理学の影響[80]
     1853年 「四元数講義」発刊

1843 ホイートストーン(英)
     ホイートストーンブリッジの開発[57]

1844 グラスマン
     グラスマン代数を発表:外積代数〜多元環
     後にポアンカレ、カルタンにより外微分形式の演算に適用される。[52]

1844 リウヴィル(リュービル)
     代数的数に対する条件:リュービル数 ←→超越数[52]
     超越数は無限に存在すること。
     1836 「純粋応用数学ジャーナル(Jounal de Mathematique Pures et Appliquees)」創刊、今日まで続く[69]

1845 ロス(William Parsons,Eael of Rosse アイルランド貴族)
     渦巻き星雲を発見[20]

1845 ジュール(James Prescott Joule 英 ドルトンに師事したアマチュア科学者、大醸造主だった)
     ジュールの法則:熱の仕事当量の発見。
     熱の仕事当量をきわめて精密な実験で測定。測定値は1cal=4.15J[43]
     当初重要性が認められなかったが、1847年、トムソン(ケルビン)が重要性を指摘し、注目を得た。
     その後1878年まで摩擦、気体膨張、電池など数多くの実験により、仕事当量を求め続けた。
     1840年 電気抵抗による発熱を測定、ジュールの法則:Q=0.24I^2Rt[47]
           電気エネルギーは化学反応のエネルギーに等しいという推論を述べる[73]
     1843年 歴史的論文「磁電気の熱効果および熱の仕事当量について」[46]
           発電機→電流→熱→水の温度上昇を確認、熱素説を退ける
           電磁誘導現象が熱素を介さないことは明確であった。
           1ポンドの水を華氏1F上昇させるためには838フィート・ポンドであった。
           ([74]によると791フィートポンドであった)
          マイヤーとの間に優先論争があり、マイヤーは自殺未遂を起こし精神病院に入る[52][76]
     1845年 羽車を水中でまわし、機械エネルギーと熱量の関係を得る。
     1847年 オックスフォード大英学術協会で講演、ただ一人評価してくれたトムソンと意気投合、40年間の友情へ。
     1848年 気体分子運動論、Herapathの議論を受けて、具体化するが、議論を呼ばなかった。[73]
     1854年 ジュール・トムソン効果の発見[57]
           理想気体では起きない、断熱不可逆膨張の温度変化、ほとんどの気体は冷却。水素は膨張によって加熱[76]
           膨張により分子間力をふりきるために仕事をする時は冷却する。
           膨張により分子の体積効果による反発力がへる時には、反対に加熱される。
【用語解説】========================================================================
●熱電の効果[74]
・ペルチェ効果 :P→Nに電流を流した時発熱(逆で吸熱)する
・トムソン効果 :導体に温度勾配があるとき、ジュール熱以外の発熱や吸熱がある
・トムソン逆効果:導体に温度勾配があるとき、起電力が生じる
・ゼーベック効果:PN接合を加熱した時、N→Pに起電力が生じる
====================================================================================

1845 ウォーターストン(John James Waterson 英、東インド会社)
     気体分子運動論における「エネルギー等分配の法則」の提案[18]
     温度は分子の平均速度の2乗に比例すること。
     趣味はビリヤードだった[73]
     学士院に無視され、イギリスが熱力学が発展する機会を失う
     「(熱力学の進歩を)10年ないし、15年遅らせた」(1891にこの論文を発見したレイリー卿の言葉)
     マックスウェルの再発見を含む業績に。

1845 J.ハーシェル(John Herschel 英)
     蛍光の発見

1845 ファラデー
     偏光面の磁気による回転の発見(ファラデー効果)
      自身で作ったほう酸鉛ガラスで発見:光と磁気の相互関係を認識:磁気光学の創始

1845 ファラデー
     ガラス、ビスマスの反磁性の発見。
     「常磁性(pramagnetic)」「反磁性(diamagnetic)」の名称をつける。[73]
      強力な永久磁石による物質の挙動をしらみつぶしに調べ(野菜や動物まで)、すべてが、常磁性と反磁性に分けられる事を知る
      :磁気についても、近接作用論を展開する契機になる。
     1850年 常磁性体は磁気線をよく通し、反磁性体は反発することを、鉄粉の様子で示す[73]
           磁石内部にも磁力線が存在し、それが連続していることを確認→極が特別のものでないことの認識:近接作用論を支持
     ●磁気の「場」の考え方への到達[20]
     近接作用である信念:クーロン法則の「遠隔作用」性が嫌いだった→場と力線概念
     ←→フランス等の「大陸派電磁力学」(力学に類する遠隔作用←逆二乗法則を拠り所とする)と一線を画す
      数学を全く知らなかったので、微分方程式は著作に1つも出てこない。しかし、数学には大きな寄与をした。
      ファラデーは、「原子論」には反対の立場をとっていた。
      自然界の力は、一つに帰着すると考えていた(光、磁気、電気など)

1846 ファラデー
     光の電気・磁気起因説[34][73]
     :講演「光線の振動に関する雑感 Thoughs on Ray Vibrations,Phil. Mag. (3), 28, 345(1846)」
      ・物質のあるなしに関係なく存在するのは、力線である。
      ・光が関係する振動は、この力線の中に生ずるのではないか?
      ・力線の振動とすれば、エーテルなどを持ち込む必要はない
      伝説:講演に急遽代役で立ったファラデーは、時間をあまらせて困ってしまった。そこで思いつきで
     「光線は、電気力線と磁力線が何らかの乱れを生じることにより生じると思う」と言ってしまう。
      これは、作り話であると言われている。

1846 ウェーバー(Wilhelm Eduard Weber 独)
     ウエーバー流の電気力学[73]「荷電粒子」を電磁気の中心に置く。
     電流は正負の電荷が同じ速さで反対側に運動することにより生じるとした。
     ポテンシャルの形を仮定し、電荷力の打ち消しあいにより、アンペールの法則、電磁誘導を説明。
     →エネルギー保存性を論点にヘルムホルツと論争。マックスウエル電磁気学が定説となるまで続く。
     ●ウェーバー:「大陸派電気力学の祖」
      大陸派電気力学〜中心力を及ぼす電気粒子の運動により電磁気を説明
      ←→ファラデーらイギリス系による電磁場の理論

1846〜 トムソン(後のケルビン卿)
     電磁気学の先駆的研究の開始
     1847 論文 On a Mechanical Representation of Elastic, Magnetic, and Galvanic Forces,Camb. and Dublin Math. Jour.,2,61(1847)
          非圧縮性弾性体の平衡の解を電磁気の表現に利用。回転により電気力、磁気力が結びつくことを指摘[73]
          電解質の移動より電流は移動現象、偏光の回転より磁気を回転現象と考えた。
     1850 磁場Hと磁束密度Bの違いの指摘[73]
     1853 磁気的な系のエネルギーが∫∫∫H・Bdxdydzで表されること。[73]

1847 F.ノイマン(F.E.Neumann)
     力学志向による,閉回路間の電場と磁場の関係式。[73]
     現在の(電気力学的な)ポテンシャルの考え方の導入
     (当時はノイマンのポテンシャル法則と呼ばれた)
      ウェーバー理論が合わない例を示した。
      Abhandl. Berl. Akad. Wiss.,1845,S,1
      Ibid.,1848,S,1

1847 C.H.Hargreave(英)
     演算子関数φ(d/dx)を微分方程式に適用。演算子の順序交換問題の認識[18]

1847 シュタウト(独)
     「位置幾何学」を著す。[53]

1847〜クンマー
     フェルマーの問題を解くため、1のp分体でx^p+y^pを因数分解することの不可能性を述べようとしたが
     因数分解の一意性が言えないことがわかり、一意に分解できる「理想数」の理論を構築しようとしたが、なお
     一般の代数体への拡張はできなかった。[52]→デデキントスのイデアル論

1847頃〜70年代 ジーメンス(兄 Ernst Weiner von Siemens 独)
     発電機の開発[74]
     初期はホイートストン,バーレー(S.A.Barley)らと競いあい,1851年ジーメンス・ウント・ハルスケ社
     を創設以後は、技術者のアルテネック(Friedrich von Hefner Alteneck)らにより進歩。
     1873年のウィーン万博ころに原形ができあがった。
     このほか、ベルギーのグラム(Zenobe Theophle Gramme)、イタリアのパチノティ(Antonio Pacinottti)
     らの寄与が大きい。

1847 ヘルムホルツ(Hermann Ludwig Ferdinand von Helmholtz 独 専門は生理学、当時軍医)
     論文「力の恒存について」出版[43]
     ・エネルギー保存則(熱力学の第一法則/第1種永久機関の不可能性)の体系的なまとめ
     「力」と「活力」の和(運動エネルギーとポテンシャルエネルギーの和)の保存[46]
     ・運動エネルギーがmv^2の前に1/2がつくことを主張。
      マイヤーが優先権を主張したので、ヘルムホルツは認めて、述べている[52]
     ・系がなした「仕事」の負号を「張力(verbrauchte Spannkrafte)」と名付け
     「活力」と「張力」の和が一定であると主張:張力を力学的エネルギー以外にも適用し、熱とエネルギー
     の同等性を見て取った。[46]
     ・力学、熱以外にも、電気、磁気、(付帯的に)生物にもエネルギーの恒存されると述べる[52]
      静電張力を導入し、コンデンサーに貯えられるエネルギーを計算[73]
     ・論文は雑誌掲載を断られた。
      エネルギー保存と、熱の運動説が認められるようになるのは、クラウジウスとトムソンの熱力学の仕事を待たねばならなかった。
     [他の業績]
     1842  医師資格取得後、自然科学へ転身。守備範囲の広い博覧強記の天才だった[90]
     (不明)  波長に応じた目の識別度を計算
     1851 検眼鏡の発明
     1858 流体力学における「渦定理」の発見
     1863 「音感覚の研究」
     1866 「生理光学全書」を著す
     1860代 空間知覚の研究。ユークリッド幾何学が必ずしもア・プリオリでないことの明確化
     1869頃 電磁気学に転向[74]
     1871  ベルリン大教授
     1882 等温過程における有効エネルギーの表現として、「自由エネルギー」の概念を導入[46]
          等温的化学反応においては、平衡条件は自由エネルギーが極小であること。[73]

1848 トムソン(William Thomson 後のケルビン卿 英)
     絶対零度の概念
     温度は気体の体積の指標と考えるのではなく,エネルギーの尺度と考え,絶対零度の概念を提示。[20]
     温度の比と熱量の比が同等と定義すれば、効率η=W/Qは、温度差と温度の比ΔT/Tとなり、η<=1で
     絶対零度の存在が予想される。[43]
     元々トムソンは熱素説であったが、カルノーやジュールの研究を紹介しながら、熱と仕事と同等性に移行していく。
      (加圧により氷点が降下することが、カルノーサイクルで説明できることなど)
     トムソンとマックスウェルは、親の時代からのつきあいでスコットランド時代からの知り合いだった
     マックスウェルはトムソンとファラデーを師と仰いでいたという。

1848 フィゾー(Armand Hippolyte−Louis Fizeau 仏)
     光にもドップラー効果があることを主張[20]

1848 フィゾー,フーコー(Jean Bernard Leon Foucault 仏,フィゾーの弟子)
     歯車法による光速度の測定。高精度なため水などの光速度も測定可能となり,屈折率との関係も判明[20]
     2人は最初共同研究していたが、後に離れ、
     1849年 フィゾーが歯車法を用い、まず地上での光速を測定した(3.13E8m/s)。
           (自宅とモンマルトルの丘の間隔8kmを720枚の歯で観察。コリメータ・反射鏡は望遠鏡方式[58])
     1950年 フィゾーが、流水中の光速度を測定。空気中より遅いことを示す。
     1951年 フーコーが、回転鏡によるズレより光速度測定法を開発。20m間隔の短距離で測定が可能に。(2.9836E8m/s)。
     1962年 フーコーが、水中の光速度を測定。有効数字2桁

1848 ストルツ
     「一様収束」の概念の導入[52]
      →ワイアストラスらにより、一様収束するときに和が連続関数になることが示される。

1849 フーコー
     太陽スペクトルのD線とナトリウムの輝線が一致することを発見
      このことは、ミラー(W.H.Miller)が1834頃すでに見出していた[73]。

1849 キルヒホッフ(Gustav Robert Kirchhoff 独)
     電気回路における、キルヒホッフの法則を発表[74]

1849頃 ファラデー
     重力と、電磁気力の相互作用についての実験的探究、
      当然、相互作用は見出せなかった[26]

1850 クラウジウス(Rudolf J.E.Clausius 独)
     熱力学の創始:熱力学の第一、第二法則の提案
     論文「熱の動力について、そしてそれから導かれる熱の理論について」Poggendorff's Ann. d phys.,74,368,500(1850)
     熱素説のカルノーの定理を、熱運動論へ移植
     第一法則←ジュールの法則:仕事は熱に、熱は仕事に変わり、その変化量は互いに比例する。
          ;エネルギー保存の法則:第一種永久機関の不可能性
        数式化:内部エネルギーの定義→ΔU=Q+W
     第二法則←カルノーの定理:影響を及ぼさずに、低温物体から高温物体へ熱が移動すことはない。
          ;第二種永久機関の不可能性
        数式化:QH/TH<=QL/TL 〜仕事から熱への移動の方が優勢であるこTが移動しているように見える事。
       :熱の散逸過程(不可逆変化)における「エントロピーの増大」
     1954年 熱力学の第一法則、第二法則という呼び方を用いる[46][73]
           エントロピーの解析的表現(∫dQ/T)を用いる。
           Poggendorff's Ann. d. Phys., 93, 481-506(1854)
     1965年 エントロピーという名称をクラウジウスが提案[20]
           ギリシア語の「転換・変化:ητροπη」より[46]
           エントロピー:dS=dQ/T=(dU+pdV)/T[43]

1850 チェビシェフ(Pafnuti L.Tchebysheff 露 別綴り Chebychev、Chebichev、Tshebytschev)
     ベルトランの定理(1845年 Joseph L.F.Bertrand(仏)の測)の証明
     n>3に対して、nと2n−2の間には少なくとも一つの素数がある。[69]

1850〜51 ブレット兄弟(Johan Watkinson Brett、Jacob Brett 英)
     英仏海峡に世界初の海底ケーブルを敷設。電線はジーメンス社製[74]

1851 フーコー
     フーコーの実験:地球回転の証明

1852 ストークス(George Gabriel Stokes 英)
     真空中の電流によるガラスの発光に「蛍光」という名称を冠す。
     1850頃 物質の構成粒子は調和振動子を含むというアイデアを持つ[73]
          これにより,ナトリウム輝線と太陽のD線が一致することの説明を試みる
     1852 調和振動子モデルによる蛍光現象の説明の試み[73]
     (年号不明)蛍光スペクトルのストークスの法則
     ストークスの定理(ガウス−グリーンの定理の3次元化)も、彼の見出したところ[81]

1852 ウェーバー(Wilhelm Eduard Weber 独)
     運動荷電粒子による磁性と金属伝導説。
     磁性の分子起因説(分子磁石説)[74]

1852 トムソン(後のケルビン卿 William Thomson → Lord Kelvin 英)
     エネルギー散逸定理、熱の発生は不可逆な現象→時間変化に方向性があることの認識
      Trans. Roy. Soc. Edinburgh 1852;Mathematical and Physical Papers, vol.1,511-514   
      周囲の最低の温度より更に冷やすことで力学的エネルギーをとりだすことはできない。
     :熱力学の第二法則の別表現:損失が不可欠であることを強調した表現[46]
     [その後のトムソン年譜〜この後、物理学に行き詰まり、応用工学分野で成果をあげていく]
     1845年 シュタイナーの反転変換の再発見[69]
     1853年 振動回路の理論 → 後の電波回路
           コンデンサーの放電が振動的であること。
           熱伝導と同様に、電信の伝達速度も有限でなまりがあること[74]
     1856年 大西洋横断ケーブル計画の責任者となり、1866年に3度の失敗の後、成功。社会的名声を確立
     1866年 ケーブルの成功により、ナイト。サー・ウイリアムスに
     1892年 ケルビン男爵に。(グラスゴー大近くの川の名前にちなむ)
     [立川感想]
      トムソンが総合力で、大西洋横断ケーブルの責任者になったのは、ファインマンが晩年、チャレンジャー事故の
      調査を手がけたのと似ている気がする。

1853〜59 ヒットルフ(J.W.Hittorf)
     電気分解におけるイオン移動の検討[73]
     1844 ダニエル、ミラー(J.F.Daniell、W.A.Miller)
          電気分解槽の中で場所によって濃度が異なることを発見[73]

1853 ヴィーデマン=フランツ(Gustav Heinrich Wiedemann、Rudolph Franz 独)
     ヴィーデマン=フランツの法則[74]
     熱伝導度と電気伝導度の比(ヴィーデマン=フランツ定数)κ/σは絶対温度に比例する。
     金属では比較的よく成立する。→ドルーデの金属モデル

1853 ランキン(William J.M.Rankine 英スコットランド)
     力学的エネルギー保存の法則:位置エネルギーの導入
     ・力学、化学、熱、光、電気、磁気なエネルギーすべての保存と転換について述べる[73]
     ・エネルギーが運動より上位概念であり、単なる運動形態の指標では無いことを唱え
      「エネルギー一元論:energetics、Energetik」という用語を用いる
     ・時間0<t、速度v’>v>0、距離0<s、で減速する系を考えると
     mv−mv’=−F・t
     s=(v+v’)t/2
     (1/2)mv^2 + Fs = (1/2)mv’^2
     運動エネルギー  +位置エネルギー = 一定


量子力学の歴史全体の再表示

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