平穏な生活を求めながらも、情報化の荒波の中、ある人は心傷つき、またある人は仕事に埋没して挫折していく。私のNETライフを見ても、日々の情報メンテは辛いことが多く、酬われることは少ない。なんの成果も得られぬのに、私はなぜ情報を求め、情報を伝えていくのだろうか?・・・・
↑なんて事は、全然〜考えてませ〜ん、状態のオヤオヤですが、最近気になっているのが、ネット中毒、特に情報中毒なんですよね!
大学生が、レポートを書くとき、インターネットで検索した記事・データを推敲すらせず、つなぎ合わせて提出するといった話は最近よく聞く。嘆かわしい!とホザクのは簡単だが、我が身を省みれば、子供の宿題の手伝いで社会科のレポートの資料を用意させられる時を書かされる時、ネットからデータを拝借して、レイアウトをチョコチョコっといじってプリントして子供に渡す・・・という、アホで哀れな父親にすぎない。
ただ、こんなヤッツケ仕事の時には特に感じることだが、検索した資料に、必要とする情報がどのくらい密度濃く掲載されているか?ということが、とても重要に思えてしまう。
その記事・資料に必要とするデータがどの程度、「濃く」、そして「まんべん無く」記載されているか?という尺度を、(仮に)「情報濃度」と呼んでみたい。
「 情報濃度 」という用語はあまり一般的ではないようだが、検索にはひっかかるところをみると、我々素人が、この尺度を定義・規程するには適当な語感を持ってるようである。
ネットにおけるそれぞれの専門サイトは、情報濃度という意味において、突出して深い。理系小僧的表現を使えば「δ関数的」に濃い!。この「δ関数的」濃さの背景には、問題意識につきあげられたプロや、高いマニア性を持ったアマチュアが、“情念”や“収集癖”、“おたく感情”を発現しながらまとめあげた努力があることは間違いないだろう。
情報濃度は、単に「情報が多ければ高い」、と言い切れないところが難しい。必要な情報にうまく到達できる可能性は、検索者のその分野でのスキル・余裕・課題の難易度などによって相対的に変化するものであるからだ。
低位者・弱者にとって「高度で厖大すぎる資料」は「整理されていない図書館の書架」のように困惑の材料にしかすぎない場合が多い。反対に、熟練者のばあい、作者と検索者の間には、「ある種の阿吽」があって、「このあたりにそれがあるハズダ!?」という、「 プロ同士の呼吸・タイミング 」を感じながら検索が進められる場合もある。
こういった検索者の階層構造にうまく対応できる専門サイトがあるとすれば、それは大変高度な認識と経験を持った作者の手によるものであろう。(ぜひそうなっていきたいものだ!)
さてさて、ネットにおける「情報の濃さ」に慣れてしまうと、他のソースからの、情報の薄さかげんには満足できなくなってしまう傾向にある。
たとえば、小説で旅情をあじわったあと、そのエピソードに因んだ旅行計画を考える、などということの努力が辛くなってしまう。「楽しい旅行」と検索窓にぶち込んで、返ってくる結果を眺めるほうが、よほど刺激的で「楽しい」!
昔、若者たちが、ポパイ誌やHDP誌の記事・カタログを見て行動を決め、大勢迎合に流行を追い求めるのを「問題と答えを両方とも同じ資料から得ている」とバカにしたものだったが、今や、ネット上に「刺激と答えと手段」の全てを求めている自分を見出してしまうことが多い。
より濃いものを求める・・・、より刺激の強いものを求める・・・ この点が、ネット情報の麻薬性と云えるだろう。
ネット表現において、作者である私たちは、文字にしろ、デザインにしろ、データ自体であるにしろ、自己の満足度を達成するまで、深く深くへと、のめりこんでしまう。それには、歯止めがない場合が多い。そして、これらの「作品」を見る者は、作者の表現を受け止めるしかない。
ヴィジュアルなサイトを開いた時に、重く始まる FLASH 画像に舌打ちした経験は、だれしもあるだろう。
誰も望んでいない・誰も要求していない表現やインターフェースを、これから延々見せられる苦痛が、舌を打たせるのだ。
当然見せるべき部分と、ついつ描き込んでしまった部分・・・そのあたりの余禄部分に市場を見出したのが、FLASH だったり、PowerPoint だったりするんだろう。だが、色イロなツールや表現手段を使っても、元々下手な文章や、センスの無いデザイン力が向上したわけではないので、読み手にとっては、ただただ理解しにくい表現が続くこととなる。やたら詳しい「 Help 文」に出くわして、かえって全体像の分かりにくさに閉口するのも、このせいなのだろう。
これには、ソフトウェアやWebコンテンツの『 修正しやすさ 』が1つの大きな原因であることは間違いない。手書きで資料をつくっていた時代、発表直前の忙しい時に、「この文字を2ポイントくらい大きくして」と上司に言われたら、怒鳴って資料を破り捨てていたかもしれないが、今なら「ハイッ!わかりました。」の一言で片づいてしまう。
まあ、それでも、「発表資料の内容について」でなく、「レイアウトなどに」コメントするような」人間には、なりたくないものであるが・・・。
このように、コンテンツ製作手法が進歩した弊害は、「書き込すぎ」や「推敲のしすぎ」による、表現の詳細化 にあるように思う。
“表現の詳細化あるように思う。”なんてものも、考えすぎの言い回しで、昔だったら、実は最初に書いた“ド下手な文章のハジの上塗りにある。”という下品な文章のママ、記したことだろう。
「書込みすぎ」や「推敲のしすぎ」がなぜ悪いかというと
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・文章が全方位的になりがちになり、あたりさわりのなさ、ぬるさが増す。 ・読み手に伝わらないほどの細かさで、表現に手を加えるため、書き手の意思伝達力がかえって弱くなる。 ・どんどん長くなる。1ファイルで済めばよいが、ますます厖大になって、リンクまで張られたりする。 |
一言でいうと、「勢いがない」文章になりがちになるということだ。
迫力や勢いといった、一番重要な表現が表に出てこなくなると、その文章だけでなく、その文章が係わる事柄自体に魅力を感じなくなる。
最悪の例は、「製品マニュアル」や「オンライン同意書」、「マナー本」などに見られる、責任逃れの注意表現だろう。安全サイドに振れ過ぎた結果、何が最もいけないことで、何なら失敗してもまあ安全か?という一番知りたいことが伝わってこなくなる。
“ネットサーフィン”って言葉、最近は使わなくなりましたネ・・・。まあ、その行為が当たり前になると、「(ネットを)見る」っていう一般動詞の方が使われることになんでしょう。
で「ネットを見」ながらつぎからつぎと、情報がリンクしていく中、つい完璧性を求めてしまう・・・。同質、もしくは同一のデータの嵐の中、微々たる違いに一喜一憂するようになり、場合によってはヒステリックに周辺をかき回す・・・。なんて状態になってきてませんか?
結論めいたことをいうと
Only One にはなりたいだろうけど、不完全さも味のうちサ!
という気持ちになってみて、毒を抜くことも、時には必要だろう。っていう感じですか?ネ!
| 原文製作( NET利用者と作者の中毒かげん ) | 2003年06月12日 |
| 公開用に若干手直し | 2004年05月01日 |
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