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「すわてのメモ」ページ マンガ単行本、CD、活字本、映画などの感想文
2006/12/29 [新刊] 『新ニューヨークネイバーズ』中尊寺ゆつこ(講談社 2005.4.1)
中尊寺ゆつこの遺作−そう、遺作なのである−として二冊の本が 2005年春に発刊された。先に読んだ『やっぱり英語をしゃべりたい!』は活字の本だが、この『新ニューヨークネイバーズ』は、半分以上がカラーのマンガである。私は漫画家、中尊寺ゆつこが、1989年だっけ、“漫画アクション”に「プリンセス in TOKYO」で登場したときから、彼女ならではの絵が、世界が、ずっと好きなのだ。だから、悲しい遺作の一冊が、マンガ、しかも彼女の到達点を示すような充実した作品だったのがせめてものなぐさめだ。
中尊寺ゆつこの本の感想を書くたびに指摘してきたような気がするのだが、一方で、ケイト・ブッシュ大好きなところに伺えるような、女性的なひらめき、サブカルチャーへの傾倒があり、他方で国際政治専攻、落合信彦、竹村建一大好き(笑)というところが示すようなジャーナリスティックな感覚が見事に一体となって生きている。大胆なようで繊細、そして、そのパーソナリティーの本質は、人間好きである。1990年代中頃、ニューヨークに 2年滞在した体験は『ニューヨークネイバーズ』になった。今回、彼女が子育てしながら滞在したニューヨークを描いたマンガに登場するのは、いつもながら、とても幅広い人たち、黒人ラッパーの成功者から坂本龍一、ドットコム富豪、CNNの創始者、カーター元大統領まで(ほんの一部、もちろん無名の人たちも楽しい)、そして『やっぱり英語をしゃべりたい!』に書かれていた、外務省の企画によるアトランタでの講演とカーター元大統領との対面が、今回のマンガのクライマックスとなっているのだ。ジョージア州立大学での講演では、日本のマンガ文化と女性について、オヤジギャルについての解説などしたらしいが、もちろん、中尊寺ゆつこは、ニューヨークに行き、アフリカに行き、かつてのオヤジギャル漫画家というポジションから、遠いところまで来ている。その到達点が、このマンガであり、新たな国際的な活躍が期待されるところで、病を得て亡くなったのが惜しまれる。
新たな国際的な活躍が期待されたのだけど、同時に私は、この本の後半のニューヨーク・ガイドで、いろいろな店を紹介する 1ページずつの文章の下に、それぞれ添えられている、融通無碍な感覚で描かれた、ちょっと笑えるようなマンガが大好きなのだ。ジョージア州立大学講演の回の最後のコマで、講演後、学生たちに囲まれて「なんか16年間マンガ家やっててよかったな!」というのが嬉しい。私も読者で本当に良かった。
2006/12/20 [新刊] 『AMAKUSA1637』12 赤石路代(小学館、PFフラワーコミックス 2006.5.20)
赤石路代、最大の長編の完結である。タイムスリップして、天草四郎になる剣士女子高生と仲間たち、最大の長編にして、かなりの問題作のようにも思えるが、とにかく結末がどうなるか。美しかった。ずっと読んできていて、ずっと気になっていたのは携帯電話の扱い方だった。それは絵になる。面白い。でも。途中、栄司が船に残ってた材料から電池を作ったというエピソードがあったが、そんな中途半端なエピソードを入れずに、いっそタイムスリップを起こした力の影響で、電池なしでも通信可能になってるとすれば良かったのにとか思った。おそらく、このスーパー携帯電話(笑)で、入って行けない読者も多いのではないかと思う。これについて作者がどの程度意識していたか知らないが、美しい最終回においても、携帯電話が重要な役割を果たしている。これもまた、とってもスーパーな力を持った機器のような使われ方なのだが(それらを収納していた物も含めて)、思うに、このマンガにおいては携帯電話は、単なる小道具として片付けられる存在ではないんだなあということだ。例えば、携帯電話なしで、主人公たちがタイムスリップの折り、超能力を得て、空が赤くなるとテレパシーで交信可能になるとか、それでもいいようなものだが、このマンガにおいては、携帯電話はテレパシーであり、体の一部なのだ。それはマンガの中においてだが、同時にそれを当然と思えるような、携帯電話が体の一部、心の一部である読者に向けたマンガではないか。“少年マガジン”で、ちょっと前まで、美少女型の携帯電話が登場するギャグマンガがあったけど(『009〜えこといっしょ〜』亜桜まる)、そういうアプローチとはまた異なった、これも携帯電話のマンガなのだと言えよう。そういう携帯電話読者に向けての、ストーリーの面白さと同時に、とてもメッセージ性のあるマンガだ。
そのメッセージであるが、私は少女マンガは 1990年頃からの赤石路代と、やぶうち優しか読んでないのだが、少年マンガ、青年マンガ、少女マンガとかの分け方でなく、ここでは「男マンガ」「女マンガ」という呼称が相応しいと思う。いつも私が読んでる男マンガには、時代劇のマンガもたくさんあるが、大上段に構えた歴史ロマンでも、その中には名作もあるが、とかくヴァイオレンスとエロに終始する男マンガ、もちろん、大半は名作でなくてヴァイオレンスとエロ(笑)、えらそうなこと言っても、男はそれが好きなのだ。そういう男マンガの世界から、まったく距離を置いたところで描かれたSF歴史ロマンの中で繰り広げられる、平和で美しい世界を求める戦い、私は美青年史観なんて書いたけど、見てくれが美しい人たちだけが登場するのでなくて、戦って倒すんじゃなくて、美しい世界を目指す仲間にする。仲間とともに生きる。シヴィアな江戸時代初期を舞台にしながら、そういう戦い方で戦うというストーリーを描き切る。男マンガでは、とても描けない世界だ。そして、私が感じるのは、私と同年代の作者が訴えたいもの、1960年代から 70年代の、一方では公害問題、環境問題というものが最初にクローズアップされた時代に育ち、他方では、まだ荒れているとは言えない教育環境で、戦後の民主主義、平和主義を教えられて育った、また、60年代から 70年代のラヴ・アンド・ピースな若者文化の高まりの中で育った世代が大人になって、訴えたい思い、そういうものが、この長編全体に注ぎこまれていると思うのである。
[新刊] 2006/11/29 『市長 遠山京香』4 赤石路代(小学館、Judy Comics 2005.3.20)
推理作家で主婦である華浜市市長、遠山京香が、市に起きるいろんな事件を解決する“Judy”掲載のシリーズである。4巻では各回のサブタイトルに「シティ」がつく。最初の 16話では、シリーズの最初の方では電話でのみの登場で京香にいろいろ情報を伝えたりするのが興味深かった太田ママが登場、やせるというお茶を京香に勧める。主婦の間で大流行だが、危険な成分が含まれていた。17話は、介護施設に迷惑をかけていると老夫婦が自殺しようとする話だ。いずれも、京香の迅速な行動で大事に至らず、食い止められる。いつもながらの京香の活躍ぶりなのだが、話がなんだかシンプルで軽い感じなので、こういう感じに変えたのかなと思ってたら、3話目の「バトル選挙シティ」は読みごたえがあった。何しろ京香市長になってから談合のうまみを味わえなくなった勢力が陰謀をたくらみ、京香をリコールさせる。助役たちとのやりとりとか、ふだん目立たない夫のここぞというときの活躍とか、後半の嵐の選挙戦最終日、面白く読めた。「ニューエイジ・バトル・シティ」は最近ニュースになったりする荒れる成人式を題材にしている。暴走族の死亡事故はパトカーに接触されたからという疑惑、真相が明らかになるが、ミステリー的な面白さより、当事者たちの心理を大事にしたストーリーで、こういうストーリーを、もっと丹念に描いても、それはそれで、いい作品になるのではと思った。成人式はGパンはいて、ついでに記念品だけもらいに行ったという作者に共感を覚える。巻末に 10ページほどアシスタントたちのマンガがある。かつて、このシリーズを水戸黄門みたいだと思ったが、京香を遠山の金さんになぞらえた絵があった。しかし、さらしまいて、もろ肌脱いで桜の刺青見せてる京香は色っぽすぎて困ってしまう(笑)。
[新刊] 2006/09/03 『ちまちま』かがみふみを(双葉社、アクションコミックス 2006.5.12)
「ちまちま」と言えばヤクルトミルミルである。これが主人公、真由に実にあっている。しっかり実在の商品名でドラマの小道具になっていて作品の成功に寄与している。混雑してる学校の売店で、なかなか好きなヤクルトミルミルが買えないでいる、ちっちゃな女の子、それは単に背が小さいというのでなく、存在そのものが、なんとなく、ちっちゃいような女の子、それが真由である。彼女とクラスメートの大柄な男の子、黒川君が、お互いをなんとなく意識し始めて、普通に勉強を教えたりとかは出来るんだけど、やっと二人で水族館へ行って、そこまで半年、さらにそこから、仲が進展するかと思ったら、なかなか進展せずに、そんな二人が晴れてカップルになるまでを描いたマンガである。ストーリーだけ語ると、よくあるラブコメみたいなんだけど、そこが、かがみふみをの絵柄でないと描けないような話、かがみふみをの絵のために出来たようなストーリーとなっているのだ。世の中的には、ほんとにちっぽけなんだけど、それこそ、ちっちゃくて、ちまちましてるけど、かけがえのない自分と自分の大切なもの、大切な思い、それをどんなに大事にはぐくんでゆくかという、そういうマンガである。私は、この二人をして、「21世紀の善男善女」と呼びたい。好きになるとはどういうことなのか、好きな人とどう近づいていったらいいのか。内気で要領の悪い同士が、不器用に愛情を模索してゆく様は普遍的な若者の姿であるとともに、極めて現代的なストーリーなのではないかと思う。
1999年か、2000年頃だったかな。かがみふみを(以前は加賀美ふみを名義)の作品はエロマンガ雑誌、平和出版の“まんがSHOW GAKKO”に 1995年に初登場したときから、ずっと読んできているのだが、最初の頃から、絵柄は今に比べると洗練されてなかったが、なんだか柔らかくて独特の惹かれるものがあった。内容も、この『ちまちま』の後書きに書かれているように、今とあまり変わらず、ただ、エッチマンガ雑誌だけにエッチシーンは律義に入っているのだが、エロマンガとして、ほとんど実用になりそうもないといった印象だった。だけど、そういう作品が入っているのも雑誌としての面白さだった。伊駒一平やスノーベリというハードなエロマンガ作家と並んで、かがみふみをのマンガが載ってたのだ。ついこないだまで、そうだったのだが、平和出版は倒産してしまった。それは「ちまちま」の連載が佳境に入る2006年初頭のことだ。だけど「ちまちま」の連載が双葉社のリニューアルした“コミックハイ!”1号から始まった時期と同じくして、平和出版のエロマンガ雑誌が、それまで“まんがSHOW GAKKO”から雑誌が代わっても、一誌は加賀美ふみをの作品の載る雑誌があったのに、2005年春に“美熱Angel”が休刊したら、まったくなくなってしまった。その1999年か、2000年頃だったか、諸般の事情で“まんがSHOW GAKKO”の内容がおとなしめになったということもあるかも知れないが、加賀美ふみをの短編、これなら一般誌、例えば、私が最初にイメージするのは“漫画アクション”にでも読み切りで載っても、おかしくはないのではと思ったのだ。それはエロマンガ雑誌より一般誌がいいとか、有名雑誌に載るのがいいというのではなくて、一般誌で通用するということであり、もっと広く読まれてもいいのではと思ったのだ。それから数年、“漫画アクション”ではないが、同じ出版社の、わりと近いところにある雑誌に連載が始まって、こうして本になった。そして、あまりエロマンガ的なマンガでなかったにしろ、私は十年に近いエロマンガ雑誌内で読者に支持されてきたもの、エロマンガ雑誌での活動によって作者の内に培われてきたものを信じたいと思う。そこには、ニセの「やさしさ」とかは、ないだろうから。
2006/08/27 『エイリアン9 エミュレイターズ』富沢ひとし(秋田書店、チャンピオンREDコミックス 2003.6.15)
『エイリアン9』の本編の方は、立ち読みの“ヤングチャンピオン”で見て、なんだか気になるマンガだったので、本が出たら買って読んだ。可愛らしい少女たちがスパッツ姿でエイリアン対策、シンプルなようでいて謎めいたストーリーは、とても気になる、よく分からないが、何か新しいものが、そこにある、と思わせるマンガだった。読み終えて、しばらく経ったら、今度は“チャンピオンRED”という月刊誌の創刊号から「エイリアン9 エミュレイターズ」という続編が連載された。私は毎月買っていたので、「エイリアン9 エミュレイターズ」の部分は切り取って保存しておいた。これで単行本は買わなくていいやと思ってたのだが、ひさしぶりに、その切り取ったのを読んでいったら、やっぱり、ちゃんと本で持っていてもいいだけの作品だと感じ、まだこの単行本は売ってるのだろうかネット書店の e-honで調べてみた。あったので買った次第である。
本の内容は 三分の二ほどが、その連載部分で、他に「ぷりっと3人娘」「みんなバカじゃない…かも」という短編二本と、デフォルメされたキャラクターによるショートギャグ的な、彼女たちの日常の話が載っている。中学に進学した彼女たちのエピソードを描く連載部分は、やはり、分かったような分からないような、でもなにかある感じというのは本編同様なのだが、一つ分かることがある。「エイリアン9」のタイトルの意味である。ここで言う分かる分からないというのは、よく小説とかマンガを読んで、分からないとい言って、ストーリーが分かること、こういうことを描いているんですよと分かることが小説とかマンガを読む目的みたいに思っている人がいるが、そういう意味ではなく、観賞のために必要な、おおまかなストーリーの枠組みが飲み込める飲み込めないということである。他に、はっきりしていることと言えば、大谷さんは、相変わらず愛すべき存在であるのだ。
「ぷりっと3人娘」では、久川先生と校長までスパッツ姿になって(しかも、生徒たちと同じ小学校の名前入り運動シャツで)萌えーっなのだが(笑)、ストーリーの方は、怪談にまでなってしまって、いよいよ謎めいている。
連載部分のラスト、先輩がエイリアン対策係の主題歌?をカラオケで歌って、大谷さんがその後も元気でやってますということがカラオケのビデオみたいにして描かれるのだが、アイドル映画っぽい演出である。ユニークで気味の悪いエイリアンたちが出て来て、ひどく殺伐としたマンガでありながら、やはり女の子萌え、スパッツ萌えで読めるマンガでもあるのだ。
印象に残ったこと、ゴミ処理場みたいな感じで宇宙船処理場がある。病院に内科や外科のような科の一つとしてエイリアン科がある。携帯電話が広げると、ディスプレイの部分だけ、とても大きくなるような形態だ。共生にもいろいろある。
[新刊] 2006/08/14 『ないしょのつぼみ』2 やぶうち優(小学館、ちゃおコミックス 2006.6.5)
やぶうち優の学年誌“小学五年生”連載『ないしょのつぼみ』の 2巻は、学年誌ゆえに、一年に渡って掲載された 1巻とは、まったく別の話になっている(「少女少年」シリーズもそうだったけど)。共通しているのは、どうやら性教育っぽい意図も内容に含まれているようなマンガだということだ。それどころか、帯には「♀おんなのこがめばえるとき 性教育優良図書 日本中を席巻!!」とある。なんだかすごそうな内容だが、1巻もそうだったが、そう露骨に性教育です、という内容でなはい。主人公の生理が始まったり、初めてのブラジャーとかということはあるが、それはストーリーの中で、その年代の女の子たちのエピソードとして、ごく自然に描かれている。性教育的な内容があるとすれば、むしろ、男の子って、女の子ってどうしてこうなんだろう、男の子を、女の子を好きになるってどういうことなんだろうみたいな、メンタルな部分である。
謎の少女が現れ、母の妊娠があり、どうなるんだろうという興味で読み進められた 1巻に対し、2巻は最初に、宇宙から地球人調査に現れた少年、縁が主人公、つぼみとマンションの隣りの男の子にだけ正体を明かし、調査の協力を依頼する。見た目は主人公たちと同じような子供の宇宙人だが、はるかに文明の進んだ星で成熟した知性を持っている。半面、地球人のような生々しい愛情の授受の能力は退化しているらしい。そういうキャラクターだけに、つぼみは、周囲の人たちの記憶を操作し、すっかり彼女の双子の兄になりきり、クラスメートとして溶けこんでしまっている彼に驚きながらも、なんだか落ち着いた感じでストーリーは進んで行く。脇キャラの友人たちとの関係、エピソードも、こじんまりとまとまった感じである。それでも学年誌の連載だけあって、季節季節の移り変わりも良く描かれ、夏には、昨年同様、大人の野郎たちとの危ない事件があり(しかし、海辺のナンパ野郎たち三人の一人だけ、なぜ典型的デブのオタク?(笑))、ストーリーは進んで行く。映画『時をかける少女』を思い出させる、未知の世界から来た男の子との心の交流、でも彼は記憶を消して去って行かなければならないという設定は、ストーリー全体に哀調を加える。そして、いつもながらの、やぶうち優の雰囲気全体で表現するようなキャラクターたちの微妙な感情表現が、上質なセンチメントを物語に与えている。一方で諸処にある、これも、いつもながらのユーモア、ギャグも楽しい。エピソードとしては、友人の一人、成績は優秀だが子供っぽい円果とその父親の、娘がお風呂に入るのを拒否する日のエピソードは、この年頃の子供たちにとっては重要な問題なのだけど、突き放されたお父さんに笑った。お父さんといえば、これもいつもながら、主人公の父親の影の薄いこと、初詣のときに出てくるだけである。笑えるけど、なんだか、それってエッチっぽいのは、つぼみが、腋毛がはえてきたのを夏祭りのときに知る、帰って、一応、同じ部屋で暮らす兄である、宇宙人、縁の地球人研究のため、それを見せるというのが、あくまで真面目に観察する縁だが、思わぬ恥ずかしさに、つぼみはくらくら……。ラストの回には、意外なエピソードがあり、別れを一層としみじみとさせた。
[新刊] 2006/08/10 『ほんわかちづる先生』1 かがみふみを(竹書房、BAMBOO COMICS 2005.8.27)
最初に著者名についてなんだけど、なんか、なしくずし的に、全部ひらがなになっちゃいましたよね。特に、エロマンガ雑誌に描くときは名字が漢字で、一般雑誌のときは、ひらがなで、って使い分けてた風でもないが。そもそも平和出版のエロマンガ雑誌、“まんがSHOW GAKKO”に初めて登場した頃は「かがみ☆ふみを」で、「☆」の部分は16分音符x2なのだが、ひらがなだったし。でも名字が漢字だった平和出版時代の本は、平和出版がなくなってしまったので、店頭からなくなり、今や一般誌でだけ描いてる、そんな時代が来るなんて、夢にも思ってなかった。そもそもエロマンガ雑誌で描いてても、セックスシーンがあっても(なにせ、絵柄ゆえ)あんまりエッチじゃなくて、全然一般誌で描いてても不思議でない人だった。もちろん、エロマンガ雑誌の方が、敷居が低いということはあるが、でも、作者自身はどうだったのかは知らないが、読者としては、かがみふみをのような人が長くエロマンガ雑誌で描く状況にあって、良かった。そういう状況で描いてこないと描けないものがある。でも、そうして描いているものを読み続けているうちに、これはもう十分一般誌で通用すると思える作品に出会うようになった。“漫画アクション”系の雑誌なんかに描くようになればいいなと思っていた。ところが一般誌に登場したはいいが、ヤング誌はいいとして、4コマ専門誌、というか、4コマ専門誌って一般誌じゃないよ。あれもエロマンガ雑誌のような特殊な世界だよ。エロの代わりに、ぬるま湯的な、深みのないほのぼのとか優しさとか力の抜けたギャグが目的化されて、充満している世界は入ってゆけない。今、一誌読んでますけど。
4コマ専門誌の世界に「萌え」が加わったものが最近出て来て、「ほんわかちづる先生」は、そういう雑誌に載ってる漫画みたいだけど、それに相応しい、頭を抱えてしまうような主人公の設定だ。最初、雑誌でチラと見たときは、子供が塾の先生をやってるってことなのかと思ったが、そうではなくて、大人だったんですね、ちづる先生。たとえ授業中だろうと、すぐに眠ってしまうという、あんた、そりゃはっきり病気だよ、という、ちづる先生が、山本塾の主催者らしい山本先生や生徒たちに、あきれられながらも、一緒ににこにこ楽しく過ごして行くマンガなのだ。習い事は小学校低学年の頃まで、ちょっとやったことあるけど、ちゃんと身についたようなものはなく、学校が嫌いな上に、その上、そろばん塾とか学習塾とか、なんで行かにゃらならんのよと、そういうものには一切行ったことない私だが、そういう世界で、こじんまりと、それなりに楽しくやっている、そういう漫画は、いかにも 4コマ専門誌的であるとともに、そこにかがみふみをが作品で提示してきたメンタリティのようなものは、そこはかとなく伺える。絵は 4コママンガ的にデフォルメされてるということもあるが、すっかり洗練されていて、作者の控えめなエンターテイナーぶりが楽しめる。
2006/07/25 『ふしぎなメルモ』手塚治虫(秋田書店、秋田文庫 2004.8.10)
1960年代中頃の『鉄腕アトム』をはじめとする手塚テレビ・アニメのブームの中で幼少期を過ごした私にとって、メディアにおける美少女体験の初めは手塚美少女だったと言っていい(もちろん、他の作者によるアニメ作品、マンガ作品も同時に接しているが)。当時の手塚作品は幼児にとってはストーリーは難解だったので、ちゃんと作品を理解することは能わず、その代わりに断片的に、幼児にとって、美少女たちはもちろんのこと、その他、いろいろと妙に気恥ずかしくエッチな印象だけが残っている。そして時代は怪獣ブーム、スポ根ブームとなって、手塚作品とは縁遠くなって行く一方だった。しかし、漫画家としてのネームヴァリューということで考えるなら、私の中でも世間的にも、常に手塚治虫が一番で、それが巨匠の所以なのだが、幼時、部分的に読んだことのある『ワンダー3』『ビッグX』などを単行本で読み返したのは、1990年代になって、30代になってからだった。手塚美少女の可愛さ、そして私の原点であることを深く再確認した次第だ。……かといって、その後、手塚作品を熱心に読むということもない。やっぱりマンガは今現在の作品が一番面白いと思ってるからだが、それでも、ときどき、思い出したように手塚作品の本を再読したり、こうして新たに買ってみたりする。
『ふしぎなメルモ』はテレビ・アニメ作品としては、よく印象に残っている。1971年の秋から 2クール、日曜の 6時から実写の少女向けらしい『好き好き魔女先生』に続き、アニメの『ふしぎなメルモ』は、すでに性教育的な内容を含んだアニメであるということが新聞記事から頭にあって、夕食時の番組としては、どうもやはり気はずかしいものだったが、それでも見ていた。個々のエピソードは思い出せないが、メルモちゃんが子供のときの服のサイズの超ミニ・スカートで白いパンツを見せながら大人になるシーンだけは、よく覚えているという、そんな番組だった。原作のマンガがちゃんとあるのかどうか知らなかったが、確か、昨年夏の“Flash”の増刊でマンガのネタの読み物記事があり、その中で、メルモちゃんが大人になって、人魚みたいな水着で泳いでいるカットが載っているのを見て(マンガのキャラクターの水着露出度ベスト5 とかいう記事だったようだ)、可愛いなあと思い、読んでみたい気になっていたのだ。
買ってみると、「ふしぎなメルモ」が 1巻の半分ちょっと、残りの3分の1ほどが「海のトリトン」、3分の2ほどが「ワンサくん」だった。巻末の収録雑誌を見てみると、「ふしぎなメルモ」は“小学1年生”と“よいこ”に連載されていたものなので、てっきり、テレビアニメが先にあって、放映時に、これらの低学年雑誌にマンガが連載されたのだろうと思ったが、森晴路という人の解説によると、そうではなく、最初、「ママァちゃん」という題名で連載があり、それをもとに、テレビ・アニメ化され、放映に際して、連載も「ふしぎなメルモ」と改題されたという。
なんといっても、メルモちゃんが、“小学1年生”の読者と同じくらいの設定のときも、大人になったときも、いずれも、清楚で闊達で元気で、可愛くてたまらない。ところでストーリーの方は、テレビ・アニメは性教育的な意図もある 30分ものの、わりとシリアスなドラマだったが、原作を読んでみると、低学年向けのページ数の短いものであるというだけでなく、ほとんどドタバタ・コメディ、ときにオチのあるギャグ・マンガである。中には、自然を大切に、とか、男女仲良く、とか、子供はあせらず育てようとか、テーマ性のある話もあるが、そういうもののない、単なる愉快話も多い。低学年向けということで、年長の読者から見ると、強引な無理のある展開も平気でされていて、これがまた楽しく、マンガ本来の自由さを感じさせる。そんな中で、メルモちゃんが、キャンディー使いすぎかしら、なんて反省することもほとんどなく、変身しまくり(お正月に、キャンディー使いすぎを注意する目的もあって、天使たちがやってくる話はあるが)、自由闊達に無邪気に動き回る……というか、暴れ回ると言っていい……様がとても魅力的である。
「海のトリトン」は、テレビ・アニメはやってることは知ってたが、見てなかった。収録されているのは、テレビ化に際して“テレビマガジン”、“たのしい幼稚園”に載ったもので、これは本当に幼年向けの絵本に近いものだが、この作品でも、人魚の女の子、ピピが可愛い。
三和銀行のキャラクターになった「ワンサくん」は“てづかマガジン れお”という虫プロの幼年向け雑誌に連載されたものだが、未完である。銀行のキャラクターになるくらい見た目は可愛いワンサ君だが、マンガの中では、おとなしく人間に飼われてるような優等生キャラではない。人間たちはもてあまし、犬の仲間たちと税務署に押し入ろうとするが、見つかって、捕虜収容所のような野犬収容所に入れられてしまう。ここから脱出……というところで終わる。工場の煤煙がたれこめるような街を舞台にした、甘くないドラマである。
[新刊] 2006/06/29 『ラヴ ラビイズ』2 松本英(秋田書店、ACW CHAMPION 2005.7.20)
[新刊] 2006/06/25 『AMAKUSA1637』11 赤石路代(小学館、PFフラワーコミックス 2005.12.20)
[新刊] 2006/06/18 文庫版『続・新ワイルド7 野獣の紋章』(ぶんか社、2005.7.10)
分厚い文庫版、収録作品 3編のうち「闇に笑う悪神」編、「密林の凶女」編は雑誌発表のおり、読んでいて、単行本も持っている。3作目の「魔都ベガスを撃て」、これが、雑誌増刊で出ているのを見かけたが、買うチャンスがなく、そのままになっていた。単行本化するだろうと思っていたこともあるのだが、それが、本にならなかったのだ。ぶんか社の文庫で「新ワイルド7」が出ていて、最後に、この『続・新ワイルド7』が、その単行本未収録の「魔都ベガスを撃て」まで収録して刊行というのだから、編集者、企画者、話が分かっている。
「新ワイルド7」が徳間書店の月 2回発行の漫画雑誌“コミックバンバン”で連載が始まったのが 1986年末、雑誌の上では 1987年、約 2年連載されて、1989年になってからは第二部ということで、月刊「新ワイルド7」という雑誌形式、平綴じ(無線綴じ)で毎回読み切りの「新ワイルド7」中編に加え、いくつかの連載(あびゅうきょの「ジェットストリームミッション」なども、その中にあった)を載せた雑誌で、1年近く出た。その後、さらに、この「続・新ワイルド7」が、やはり雑誌増刊スタイルで出たのが、1994年から 1995年頃だ。
もちろんのこと、“少年キング”で「ワイルド7」の連載が終了した 1979年当時、続編が描かれるなど、夢にも思わず、私の中で「ワイルド7」は完結していた。「ワイルド7」は週刊誌連載の長編シリーズの醍醐味、「新ワイルド7」の“コミックバンバン”に連載された部分は、話の区切りは、一応、章立てしてあって、あることはあるのだが、ある話が完結して、次の話が始まるというのでなく、そのまま、つながってゆく感じで、単行本の方も、各巻ごとでの、きちんとした話の区切りがない。月刊「新ワイルド7」になってからは、各単行本に中編 2話が収まるといった形で、「続・ワイルド7」になると、各巻 1話の分量と、同じ「ワイルド7」のシリーズでも、作品の掲載スタイルが異なっている。
続編を求める読者が多いらしく、これらの新シリーズが描かれることになったらしい。読者サービスの所産である、これらのシリーズ、私の中で「ワイルド7」は完結していても、作者の描く世界はどんどんと深化していて、その時点での望月三起也作品世界の最先端を楽しんできた。未読だった「魔都ベガスを撃て」は、中年おとーさんの用心棒としてラスベガスのホテルを訪れた飛葉ちゃんが国際テロ組織のテロと遭遇、舞台はほとんどがホテルの内部なのだが、そのホテル、ギャンブル施設はもちろん、大きな遊園地がくっついていて、それを使ったアクションが見せ場となる。冒頭、ホテルにテロ組織のバイクが次々と着いて、荷台の部分が合体して、指令のモジュールみたいなのになるところからゾクゾクさせられる。巨大なアトラクション施設のあるホテルという舞台を十分に使ったアクションの数々(例えば、一室に追い詰められた人質たちをどう逃すかとか納得の望月三起也流である)、飛葉ちゃんがどう事件に巻き込まれるか、メンバーはどうするのかなど、「ワイルド7」シリーズのお約束的な部分はきっちり抑えた、手堅く引き締まったストーリーである。
[新刊] 2006/06/04 『AMAKUSA1637』10 赤石路代(小学館、PFフラワーコミックス 2005.7.20)
[新刊] 2006/02/26 『かっちぇる』6 かわくぼ香織(講談社、講談社コミックス(月マ) 2005.8.17)
最終巻である。あれ、まだ高校 2年になったばかりなのに。なるほど、一般的な高校の弱小バレーボール部の面々としては、連休前に模試があって、その結果で、早くも進路を心配して、あれこれとし始めなきゃならないということなのだった。そういうわけで、バレー部のイヴェントは、連休の松田さんの別荘での合宿、そして、夏の県予選で終わるのだ。最終巻の中身が、そんなふうになってるとは知らなかったが、とにかく、昨年秋、帯に最終巻とある、この本を買って帰るとき、この巻で彼女たちとの日々も終わりなんだなと思うと、ちょっと胸がいっぱいになった。それほど、性別年齢越えて、その世界に感情移入できるマンガなのだった、私にとっては。これは、私が主人公である杉山さんのキャラクターと重なる部分を自分に感じているから、そこから、すんなりと作品に入って行けたのだろうか、作者の力量、技量、天性の語り口なのだろうか。適度なユーモアもいい。
この巻の 1話である第21話は、杉山さんの従兄弟でバレー部のマネージャーでもある写真部、城之内君主役で、写真部としての彼がクローズアップされる。2話にあたる第22話、短い中で、全国模試後の六人六様の描き方が巧みだし、杉山さんと、一年のときから彼女を劣等生としてボロクソに言う担任、大石との二者面談がいい。嫌な教師が実はいい教師とかいうんじゃなくて、気に入らん相手でも、少なくとも教師としての衿持のようなものは確固として持っている大人である、それが分かるところまでの対決が杉山さんに出来た。その後、果して、みんな、そろうんだろうかと心配された合宿の夜、花火ではしゃぐみんな、疲れて塀にもたれて、うとうとしながら、みんなが合宿に来ていることを、あらためて確認している杉山さんなのだ。「みんな おるねえ」呼びかけて集まってくれた、みんながここにいる。一人じゃないんだ。
地方都市、長崎を舞台にすることで、現代の話でありながら、ノスタルジーを感じさせるということは、今までの感想で繰り返し述べて来た。最終巻を読了して思うのは、ノスタルジーを感じさせながらも、主人公、いけてない、居場所がない、杉山さんを始めとする登場人物たちの悩みと喜びは、現代を生きる若者たちのそれだなあと思った。いや、普遍性を持ったものだといえようか。最終回の処理も秀逸だと感じた。思い切って、杉山さんが東京に出て来ていたのには驚いたが、意外性だけでなく、納得が行く。つまり、懐かしく楽しかった、あの頃と現代の20歳代半ばの現実という時間の違いが長崎と東京の距離として描かれている。分かりやすい。ここでの小鳥遊さんの使い方も面白い、というか、変貌しても、常に小鳥遊さんは杉山さんにとって、小鳥遊さんの位置、見たくない現実、向き合いたくない自分と向き合わさせるような存在なんだなあという。そして、マンションの自室で、廊下を通る人の携帯電話との話し声を耳にしながら、一人、勤める保育園の子どものための泥だんごを練り続ける姿、さびしいながらも、現実と向き合って生きている杉山さんの姿が描かれる。その後の、巧みな再会イヴェントがある。みんな、変わっているけど、でも、あのときのままなのだった。あのときがあって、彼女たちの今がある。この最終回で、この物語は、ノスタルジーで終わらない、彼女たちの現在のための物語になった。
[新刊] 2006/01/28 『ないしょのつぼみ』1 やぶうち優(小学館、ちゃおコミックス 2005.6.5)